幻獣保護局 雪丸京介 第十話
『死を喰らう者』
理不尽なことは数多く、凍れる心もまた多く。
影はいつでも付きまとい、嘆きの聞こえぬ夜はない。
天は誰を助ける。言葉に何の意味がある。
死を望む者は死を知らず、生を求める者は見放され。
軽く放り出される命と、闘えど奪われる命。
願いも祈りも届く先はなく、溢れる想いは閉ざされる。
愚かなり。
だが、誰も──その理を変えられない。そう。誰にも変えられない。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「雪丸。どうすんだ、それ」
「は?」
「それ。そんな物騒なものどうすんだよ」
赤毛の少年──シムルグは両手を頭の後ろに組んだまま、隣りを優雅に歩いている男を見上げる。しかし、
「どうする……って、使うに決まってるでしょ」
「…………」
返ってきた応えはいつにも増して一次元だった。こちらの訊き方が悪いのか、それとも相手が何も考えていないだけなのか。
だが……最後の選択肢として、“遊ばれている”というのも捨て難い。
「分かった、訊き直す。それを何に使うんだ?」
少年はなかなか大人だった。それもそのはず、こんな弱々しい子どもの形を取ってはいるが彼は幻獣。その中でも名高い、鳥に選ばれし鳥の王なのだ。
とある問題を起こしてこの優男に保護された縁があり、それ以来彼にくっついて廻っているのだが、常識やら人間の出来やらで比べればどちらが保護者か分からない。
案の定、男は凄まじく楽しそうな笑みを浮べて言ってきた。
「鬼退治」
『魔導協会 外遊部門 幻獣保護局 雪丸京介』。そのやたら偉そうな肩書きが、その単細胞な男の名札である。
少々クセっ毛な黒髪に、人を戸惑わせる底抜けた微笑。ほにゃららした普段の言動をそのまま模したと思われる軽薄な体躯に、ひるがえるのは限りなく黒に近いだろう濃い灰色の膝丈薄コート。
そしてその手には──、不死鳥を冠にかたどった、銀色の錫杖。ただし、何製なのかは不明。
おまけに用途も不明。
「鬼退治……勝手に行けよ」
この雪丸京介という優男、こうみえてかなりの魔術師である。協会が簡単に手放さない──とんでもない問題を乱発されても渋い顔をしつつ囲っておこうと考えるほどの──魔術師。けれどシムルグは今まで、彼が錫杖なんぞを手にしたところを見たことがなかった。
おまけに今手にしているものだって、散々愚痴を吐いてのご購入品。
薄給な役人はなかなかケチなのだ。
「魔術だけじゃどうにもならないことってのもあるからね」
会話の成り立ちというものを完全に無視して、彼が言ってくる。
「あらゆるものには、限界がある」
「その結果が錫杖購入か?」
「……ヤな切り返し方するようになったね、お前さん」
ため息をつきたいのは少年の方だったが、しかし実際についたのは雪丸。
彼は深い黒の瞳でシムルグを見下ろしながら、
「己の腕だけで剣士と対等に戦おうなんて思う、自惚れた魔術師がいると思うかい?」
鼻先で笑ってくる。
彼が魔術師として自惚れていないことは認めよう。だが、彼は自身が協会に対する強烈な盾であることを認識しているし、実際その力を威嚇の如く見せ付けてもいる。この男、儚げな笑みの裏で結構悪どいのだ。
「雪丸、今度は剣士と戦うのか?」
投げやりにシムルグが問えば、返ってくる口調も投げやり。が、
「剣士は比喩だけど、まぁ似たようなもんだよな。相手が大鎌じゃね」
内容は背筋が寒くなるものだった。
──大鎌。
それはあまりにストレートな表現だ。聞いて思い浮かぶものはただひとつ。
何時でも何処でも背後に潜む、表裏一体の必然。
世界の奥底にたゆたい続ける黒の象徴。
