幻獣保護局 雪丸京介 第13話 後編

退魔師





「単刀直入に言いますよ」

「どうぞ」

「結界を、解いてください」

「…………」

退魔師──その名のとおり、魔と呼ばれるもの全てを己の呪力によって退ける者──葛城が鼻先で(わら)った。

「嫌だ」

「やはり、結界で座敷童子をあの屋敷に閉じ込めているのは貴方なんですね」

鬼神めいた男の顔がわずかに歪む。

「……試したのか」

「えぇ。あいにくと私は退魔師でも陰陽師でもなく、単なる魔術師ですから。誰が結界を張っているかなんて見ただけじゃ分かりません」

言いながら、雪丸がシムルグの前に立った。

「さっきのご様子だと僕を御存知だったようですが?」

「知っているさ」

傲慢不遜極まりない仕草で葛城があごを上に向けた。
斬れ味鋭い切れ長の双眸が雪丸を見下ろす。

「天下の魔導協会さえもてあましている魔術師・雪丸京介。一体どれだけの奴が貴様を怨んでいることか。それで何だ、次は私が殺られる番か? 私が貴様を怨む番か?」


──怨んでいる


シムルグの奥底がざわめいた。
言い得ない苛立ちと不快感がふつふつと沸いてくる。
だが、少年が口をはさむ前に雪丸の冷ややかな声が紡がれた。

「このままでは座敷童子が悪霊になりかねません。あの家が、……もしかしたらこの都全体が祟られるやも。ですから──」

「悪霊になったら私が滅ぼす。それで事は済む。そのための退魔師だ」

「そういうわけにはいきませんよ」

雪丸がぴしっと扇を閉じて、(ふところ)へ押し込んだ。

「僕の仕事は悪霊を消すことではなくて、悪霊になるのを阻止することなんですから」

「それで人間ふたり分の心と、ひとつの家を潰すことになってもか」

「貴方がどうして死してなおこの世に留まっているのか。あんな結界をつくり、人を呪い殺し、あの家になされる呪いを返し、護っておられるのか。見当がつかないほど野暮でもないつもりですけどね、葛城さん、僕は仕事をやり遂げなければなりません」

「貴様は、噂どおりだ。雪丸京介」

疑問符を浮かべ、雪丸が僅かにあごを引く。
それに応えるように葛城がゆっくりと続けた。

(あやかし)のためならば人間なんぞどうでもいいというわけだ」

「結界を破り座敷童子を逃がしてやるだけでしょう。幸運は前ほど来なくなるかもしませんが、別に貴方を浄化しようだとか滅ぼそうだとか……」

「あの結界が全てだ」

「…………?」

修羅の葛城。その目が伏せられた。

「あの結界故に私は死して未だここに存在し、あの結界故に座敷童子を飼い、あの結界故に彼女の家を襲う呪いを寸手で止めている」

つまり──
シムルグは雪丸の後ろから退魔師を見上げた。

「あの結界が一度でも崩れれば、私はすぐさまあの世の遣いに地獄へ連れて行かれるだろう。あの結界が一度でも崩れれば、休む間もなくかけられている権力争いの呪いがあの家を襲うだろう」

「…………」

「それでもやるか」

さっきまでの風流な庭は跡形もなかった。
闇に舞う蛍も、手入れのされた野花も、ない。
そこにはただ夏草が伸び放題に伸びた荒れ果てた庭と破れた小さな屋敷。けれど甘い香りの金木犀だけは未だ消えずにそこにある。
満開の花をたたえて。

「……雪丸」

シムルグは無表情に黙し続ける男へと視線を移した。
空気が、痛い。

「僕の仕事は人間を護ることじゃない」

彼は真っ直ぐに修羅を見ていた。

「座敷童子はまだ理屈も分からない子供の霊でしょ。それが出られなくて泣いてるんだよ。行きたい場所に行けなくて癇癪(かんしゃく)を起こしかけてる。貴方には聞こえないかもしれないけどね、僕には聞こえるんだ。今も泣いてる。このままだとあの子は何も分からないまま悪霊になってしまうんだよ。そして貴方に消されてしまう。──貴方は大人でしょう。世界の摂理は充分理解しているはずだ。自分が法外なことをしているってことも分かっているね?」

