幻獣保護局 雪丸京介 第五話           

「天空の雄鹿」

 

   

そこからはいつでも悲しげな鳴き声が聞こえる。

魔導協会幻獣保護局。
その敷地内にある保護施設。

 
通りかかる者など飼育職員以外にはほとんどいないのだが、悲痛な声は訴え続けている。

弱き人の心を煽りながら。

“──帰りたい!” “──帰りたい!!”

家ひとつぶんくらいはあるだろう檻の中には、めいっぱいの岩盤。
鉱山の岩盤である。
そして鳴き声はその中から絶えることなく続く。
弱き人の心と共鳴しながら。

“──私達を天へ帰せ!” “──……帰りたい!”



◇  ◇  ◇  ◇  ◇



「もうイヤ! ホントは私ってダメな奴だったのね……」

 
魔導協会、幻獣保護局の本館。その裏手、誰の目にもつかないような場所で、彼女はふうっと大きなため息をついた。

そして遠くを見つめる。

「もう辞めたい」

彼女の視線の先には、暗澹(あんたん)たる未来がぽっかり口を開けて待っている。
奈落のような未来が、彼女の墜落を待っている。
もともと期待なんかしていなかったし、希望だって抱いていなかった。
けれど……

──こんなはずじゃなかった!

彼女は灰色の壁に両手を打ちつけた。
春だというのに冷たく曇った空が、さらに彼女の胸を凍らせる。

魔術師にとって、魔導協会に勤務するということは一種の名誉だ。
本人達の自覚はどうだか知らないが、協会の公式職には一応魔術エリートと名の付く者達が集う。
彼女もそうした集団の一員として、つい先日新人配属された。
この幻獣保護局に。

だが現実はどうだろう。
さっきまで“できる”と信じていたことが何ひとつ上手くできない。
それなのに、上は新人だろうと容赦なく使ってくる。

エリートなんだからそれくらいできて当たり前だろう、格式ある魔導協会を思い知らせてやろう、誰か生贄として辞めさせて、協会の仕事の難しさを世に広めてやろう、そう言わんばかりに。

「私は……! 結局何にもできない役立たずなんだわ!」

 
頬を流れる涙は、もはや彼女の制御など効かない。
悔恨、悲哀、怒り、ワケの分からない感情の波にさらわれて、彼女は冷たい壁を
叩き続けた。
手が痛い。
しかしそれ以上に痛い場所があった。
 
「ここで何がしたいわけでもなかった……こんなことなら役人になんてならなきゃ良かった! ホントに私ってダメ!!」

「そんなことありませんよ」

「────!!」

突然背後から降った声に、彼女の四肢が強張る。

──聞かれてた!?

これだけ打ちのめされていてもなお、自分の中にこんなプライドが残っているとは。
彼女は奇妙な怒りを胸に、キッと振り返った。

真っ先に彼女の目に飛び込んだのは、柔らかな笑み。
よれよれの作業服。
痩身の、箒とちりとりを持った、おじ……いさん。
白髪混じりで、でもおじいさんと言うのは何か語弊があるように思えた。

いまいち年が分からない人。

世間的にはまだおじさんだろうか、その人が曖昧な微笑みで諭してくる。

「誰だって始めは何もできないものですよ、そんなに自分を咎めるものじゃありません」

「あなたは……、用務員さん?」

「いいえ。飼育員ですよ、そこの幻獣保護施設の、ね」

彼が示した方は、電気施設、資料館、セキュリティ管理施設、そんな建物群の更に奥。
全くもって誰も行かないような方向であった。
無論、指の方向には人っ子ひとりいない。

人間が誰もいない、しかし綿密に計算し尽くされて造られた道、建物。木々。草。
何もかもが造られた様相を呈している。
整っているようで、反則的な平穏のなさ。
生気を奪われそうなまでの規則性。
胸が悪くなる協会の敷地。

彼女は、無理矢理視線を用務員さん……じゃない、飼育員さんに戻した。

「幻獣は保護地区で飼われているって聞きましたけど」

「保護地区では飼えない子もいるんだよ」

「へぇ……」

「君より先輩でも知らない人だって大勢いるけどね」

「……そうですね」

彼女の部署は“実態調査”を主とするところである。
数報告や今後の計算、地域の傾向などを調査する機関。保護には直接関わっていないとも言える。
とはいえ、その部署がなければ始まらないことも事実であるが。

「一緒に来てみるかい?」

問われ、彼女は即座に首を縦に振っていた。

「はい」

その答え、まさにそれが全ての分かれ目であったのだ。
彼女の道を定める分かれ目。



◇  ◇  ◇  ◇  ◇



「おや、京介。来ていたのか。具合はどうだい?」

「んー、まだまだ本調子ではないけどね。でも大丈夫」

これまたいけ好かない雰囲気をした保護施設。ごつごつコンクリートの味も素っ気もない建物。
そんなところなのに先客がいた。
施設の前でぼーっと突っ立っているその男に、飼育員さんは慣れたように話し掛ける。

「寝てなきゃいけないんじゃないのかい?」

「寝てろって口ウルサク言われてるけどねェ。あんまり寝てばかりだと筋肉動かなくなっちゃうでしょ? ホラ、僕これでも一応戦闘要員だから〜」

血の気のない白い顔。ふわふわとした漆黒のクセっ毛。真っ直ぐで、しかし病的に眠そうな双眸。
猫のようにしなやかな長身の体躯。そして軽く羽織った白いスプリングコート。
極めつけは、彼を取り巻く不思議な和やかさ。
灰色の空の下、彼は吹けば飛ぶような笑みを浮べて立っていた。

