幻獣保護局 雪丸京介 第12話 前編
Dr.カラドリウス

想像。
それは作家のものでなく、美術家のものでなく、音楽家のものでもない。
皆、明日を想像し未来を占う。心を躍らせ、心を痛める。
死を──想像したことはあるか? 友人でも、家族でも、見知らぬ他人でもいい。
生きている者全ての背後に立っている、死の影を見ようとしたことはあるか?
生きている者は、必ず死ぬ。
どんな名医とて、死を完全に凌駕することはできない。
それを想像したことはあるか?
人は、死ぬものなのだと。
死すればもう、決して還らないのだと。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「本当にありがとうございました」
濃紺のドレスをまとった婦人が、そう言って何度も頭を下げてきた。
「いいえ……。お大事に」
彼は苦々しい微笑を浮かべ、銀の粒を降らす曇空へと傘を差す。
医者たる証、白衣をまとったひとりの若者。
涙ぐんで礼を言い続けるその人を振り返りもせず、レンガ造りの立派な貴族館を名残惜しみもせず、彼は歩きはじめた。
雑然とした都の界隈(かいわい)。
石畳の路(みち)は所々に水溜りをつくり、降り注ぐ雨は街に積もった石炭の煤を洗い流す。
孔雀の如く着飾った貴族たちは足早に宝石店や服飾店の軒先へと入り、空を見上げていた。
一方、行く先のない浮浪の子ども達はひっそりと佇む孤児院の影へと身を隠し、あるいはボロを頭からかぶって路地裏に逃げ帰る。
高い建物に囲まれたその通りを、誰も歩く者のいなくなったその通りを、彼はひとり歩き続けていた。
路地の向こうを見やれば、雨のせいで濁った流れの運河。通りの先を見やれば高い尖塔と鐘つき楼が誇らしげにそびえる大寺院。
耳を澄ませば雨音の遠くに糸紡ぎ工場の機械の音が響き、日雇いの貧民が城壁修復をする号令が聞こえてくる。
「…………」
カーテンがぴったりと締め切られたひとつの窓。
水滴が流れ落ちるそこに自分が映り、彼はふと足を止めた。
そしてガラスの中の自分と目があいため息をつく。
たった今病に伏せり死にかけていた男を治してやったばかりだというのに、まるで浮かない顔をしている男の顔がそこにあったのだ。
数ヶ月は仕事なんてしなくてもいい程の大金を手に入れたというのに、水色の瞳の奥は冴えない。薄い口元も投げやりで、傘を差していたというのに銀の髪の先っぽは濡れていた。
一見すれば、ただの医学生かしがない見習い。
だが実は病をたちどころに治してしまう、神がかった名医。
彼が「治せない」と頭を垂れた患者は死を免れないという噂さえ広まっていた。彼にさじを投げられたらお終いだと。彼に治せない者を治せる医者などいない、と。
──誰も分かっちゃいないんだ。
傘を叩く水音を聞きながら、彼は虚ろに窓を見つめた。そしてあることに気付き思わず声を漏らす。
「もしかして……」
貴族の家に行くのだからと、彼が住む大寺院の尼僧たちに世話を焼かれて着せられた白い服。
はっと気がつき視線を降ろした時にはもう遅く。
裾は砂混じりの水でびしょびしょだった。
「……あーぁ……」
再び嘆息して肩を落とした彼だったが、顔を上げた瞬間はたと目を細くした。ガラス越しの通りを凝視する。
「…………」
窓に映る雨の街に、役者が増えていたのだ。
普段なら馬車が駆けぬける、路の真ん中。
誰もいなかったはずのそこに男がひとり、少年がひとり、こちらを見つめて立っていた。
──どこかの貴族の御曹司かな……?