少年はつい焦燥混じりの声音で雪丸を仰いでしまった。
「まさかアンタ、死神を──」
「どんなに理不尽であろうと、僕は“死”に逆らうつもりはないよ。どれ程僕に力があろうと、それだけはどうしようもない」
彼が遮って、歩を止めた。
「その一線を超えるなら、世界を壊すだけの覚悟がいる」
「…………」
少年が見上げた先の背景には、いつもの如く広がる蒼空と白い雲。
しかし当人たる男の視線は正反対の方を向き、
「もし僕がそいつに逆らうとすれば──」
そのまま語尾を閉ざす。
代わりに雪丸は、少年の背後を指差してきた。
シムルグは促されるままに身体を反転。
「今回の仕事はあそこってわけか」
緑に彩られた草原の向こうに、白亜の城塞都市が見えている。ぽつぽつと荷馬車も出入りしているようで、荒んだ空気は見られない。
少なくとも、居心地の悪さは感じられない。
「よさげだな」
「そう思う?」
「じゃあ違うんだ」
「自分の意見は大切にしなさいよ」
「なら、よさげ」
胸を張って断言したシムルグに、雪丸が小さく笑う。
黒髪を風に揺らし、スプリングコートをひらめかせ、聖人のような微笑が彼方都市を眺めやる。
「良い所だよ、本当にね。あそこは良い所だ」
声音は神父の祈りの如く。
「世界に散らばる極限の理不尽を詰め込んだ都市だけど、だからこそ比べようもなく良い所なんだよ」
この魔術師の考えていることなんか、誰にも分かりはしない。
そういうことをシムルグは学んだ。浅いような深いような付き合いの中で、それだけが確実に分かったことだ。
「この都市だけが世界の中で真に生きているのさ」
言い切る彼の双眸にはいつになく強い光が灯っている。
今そこにいる男は、シムルグが知っている雪丸京介ではない。幻想を彷徨うあの男では、なかった。
「死の姿を見た時に初めて、人は生きることを知る。僕はね、シムルグ。ここに来るたびにそう思うんだよ。本当に生きることを知るためには、死を知るしか道はないんじゃないかって、ね」
紡がれてゆく揺るぎない言葉が少年には、何かの宣言にも聞こえた。
黙るシムルグを余所に、雪丸がつぶやく。
「──死の国」
「え?」
「あの都市の異名だよ」
「……死の国」
真っ白な、それこそ泥はねのひとつも、砂塵のヴェールの一枚も、見当たらない城壁。おそらく高く突き出して見える尖塔は、教会か何かのものだろう。“死”というものが抱かせる印象の、極端な片方を切り取ったら……あんな都市ができあがるかもしれない。
つまり、忌み嫌われる死ではなく──厳かなる死。
「死を美しいものと思うなかれ。死を聖なるものと思うなかれ。死を待ってよいのは、ただ真に生き抜いた者だけである」
雪丸が口ずさんで軽薄な笑みを降ろしてきた。
「僕の師匠が口うるさく言ってたんだよ」
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「これはこれは、雪丸道師。ご足労いただきありがとうございます」
「いえ」
開け放たれた城門をくぐりって警備の兵士に旨を告げれば、程なくして白い僧衣をまとった老神父がふたりを迎え出て来た。
白髪で皺だらけの、しかしどこか人を安堵させる微笑み。刻んだ年輪故の奇妙な落ち着き。そして清澄な空気に染み渡る、大地の声。
「君に来てもらえるとは思いませんでしたよ」
「僕でもお役に立てれば幸いです」
対して雪丸は借りてきた猫以上にかしこまる。
真っ白な壁の家々に、彼の濃灰色コートが浮いていた。
「で……神父」
切り出したトーンが一段下がる。それは台詞というよりもため息に近く。
「凍真は……」
漏れた名前はシムルグの知らないもの。
だが、神父は了解したようだった。そして暖かな抑揚のまま、言う。
