幻獣保護局 雪丸京介
第17話 バジリスク

後編



 男の意識は朦朧としていた。末期だ。霞の向こうに大鎌を持った自分が見える。
「毒の霧に長く浸かり過ぎたな」
 つぶやきは後悔でも嘆きでもなく、単なる事実だった。
 その間にも馬はひたすら前へ進んでいる。
 思考を蝕んでいた頭痛はもはや身体の一部と化し──そもそも己の身体すべてすでに感覚なんぞない。
 それでも彼はまだバジリスクを求めていた。
 捜査局がこの一帯を焼こうとしている。そんなことでここがどうにかなるのかは分からないが、バジリスクの命を断つような愚行を犯してはいけないことだけは確かだ。
 それでは、一部の人間が畏れ敬う“神”とやらと同じになってしまう。

 世界に植物が生き動物が生き人が生きているのは、どれだけ多くの意味ある数字を制した結果なのか。
 偶然にしろ必然にしろ、到底人の手にはどうすることもできない所業だ。
 人が天を仰ぎどれだけ奢ろうが、踏んでしまった蟻を再び歩かせることなどできない。傍らで息絶えた愛する者にもう一度を“ありがとう”を聞かせることもできない。
 おそらく、だからこそ、命は尊いのだろう。
 殺めることへの罪は、そこにあるのだろう。

 だが幻獣は違う。
 彼らは人が生み出した。人の心の代理──もしくは犠牲として。
 それを人の都合で命を奪おうとは、人が人の死に不条理を噛み締めるその不条理を振りかざす、言いようのない愚かさではないか。
 男はそれが我慢できなかった。
 それゆえに、害獣とみなされた幻獣を救い出すのが彼の仕事になっていた。
 一年かけても、二年かけても、魂を売っても、片腕を失っても。

「……待てよ」
 馬の背からずり落ちる自分を支えられないまま、彼は声に出してつぶやいた。
 その直後、砂の中に身体が叩きつけられる。
 ──というよりも、自分の中ではただ落ちただけだった。
 あり余る砂のせいで、思いの外衝撃は軽かったのだ。もしかしたら神経が総バカになっているのかもしれないが、いまさら激痛に襲われても困るのでちょうどいい。
 これだけ体力を削がれたうえに隻腕では、起き上がるのも命懸けなのだが、じゃりじゃりする口からぺっぺっと唾を吐きながら、彼は顔を上げた。
「──!」
 真正面に、人間の日干しがあった。
 咄嗟に頭を過ぎったのは、煮干と烏賊(いか)、鰹節。
 ……当分この光景を思い出してしまって食べられそうにない。夢にも出てきそうだ。
 まいったまいったと心の中で頭をかきながら、吐き気を抑えて自分の身体をどうにか起こせば、その向こうにも、そのまた向こうにも、人が倒れていた。
 駱駝(らくだ)と思しき動物、色褪せた青布にくるまれた棺のような荷。ぱたぱたと音を立てて毒風にはためく隊商旗。