彼がそう思うのも当然だった。
背の高い黒髪の男は、手裾がひらひらした白のブラウスとスカーフ。深い黒地の上下には、控え目になされた金糸の装飾。
横に立つ赤毛の少年は、全く同じ格好で深い枯葉色。
そしてどちらも、一見して値打ちものと分かる布地だった。
こんな衣装がそろえられる階級など知れている。
それに何より──窓の中から彼に微笑しているその優男、どこか浮世離れした空気をまとっていた。そこにいるようで、いないような。
「……私に……何かご用ですか?」
彼はゆっくり振り返った。
その視線の先には誰もいない──そんな三流小説めいたことが一瞬脳裏をよぎったが、しかしふたりの客人は笑顔のままでそこにいた。
彼が完全に向き直ると、柔らかい猫目で男の方が訊いてくる。
「貴方が、Dr.カラドリウス?」
「……えぇ、そうですが。何か?」
不信を隠しもしないで答えたのだけれど、眼前の優男は顔を輝かせて自分の傘をぱっと手放し、両手をぽむっと合わせてきた。
男は雨に濡れるのも気にせず、傍らの少年に向かって背をそらす。
「ほら当たったよ! だから言ったでしょう、僕は昔から人を見る目があるんだって! こんなに広い華の都、最初に声をかけた人間が目当ての本人だなんてそうそうあったもんじゃないよ!」
「路(みち)に迷ったからあの人に聞いてみようって、そんなに奥深い言葉だったんだな」
「余計なこと言わなくていいの」
「はいはい」
「はいは一回」
「はいはいはい、はい傘」
「……強情なんだからもう〜。ありがとう」
少年が拾い上げた傘を再び天へと向けながら、男が肩をすくめた。
──貴族、なのか?
白の医者、カラドリウスは胸中で眉をひそめた。
このふたりの身なりは貴族でなければかなうまい。しかし、振る舞いも空気も貴族のそれではないように思えたのだ。
貴族という輩の言葉には、どの一言にも裏がある。彼らは自らを慰める言葉か、自らを利する言葉しか知らない。そして彼らは、──意外にもろい。
しかし目の前の奇怪な者たちは、飄々(ひょうひょう)としつつ隙がなかった。
──油断ならない。
「あの、貴方達は誰なんですか? 私に何かご用ですか? 診療でしたら寺院の方を通してくださらなければならない決まりなんです」
カラドリウスは、通りの向こうにそびえている大寺院を指で示した。
この都の医者たちを掌中(しょうちゅう)に納めて動かしている権威。
あそこを無視して診療した医者は、捕えられ処刑されてしまうのだ。
「……きっと法外な金を要求されるでしょうけれど」
「これは失礼、名乗り忘れました」
カラドリウスのため息を制しにっこり笑った優男は、スタスタとこちらへ歩みよってきて、懐(ふところ)から一枚の紙切れを差し出した。
受け取って目を落とせば、それは名刺。
しかしそこに記されているのは流麗な文字でただ二行。
『魔導協会 外遊部門 幻獣保護局 雪丸京介
おまけ一号 シムルグ 』
「……これは……」
どうリアクションをしていいものか分からずにカラドリウスが顔を上げれば、その男──雪丸京介は、ただ和やかな笑みを浮かべてこちらを眺めていた。
全てを見透かしているかのような、底のない漆黒の双眸で。
そしてさらりと言う。
「貴方を必要としている人々がいるのです」
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
魔導協会。
聞いたことがないわけではなかった。カラドリウス自身が信じていなかっただけだ。
この世界には都だとか街だとか、国さえもを超えた巨大な組織──魔導協会──があるという噂があった。どの王国も帝国も共和国も、結局はその下請けに過ぎないのだ、と。
けれどこの国には魔法使いなんていない。
指を振るだけでランプに火を灯すことができる者はいないし、ホウキで空を飛ぶやつもいないのだ。
魔導協会だなんて言われて信じられるわけがない。
「……ですから、診療は大寺院を通してもらわなければ……」
