幻獣保護局 雪丸京介 第14話

【バルトアンデルス】

後編




「バルトアンデルス……」

少女がつぶやいた。

「いかにも」

石像の蛇は見る間に青年へと変わり、慇懃な調子で礼をする。
雪丸に輪をかけた伊達男。
三角帽子を頭にのせ、よれたコートに身を包み。

「ご指名を承ったようですが、何かご用ですかお嬢さん」

「私は……私は、この村に住みたいのです」

「へぇ」

バルトアンデルスは雪丸そっくりの言葉を返した。
だがその細められた双眸には小さな悪意が見え隠れしていたが。

「君も変わらないものを求める?」

「変わらない心を持ちたいのです」

「そりゃすごい」

次瞬青年の姿は消え、石畳の上にどんぐりの実が落ちていた。
シムルグが唖然(あぜん(と雪丸を見上げれば、彼は楽しそうにウィンクをしてくる。
少年は少しだけ後悔した。
その間にも、

「確かにこの村にいれば何も変わらない。永遠にのんびりと思索にふけることを望んだあのじいさんや、空だけ見て過ごしたいと願ったあの若者や、世の中の(わずら(いから逃れてパンだけ作っていたいと叫んだあの男みたいに、何も変わらないだろう」

どんぐりが偉そうに言う。

「だが、彼らは君と決定的に違う」

「違うねぇ」

雪丸がウンウンとうなずく。
あからさまに他人事なお役人を少女が一瞥(いちべつ(した瞬間、どんぐりは獅子に変わった。
そして容赦なく言い放つ。

「変わらない心を切に願う者は、必ず一度は心変わりで誰かに裏切られているものだ」

「…………」

「信条も、友情も、愛情も、信じられなくなった者こそが必死で信じたがる」

「私はっ!」

少女が獅子を睨みつけた。

「間違っていますか!? 裏切られたからこそ、私だけは誰も裏切るまい、心変わりをするまいと思うのは間違っていますか!?」

「別に悪かない」

ミもフタもなく断言したバルトアンデルスの低い声。
そして雪丸がのどかな声で続けた。

「だけど、人も、心も、世界も、変わらないことはない。その流れに流されるのが世界というもので、人というものでしょ」

遠い目をして、どこか突き放して。

「時間は止まることなく流れ続けて必然世界は変わってゆく。世界が変われば友情も変わる。人も変わる。愛も変わる。変わらないでいることはある意味自然の摂理に反していることにもなるわけで……」

「貴方は裏切られたことがないからそういうことが言えるんです。友達だと思っていた人や自分の恋人に裏切られたことがないからそんな綺麗事──」

「お姉さん、人の話は最後まで聞いてやれよ」

シムルグは少女の言葉を短く遮った。
雪丸の肩を持つわけではないけれど、なんとなくカチンときたのだ。
この男が“裏切られていない”わけがない。雪丸京介はいつだって世界に裏切られているのだから。
時々救われながら、それでも彼の理想は多く裏切られる。
そして彼自身は、己の理想と自身とに裏切られ続けている。

「ありがと、シムルグ」

こちらに小さく笑みを向け、彼が少女に向き直る。

「確かにそんなのは綺麗事だろうねぇ。君に何があったのかは知らないけど、信頼していた友達と心底好きだった恋人に裏切られたんじゃ、“変化”を、“変化する心”を嫌うのも無理はない。時間と共に変化してしまう“人間”そのものを嫌いになったって不思議じゃない」