──禁域へ入るなら、十分気をつけなさい。少し前にも捜査局の警告を聞かない隊商が入って行ったというが……どうしただろうね。

 無責任な老人の憂い顔が記憶に甦る。
 男は力なくニヤリと笑って手元の砂を握り締めた。するとその手に、
「──?」
砂ではない何かが触れた。
「…………」
 しばらく固まった彼は、急いで砂を掘る。化石を発掘する考古学者のように。
 そしてそれはすぐに姿を現した。
 崩れかけた長大な身体を覆っているのは細かい鱗。開かれた瞳はもはや光を失い白く濁っている。蛇の干物だ。
「……バジリスク」
 彼の身長ほどはあるだろう幻の蛇が、とぐろを巻いて死んでいた。
 骨になっている部分もあるところを見ると、一日、二日前に死んだのではないだろう。
「やはりそうか」
 彼は蛇の死骸を撫でながら、何度もそうつぶやいた。
「そうか……」
 何度もつぶやきながら、蛇の隣へずるずると身を横たえてゆく。
 眠かったのだ。
 なにせここに入ってから、一睡もしていない。
 寝ればそれだけ前に進むのが遅れる、その分身体は毒に蝕まれる。
 彼は砂にまみれた旅装束の胸元に手をやり、小さな水晶を取り出した。彼が小声で囁くと、それは緑色に明滅した。
<──はい>
 幸運。時を待たず、水晶の向こうからあの男の声がした。
氷岐(ひき)だ」
 腹から出したはずの声はしわがれていて、自分でもよく聞き取れない。
<えぇ>
「バジリスクはすでに死んでいる」
 一文字口にするだけで息が荒れ、それだけ言うのが精一杯だった。
 不甲斐ない。
<分かりました>
「──…… っ」
 なんとか言葉をつなごうとした彼だったが、すぐにあきらめて水晶玉を放り出した。石に宿った緑の光は消えている。
 もう、通信水晶を使う力もないらしい。
 こちらを心配して連絡をし直してくるような相手でもない。
 彼は仰向けに寝転んで、暗い瘴気の空を見上げた。大きく息を吸う。
 しかしその手にまた砂ではないモノが当たった。
「…………」
 だるさを堪えて視線を動かす。

 そのかすれた視界に映ったのは、卵だった。

「まったく、ねぇ」
 軽く嘆息し、再び空へと目を戻した男。
 今度は外套のポケットに手をつっこみ、あちこち破けた羊皮紙と薄汚れたペンを取り出した。
 体の向きを変えるのも億劫なので、仰向けになったまま手の下に紙を置く。
──さて何から書いてやるか。
 あれだけあちこち軋んでいた身体が何も苦情を言ってこない。

 その静寂が、何よりありがたかった。


◆  ◇  ◆


「しかし今回は彼の独断専行ではありません」
 霜夜の告白に顔をこわばらせたのはフロストだけではない。
 クロフォードも口を半開きにしている。
「私が行かせました」
 張り詰めた空気の中、淡々と上司は言う。
「…………」
 そしてようやく、二人を振り返ってきた。
「貴方は、氷岐という男を知っていますか?」
 それも突然の疑問系で。
「氷岐……? 氷岐秋之(あきゆき)か?」
「そうです」
 協会に入って二年目のフロストには覚えのない名前だったが、クロフォードには馴染みがあったらしい。批判的な顔つきに不快さが足される。