「大寺院など問題ではありませんよ。これは貴方の問題なのです、Dr.カラドリウス。いえ、妖鳥カラドリウス」
雪丸京介が微笑んだまま言った。
そして連れの少年までが全てを知っているかのような目でこちらを見据え、言葉を継ぐ。
「カラドリウス。──病の兆候(ちょうこう)を読み、病そのものをも治してしまう不思議な力を持った真っ白な妖鳥。しかし、既に手遅れである場合には全く関心を示さない。そして治せない」
「…………」
カラドリウスはわずかに口を曲げ、眉をひそめた。
「すごいでしょ。生意気でしょ。子どもだと思ってナメたらいけないからね、こう見えてもこの子、霊鳥だから。鳥の王、シムルグ。聞いたことくらいあるよね?」
優男の春爛漫な口調は、カラドリウスの横を通り過ぎていった。
──正体がバレた……。
その焦燥だけが足元から這い上がってくる。
希代の名医の嘘と本性。
彼は人間ではなく、医学を学んだ者でもない。死にゆく者に奇跡を起こすこともできなければ、一か八かの賭けをすることもできない。
治る者は瞬時に治し、けれど治せぬ者は治せない。
大寺院にバレたって大したことにはならないだろう。あそこは金さえ入れば何だって構わないのだ。けれどこの優男の素性が本物だとして、世界に君臨するという『魔導協会』なんかに咎められたら──……。
カラドリウスは精一杯のしかめっ面で低く吐き捨てた。
「……何をしに来たんですか」
「貴方こそ、何を恐がっているんです?」
「────」
逆に問い返されて、白衣の医者は言葉を喉に詰まらせる。
「貴方はどうしてそんな顔をしているんです。たくさんの命を救ったでしょうに、何故そんな悲しそうな顔をしているのです。貴方は何に怯えているんです。貴方は僕が何をしに来たと思っているんです。医者のふりをして人々を助けたのはけしからん! って捕まえにきたとでも思っているんですか?」
畳み掛けるように雪丸が並べ立ててきた。だが、雨の中で微笑むその顔は答えを聞こうとはしていない。
「僕がここに来たのはただ──」
言いかけて彼が口を閉ざした。
視線がカラドリウスから外されて、細暗い路地に向けられる。
「…………?」
つられて振り向けば、身なりの悪い子どもたちがばしゃばしゃと駆けて来るところだった。
「カラドリウス先生っ!」
「先生大変! 助けて!」
「エミールが死んじゃうの!」
「向こうの通りで馬車にはねられそうになって!」
「乗ってたヤツが降りてきたかと思ったら、どなってエミールのことなぐったの!」
「あいつ、動かなくなっちゃたんだよ!」
「先生早く来て!」
口々に叫びながら、真剣な顔をして駆けて来る。中には今にも泣き出しそうな者さえいた。
「先生エミールを助けて! 血がいっぱい出てるの」
「先生なら助けられるでしょ!」
傘さえも持たず、雨に濡れた衣服以外に何も持たず、今日の食べ物さえない子どもたち。
そんな彼らでさえDr.カラドリウスのことを知っているのだ。
だが、彼らは勘違いしている。
何でも治せると思っているのだ。……本当は違うのに。
「…………」
「どうしたんです、行かないんですか? 助けてあげないんですか?」
雪丸の声音に咎めの色はなかったが、こちらを見る色には憂いがあった。
この男は知っているのだ。知っていて訊いている。
カラドリウスには『病』しか治せぬと知っていて、訊いている。
彼は優男を一瞥し、目を閉じた。
「ごめん。先生にエミールは、助けられない……」
力が抜けた手から、傘が後ろに落ちていった。
彼は雨に打たれながらしゃがみこみ、ひとりの子どもの手を取った。小さく、冷たく、荒れ果てた手。
「ごめんね、……私には助けられないんだよ」
「どうしてっ! いっつも内緒で風邪治してくれたじゃんか! なんでエミールは助けてくれないの!」
「大寺院の規則のせい? 私たち治したのバレちゃったの?」
「違う。違う。君たちのせいじゃないし大寺院のせいでもない」
「じゃあどうして!? 先生この前もフランクを助けてくれなかった! 嫌いな子は助けてくれないの?」
