2
真に生き抜いた者だけが、真に死を知る。そして真に生を知る。
抗い闘い、生きることを切に願う。
我が子を残す悔恨と、親を失う哀しみと。
静かにのしかかる時間を睨みつけ、願う。
世界は理不尽なものだと人は言う。
だが、こんな世に誰がしたものか。
必ず道は拓けると人は言う。
だが、無責任にも程がある。
選択できない道はないと人は言う。
決意さえあれば運命は自らの選択次第だと、言う。
そんなのは、嘘だ。
どうにもならないのだ。
選択などしようもないのだ。
どうしようもなく天は人をさらってゆく。
母の手から、父の手から、子どもの手から、愛する者から、さらってゆく。
どんなに想っても、どんなに呼びかけても、どんなに祈っても、言葉は届かない。死者は還らない。戻らない。
起きないしゃべらない怒らない文句を言わない笑わない。
だが、祈るしかない。
何を祈るかなど分からない。
だが、祈るしかない。
そのまま何処かへ消えてゆくのだろう言葉を紡ぎ、哀しみの歌を口にする。
愚かだと分かっていても、そうすることしか道はない。
ただ祈るしか、術はない。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
日も沈み、夜の帳が降りはじめた都市。
シムルグが夕食がのせられた銀盆を手に奥聖堂に行けば、やはりまだその男はいた。
昼間と全く変わらない炎の明かりの中、彼はベッドの端に腰を下ろし、錫杖を肩にあずけてぼんやりと虚空を見ている。
──自己管理をする気すらねぇ……
少年は呆れつつ声をかけた。
「雪丸」
「……あぁ、シムルグ。何?」
「何って、アンタなぁ。何も食べてないだろ。神父さんが食べておかないと困るかもって言ってたぜ」
「……確かに」
雪丸が始めて気がついたとでも言うように、お腹のあたりを押さえる。
そして立ち上がった。
「もう夜?」
「とっくに」
「うわ」
「アンタ、一体ずっと何してたんだ?」
神像のある祭壇の前、畏れ多くもあぐらをかいて、雪丸が夕食を手招きしてくる。
「お前さん、僕がずっとここでぼけーっとしてたんだと思ってるでしょ。嫌だよねぇ〜、こっちはちゃんと仕事の事考えて行動してるのに。何してたってね、ひとり作戦会議してたんだよ、君が戻ってこないから」
「はぁ?」
お前が聖堂から出て来い……というのはきっと黙殺されるだろうから、ボキャブラリーの節約として言わない。
「シムルグ、君、“結界”とか出来たりする?」
「まぁ、適当に」
せっせとシチューを口に運びながら──教会の人々やシムルグは薄味スープやらパンやら、とってもヘルシーな内容だったのが、何故かコイツの分だけ別メニューが用意されていた──、雪丸が斜め上を見つめてふうんと頷く。
「この教会全部にかけてほしいんだけど大丈夫?」
「全部って?」
「建物を始めとしてここにいる人とか。まぁつまりは、僕以外」
「……出来ない事はない」
「よし。作戦会議終わり」
「終わりにすんなよ」
「え?」
銀スプーンを途中で止め、雪丸が不信げな顔をする。
「君のやることは結界を張ること。重要な役割でしょ、その中で僕が暴れるんだから結構荒業だよ。何か質問がある?」
「あのな、アンタが錫杖を買い込んでまで戦いに備える、その相手は誰だ?」
「…………」
ほんの少しだけ一時停止をし、雪丸の目が泳いだ。
そしてひとしきり宙を彷徨ってから、上目遣い気味に少年の前で静止する。
「……言ってなかった?」
「聞いてない」
「そーだったんだ」
「アンタなぁ」
「ゴメンゴメン。もうとっくに話してあった気になってたよ。そうか──いくら僕でも死神には逆らわないって話をして……そのままどこかいっちゃったんだな」
どこかにやったのは雪丸自身である。が、やはり追求はしない。
無駄だからだ。
「今回相手にするのは“死を喰らう者”」
手にしたスプーンをぴっと顔の横に立て、その彼が講釈をしてくる。
「本来は神の元にいて、死者の裁判に立ち会う幻獣さ。裁判にかけられた人の魂が神の怒りに触れたなら、その場でこいつに食われてしまう」
「そうするとどうなるんだ?」
「魂は跡形もなく消滅する」
「本当に?」
「さぁ? それは分からない」
どうもいい加減だ。