「あの人はもう協会の人間ではないだろう。自分から辞めたんじゃなかったか?」
「そうですよ。ですが、どうも独自にあの地域のバジリスクを調査していたようでして」
「孤独に病んだカトブレパスに三年も付き合うわ、人食いラミアーを保護地区へ移すために片腕喰わせるわ、地獄の怪物アケローンに自分の魂を売って孤児の魂をもらってくるわ……どこまで自分勝手な人間なのかと半分面白がって見ていたが……あげくにバジリスクか」
「有毒幻獣の傍に一般人。焼き払われるかもしれない地に一般人。退避勧告に役人を一人派遣するくらいのことは、保護局というよりも人としての義務でしょう。見殺しにしたなどと明るみに出れば、協会に多少なりとも傷がつきます」
 正論のようにも聞こえるが、本当に妥当なのかはフロストには判断がつかなかった。
「しかし一般人とはいえ相手は氷岐秋之。普通の役人に彼を説得することなどできません。とはいえ一時彼の下に配属されていた雪丸京介ならばあるいは──」
「ミイラ取りがミイラになるぞ」
「雪丸は、世界が幻想1、現実9で出来ていると思っている男です。理想だけではどうにもならないことを誰よりもよく知っている。氷岐の言葉を全面肯定したとしても、彼に付いて行くことはありませんよ」
「あの地域は捜査局の管轄だ。規律と秩序を重んじるならば、まずウチに通報すべきだろうな。彼を行かせる前に」
「通報したら彼を通しましたか?」
「……あぁ通したとも。しかも護衛付きで、だ」
「それなら、そちらにお願いした方が良かったですね」
 上司は軽く言った。そして軽く続ける。
「しかし、貴方なら民間人ひとり──しかも元身内の分からず屋──、魔導の前には気にも留めないと思いまして」
 この人の、こういうところが敬遠されるのだ。
 他の人間が夢の中で言っている皮肉を(もしくは事実を)、本人を前にしてさえさらりと言ってのけてしまうようなところが。
 普通の人間がストレスで胃を痛める仕事を、片手間にやってしまうようなところが。
「無論、氷岐ひとり構うもんか」
 霜夜という人は、人を育てることには向いていない男なのだ。
 フロストは醒めた目で、無表情の上司を見つめた。
 別の方向からは、クロフォードの視線がその男に刺さっている。
「魔導は、人ひとりの命がどうのと議論しているレベルの問題ではないんだよ。理想論を振り回しているうちに地上から命すべてが……地上そのものがなくなる」
「そうすれば人間も少しは自分たちの愚かさに気付くでしょうね。“我々は愚かだ”などと分かりきったことを自慢げにつぶやいて悟った顔をしているだけでは、結局何も変わらないのだと」
「──霜夜」
 蒼の魔導師が大きく嘆息した。
「私は今日のこの会議のためにずっと本部に留まっていたんだよ。一刻も早くバジリスクの現地へ向かいたいのに、重要な会議だと言われたからだ。それなのに議題はこれだけなのかい?」
「しがない保護局にとって縄張りは非常に重要ですので」
「…………」
 クロフォード=レイヤーは回れ右をし、何も言わずに部屋を出て行った。
 扉の閉まる音は愛想の尽きた音。遠ざかる足音は硬質。部屋の中は余韻のない静けさ。

