幻獣保護局 雪丸京介 第14話

【バルトアンデルス】

前編



己が一体何者なのか、知っているか?
己は一体何者で、何処へ向かっているのか、知っているか?




◆  ◇  ◆  ◇  ◆





その少女は相変らず伏し目がちなまま、ふたりの後を影のように付いてきていた。
大きな山に囲まれた谷、平衡感覚すら失いかねない樹海の中。
先頭を歩いているのは例によって頼りになるんだかならないんだか分からない優男、雪丸京介で、その後ろに続くのは赤毛の少年、シムルグ。
そして少し距離を置いて付いてくる少女。

白いワンピースをまとい長い黒髪をしたその少女は、消え入りそうなくらい弱々しい気配なのに、前を見据える瞳だけは執拗な強さを見せていた。
ただひとつのためだけに生きているような、危うさ。


「……雪丸、ちゃんと目的地には着くんだろうな?」

道のようで道でない。同じようで同じでない。
苔の生えた朽木に、湿った大地、薄く積もった落ち葉や仰いだ頭上のまばらな空。
吸い込む空気はむせかえるほど濃く、鬱蒼(うっそう(とした大地の匂い。

「迷ってるんじゃないだろうな?」

パキンと折れ枝を踏んでシムルグが問うと、

「迷ってないよ。ちゃんと目的地目指してるよ」

異様に憤慨した雪丸の声が降ってくる。

「目指して努力してるだけじゃないよな?」

「…………」

雪丸が立ち止まった。

年齢不詳、長身痩躯のその男。いつもと変わらぬ薄いコートの出で立ちで、くせっ毛気味の黒髪も黒い双眸も変わりなく。微笑を浮かべているその顔は、森を(ひら(く冒険者というよりも森に魅せられ彷徨う詩人に近い。
彼が狂気の詩人ではなく世界を牛耳る“魔導協会”のお役人様なのだとは、誰も想像できないだろう。……説明したって信じてもらえないだろう。
まして、その上層部に目をつけられる問題児な性格と実力とを兼ね備えた魔術師だとは!

「君は大きく誤解をしている」

こちらを向き、高飛車に雪丸がふんぞり返った。

「協会史上初めてあの村に辿り着いた男だよ、僕は。迷うはずがない」

「それって何年前の話だよ。っていうかその自信の根拠は何だよ」

「……協会に入って間もない頃かなぁ……。快挙だって言って色んな部署で色んな人がお祝いしてくれたんだよねぇ。知らない友達が急に増えたのもあの頃だった、うん」

「それから何回ココへ来たんだ?」

「一回も」

キッパリとした断言だった。

「地図は?」

「地図なんか作ったって無駄でしょ、こんな樹海」

「…………」

そりゃ無駄だろう。コンパスも役に立たない、同じような木ばかりで目印なんてない。あげく鳥の巣もなければ沢の音もしないのだ。
大雪原での地図が無駄であると同様、この森でも地図など無駄……というよりそもそもそんなもの描きようがない。

「あのなぁ、雪丸」

シムルグは雪丸を天辺からつま先まで見やった。

少年の自称保護者が持っているものは、あの頭の中身と同じくらい軽そうな鞄がひとつ。一方自分はといえば何も持っていない。

つまり、遭難に対する装備は限りなくゼロに近いわけだ。
実は幻獣の一種であるシムルグは元の鳥の姿になって逃げればいいのだが──いかんせん炎をまとった鳥である。彼が飛び立った後、樹海は瞬く間に炎海と化すだろう。
構わないと言えば構わないけれど。

「大丈夫だってば。心配性だね、君も」

雪丸がすぐそばの樹に手をかけて、その(こずえ(を見上げた。

「──この樹海は単なる森じゃない。常に変わり続ける森だ。……ほら」

彼が優雅な仕草でシムルグの足元を指差す。

「な……」

少年が踏んでいたはずの小枝は、小さな赤い花になっていた。

「目を離し、注意を逸らせば……森はすぐに姿を変えて僕らを欺く」

雪丸が手をかけたはずの一本樹は、折れ朽ちた死木となり。

「だから地図なんて無駄なんだよ。誰一人この森を把握できる人間なんていやしない」

「でも貴方は!」

後方で立ち止まり黙していた少女がいきなり声を上げた。

「貴方は絶対に辿り着けるっていったじゃありませんか! だから私はこうして付いてきたんですよ! 貴方の言葉を信じて!」

「辿り着けるさ」

「でも森は誰にも把握できないって──!」

「確かにこの森は僕の手に余る。だけどね、お嬢さん」

雪丸が朽木をぽんぽんと叩きながら微笑んだ。

「僕らが目指している場所だけは、この森にあって決して変わらないんだよ。どれだけ森が変わろうと僕らを惑わそうと、あの場所の位置だけは変わらない」

侵入者とは思えないほど、その男は森と同化していた。

「そして僕にはその場所の在処が分かる。口に出して言うのは難しい感覚なんだけどね、第六感とでもしとけば分かりやすいかな?」

他の人間がこんな台詞を吐いた暁には、笑い飛ばすか殴り倒すか、だ。
けれど雪丸が言うと妙な安堵感があるから不思議である。
それが例え、人を喰った笑顔から発せられた言葉だとしても。