彼の整った顔にはなだめるような微笑がのっていて、だが目は優しく凄む。

「でもね、誰かが綺麗事を言わないでどうするんだい」

「…………」

「それこそ救いがないだろう」

雪丸が軽く笑って肩をすくめた。

「君の望みは間違っちゃいないよ。人を裏切らないでいようと思うことは、変わらない心でいることは、必要に迫られて変わらなければいけないことと同じくらい難しい」

だけどねぇ、と魔術師が続けた。

「それでここに来たことが間違ってるんだよ」

「…………」

雪丸の視線が屋上の青年に向けられる。

「彼らは変わらぬ環境を望んでここに来た。思索ができる、空を見ていられる、パンを作っていられる、そういう変わらぬ環境を望んでここに来たんだ」

「──君は何を望んで来た?」

獅子から、木箱に変わったバルトアンデルス。
自分で問いかけ自分で答える。

「そう、君は変わらぬ心を望んで来た」

『それが君と彼らの違い。それが君の間違いだ』

一字一句違えずに、バルトアンデルスと雪丸が斉唱した。






「この村に心はない。この村にあるのは、永遠に続く“今この時”という状況だけ」

木箱は、立派な髭をたくわえたどこぞの船長に。
錆びた宣告は白い村に響く掟。

「ここは、愛も友情も家族も財産も、そして自らの未来さえも──世界の全てを捨てた者だけが留まることのできる村なのだ」

「彼らはね、自らが変わらないことを望んだわけじゃないんだよ。世界が変わらないことを望んだんだ。自らの周りが変わらないことを、ね。そして必然心も時を止めたんだ。家族を思い出すこともなければ、友を懐かしむこともない」

雪丸が膝をついて少女に対した。

「だから。まず心の時を止めようと願う者には、この村に留まる資格がない」

「…………」

シムルグは分かった気がした。だが、同時分からない気もした。
横の少女もまた、納得し難い表情を崩さないでいる。

「つまりミもフタもなく言えば──、この村は君を救わない」


変化の怪物バルトアンデルス。
彼が住む“変わらない村”には心がない。
変わらぬ白い世界の真ん中で、住人たちは同じ時をただひたすらに繰り返す。
未来を視る事もなければ、過去を振り返ることもない。
友という存在も、家族という存在も、愛という存在も、ない。

この白く美しい石の村では、抜け殻だけがひたすら同じ時を刻む。


「心を捨てなければ、ここには住めない。……そういうことですか? 心の時を止めることはできない、と?」

少女が唇の端を噛んで、石畳を見下ろしていた。
一点も影もない、白い石畳。

「ちょっと違うな。世界というものは自分ではどうしようもない。だからこの村がある。でも“心”ってものは自分の中の存在でしょう? それを誰かにどうにかしてもらおうだなんて虫が良すぎる話だと思わないかい?」

胡桃(くるみ)に変わったバルトアンデルスを小さく指で弾き飛ばし、雪丸が声を立てて笑った。
転がった胡桃は魔術師に向かって罵詈雑言を浴びせ掛ける。
だが優男は涼しい顔でやり過ごす。
そして、裏の裏まで見透かしたあの目で、少女を見据えた。

「それにね、君は自分の心が変わってしまうことだけが嫌なわけじゃないでしょ。君は他の人間の心が変わってしまうことも恐いんだ。違うかい?」

「……恐い?」

「自分が誰かを裏切ってしまうことも恐い。けどそれ以上に誰かに裏切られるのが恐い。それが君がここに来た理由だよ。君自身は気が付いていなかったかもしれないけど」

彼は立ち上がり、雲ひとつ風ひとつない蒼空を見上げた。

「世界は変わらずにはいられない。だからこそ人も変わらずにはいられない。それゆえに裏切りは絶えない。君はその痛みに耐え切れなくなって、誰にも裏切られることのないここへ来たんだよ……って……ちょっと、ねぇ、どうしたの」

雪丸が振り向き、慌てて再び膝を付く。
少女がぽろぽろと涙を流していたのだ。
白い石に、灰色の水跡が次々重なってゆく。

「ねぇ、泣かないでよ。シムルグに怒られる」

「どうした?」

胡桃は雄鹿となり、のぞきこむ。立派な角が邪魔そうだった。

「なぜ泣く? ここがお前の期待を裏切ったからか?」

「……違う」

「莫迦だね、バルトアンデルス。君はいつも君の基準で考えるから分からないんだよ」

雪丸が雄鹿の額をぱしっと軽く叩いた。

「人はねぇ、矛盾の生き物なんだよ。裏切られることが重なったら、人なんて信じられなくなるでしょ? でも信じたいとどこかで思うことがあるの。変わらない友情や変わらない愛を誓うでしょ? でも永遠なんて存在しないって片隅で誰かが言うの。
私は絶対に変わらないって思いながら、いつか変わってしまうんじゃないかって恐がるわけ。だからこそ、自分が変わらなくても相手は変わってしまうんじゃないかって疑うわけ。最後には自分も相手も信じられなくなる」