「フロスト。隣の部屋から通信水晶を」
 感想のひとつもないままに、命じられる。
 相変わらず、機械的な人だ。
「あの、水晶ならこの部屋にも……」
「ここのものは俺が壊した」
 やはり、そうだったのだ。
 こんな辺境に生身の伝令が走ってきたのは、この部屋の通信水晶が壊されていたからだったのだ。
 フロストが隣の空きを確認して水晶を取ってくると、一刻の猶予もないというように奪い取られる。
 机に置かれた石が緑に光り、人の声が聞こえた。
「今どこにいる」
<バジリスク。卵がある>
「クロフォードが出て行った。すぐにそこへ向かうつもりだ。急げ。あの男は本気でそこを焦土にする」
<分かってる>
 たったそれだけだった。
 それだけの会話で、上司は通信を切った。
 フロストには相手が誰だったのかも不明。流れからいけば氷岐秋之か雪丸京介どちらかなのだろうが、どちらかは分からないし、どちらだっていい。
 そもそも、保護局の縄張りとやらもどうだっていい。
 今ここにいることこそ彼にとって最大の謎だった。仕事だと言ってしまえばそれまでだが、それも何の意味もない仕事のような気がする。
「フロスト」
 ぼーっとしていた彼は上司に呼ばれて我に返った。
「は、はい」
 条件反射で返事をして、フロストは目を見張る。
 上司はやつれた顔で、椅子に全身を預けていた。
 血の気がなく、蒼い。両手両脚、糸が切れたように意思がない。
 喉が酸素を求めて喘いでいる。
 煙草を口にしようとしてできなかったのだろう、彼愛用の銘柄の箱が白い床に落ちていた。
 骨ばった指が、追いかけたままの形で何もかも諦めている。
「今日の午後は休む。明日もだ。伝えておいてくれ」
 そうとだけ言って男は目を閉じた。
「…………」
 そんなことを言われてもどうすればいいのか分からず、
「──霜夜さん」
「…………」
声をかけたが返事はない。
「疲れていらっしゃるなら、ご自宅に帰られた方が……」
 それでもしつこく言葉を被せると、
「動ければそうしているさ」
上司の目が薄く開かれた。
 細い切れ間からのぞく、疲労と眠気が色濃い目。
 滲んでくるものを一切隠せないでいる目。
 それは、フロストが今まで見た中で一番人間を感じさせる目だった。
 この人も自分と同じように生きているのだと、奇妙な安堵感が体中に広がってゆく。
 無性に叫びたい。手を取って、握り締めたい。
 この人と、誰よりもうまくやっていけそうな気がする。どうせこの一瞬だけだろうけど。
 そんなフロストの内情を知る由もなく、上司はどうにか床から煙草の箱を拾い上げ、一本に火をつけていた。紫煙を吐き出し、言う。
「お前もいつかあいつと仕事をするかもしれないから、教えておいてやる。あの男はな、被害者にも知られず人を殺すことができる」
「──え?」
「あいつに殺されても、殺された奴は殺されたことに気がつかない。何食わぬ顔で働くだけ働いて、家に帰って眠れば二度と起きることはない。数日後に遺体が見つかり、不審死は捜査局に報告される。そして事件は秘裏にあの男の手に渡り、迷宮に入ってお終いだ」
 フロストはしばし眉間にしわを寄せて口を開けていた。
 対して彼の上司は、聴衆を唸らせている手品師の如く楽しそうだ。
「……どんな魔術を……」
「さぁな」
 いい加減な調子で言われる。しかし次瞬、煙草の先の赤い火がずいっとこちらに向けられた。
「俺が明日死んでいても、お前は何も知らないふりをしろ。そうすれば生き延びられる。あいつはとんでもない奴だが莫迦でもない。自分を阻んだ張本人以外は殺さないはずだ」
「…………」
 突きつけられた煙草の煙は、滑らかな線を描いて上へと昇ってゆく。そして我が物顔で空気を汚してゆく。
 ここには空気清浄機なんてない。そもそも禁煙なのだ。
「それは……」
「今死んでいるかもしれないと思いながら話をするのは、さすがに厳しかった」
 自嘲混じりの苦笑を浮かべ、上司は天を仰ぐ。
「今だって死んでるかもしれないがな」
「死んでなんていませんよ」
 思わず口をついて出た。
 強すぎた口調に、眉を寄せ訝しげな色を浮かべてくる上司。
 フロストは自分に言い聞かせるように、もう一度繰り返した。
「死んでなんていませんよ」
 この部屋の中に、冴え渡る男、如才ない男なんてどこにもいなかった。
 そこにいるのは、疲労困憊でボロ切れのようになった役人がひとりだけだった。
 好きでもない仕事に追われ徹夜した人間より、くたびれている。命を削り過ぎて憔悴している。
 弱気で投げやりで敗者の態。
 これが自分の父親だと言われたら、幻滅する。授業参観には来るなと言うだろうし、最悪口をきかなくなるかもしれない。
 それくらいひどい様だ。
「貴方は、何のためにここまでしたんですか」
 フロストは訊いた。
 短い沈黙を挟んで、霜夜が煙を吐く。
「氷岐は協会を辞めたが、俺の教育係だったよしみで時々情報を流してくれていた。今回もそうだ。あそこはきな臭いと言っていた」
 この男の昇進が早いのは、そういう理由もあったのか。
 どこまでも要領がいい。
「俺が面倒なクロフォードをここに引き留めておければ、そして万事うまく行けば、幻獣に関しては捜査局より保護局の方が上だという証明ができる。規律が護られる」
「証明……」
「ついでに、人ひとり、幻獣一匹助けられるかもしれない」
「…………」
 男が身を起こし、ガラスの灰皿を引き寄せて火を消した。
 煙草は短くなり、用済みの灰が積み上がる。
 そして、
「人生は数学だ。誰もが何かを証明したがっている。証明するべきものを探している」
上司は低くそう言った。
 小さな灰の塊を睨みつけたまま。
 そして続ける。
「世界はクリームソーダに似ていると思わないか?」
 疑問系の独り言。
「現実はアイスクリームだ。幻想がソーダ。規律で冷やしてやらないと、現実は惰性に任せて溶けてゆく。幻想と混ざって跡形もなくなる」
 深々と椅子にもたれかかり、保護局の冷徹な常識は言った。
「俺はそんなクリームソーダは嫌だ。混ざるのは、互いが接している面だけでいい」