「……で、なんでそれとドンパチしなきゃなんない?」
「どういうわけだろうね、その中の一匹がここに居ついて、裁判にかけられる前の魂を食べてるらしいんだよな」
「らしい?」
「証拠はあるんだろうさ。協会は証拠もなしに僕を動かしたりはしない。だけどねぇ、本来はこれ、魔術師の仕事じゃないんだよ。ゴーストを相手にするのはシャーマンの仕事なんだから」
雪丸がぴろぴろとスプーンを振る。
いつの間にかあぐらが崩れて、片ひざにその腕が乗せられていた。
「僕はシャーマンじゃないからゴーストと話し合いは出来ない。だから申し訳ないが、完全に力ずくで行くしかないんだ。それに、途中で投げ出した奴ならともかく、一生懸命生きた人間の魂を神に無断で食べるだなんてね、僕は許さないよ」
優男が口端で笑った。
優しいそれではない。意地の悪い、性質(タチ)の悪い、魔術師の笑い。
皮肉げな、冷笑。
「僕は寛大じゃないから、誰ひとりの魂も渡しやしない」
腹黒い方の雪丸京介が、現われた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
始まりは何時だったのか、少年には分からなかった。
いや、彼には雪丸の相手が何かさえも分かっていなかった。
……鳥の王をもってしても、そいつは見えなかったのだ。
それが、神格化したゴースト。
死を喰らう者。
シャーマンや神職者の一部以外、見えない。そこにいることさえ、分からない。それが、相手。
「──そんな大振りじゃ当らないな」
軽い跳躍の音がして、男が舞う。
追随して黒い影が跳んだ。
着地と同時に旋回させた錫杖に、鈍い音を響かせて大鎌がはじかれる。
雪丸は短く強く吐き出した息吹と共に後ろに跳び退いた。
その腹を薙ぐように空を斬ってゆく銀の刃。
彼は小さく舌打ちして重心を落とし、床を蹴る。
追おうとしてくる刃を払い上げ、反動のままに身体を伸ばして相手の胴へと自身の身体ごと錫杖を叩き込む。
だが、手応えなく上を見れば真っ直ぐに降ってくる影。
考える間もなく手をかざす。
「焔狩!」
爆音が教会を揺るがした。
空気の焦げる匂いが広がり、雪丸は低く錫杖を構えて跳びすさる。
中の見えない白煙をじっと見つめ──
「竜撃!」
炎と闇に染められた衣をひるがえし、彼は咄嗟に後ろへ放つ。
衝撃波となった風の渦がシムルグの障壁にぶつかった。
轟音が身体を揺する。
だが、影は見えぬ速さで避けたかそのまま雪丸に突っ込んでくる。
──ッギィン
一度大きく打たれて、不快な金属音が耳をつんざく。
上、下、横、斜め、間髪入れずに振られる凶器を、雪丸の錫杖は適確から一瞬遅れて止めてゆく。
「絶対に死者は渡さないよ。あいつに顔向けができない」
話の通じない相手であることは百も承知。
だが、彼はしびれる手を放さぬためにも言い募る。
「主人の所にだって、有り余るほどエサはあるでしょう!」
止め損ねた一線が、移動遅れた脚にきた。
磨かれた床に鮮血が散る。
だが彼はかばうことなく渾身の力をこめて鎌を下へと払う。
必然上へとあがった錫杖の尻尾を大きく返し、相手の首を薙ぐ。
「弱い者からこれ以上奪うなんて理不尽、神が許しても僕は許さないからね。覚えておきなさい」
彼は言い、首を縮めてかわそうとしたそこへ血塗れた蹴りを叩き込む。
そして錫杖を床と水平に構えつつ、大きく間合いを取った。
呼吸を整え体重を落とした瞬間、走った脚の痛みに柳眉が跳ねた。
彼は奥歯を軋ませ、眼光を鋭く険しくする。
ゴースト相手に斬ったはったではラチがあかないのだ。
案の定、大鎌を手にした黒装束の影は何の痛みも見せずにこちらを伺っている。
──“死を喰らう者”。
こういうモノには、一気に浄化術をぶつけて消してしまうしかない。
だが、呪文に力を込めるだけの間が取れない。
「どうする……」
困った片鱗すら浮べずに、彼はつぶやく。
黒の据えた双眸にロウソクの炎が映った。
ふとそれを意識して、雪丸は喉の奥で笑う。
上々だ。
これだけやっても炎が消えない程、シムルグの結界は強固だということ。
上々だ。
「なぁ、お前さん、僕の言ってることは理解できるのかねぇ? 神に仕えるお前さんに楯突くつくなんざ、身の程知らずだとか何だとかって怒ってるんじゃないのかい?」