「貴様は子どもを生かすために私に地獄へ行けと言うか? 愛しい者をこの(よど)んだ俗世に置き去りにしろと言うか!?」

「言うよ」

雪丸の声は恐ろしく低かった。

「理由がどうあれ結果がどうなれ、僕は結界を壊す。そのために僕が呼ばれたんだからね」

そして瞬間抜刀する。

「シムルグ、退がりなさい!」

雪丸の声と同時に凄まじい旋風がふたりを打つ。
転がって金木犀の根元にひっくり返った少年が見た先に、巨大な龍骨の化け物が大口を開けて迫ってきた。

「何だよコレ!」

朱の黎明世界を燃やせ

雪丸の言葉に反応して龍骨が派手に燃え上がる。
あのノホホン男のどこにこんな好戦的な部分が眠っているのか、彼は構えてすぐ様、骨の化け物を見事袈裟懸けに両断した。
それらは地に音をたてて崩れることもなく霧散する。

そしてその向こうにはもう、人影はない。

「式鬼だ。陰陽師とか退魔師だとかがよく使う兵士みたいなもんだよ」

刀を鞘に収め、足取りも軽やかに雪丸がやってきた。
まだ金木犀の幹に座り込んでいるこちらをのぞき込み、笑う。

「刀、少し高かったけど不気味な(いわ)くつきのやつにしたんだよね。大昔、悪霊をバッタバッタ倒したお侍さんが持ってたって言う刀。店のお婆ちゃんが胡散臭かったから信じてなかったけど、こりゃ以外に使えるね。普通の刀じゃ式鬼は斬れないよ」

金木犀にぶつけたか、くらくらする頭を叩いてシムルグは訊いた。

「葛城は……?」

「彼は」

雪丸が背を伸ばしあの屋敷の方を見る。

「護りに行ったよ。僕は壊しに行かなくちゃ。……宿で待ってる?」

「行く」

「あんまり後味のいい仕事じゃないよ?」

「構わない。子供じゃあるまいし」

「……そうだね」

「あのな、雪丸。俺はアンタと葛城、どっちの言ってることも理解できる。だから一方的にあいつを責めちゃいけないと思うし、座敷童子が悪霊になるってのは同じ領分の生き物として辛い」

シムルグは立って袴についた土を払う。
顔をあげれば、優男の変わらぬ微笑があった。
何故か、安堵する。

「葛城の言うことは一理ある。だけどやっぱり、俺はアンタについて行く」

雪丸の漆黒の瞳が半瞬開き、そして細くなる。

「このまま放っておいたらあいつ、ホントに鬼になっちまうぜ」

「そうだね」

雪丸が口を結んで顔つきを険しくした。

「シムルグ、結界を張る用意をしておいてね。僕は葛城の結界を壊す。君は君自身と僕とをあいつの式鬼から護るんだ」

「分かった」

「──行くよ」

長身の魔術師、小さい鳥の王。
ふたりは夜の都に跳び出した。





◆  ◇  ◆  ◇  ◆





春雷驟雨(しゅうう)秋嵐寒雷、意志無き力よ我が身を剣と為せ

雪丸が呪を唱えて真剣を水平に構えた。
件の屋敷。塀の向こうに見える瓦屋根の上には、白銀の髪を魔風になびかせた葛城が傲然(ごうぜん)とした笑みを浮かべて立っている。

「そんなもので我が結界が崩れると思うてか!」

「僕はしがない魔術師だから、正しい結界の解き方なんてものは知らない。だけどこの結界は屋敷を襲う脅威を跳ね返すように出来てるんだろう? だったら話は簡単だ。物理的に壊せばいい。貴方の結界と僕の魔術──脅威、どちらが勝るだろうね」

銀色の刀身にこめられた雪丸の力がパリパリと音をたてて弾けていた。

──神威よ下れ!