◆  ◇  ◆


 砂漠の地平に影が現れた。
 青白い炎をまとった馬を疾駆させる男と、その周囲を円を描きながら飛んでくる鳥。
 炎をまとったその赤い鳥が旋回するたび、男が羽織った薄いコートやら黒髪の端やらに火の粉が降りかかっている。それでも彼が燃えないのは、彼が彼自身に水をかけているからだ。
「砂漠で溺れる強者」
 目の下にクマをつくった彼が口の中で唱えると、頭上に大きな水球が現れる。そして水は弾け滝のように彼の痩身を流れ落ちる。
 炎が降り、空気を燃やし、毒を焼き、水は注がれ、その一連が幾度となく繰り返された。正常なる地と死せる大地との境界から、ずっと。ずっと。
 男にいつもの笑みはなく、濡れた黒髪は頬に張り付き、全身砂にまみれている。疲労にくすみ、やつれた顔の中で、ひたと前を見据えている目だけが強すぎる光を放っていた。
 彼は焦燥と恐怖に追い立てられるようにして、前へ前へと馬を急かす。
 紫色の軌跡が引かれては、やんわりと消える。
 中へ中へと人を誘い出口を閉ざす、魔女の森のように。
 だが突然、
「…………」
男がゆっくりと馬を止めた。
 彼の見つめる先では、青白い炎を揺らめかせている馬が一頭、何をするでもなく立っていた。こちらの気配に気付いたのか、首をもたげ軽く尾を振ってくる。
「いた」
 彼のそのつぶやきは、何に対してのものだったのか。
 際限なく広がる景色には、砂の中に列をなしている屍の群れ。その手前には大きな蛇の遺骸。そして更に手前で毒の空を仰ぎ埋もれている旅人。
 主を失ったまま剣呑とした顔をしている馬の周りには、それだけの空虚があった。
 死んだ大地の上に点在する乾いた死。
 男はのろのろと馬から降り、旅人に近付いた。
 主のいなくなった馬の背に、炎の鳥が止まる。
 男が足をもつれさせながら歩み寄り見下ろした人間の亡骸は、くすんだ黒の長髪に黒の旅装束姿だった。そして隻腕(せきわん)。顔には薄く砂が積もっている。満足げな半笑いものっている。
 彼は砂の上にすとんとひざを付いた。
 何色も顔に出さず、黙って骸を見下ろした。
 泣きもしなかったし、叫びもしなかった。呪詛も吐かなかった。
 しかし、
<雪丸>
しびれをきらした鳥が喉の奥で鳴くまで、それほどまでに長い時間、彼は無言だった。
「僕は──」
 優男の黒い目が鳥を振り返った。
 だが彼は遠くを見ていた。
「本気だ」
<見りゃ分かる>
「でもいつも足りない」
<人間が充分だったためしがあるか>
「…………」
 雪丸は返事をせずに、遺骸の横に転がっていた卵を掘り出した。
 すると、その隣に埋もれていた水晶が目に留まる。それは応えを求め緑色に光っていた。
 逡巡(しゅんじゅん)し応答すると、
<今どこにいる>
二酸化珪素(けいそ)の結晶から聞き飽きた声がした。
「バジリスク。卵がある」
 通信水晶の通信は逐一記録されているから、短く答える。
<クロフォードが出て行った。すぐにそこへ向かうつもりだ。急げ。あの男は本気でそこを焦土にする>
「分かってる」
 今、息をするたび肺に入るこの毒が魔導のものなのかバジリスクのものなのか。
 炎でどうにかなるものなのか。
 分からない。
 急げるだけ急がなければ、自分の命はおろか連れの命まで危険なのは明白だった。
 (いた)んでいる暇も、嘆いている暇もない。
 雪丸は水晶を投げ捨てると、目の前にある干からびた男の手を退け、下敷きになっていた羊皮紙を取り上げた。ミミズのはったような字で書かれた最期の報告書。
 読み終えると、彼は砂漠の更に奥を望み、言った。
 鳥に聞かせるために。
「ここには初めから毒があった。──軽率な予測をすれば、原因は捜査局が執着する魔導遺跡だ。村人たちが“禁域”として伝えていたものは、魔導遺跡による汚染だったんだよ。しかし魔術師でさえそれに気付くことは難しい。捜査局でさえ毒が広がりだしてから遺跡があることに気が付いたんだから、まして一般人に分かるわけがない。実際に人が死んでいけばいくほど、得体の知れない禁域への怖れは大きくなる。何かが人を殺している。何かが草木を殺している。何かが大地を殺している何かが──」
<それで生まれたのがバジリスクか>
「バジリスクがいたから禁域が生まれたんじゃない。禁域があったからバジリスクが生まれたんだ」
 人は、不明を怖れる。
 どうにかして、分かるものへと変換しようとする。
「バジリスクが実体化して動き回れば必然、毒に侵された地域は広がる。禁域の昔話すら伝わっていないあいつの故郷を呑み込もうとするまで」
 幻は、人から生まれる。
「しかしバジリスクは禁域で生まれたわけだから、その時すでにこの子の身体は魔導に毒されていたんだよ。生まれながら蝕まれていた」
 雪丸が朽ちた蛇を見やった。
「魔導を生んだのも人間。バジリスクを生んだのも人間。つまり、旅人を殺したのも辿れば人間。バジリスクを殺したのも人間。この地を死なせたのも人間」
<それを明るみにしたのも人間だし、バジリスクの卵を焼き討ちから助けるのも人間だ。魔導の後始末をしようとしてるのも>
 鳥が付け加える。
「分かってる分かってる」
 立ち上がった魔術師は、鈍い微笑で空を払った。
 まとわりつく負の感情を振り切るように。
「降参なんてしない」
 それは誰に言った言葉だったのか。
 彼は濁った空を見上げた。