「亡くなりました。七日前です」
「…………」
ガラスの目が一瞬見開かれ、ゆっくりと閉じてゆく。
「七日前……」
雪丸が弱く首を振り、つぶやいた。
神父は背中を向けて歩き始める。
「おいでなさい、花を手向けることが残された者に出来る唯一のことです」
「…………はい」
消え入る寸前の答えの後、彼が意志もなく身体を前へと進め始める。
シムルグも大人しくそれに続く。
雪丸が沈んだ顔をすると悲痛だ。普段が普段なだけに、身を切られる思いがする。ただ、歩き行くその背を見ているだけで。
彼は、口では表面しか語らない。
ほんの断片しか、大事なことを言わない。
ほんの欠片しか、言いたいことを言わない。
「ここはね、シムルグ」
雪丸が通り過ぎる馬車を横目で見ながら、自分に言い聞かせでもするように言葉を並べてきた。
少年は、静かに優男の横に滑り込む。
「貧しくて病院へ行くことのできない人たちが、来るところなんだよ」
「…………」
「その中でも不治の病に冒された人が、安らかに逝けるように作られた都市なんだよ」
「設備は」
短く訊くと、彼は微笑のまま首を横に振る。
「全ての人間に最上の医療を施せるほど、協会も裕福じゃない。増してここに運ばれる人は皆──どんな治療を受けても治らない」
声に苦味が混じっていた。
彼はきっと、どうして自分が医者でなかったのか。どうして協会の医療関係職に就かなかったのか、悔いているに違いなかった。
それが突発的な悔やみだとしても、そうやって彼は悩みを増やしてゆく。
万能な人間が存在しないことくらい、彼だって充分承知しているだろうに。
人々がすがりつき祈る神でさえ、万能でないのだ。
一介の魔術師である男が、万能であるはずがない。
「雪丸」
「凍真はね、君くらいの少年だった。一年前にここへ来た時に、随分僕になついてたんだよ。今君が、僕の後をくっついて廻ってるみたいにね」
雪丸ははおそらく、その少年との再会が叶わぬことを知っていたのだろう。
それは──城門の外にいた時から用意されていた台詞に違いなかった。
「嫌な予感はしてたんだ。今回の件なら、僕よりもっと適役がいるはずなんだから。……きっと霜夜の仕業だね」
霜夜。確かどこかで聞いた名。雪丸唯一の同僚、だったか。
確かに今回の指令は急だった。すぐに行けという付記までされていた。
だからこそ途中まで、金のかかる乗り合い馬車に乗ってきたのだ。
しかしそこから先は、雪丸が行き先を告げるだけでどこからも断られた。馬を一頭借りることさえも、できなかった。
──それが、『死の国』。
「良いご友人をお持ちになりましたね、道師」
神父が振り向いて言った。
「えぇ」
雪丸が肩をすくめて穏かに笑んだ。
「本当に」
草原から見えた大きな協会。それは聖堂と言う方が正しいのか、随分な建築物だった。きっと名のある建築家が設計したのだろう。
薔薇窓から、ステンドグラスから、溢れる光がその礼拝堂を照らしていた。
正面の祭壇には木彫りの神像が掲げられ、左右には大天使の彫像が立ち並ぶ。
尼僧に連れられ笑い声を上げる子どもたちの声に、燭台の炎がざわめいた。
「神がもしどこかを救うとすれば、まずここ以外にあり得ないよ」
駆け回り叱られるその小さな集団を見やりながら、雪丸が低く言った。
その言葉は神に仕える神父や尼僧たちにとって随分な無礼だったろうが、神父は何も言ってはこない。
「ここの人間程、生きることを知っている人間はいない」
病に父を、母を奪われた子ども達と、病によって子ども達と引き裂かれる父、母。愛しき者を連れて行かれた者と、愛しき者を残さねばならぬ者。
全ては言葉を超える。
無駄だと分かっている闘いを間際まで続けるその想い。