彼は刀を掲げ、刹那振り切った。

闇色の夜が、夜明けよりも明るく白む。
それが雷なのだと分かったのは、地を揺るがす大音響のせいだった。
留まるところを知らない稲妻が結界を覆い、白から紫、様々に色を変えて見えない障壁を押し潰そうとする。
その中から、絶叫に近い怒号が発せられた。

「式鬼! あやつらを喰い殺せ!」

「シムルグ!」

魔術を解かぬまま雪丸が振り返る。

「任せとけ」

少年は両手を重ねると前に突き出した。

「不死の炎よ我らを照らせ」

呼びかけた言葉はふたりの足元から燃え上がり、溶けるように消え──しかし先ほどの龍骨が牙を剥いて体当たりをかけてきた瞬間、虚空には炎の波紋が広がった。
思わず耳をふさぎたくなるような龍骨の悲鳴が闇夜をつんざき、それは身をくねらせる。
しかし阻まれたことに怒ったのか、再度更なる咆哮(ほうこう)を上げて向かってきた。

「何度来ても同じだっての!」

「……小僧……」

どこからか、葛城の憎々しげな声が降る。

小僧じゃない! そう言いたいところだが、そこまでの余裕は無かった。
向かってくる式鬼の数がどんどん増えてきたのだ。
龍骨、魍魎、水蛇、牛鬼、黒獅子……妖どもは結界を破ろうと捨て身でかかってくる。


──どーゆー底力をしてるんだよ、あの退魔師は。


結界を強固にして雪丸の魔術に対抗し、一方でその雪丸を消そうと攻撃の手を緩めない。
どう考えても不可能に近いのだ。

「生前は随分と腕の立つ人だったらしいね」

刀に絶え間なく力を注ぎ、一度放った魔術を持続させる……言い換えれば力を奪われ続けているはずの雪丸が、シムルグの心を読んだようにつぶやいてきた。


通常魔術というものは、一度放ったら再び呪文を唱えて発動させなくてはならない。
だが雪丸京介というこの魔術師は、それを“面倒臭い”の一言ではねのけた。
一回の呪文で術を放ち続けることに成功したのだ。理論的には魔力が枯れるまで。
しかし、それはすぐに禁術とされた。

何故なら、あまりにも力の放出が大きすぎて彼の他に制御できるものがいなかったからだ。
思うように放てない術など、諸刃の剣よりも性質が悪い。


「それが(あだ)になったんだろうけど」

しかし、涼しい顔を作っている優男の額には、汗。

いつの間にか腕を通された白羽織が、結界の上で荒れ狂う奔雷の衝撃風にばさばさとひるがえっていた。
一拍置いて、雪丸が屋根の上の修羅に向かって声を張り上げる。

「葛城さん、貴方は自身道を外しているとお分かりでしょう!?」

「道!? それは誰が敷いた道のことだ!」

「…………」

雪丸が答えに窮することなど珍しい。
けれど今のシムルグにはそれを悠長に堪能している閑などなかった。
葛城の声に反応してか、また式鬼の数が増えたのだ。
奴らはいくら炎の結界に阻まれようが、何度でも挑んでくる。シムルグは体当たりされるたびに身体に響く鈍痛に奥歯を噛んだ。
重ねた手を離してこの結果を解いてはならない。

雪丸は葛城の結界を崩すことだけに集中していなくてはならない。
けれど手の平は、ヤケドをしたような痛みを訴えてくる。


「私は決めたのだ! 権力闘争に巻き込まれて謀殺された時にな! 我が身は護れずともあの家だけは、姫だけは世の暗闇から護ると! 何を引き換えにしても、何をしようとも! 地獄でどんな刑が課せられようとも!」

葛城が両手を広げた。
悲愴と熱情、入り混じった氷の目が雪丸を射抜く。

「私がどれだけ修羅となろうとも、姫には邪気ひとつ近づけぬ!」

「誰かを護るためには、誰かを殺してもよいと!?」

「その言葉、そのまま貴様にくれてやる!」

「…………」

雪丸は、そう斬り返されると知っていたに違いなかった。
それなのに、問うた。
そして、それ以上言葉を持たなかった。

「──……」

彼が一層顔つきをしかめた次の瞬間、結界に弾かれた雷の破片が大地を打った。

「どうした、魔術師殿!」

葛城の哄笑(こうしょう)が轟く。

「──雪丸!」

シムルグはとうとう堪えきれなくなって彼の名を呼んだ。
炎の結界が、消える。

同時に破壊の雷が消えた。

土蜘蛛、網を張れ!