「…………」

しばしの間があり、怪物から返ってきた言葉は。

「…………そうか?」

聞いて、雪丸が呆れたようにため息をついた。

「そうだよ、君はそーゆー奴だよね」

そして彼は雄鹿のあごをがしっと掴む。

「いい? 君は変化そのものだから変わることを恐れない。だけど人ってのは変わることをひどく恐がるものなんだよ」

「お前もか」

「……あぁそうだよ。だから人は“心”ってのに手を焼くんだ。なんせ自分のものなのに思い通りにならないんだからね! それどころかコロコロ姿を変えるから、今どんな状態なのかもよく分からないときてる! 最悪だ」

少女が雪丸のコートに顔をうずめて泣いていた。
その背中をぽんぽん叩いてやりながら、魔術師は穏かに声を落とす。

「心変わりで友達と恋人に裏切られて、もう人なんか信じるもんかと思ったんでしょ。でもそういう自分が冷たい人間に思えて、正反対の道を選んだ。誰も裏切らない道を選ぼうと思った」

「……でもうまくいかなかったんです」

顔を上げないまま、少女がそうつぶやいた。

「やっぱり裏切った人たちが許せなかった。神様が罰を与えてくれればいいのにとか、こんなのは不公平だとか、嫌な私ばかり出てきてどうしようもなかった。そんなこと思うのは嫌なのに」

「それでここへ来たんだね」

「ここなら、私がなろうとしている私になれると思ったんです」

心変わらず、誰も裏切ることのない、誰を傷つけることもない自分。

「そしてたぶん……ここなら私が傷つくこともないだろうとも思っていたんです」

誰にも裏切られない自分。変化がなければ傷も付かない。

「でも、違った……。この村は私を救わない」

少女が放り捨てるように言い、顔を上げた。
薄い影。そんな儚い印象しかなかった少女だが、今や暗雲が落とす影の如くその顔は沈んでいる。
一縷(いちる(の望みも潰え果てた。
そんな落胆。

「……私はどうしたらいいでしょう?」

長い黒髪によって作られた影が、消沈を色濃くする。

「もう、私には分からない」

「人を信じるべきか? 信じないで生きるべきか?」

雪丸が軽い調子で訊き返す。

「心は変わるままにしておくべきか? それとも変えないように頑張るべきか?」

「…………」

少女が黙って魔術師を見上げた。
シムルグも視線だけを動かして、その理想屋が何を言うのか待った。
雪丸はニコニコとふたりを見つめると立ち上がり、もったいつけて石畳を数歩歩く。

そしてクルリと正面を向き、きっぱり告げてきた。

「僕もその答えは知らない」

無責任な明るい笑み。

「だけどひとつだけ逃げ道をあげよう」

人差し指をぴっと立て、少女の瞳をのぞき込み、彼は内緒話のように声をひそめる。

「もし君が本当に誰も信じられなくなって、それでも心は信じることを望んでいたら、その時は──僕を信じるといい」

男は少女の顔の前で小さな紙切れを振った。
手品の如くいつの間にかその手の中に現れた、一枚の名刺。

「……魔導協会、外遊部門、幻獣保護局……雪丸京介?」

無味乾燥な文字列を読み上げ、少女が首を傾げた。

「君は僕を信じている。それだけは変わらない君の心なんだと思えばいいだろう?」

「でも、」

「僕は誰の愛にも応えることはできないけど、信頼してくれる人間を裏切ることは絶対にしないから。苦しくなって泣き叫びたくなったら僕がいることを思い出しなさい。呼んだって構わない。協会経由なら必ず連絡はつくんだ」

「…………」

名刺に目を落とす彼女は目に見えてとまどっていたが、

「ね」

「…………はい」

雪丸の一言に押されてうなずいた。


──が、

「あれ……私、何で泣いてるんでしょう」

気が付けば、再び彼女の頬を次から次へと流れる涙。
ふいてもふいても溢れてくる。
泣きたいわけではないのに、身体が勝手に泣いている。

「悲しいの?」

雪丸が微笑む。

「いいえ」

少女が首を振る。

「じゃあいいじゃない」

優男はお決まりの調子で彼女を頭を撫でた。

「悲しくないなら大丈夫。きっと今まで頑張りすぎたんだよ」


気流さえ変わらない、風が吹かないはずの白い村。
シムルグは、ざわめく葉音を聞いた気がした。
変わらない場所に落ちている自分の影が、無性に懐かしく思えた。
ふと思い出したのだ。
同じようなことをこの男に言われたことがある、と。