変わらず構えの姿勢は崩さぬまま、雪丸は目の前のゴーストに首を傾げてみせた。
「おまけに僕は、お前さん達を専門に扱うシャーマンでもない。ただのしがない魔術師だ。ちょっと棒術ができるだけのね」
向こうが踏み込んでこないところを見ると、話が分かるのか。そして何か興味を持ったのか。
「でもなかなかやるもんだろう? 魔術師にしてはね。普通の魔術師じゃ、ゴーストとなんて互角に渡れない。それどころかまともにゴーストを知覚できない奴の方が大半だよな」
彼は子どもに謎々を出す調子。
「なんでか分かるかい? なんで僕がゴーストを見ることができるのか、お前さん、分かるかい?」
馬鹿バカしい沈黙が聖堂に降りた。
影は考えているのか何なのか、微動だにしない。
炎に合わせて足元の陰影が揺れ動き、隅の方では生き物のような闇が蠢く。ベッド、どれかの下に潜んでいるはずのシムルグは見えない。
「……分からないでしょ。そりゃそうだよ、絶対みんな聞いたらびっくりするからね。保障する。──シムルグ!」
鋭く叫んでしかしすぐ語調を戻す。
「僕もゴーストとサシでやるなんて初めてだからね。──サービスだ。教えてあげようか?」
影が少しだけ寄って来たように見えた。
「それは──」
影がもうひと擦れ前に動いたのと雪丸が思いっきり踏み込んだのとは、ほぼ同時だった。
「生まれつき!」
錫杖に込められた雪丸の浄化術。
白と青、輝く光の奔流は、逃げる暇も与えずに黒の塊を飲み込んだ。
音のひとつも残さずに、影が消し飛ぶ。
そして激流は留まるところを知らずに勢い良く聖堂の壁へとぶち当たる。
巨大な地震に襲われた如く、根底から飛び上がった如く、頑丈な石造りの建物が悲鳴を上げた。
いや──、
「雪丸! いい加減にしろよ限界だ!」
どこからかシムルグの金切り声も上がる。
「あらぁ……またやり過ぎた」
魔術師・雪丸京介。
やっぱりいい加減な男である。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
満ちた月は、明るかった。
冷たく清浄な月光が、街の白さを尚一層浮き立たたせる。
宿の部屋に寝息立てるシムルグを残し、彼は一人階下で外を眺めていた。
酒を浴びる習慣も、酒に逃げ込んだ過去もないけれど──それでも手には琥珀に色づいたグラス。
「眠れませんか?」
「……神父」
窓から目を離せば、テーブルの向こうに佇む老爺。
白い僧衣が小さな衣擦れの音をたてた。神父が、座ったのだ。
「これを」
そして彼は白い封筒を差し出してくる。
「?」
疑問符を浮べて受け取れば、そこには彼の名前だけが書かれていた。
「教会に届けられていたそうです。差出人は分かりませんが……魔導協会からではありませんか?」
「えぇ、そうでしょうね。きっと」
半分吐き捨てるような形で、雪丸はそそくさとコートの中へとそれをしまう。
落ち着いたところで、神父が再び口を開いた。
「脚の具合はいかがです」
「こんなのは怪我のうちに入りません。かすっただけですよ」
雪丸は鼻の先で苦笑する。
「あれくらいの仕事で血を見るとは、まだ半人前ですね」
「──ありがとうございました」
「…………」
「貴方のおかげで明日、無事に埋葬を行なうことができます。皆、主の元へと旅立って行ける」
「それは……良かった」
雪丸は一度嘆息気味に置き、すぐにまた続ける。
「でも何故、“死を喰らう者”がここにいると分かったんです? 亡くなった彼らの魂を食べている、と。魔導協会を動かすにはそれなりの理由が必要ですよ」
神父がひたと見据えてきた。
くすんだ蒼の目が、雪丸を映し──月を映す。
「私には見えるのですよ、ゴーストが。シャーマンではありませんが、長年聖職に就いていたためか、見えるのです」
そして呟(つぶや)いた。
「私は、貴方と同じです」
「…………」
「見えるのに何もできなかった。力があっても何もできないと貴方が貴方を責めるように、私も何も出来ませんでした。罪もない彼らの魂が奪われてゆくのを、ただ驚愕の元に見ていることしか──そして神に祈ることしか出来ませんでした」
「違うな、神父」
無礼千万にも、彼は片腕をテーブルにつけ頬杖をついて、老爺を見やる。
月を背負い、息を吐く。