倒れこんだ少年目掛けた式鬼が見えない糸に巻かれ千切りにされる。
雪丸だ。

「大丈夫? シムルグ」

こんな時だと言うのに彼の問いかけは間が抜けていて。

次々と襲いかかってくる式鬼を、彼は面倒臭くなったか向かってくるままに斬り捨ててゆく。
いかんせん素人だから冷や冷やものなのだが。

「ラチがあかない」

雪丸がぽつりと言った瞬間、彼は派手に吹き飛ばされた。
お向かいの屋敷の塀に背中から叩き付けられ、優男がうめく。

「降参か?」

こちらに手の平を向けたまま、葛城。
退魔師というのは色々な芸当ができるらしい。

「生きて帰るなら今のうちだぞ」

「…………」

だが雪丸はそれに応じずゆっくりと起き上がり、転がっている刀を掴んだ。
そしてスタスタ歩いてくると、座り込んでいるこちらに向かってささやく。

「ねぇシムルグ。もう一回、もう一回だけ結界張れない? すぐカタつけるから」

「……分かった」

本当はできるかどうか分からなかったけれど、ここでできないと言ったらこの男はまさに命を放り出して無茶をしかねない。
少年も立ち上がると、再び両手を重ねた。

「不死の炎よ我らを照らせ」

「……まだやるか」

葛城が常闇(とこやみ)の笑みを浮かべる。

「貴方はいい人だよ。本当の悪人だったら、僕らは式鬼にやられて死んでただろうね。降参する猶予なんてもらえなかった」

雪丸が笑みの無い顔で夜を見上げた。
そこには、退魔師がいる。
人を護るために人を殺める、修羅と化した退魔師が。

「だがその猶予のお陰で思い出したよ。貴方たちが使う術はシムルグの術とは違うんだよね。確か何をするにも核が必要なんだ。呪うには紙で作った人形、相手の髪、式神にも紙で作った人形。結界にも……」

雪丸の双眸が左から右へと屋敷の塀を横切って、その唇が声を出さずに動く。

──見つけた

手元ではすでに、刀身が力をたくわえきれずに電光を発していた。
彼は再び葛城を見上げて言う。

「結界にも、核がなくてはならない」

「──式鬼!」

神威よ下れ!

巨大な獅子がこちらに向かって現れたのと、一本の閃光が結界に突き刺さったのはほぼ同時だった。

「…………」

雷が轟く地鳴りも、空気を揺るがす爆音もしない。
何かが割れ飛ぶ音。そして、澄んだ風鈴の音だけが夜空に響き渡った。

一本の矢と化した雷が、問答無用に結界を貫いている。
そこから無数の亀裂が生まれていた。
溢れる光はその亀裂に入りこみ、さらにひび割れを拡大させてゆく。
亀の甲羅よりも無秩序に、卵の殻よりも美しく。
透明な硝子がゆっくりと崩壊してゆく。

そして──

それは音も無く砕け散った。




「貴方程の結界だから、力任せに全体を叩いてもダメだった。でも核一点だけを狙って力を凝縮させれば」

「貴様ほどの術師ならば容易く一撃で崩せるというわけか」

「──!」

すぐ側で声がして、シムルグは慌てて雪丸の背後にまわった。
葛城が優男の眼前に立っている。
修羅の覇気と激情の双眸は変わらず、けれど気配だけが軽かった。
結界の力で実体を得ていたその身体が、あの世の住人のものとなったのだ。
甘い、あの花の香が夜路を漂う。

「姫は、このことを御存知なんですか?」

雪丸が問うと、葛城が小さく笑った。

「愛しい人に修羅の姿を見せられようか?」

「…………僕は」

魔術師が言いかけたところに、通りのずっと向こう、わだかまる闇の中からガラガラという音が聞こえてきた。
そしてぼんやりと近付いてくる炎の揺らめき。
不吉な予感が、した。