“君はいつだって自由なんだよ。どんな風にいたっていいんだよ。そんなに悩むもんじゃない”

それは、この魔術師に会った日だった。



「京介」

「ん?」

「普通の人間がこの世界に長居するのは勧めない。帰すぞ」

バルトアンデルス──ネズミが言った。

「帰すってどこへ」

「元いた場所さ。この小娘が住んでいた場所」

「そうだね」

雪丸が振り返ると、

「帰っても、きっと大丈夫です」

少女が笑った。

「でも、訊きたいことがあるんです。バルトアンデルスに」

「何なりと」

派手に飾り立てた騎士が恭しく礼をした。
腰に帯びた何本もの剣が、がしゃがしゃと騒々しい音を立てる。

「あなたは一番初め、元々は何だったんですか?」

羽飾りがついた大きな帽子の下でバルトアンデルスが大きく息を吸い、吐く。

「──我は始まりにして終わりなり」

「……えーと」

「我にとって、かつて何であったか次何に変わるかは関係ない。重要なのは今何であるかだけ。今この時だけが我にとっての始まりで終わり」


バルトアンデルスは時の怪物、変化の幻獣。
その意は、“いつでも他の何か”。
決してひとつには留まらず、時間と共に姿を変える。
制約はなく、不可能もない。動物にもなり、幻にもなる。石ころにもなり、空にもなる。

だが彼はいつでも己が何であるかを知っている。
どれだけ姿を変えようと、心を変えようと、今の己を知っている。

人は今の己さえ何者なのか知らない。
だが変わり続ける彼は、だからこそ刹那過ぎてゆく全ての己を知っている。


「もう良いか? 送るぞ」

「はい」

少女が紙切れを握った。
雪丸がひらひらと手を振る。

そして──迷い子の姿はふと消えた。





◆  ◇  ◆  ◇  ◆






「お前は変わらない」

トランプのジョーカーを模した道化師が、奇妙な笑顔で雪丸に言った。

「そう? 僕だって変わったよ。ホラ、シムルグも一緒だし。環境は人を変えるものさ」

少女が森の外へと帰されて、シムルグは空気が微妙に変わったのを感じ取っていた。
それまでの謎めいた穏かな空気は押しやられ、緊張の糸が一本張られる。

「お前が変わったらお終いなんだろうな。だが変わらないままだといつか壁に当たる」

「壁? そんなもの壊せばいい」

「壊せないだろう? お前は」

「そんなの分からないさ」

「いや、分かる。お前は壊せない。それに壊す気なんて始めからないだろう。お前はこの世界に壊す程の価値があるとは思っていない」

反り返ったつま先が、一歩二歩と軽いステップでこちらに来る。
雪丸が苦々しい笑みを浮かべた。

「そんなことないよ」

「京介、お前は変わってない」

「変わったってば」

久しぶりに会った友人とじゃれあうような言葉の綱引き。
だが、双方の目つきは譲らぬ駆け引き。

道化師の仮面、不気味に笑った三日月の奥に潜む双眸と、魔術師たる隙のない深淵の双眸。
物言わずふたつが冷戦していた。

「──どっちでもいいじゃんか」

耐え切れなくなって、シムルグは吐き捨てた。

「変わろうが変わるまいが、この窓際役人は雪丸なんだから」

寒気がした。
白い村が凍り付いていた。

「…………鳥の王」

バルトアンデルスの色なき視線が、僅かばかりの驚愕を持ってシムルグを見下ろしてくる。しかしそれはすぐに雪丸へと戻された。

「ここに来た用件は何だ、京介」

「樹海の拡大について」

雪丸が事務的な口調で、鞄から書類を取り出した。

「この樹海は年々面積を増やしていっているんだよ。あと数年もすれば一番近くの街が飲み込まれるだろうっていうのが局の出した予測でね、この原因を森の主である君に聞いて来いって言われたわけ。確実に君に会えるのは僕しかいないから」

「放っておけば奴らの領土が皆、樹海に喰われる。あの組織は今更焦り出したわけか」

「そう冷たいこと言わないでよ」

「だがお前は我に聞かずとも答えを知っているだろう」

「知ってるつもりではいるけど、それが正解とは限らないでしょ」

「やはりお前は変わっていない」

道化師のため息に優しい笑みが混じった。
そして彼は掲げた片手をぱちんと鳴らす。

「我、バルトアンデルスは人々の“時間”と“変化”への計り知れぬ畏れが生み出した連続の幻獣。この森もまた、人々の“定まらぬもの”と“変化”への恐怖が生み出した不確定の幻獣」