「あなたは僕を呼ぶことに成功した。霜夜のお節介があったとしても──協会を瞬時に動かすのは容易でない」
「貴方程の魔術師でも、世界を動かせないのに。ですか?」
「…………」
雪丸はうつむき加減にテーブルをこつこつと叩いた。
「誰かを笑わすことが出来ても、それがまた別の誰かを泣かすことになる。僕は駄目な夢見屋なんだよ。あり得ないと分かっているのに、世界の全てが笑っていられればいいだなんて思い続けてる」
「私も、思っていますよ。そしてそうなるよう、いつも祈っています」
──祈る。
雪丸は僅かに眉を寄せ、言った。
「貴方がここの人間にかけている言葉は無駄じゃない。死者にかけている言葉は無駄じゃない。貴方の祈りは……無駄じゃない」
少年が限りを尽くして“生きた”なら、それでいい。
自分の言葉が彼の生きる支えになったのなら、それでいい。
神父の祈りが彼を安らかにさせるなら、それでいい。
だが──言い知れない寒さが、振り払っても振り払ってもついてくる。
例えようのない悔恨が、足元から這い上がってくる。
やはり、人は祈るしかないのだ。
悲しみ、憂い、そして死によって生を教える彼らを祈る。
摂理は変えられず、変えてはならず、それ故に世界は存在し続ける。
「雪丸道師」
声をかけられて雪丸が焦点を合わせれば、神父はもう立ち上がっていた。
「貴方に安らかな夜が訪れますよう」
厳かに聖印がきられる。
「神父にも」
雪丸が微笑み返せば、神父は少しだけ悲哀の影落ちる笑みで背中を向けた。
その背が見えなくなってから、雪丸はもう一度窓の外を見る。
そのまましばしグラスを傾け、思い出したように先ほどの封筒を取り出した。
遠くから渡ってきたには汚れひとつなく、手触りだけで分かるほど上質な紙が使われた封筒。
そして折りたたまれた一枚の紙を広げれば微かに花の香が漂って……、
『戻れ』
そこには愛想の欠片もない一言だけが刻まれていた。
上品な白紙にただ一言。それだけが彼への用件。
こんなやり方、協会では──。
雪丸は訝って紙面から視線を上げる。
と、耳元に漂うような女の声が囁いた。
<いつまで逃げてるつもり?>
もちろん傍には誰もいない。
おそらく、痕跡魔術。
「…………」
蒼く照らされたそこに、長い沈黙が落ちた。
「──フン」
しばらくして漏れたのは、好戦的な笑い。
彼は死の影落とす窓に背を向け、連れの眠る階上へと歩を進めた。
握り潰した封書がその手の中で赤く燃え上がり、灰と消える。
穏かな眼差しが一瞬強まり、声は押し殺して揺ぎ無く。
「僕は逃げてなんかいないな。……その逆だ」
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「詐欺師」
「なんだか前にも同じようなことを言われたような気がするよ……」
「始めはさ、アンタもカッコイイとこあるんだなぁって見てたんだけど」
「そういうところが子どもなのさ。戦いはね、力じゃない。頭脳の駆け引きだよ」
「だけどな、あの戦い方をを堂々と胸張って自分の息子とかに話せるか?」
「…………うーん。息子いないから分からないんだけど」
シムルグは顔を逸らしてひそかにため息をついた。
「俺もさぁ、すごいよな。名前呼ばれただけで“とどめ刺すから結界を強化しろ”ってお前の言ってること分かるようになっちゃったんだから」
「エライエライ。それでこそ我が相棒。以心伝心」
シムルグは上機嫌で勝手なことばかり口走る男を見やり、また嘆息。
──疲れる。
翌日。
無事に埋葬が終わり、今回の仕事も幕引きとなった。
今はもう、調達された二人用馬車の中。
次の街を目指してやる気ない速度で揺られているのだ。
「ねぇ、シムルグ」
そしてやはり雪丸京介は今日もまた、のほほんと半分寝ぼけて広大な草原を眺めやっている。その優男が向こうを向いたまま言ってきた。
「あん? なんだ?」
「生きることを止めるっていう人間から、もっと生きたいっていう人間へ命を譲ることができれば、いいのにねぇ」
「……そうだな」
彼の言葉は、風渡る綿毛よりも軽く。
誰の祈りよりも重く。
世界に消えていった。

THE END
あとがき
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