最後の最後まで燃やし尽くす生の炎。
だが、どうにもならない。
願っても、祈っても、泣いても、どうにもならない。
案内されるままに礼拝堂を抜けると、狭い通路を行った奥には更なる聖堂が控えていた。
いや、正確には遺体安置所、というべきか……。
礼拝堂よりも天高く、奥行き深く、幅広く。
響き渡る靴音。
正面にはやはり、古びた神の立像が人々を神父を雪丸を、そしてシムルグを見下ろしている。
「こんなにたくさん、……亡くなるのか?」
大きく中央通路をとって左右に木製ベッドが綺麗に並び、真っ白な布にくるまれた人々が安らかな眠りについていた。
数は数十。
「一日に五、六人は天に召されるのです、少年。週に一度埋葬が行なわれるまで皆ここで地上の安息を得ているのですよ」
壁にはランタンではなくロウソクの灯った燭台。
光に溢れていた礼拝堂とは対照的に、ここはこの炎だけが世界の源。
沈殿した闇を厳かに温める。
「しかしこの都市の人口が減ることは、ありません。世界には貧しく病める人々で溢れています」
シムルグは、闇が暖かいものだとは知らなかった。
寒気のする死気の中、だが目に映る世界は暖かい。
「こちらですよ、道師」
神父が、聖像に一番近いベッドのもとで立ち止まる。
「この子にとって、貴方と出会ったことはとても素晴らしいことでした」
「……そうでしょうか」
横たわる小さな白布に目を伏せて、雪丸が笑った。
「この子は、物事を深く考えるようになりましたよ。一日一日の意味を、自らが生きる道を、しっかりと見据えるようになりました」
「僕はいつだって中途半端なことしか言えないんです。ただ、それだけです」
「この子にはそれで充分だったと言うことですよ」
雪丸が何度か頷いて、視線を上げた。
慈愛の眼差しを注ぐ聖なる神像へと、顔を向ける。
「神父。あなたはここで何をしておられます?」
「彼らを励まし、愛し、看取っています」
老爺の応えは迷いなく。
雪丸の質問は間合いなく。
「どれくらい」
「もう、四十年にもなるでしょう」
「それを無駄だと思ったことは? 死に行く者たちにかけるその言葉、生きる者にかけられるべきだと思ったことは? この都市の存在意味を問うたことは?」
「ありますよ」
「今は?」
「ありません」
炎が揺れた。
合わせて床に伸びる影も揺れる。
「──ありがとう」
見上げたまま、雪丸が息をついた。
ひとつ遅れて遠くで鐘の音が鳴る。
神父があぁ、と目を細めてこちらを向いた。
「……昼餉の時間ですね。少年、」
「シムルグ」
「では、シムルグ。お腹はすいていませんか?」
「そういえば、すいたな」
「雪丸道師はいかがしますか?」
「……僕は後でいいよ」
男は振り向きもしないで返してくる。
「そうですか。じゃあシムルグ、我々は昼食としましょう。さぁ、こっちです」
神父に背中を押されて、少年は足を動かさざるを得なかった。
「でも雪丸と……」
「師は大人ですから自己管理は自分でなさいますよ」
強引な応えが降って来て、彼は手を引っ張られる。
ここにあの男を残していくことが、何故かとても不安だった。
アイツがどうこうという事じゃなく、何か漠然とした焦燥がくすぶっていた。
だが、聖堂の扉は振り向いた瞬間に閉じられる。
切り取られた写真の如く視界に残った残像には、未だ神像を仰いでいる優男の姿。
神を、そして神に祈ることを頑なに拒否し続ける、雪丸京介。
仰いで佇む濃灰色の背。
彼は祈っているのだろうか?
何を。
誰に。
答えはあの男しか知らない。
シムルグには分からない。
少年は嘆息し、渋々神父に従った。
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