「迎えだ」

葛城の何も感情のこもらぬ声音。

火車(かしゃ)。罪人を地獄へと連れてゆく冥界の使者よ」

「罪人」

「人を護るために人を殺めることは許されない。冥界の法ではそうなるようだな」

突風が通りを駆け抜けた。
葛城の長い白銀の髪が風のままに踊る。
刻々と迫ってくる音に雪丸もシムルグもただ闇の炎を見つめ、葛城を見やった。

「雪丸京介」

ふいに葛城に名を呼ばれ、雪丸が小さく返事をする。

「覚えておけ。私は例え地獄で紅蓮の炎に焼かれたとしても後悔はせぬ。この身体八つに裂かれたとしても、貴様が正しかったとは思わぬ」

優男はしばし口を閉ざし、そして静かに告げた。

「……僕は正義の人ではないから。僕が絶対に正しいなんてことはあり得ない」

「…………フン」

葛城が鼻で笑った。
心底からの、軽い笑み。

「その言葉だけは絶対に正しいだろうよ」

火車の正体が、見えた。
バカでかい化け猫が、燃え盛る炎に包まれた牛車をひいて走っていた。
猫の足音はしない。牛車の軋む音だけが不気味に夜を馳せる。地獄の火炎が赤々と路を染め、それは一直線にこちらへやってくる。

「これで良かったなどとは思わぬ」

雪丸が再び葛城を見た。

「だが私は貴様に負けた。だから私は貴様を怨むことはしない。決してな」

「僕は貴方を忘れませんよ。僕が貴方のところへ逝くまでずっとね」

葛城が笑った、気がした。──同時、

雪丸とシムルグ、そのふたりと修羅の間、火車が速度を緩めることなく通り過ぎて行った。
やけに冷たい湿った風が袴の裾を、羽織の袖をはためかせる。

「…………」

気付いた時にはもう、火車の炎は闇路に溶けてゆくところで──葛城の姿は消えていた。
夏の夜の儚い夢であったように、温度も声も影もない。
牛車のおどろおどろしい音も、いずこに溶けて流れてしまったのかどこにもない。
しんと静まりかえった夜だけが、そこに取り残されていた。


──地獄に連れて行かれたのか……


雪丸とシムルグ、ふたりはしばらく黙って立ち尽くした。
金木犀の香だけが、あの男の証明だった。



「しっかし……」

シムルグは独り(いぶか)しみ首をひねる。

あれだけのことがあったというのに、通りには誰も出てこないのだ。
物の怪の類が見える者でなければ、一連のことは気が付かなかったのだろうか。
でも雪丸は大声で叫んでいた。
それに、物の怪は見えずとも魔術は普通一般人に見えるものではないか?

シムルグは首をひねったまま、そっと雪丸を盗み見た。


──もしやこの人は……


この周辺一帯に、あるいは都全体に、何か別の魔術を始めからかけてあったんじゃないか?

シムルグは魔術に詳しくないからよく分からなかったが、そうでなければ説明がつかない。
例えばみんなをぐっすり眠らせておくだとか、戦うだろう場所から他に影響が出ないようあらかじめ結界を張っておくだとか。

何しろ分かることはただひとつ。
ふたつの術を同時に持続させ続けるなどという真似は、誰にもできないということだけだ。
この、魔術師以外。

「あ」

その魔術師が突然間抜けな声を出した。
彼が指さす方向に顔を向けると、屋敷の門を出たところにぽつんと小さな子供が立っていた。おかっぱ頭の、人形を手にした子供。

雪丸がひらひらと手を振ると、その子はにっこり笑って手を振り返し、反対の路地へと走り去っていった。

「今のが」

「そう、座敷童子。可愛いでしょ」

彼はなんだかぼろぼろ気味になった羽織から腕を抜き、再び肩に羽織る。
二代目バカ旦那から、落ちぶれたバカ旦那になった。

「それじゃあシムルグ、宿へ帰ろうか」

「俺、二回も結界張ったから疲れ──」

シムルグに皆まで言わせず、屋敷の中から嗚咽(おえつ)に近い叫び声が聞こえてきた。

「……なんという! 鏡が割れてしまいました! 葛城様からいただいた鏡がぁッ!」

「…………」

宿へ向けられていた雪丸の足が止まる。
彼が聞こえてきた方へと首をまわせば、結界崩壊の衝撃風で開いてしまったのだろう門から屋敷の中が見えた。

「あの方が唯一遺してくださったものだったのに! ……葛城様……!!」

どういう運命の皮肉だろうか、雪丸の視線の先には松の幹、夏草の茂み何一つ障害なく、彼はその光景をしっかりと見ることが出来た。
彼が今日不幸に陥れた二人目。

「葛城様、葛城様……、御身だけでなく品までわらわの元から消えると言いますか……! 葛城様! お答えくださいませ!」

数人の女房に囲まれた美しい姫が、割れた鏡の一片を手にして半狂乱に泣いている。

鏡。
雪丸が一点狙った、結界の核。

「……葛城様……!」

嘆く姫の紅の唐衣は彼岸花を思わせる程に鮮やかで、闇夜に映えていた。
だがその叫びはまさに狂気。
なだめすかす女房たちさえ彼女の目には入っていないだろう。
きっと彼女もまた愛しい者を失ったその時から、正気など捨ててしまっていたのかもしれない。
狂気でなければ、生きられなかったのかもしれない。