 分かっている。分かっている。
 寡黙に情熱的な男(氷岐秋之)の欠点は、他人の心情なんてこれっぽっちも気にしていないことだった。好き勝手に自分の命を浪費していた。
 “死んでもいい”
 命を懸けるのは自由だ。
 だがそれによって痛みを抱える人間もいる。何ヶ月も音信不通になったあげく片腕を失って帰ってこられた人間の身にもなって欲しい。
 魔術師なんて、特別なものじゃない。
 他よりただ少し幻想を巧みに操れるだけの、人間だ。
 心臓を射抜かれれば、(くび)の骨を折られれば、毒に侵されれば、簡単に落命する。

 彼は砂が舞い上がる突風の中、両手を広げた。

「いってらっしゃい」



◆  ◇  ◆



──数週後。

「雪丸からの報告書が届いたよ。随分となりふり構わない真似をしたな」
「たまには捜査局の鼻をあかしてやるのもいいかと思いまして」
「雪丸の報告書を読んだクロフォードが血相変えていたそうだ」
「そうでしょうね」
「彼は魔導を根絶することに命を懸けている。今まで幻獣の仕業だと思っていたものが実は魔導で、幻獣を生み、殺し、被害を拡大させていたとなれば、あの男もさすがに焦っただろう」
「彼は魔導で人が死ぬことが何より怖……嫌いなようですから」
「現実問題、魔導は非常に厄介だ」
「しかしクロフォード=レイヤーを焦らせるには大きな犠牲でした」
「氷岐か」
「はい」
「京介は」
「無事です」
 協会本部の上層階。整然とした街が一望できる広い部屋で、デスクを挟み三人の男が対峙していた。
 立っている霜夜とフロスト。
 ご立派な窓を背に足を組んでいる男は、その上司ということになる。
「氷岐がバジリスクを助けたがっていた。お前は捜査局の動きを知っていた。お前は氷岐に通信水晶を送り、あの地に入った彼の動きを把握する一方、彼の命が尽きることを想定して雪丸を近くに呼び寄せた。もちろん、氷岐が明らかにしたものを持ち帰らせるために、だ。そして魔導に執着する厄介なクロフォードを“重要会議”の名目で本部に留めた」
 上司の上司は紳士だ。表面は。
「結果には満足かね」
 芯から紳士では、協会の中でこの地位には昇れない。
「幻獣は保護局という規律の正しさは証明されました。一代目のバジリスクが死に、溢れた人々の恐怖は新たなバジリスクを生みましたが、その命を保護することもできました。あの地域における毒の真実も明らかになったものと思っています」
 大きな窓から差し込む朝の光が、霜夜の冷貌にくっきりと陰影を造っている。
「君の故郷も救われた」
「そういうことになりますね」
 不自然な沈黙が落ちた。
 先にそれを破ったのは紳士。
「京介はシムルグを連れているそうだな?」
「はい」
「それが功を奏してあの地から生還できたとも聞いているが、二人を共に行かせるという手はなかったのかね? そうすればシムルグの炎で氷岐も助かったかもしれない」
 その言葉を尊重するように一拍置いて、しかし霜夜は首を振る。
「炎の問題ではありません。日数の問題です。雪丸は直線で氷岐の元へ向かった。氷岐は聞き込みをしながらその目で状況を確かめながら蛇行して、たまたまバジリスクの死骸へ辿り着いた。それに……」
「それに?」
「雪丸と氷岐では考え方が違います。氷岐は幻獣のためなら死んでもいいと思っています。雪丸はそう思いながら一方で死ぬわけにはいかないとも思っています」
 上品な白髪の御仁は片眉を動かしただけだった。
 彼はデスクに広げた報告書に目を落とし、わざとらしく唸った。
 時が過ぎるのをこれでもかと待ち、もったいぶってようやく言う。
「霜夜。君はいくつか規律を破った。民間人に通信水晶を渡したこと、捜査局の管轄地へ局員を無断で送ったこと、幻獣保護に規定の手続きを踏まなかったこと。──他にあったかな? ともかく、他人に規律を守らせる者としてはあるまじき行為だ」
「そうですね」
「そして氷岐が死んだ」
「はい」
 フロストが流し見た上司は、好戦的なほど真っ直ぐに相手を見返していた。
「減給」
「──申し訳ありませんでした」