紡がれる言葉と同時、陽射しが降り注ぐ石畳に影がかかってくる。

「雪丸……」

シムルグが仰いだ空は黒い木々の葉によって閉ざされつつあり、

「あぁ」

白い村は絵筆で塗りつぶされるように、樹海へと姿を消そうとしていた。
石畳は苔むす湿った土へ。白壁は蔓がからまる大樹へ。
突き抜ける蒼空はまばらな光の穴へ。
廻り続けていた時間は再び未来へと流れ始め、村は、住人は、再びこの世と隔絶された幻の狭間へと帰ってゆく。


「ここは恐れと(おそ(れが生み出した森」

こちらを真っ直ぐ見つめたまま、バルトアンデルスが抑揚なく告げてきた。

「!」

シムルグは雪丸に襟首をつかまれ、彼の背後に引っ張られる。
そしてその魔術師本人も、一歩後ろへ退く。

「望もうが望むまいが、時の流れにより否応なく迫りくる変革への恐怖」

「…………」

優男は黙し、柳眉をひそめて口を引き結んでいた。
黒い双眸は逸らされることなく、変化の怪物を睨み。

「あるいは。変わるべきか、変わらざるべきか。己は何であり、そして何処へ行くのか」

道化師が口の片端で小さく(わら)い、ふと消えた。
目に映るのは、散々歩いた際限のない樹海。白さの欠片も残ってはいなければ、村の痕跡さえもない。
悪夢から醒めたのかと安堵した次瞬、

「恐れる限り森は広がり世界を覆う」

暗い風が魔術師と鳥の王、ふたりの耳元を通り過ぎていった。






◆  ◇  ◆  ◇  ◆






「雪丸、アンタそんなに背負って大丈夫なのかよ」

シムルグが訊けば、

「何が」

右も左も分からない森の中に突っ立って、優男がキョトンとした顔を向けてきた。

「絶対に裏切らないって」

「あぁ、そのこと」

彼は世界に唯一だろうと思われるあの笛で肩を叩きながら、笑う。

「僕は僕を信頼する人間だけは絶対に裏切らないよ、絶対にね。それで少しでも彼らの支えになれるなら、いいことじゃない」

明日の宿題はちゃんとやってくるよ、そんな程度の軽薄極まりない言い方。

「絶対に裏切らないってことがどれだけ重いことなのか知ってて言ってるんだよな」

「……もしかしてシムルグ、やきもち?」

雪丸がニヤニヤして赤毛の頭を突っついた。

「違うッ」

憮然と言い返して少年は横を向く。



──お前は変わらない。

そう言い残したバルトアンデルスの気持ちが分かる気がした。
シムルグは、怪物と初めて会った頃の雪丸なんて知らない。
昔話だってロクに聞いたことがない。

しかし、きっと今とほとんど同じだったんだろうと察しがついた。
理想を並べて、失望を隠して、それでも捨てられなくて、こうやって立っていたのだ。

少女がやろうとしていたことを、この男はやっている。
この男の根本はきっと変わっていない。
きっと、(かたく(なに変えまいとしている。

けれど彼は──、まだどこへ行くべきか決していないのだ。

だからここにいるのだ。
だからここにいて、シムルグの隣りにいるのだ。



「重しっていうのは重ければ重いほどいいでしょ。どこかへ飛んでいかないようにするためにはね」

明後日の方を見渡しながら、魔術師が小さくつぶやいた。
本当に小さく。

「恐れる限り森は広がり世界を覆う……ね」

誰にも聞こえぬ程に。

そしてふいに彼は振り向いた。
柔らかい黒髪が揺れ、コートが翻る。

「ねぇ、どっちに行く?」

「どっちって、……は?」

嫌な予感を覚えながらも、とりあえず聞き返すシムルグ。
すると悪びれる様子ひとつなく、雪丸が右を指し左を指し、最後にはくるくる回してきた。

「僕はバルトアンデルスの住んでる“欠けない月”は感知できるんだけど、樹海の出口ってのは感知できないんだよね」

「…………あ、そう」






THE END



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