「どうしても逝くとおっしゃるのなら、わらわも連れてお行きなされませ! 葛城様!」

姫の手は虚空を彷徨い、愛しき亡霊の姿を探す。
その紅唇はもはやこの世のどこにもいない者の名を呼び続ける。



「……僕が……」

彼女から目を離さずに、雪丸がつぶやいた。

「僕が死んだら、きっと即座に火車が迎えにくるよ」

「そんなこと」

シムルグが反論しかけると、雪丸が軽く声をたてて笑い制してきた。

「僕の大義名分は幻獣を護ることでしょ。でも僕はそのためにどれだけの人を追い詰めて、困らせて、泣かせて、不幸にして、殺めてきたか。……それはね、きっと許されることじゃない」

彼が歩き始めた。
夜を引き裂くような泣き声を背後に、(くら)い道へと歩を進める。

「だけど同じくらいたくさんの人が、幻獣が、助かって幸せになってアンタに感謝しただろう」

「それは言い訳だよ」

やっぱり穏かな口調で、しかしきっぱりと男は告げてくる。

「人を生かすことと人を殺すこと。人を幸せにすることと人を不幸にすること。そういうのはきっと天秤にかけちゃいけないんだよ。あの人を幸せにするためにあの人には消えてもらおう、我慢してもらおう、諦めてもらおう。僕の仕事はそういうものだけど、おそらくね、それは間違ってるんだ」

肩にかけられた白羽織が、過ぎ行く涼風に妖しくはためく。葛城と対称的な黒髪が、揺れる。

「間違っているんだろうけど、僕にはまだ正し方が分からない」

「…………」

少年と雪丸との間を、一匹の蛍が飛んでいった。

「僕は人を救うためにいるんじゃない。僕は彼らを救うためにいる」

幻獣保護局、雪丸京介。
それが彼だ。

「でもだからと言って人を不幸にしていいわけじゃない」

彼は、葛城と自分とを重ねていたに違いなかった。
(あだ)なす者全てを殺してでもあの姫を護ろう、幸せにしようとした退魔師と。
人の心を踏み、嘆かせようとも、幻の獣たちを護るという仕事を続ける己と。

だから彼は葛城に対して答えを持たなかった。
彼自身がその(とが)を一番よく知っていたのだから。

「これから考えればいいだろ」

「は?」

「これからでいいんだよ。どうやったら人を不幸にせずに奴らを助けられるか、これから考えればいいじゃねぇか。考えてりゃいつか分かるかもしれないだろ」

「…………シムルグ」

「なんだよ」

雪丸が涙を流し目元をぬぐう真似をしながら、芝居がかった口調でしみじみ言う。

「お前さん時々イイコト言うねぇ」

「うっせーよ!!」

思いっきり叫んでから、シムルグは真顔になって雪丸の袖を引っ張った。

「なぁ、前にも訊いたような気がするんだけど、アンタなんでこの仕事やってるんだ?」

「……内緒」

雪丸が開いた扇で口を隠し、肩を震わせて笑った。
そして彼は藤色の袴を颯爽とひるがえし、再び歩を早める。

「あー、おなかすいた。宿に帰ったらお団子の残りでも食べようかな」

いつの間にか、月が出ていた。
物の怪どもの通り道を、煌々と明るい月光が照らし出す。
飄々と歩いて行く優男の背を追いながら、少年は言った。

「雪丸」

「ん〜?」

「もしお前が地獄に堕ちても、俺が一緒に付いて行ってやるよ」

「……それは…………」

一呼吸詰まった彼が、いつもの色で微笑んだ。

「ありがとう」






THE END



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BGM by HΛL [ I'll be the one] 柴咲コウ「眠レナイ夜ハ眠ラナイ夢ヲ」 ※不二が執筆時に聴いていたもの。
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