「君が探している千変万化の“バルトアンデルス”。彼は“欠けない月”──そう呼ばれる、世界の中で唯一決して何も変わらぬ村に((んでいる」

涼しい彼の双眸が、乱立する木々の間を縫って樹海の更に奥を見つめた。

「森の前で僕に会えるなんて、君は運がいいんだよ。世界広しといえども確実にあの村へと辿り着けるのは僕しかいない」

今や魔術師が手を預けている樹は、抱えきれないほどの大樹と化している。

「百歩譲って辿り着ける奴がいたとしても、彼と言葉を交わせた奴がいたとしても、それは偶然に過ぎないだろう。だけど僕は違う。僕は確実に辿り着けて確実に彼と話すことができるんだ」

「随分な自信だな」

シムルグの足元に咲いていた赤い花は消え、彼は横倒しになった古木の上に立っている。

「さすが、魔導協会の役人なだけはある」

「そうかな」

少年の皮肉をものともせず、雪丸が笑った。

「……うん、そうかもね」

次から次へと姿を変えて旅人を忍び笑うこの森のように。







◆  ◇  ◆  ◇  ◆






「ここだよ」

雪丸が言って、足を止めた。樹海の真っ只中で。

「何が」

シムルグは思わず聞き返した。

「何がってねぇ……お前さん、僕たちが探していたのは何さ」

「欠けない月」

「でしょ」

優男が半眼でため息をついてくる。

「それなら僕がここだって言ったらそれに決まってるじゃない」

「…………」

少年は雪丸に負けず水平な視線であたりを見回した。
彼の視界に入った白い少女もまた、納得しかねる様子で雪丸を見つめている。

当たり前だ。
今まで歩いてきた樹海と何一つ変わらない場所で、ここが“欠けない月と呼ばれる村です”なんて言われても為す術がない。
村というからには家があってほしいし、人がいてほしい。
そう思うのはたぶん普通だ。

「へぇ……ここがねぇ」

「ちょっとは他人の言うこと信じなさいって」

雪丸が、がさごそと鞄を漁りながらフフンと笑う。
彼は何やら難しい文面の書類が詰まったその中から、場違いな──あるいはこの場にとっては一番ふさわしい── 一本の横笛を取り出した。
それは味も素っ気もない、ただの横笛。

「いいかい? 見てびっくりするんじゃないよ」

言葉はシムルグと少女、ふたりに向けられていた。

「…………」

優男は手近な岩に腰をかけ、慣れた手つきで笛を取る。
そうして、深い深い森の中にその音色は響き始めた。

どこか色褪せたその音は高くもなく、低くもなく。
穏かなメロディは、泉から流れる小川のように。
樹海を覆う静寂は(とばり(を下ろしたまま、移ろう森に染み入る旋律は古の歌。
ひたすらゆったりと、時を止めるが如く。

「どうせこんなことだろうと思った」

シムルグは静かにため息をついた。

「ここが……“欠けない月”、ですか」

少女が自らの足元を見下ろし、そして目を細める。
一歩足を踏み出せば、するはずのない乾いた足音。
顔をあげれば、手をかざさずにはいられない光。

「変わらぬ村は、変わりゆく森の中に隠されていた……そういうことですか」

朽ち葉積もる大地は白亜の石畳に。
立ち並び茂る木々は白い石積みの建物へ。
閉ざされていた空は突如として拓け、暗く湿気に満ちた空気は陽光に焼かれ霧散する。
笛の奏でる古き歌は、眠りを覚ます目覚めの歌。

「ね、僕を信じて損はしないでしょ」

いつの間にか笛を置いた雪丸が、得意げな顔をこちらに向けて来た。
誉めてもらいたくて仕方がないような子供の顔をしている。

「あぁスゴイスゴイ。今度からアンタを信じるように努力しますー」

シムルグはパタパタと手を振って、男をあしらう。
だが、少年は彼の目を見ただけで分かった。
彼はここに遊びに来たわけでもなければ、自分の力量を自慢しに来たわけでもない。

男の微笑んだ双眸には含みがあった。
常人ならば見過ごすだろう、かすかなしかし確かな意図。

「ここに彼がいるんですね」

少女が真摯な声音で問うてきた。

「あぁ、そうだよ」

対して雪丸の調子はどこまでも軽い。

「彼はここにいる」


千変万化。次から次へとその姿を変える幻獣、バルトアンデルス。
その名の意味は「いつでも他の何か」。
時間と連続、そして変化の怪物で、彼はひとつに留まることを知らない。
見ている間に話している間に次から次へと姿を変えてゆき、始めもなければ終わりもない。人間、獅子、蛇、樫の木、桑の茂みに、絹織物、彼は何にでもなり変わり続ける。