「違う、私はみんなが好きだよ。……でも無理なんだ」
「先生!」
「本当にごめんね」
妖鳥カラドリウス。病の兆候を読み、瞬時に病を治す。だが手遅れの場合には関心を示さず、また治せない。
そして──病以外は治せない。
……関心がないわけなんてない。
誰であれ助けたいと思う。しかし名医と讃えられれば讃えられるだけ、何でも治してくれると噂が広まれば広まるだけ、彼は自らが嘘に染まるのを感じていた。
頼られれば頼られるだけ、自らが軋んだ。
寺院は上客たる貴族にしか彼を派遣せず、だからこそ彼はこっそり貧しい浮浪児たちを治してやった。けれど彼が治した上流貴族たちは、その子ども達を虐げ(しいたげ)ゴミとも思わぬほどに打ち捨てる。目障りだと言い、消え失せろと言い、そしてある時は理由もなく、死に追いやる。
致命傷を負った子どもを前に、カラドリウスはただ己の無力を嘆くしかなかった。あるいは自分の存在を呪い、名医の評判を憎んだ。
権力に屈して貴族を助けてやったことを後悔した。
「──Dr.カラドリウス」
子どもの手を握ったままうなだれる彼の頭上に、柔らかな声が降った。
雨音にかき消されそうな穏かさなのに、それは真っ直ぐ彼に届く。
「僕は君を助けに来ただけだよ。ここにいては君が壊れてしまうから」
「…………」
次々と波紋を浮かべる灰色の水溜りに、微笑みゆらめく男が映る。
「病以外治せないのは君のせいじゃないだろう? それはカラドリウスという種族が生まれ持った宿命だ。けれどその代わりに君達は、瞬時に病を治すという神業を持っている。……君が苦しむことではないよ」
「でもそれでは子ども達を救えない!」
「それは仕方ない」
魔導協会の役人はそう言い流した。
「仕方ない?」
カラドリウスが険悪な声音で繰り返せば、男の横で黙って聞いていた赤毛の少年も不機嫌に仰ぐ。
「仕方ないって……雪丸、アンタ本気でそう言ってんのか?」
「僕はいつだって本気だよ」
彼が濡れた黒髪を指先ではじき、飛沫に向かって指を鳴らした。
次瞬、水の粒は氷と化して石畳に砕け散る。
「カラドリウスが病気しか治せないのには、ちゃんと理由がある。あらゆるものを治せてしまったら、『死』という存在がなくなってしまうでしょ? 世界を根本で支えている摂理(せつり)が消えてしまえば、世界そのものが崩れてしまうだろうね。過ぎた力は身を滅ぼす。何者にも限界があるんだよ。──それを前にして己を呪ってはいけない」
「でも」
「死を見なければならないこと。それは“名医カラドリウス”に課せられた使命でもある。君が試されているのは、治せる者を誠心誠意治したかどうか。治せぬ者にも精一杯の慈しみ(いつくしみ)を捧げることができたかどうか。そこだよ」
「しかし」
それは単なる理想論じゃないか。
言いかけて、カラドリウスは口をつぐんだ。
こちらを見下ろす雪丸京介の目に、鋭いものが混じったからだ。
「僕がここに来た理由は、君をこの街から遠ざけるため。もっと純粋に君を必要としている人々のところへ連れて行くため。君が何と言おうと僕は遂行するよ。そうでなければ君は壊れてしまう。……理不尽な死を見すぎてね」
優男は雨に打たれる街を仰いで、告げてくる。
「問題は君ではないんだよ。問題はこの街の人間そのものだ」
相変らず穏かな物言い。しかし、深層には永久凍土のような冷気。
「ここに君はふさわしくない。協会も、僕もそう決めた。──いいね?」
「…………」
カラドリウスはうなずこうとして、子ども達に視線を囚われた。
行く当てもなく、親もなく、飢えと寒さと病、そして貴族たちの八つ当たりで命を落としていくだろう子ども達。
「あの……、条件をつけてもいいですか?」
見上げた先の偽貴族は、全てお見通しだと言わんばかりの笑み。
口端を吊り上げてニヤリと胸に手をあてる。
「僕に出来ることでしたら何なりと」
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