 おエライ御方の部屋を辞しエレベーターに乗り込むと、上司が早速煙草に火を点けた。
「禁煙ですよ」
 言っても聞くわけがない。
 煙ってゆく箱の中、仕方なくフロストが数字のカウントダウンを見つめていると、橙色の光が「10」で停止する。
 扉が開いて乗ってきたのは、可笑しな二人連れだった。
「検査ってのは、拷問と同じだね」
「まったくまったく」
 片方は存在そのものが間延びしている優男。もう一方はなんでこんなところにという、鮮やかな赤い髪の少年。
 扉が閉まり、再び数字が動き出す。
「しかしまぁ、水浸し砂まみれ火傷だらけになって連日連夜の完徹飯抜き、よくやるよなぁお前も。っていうかよく死なねぇな。もしかして知らない間に死んでるけど、アッチの世界から返品されてんじゃねぇの?」
「君だって同じことやったじゃない」
「俺は人間じゃねぇもんよ」
 ふたりの会話を背景に、フロストは上司に向き直った。
「霜夜さん」
 気持ちだけ。
 ずっと訊きたかったのだ。けれど、正面から真面目に訊く勇気はない。
「どうして命を懸けられるんですか」
「…………」
 煙の動く気配がして上目遣いをすると、上司の涼しい目がこちらを見下ろしていた。
 泥に塗れるという意味さえ知らないフリをした、目。
 しかしその口は真逆のことを言ってくる。
「お前は、本気になったことがないか?」
「え?」
 突然の問いかけに、声がつまった。思わずうつむく。
 ……いや。
 つまったのはそれだけの理由じゃないのだろう。
「何でもいいから本気になってみろ。そうすれば剣の握り方くらい分かるようになる」
 人生は数学。気の長い証明。何を証明すればいいのかも分からないまま、黒板の前に立たされる。
「怖がるな。怖がればそれがお前の世界のすべてになる」
 フロストが再び顔をあげた時、すでに上司は彼から目を逸らしていた。

 数字がの「1」が光り、扉がゆっくりと開く。
 無色透明な空気の中、二人連れは本部の出口へ、フロストたちは本部の奥へ。
 業務に戻る二人の魔術師の背後、呑気な会話が小さくなってゆく。

「ねぇシムルグ、せっかくだからクリームソーダ食べてこうか」
「俺はもっと昼食的なものが食べたい」

 扉の閉まる音は始まりの音。遠ざかる足音は軽快。廊下には余韻を包む静けさ。



THE END



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 あとがき
 これだけ間空けといて変化球かよ! なかんじでスミマセン。雪丸にはカウントヒットのリクエストもいただいていたのですが、先にネタが出来ていたこちらを書き上げました。
 ちなみに、通信水晶は本来固定電話のような役割を果たしています。魔術師と名のつく者なら大抵は使えるわけです。携帯電話として使うには、ある一定以上の魔術師でなければいけません。


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