そして彼は変わりゆく森のどこかにある、変わらぬ村に棲んでいるという。
村の名は“欠けない月”、決して変わらぬものを核とする。

それは“偶然”彼と出会った者たちが語り伝えた、物語。
不可解と謎に満ちていて、しかしいつでもそこにある伝承。


バルトアンデルスは、変わりゆく森の変わらぬ村に棲んでいる。
村の名は“欠けない月”。

今まさに三人の眼の前に広がる“欠けない月”は、小さなしかし洗練された──白い村だった。








「……バルトアンデルスに会わせてください」

陽光に照らされる石畳へと淡い影を落とし、少女が言った。

「どうして?」

雪丸がごく普通に返した。
それは森の外で会った時には聞かなかった問い。

どこから見てもワケありな彼女に、この男は何一つ詳しい事を聞かなかったのだ。
森の前にぼーっと立っていた彼女を見つけ、彼は“どうしたの”と訊いた。
彼女が“欠けない月”に行きたいのだとだけ答えると、“一緒に来るかい? 僕なら絶対に辿り着けるんだけど”と言った。

それだけだった。


「私はそのために来たんです」

「バルトアンデルスに会うために?」

「はい」

「そう」

雪丸が淡白にうなずいて、通りを歩き始めた。
シムルグは黙ってその後に続く。

「彼に会ってどうするの」

白灰色の家の中をちらりと盗み見れば、ひとりのおじいさんが椅子に深く腰掛けて煙草をふかしていた。
建物と色と同じ色をした、向こう側が透けて見えるおじいさん。

「……私はこの村に住みたいんです」

少女が斜め上を見上げた。
そこには、建物の屋上からのんびりと空を見つめている青年の姿がある。

「何も変わらないこの村に?」

青年もまた、半透明。

「変わらないからこそ、です」

十字路になった道の真ん中に、石造りの像があった。
表扉に王冠が描かれた本をつかんで羽ばたいている、鷹の像。

「私は決して変わらぬ者になりたい」

「変わらぬ者?」

像を過ぎた右手の家には、パン屋の看板が出ていた。
中では、これまた半分透けた、職人らしき男の人がせっせと生地を練っていた。

「人というのは、すぐに変わるものでしょう? こうと決めたはずの信念も時が移ると簡単に曲げられるようになってしまう。交わした誓いも、想いも、時と共に変わってしまう」

「それが嫌かい?」

「はい」

「へぇ」

雪丸の返事は素っ気なかった。

「変わらない信念。変わらない愛。変わらない夢。変わらない友情。──分かりやすい美徳だものね」

だがシムルグはそれどころではなかった。少年はパン屋を通り過ぎた次の家をのぞき込み、目を大きく開く。
そこには椅子に座り煙草をふかすおじいさんがいたのだ。
慌てて反対側を見やれば、空を仰ぐ屋上の青年。

石像だけが形を変えて、今度は山羊が一冊の本をくわえた姿。
本の表紙は一対のサイコロ。

「その顔……君は誰かに裏切られたね。時間と共に心が変わり、裏切られた」

「…………」

小走りに雪丸を追い抜けば、そこはパン屋。
さっきと全く同じ男の人が、やはりせっせと生地を練る。

「……どうなってる」

シムルグは口の中でつぶやいて走った。
十字路を曲がり、右を見る。

「何で!」

そこにはおじいさんがいた。
左には青年がいた。さっきまでパン屋だったのに、だ。
そして眼の前に現れる石像は、本を尾にのせた魚の姿になっていた。
本の表紙は帆船。

石像があるという景色以外変わらない。
走っても走っても、変わらない。
どれだけ先へと走っても、角を曲がっても、振り返れば雪丸と少女はすぐ後ろの十字路にいた。

「何で!」

「無駄だよ、シムルグ」

雪丸がこちらを向いて静かに笑った。
何もかもお見通しの、透った声音。

「無駄だよ」

輪郭の薄い風貌が、村の空気の中で更に境界をなくしている気がした。
一度風が吹けば溶け消えてしまう、漂泊の風来坊。

「ここは僕らの世界じゃない。彼の世界だ。……ねぇ?」

魔術師の悪戯めいた黒曜が、道の真ん中に鎮座する石像を見た。

表紙に子供が描かれた本に巻きついている、一匹の蛇。

「そうでしょ、バルトアンデルス」

「!」

少年と少女がつられて見つめて約五秒。

「──さすがは京介。……ご名答」

蛇の石像が、ちろりと舌を出した。






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