──私、この人知ってる……

「戦闘要員には違いないだろうが京介、あんまり無茶なことするんじゃないぞ」

「分かってるよー。死ぬようなことはしないから」

この間無茶な事件をやらかし、死にかけたという魔術師だ。
なんでもドードー鳥を無断でここへ持ち帰ろうと協会と対立したあげく、“ミツリョウシャ”とかいう輩に撃たれたんだとか。長い間昏睡状態だったと聞いている。

名は……確か“雪丸京介”。

──魔術の能力は長けているはずなのに、ほとんど命令どおりに使おうとしない。
大人しく協会に追従しているようにみえて、微妙に我を通す。
誰にでも愛想はいいが、自分の領域に決して他人をいれない──

彼女の上司は苦々しく彼をそう表現していた。

“仕事はまぁまぁこなすが、ありゃ人間的にどうなのかね。彼はとりあえず古株だが、君達、目標とする人物はちゃんと見極めるように”

「こっちもなかなか忙しくてねぇ、見舞いに行けなくてすまなかったなぁ」

「見舞いなんていいんだよ。シムルグが何かと世話焼いてくれたしね」

そう肩を揺らして笑う彼は、上司が言うほど問題児には見えない。
古株だというが、それほどの年にも見えない。いいとこ20代後半だ。

「……そちらは?」

彼の視線がこちらに向く。
穏やかな、猫目。

「あ、あの、今期新しく保護局に参りました、アライン=コーズと申します」

彼女は慌ててお辞儀をした。

「新人さんかぁ。今は大変な時期だろうね〜」

彼は施設の壁に背を預けるようにしながら腕組みをした。
真っ白なコートが汚れることなどお構いなしのよう。

「ここに入る前はエリートで、ここに入ったら急降下。奈落の底へ突き落とされるんだ。たまったもんじゃないよなぁ。オマケにデキのいい奴は、してやったりとばかりに自慢するんだろう? そしてもう誰も君を保護してくれはしない。いきなりの完全なる大人扱い。……違うかい?」

「…………」

「図星って顔してるね。きっと全部当たりなんだ」

彼は生気の足りない蒼白の顔でおどけてきた。

「…………」

「そりゃそうさ、僕だって新人だった頃があるんだからね。……あぁ、ごめん」

アラインが黙ったままでいると、彼はごそごそと胸ポケットを探り、一紙片を彼女に渡した。

──名刺

『魔導協会 外遊部門 幻獣保護局 雪丸京介』

「きっと僕は、上の人に悪い例って引き合いにだされたと思うんだけど」

雪のように白い紙っぺらには、確かにその人の名が記されていた。
彼はにこにこと笑いながら続ける。

「僕もココが好きじゃないから、ココにいることは少ないんだよね。次から次へと出張に出かけて逃げてるんだ。局には僕を幻獣って呼ぶ輩もいるみたいだねぇ? おじさん」

「上の方は猛獣とでも思ってるんじゃないかい?」

「そうかも」

雪丸の笑い声はあまりにも朗らかすぎるようにも聞こえる。
綺麗な笑いの見本のよう。
思わず見とれてしまうほどに、それは整った表情だった。

刹那、その笑顔が微妙に揺れた。
静かな湖面に、ひと雫の露が波紋を描くように。
怪訝に感じたアラインは彼の視線の方を向く。

そこには──

「おや、雪丸君。こんなところで何をしているんです?」

雪丸と同じ黒髪をオールバックに整え、隙の無いブラックスーツをまとい、闇に隠されたナイフのような、男。背は雪丸よりも高いだろうか。
高慢そうなお偉方を仰々しく引き連れて、こちらへと向かってくる。

「療養だよ。色々と受けた傷を癒しにね。……そちらは何をしに?」

そのいけ好かない男は、雪丸の知り合いらしかった。

「この方たちは協会上層部の方々、学者方、そして協会魔術師様方ですよ。」

硬質の声は役人そのもの。
雪丸をジロリと牽制する目つきも板についている。
地位の階段を最短距離で駆け上がるタイプの男だ。

「こんな辺鄙なところにわざわざどうも。霜夜(そうや)、一体ここに何の用があるんだい? 飼育員のおじさん、いつの間にか幻獣に芸でも仕込んだの? 後ろの方々が喜ぶような」

「悪いな、雪丸君。今日は君と遊んでいるヒマはない。いつも不在の君が久しぶりに長居しているというのに、残念な限りだ」

その男の名は霜夜というらしい。
寒空が皮肉に似合う男だ。
雪丸の穏やかな空気を完全に殺している。ある意味脅威。

「飼育員さん、鍵はありますね?」

「──はい」

「よろしい」

「ねぇ、何をするんだい?」

しつこい雪丸に、霜夜が片眉を上げた。

「明日になれば分かるさ。でも今はもう消えろ。さもないと──」

「首を切る?」

一瞬、雪丸の目が凍ったように見えたのは気のせいだろうか。

「……どのみち、君の部署には関係ないことだ。そこのお嬢ちゃんを連れて局へ戻りな」

「そうキリキリしなくたっていいじゃないかぁ。やましいことでもあるの?」

「君はいつでも面倒をおこす。怪我人は怪我人らしく寝ていろ」

「僕が面倒をおこす? ──とんでもない」

雪丸はまったくもって遺憾だとばかりに両手をぶんぶん振った。

「僕は平穏でいたいんだよ。だけど協会のごく一部の人が僕の神経を逆撫でするのさ! ……竜の逆鱗に触れるってやつかな?」

自分を竜に例えてみせた彼は、自分の言葉の意図にさえ気づいていないような平然とした顔をし、にっこりと全員に向かって笑いかけた。

と、霜夜の腕がすっと上がる。
美しく切れ目のない動きだった。

「雪丸。いい加減にしろ」

霜夜の手に握られていたもの。雪丸の眉間に突きつけられたもの。

「今の君にはここで死ぬだけの理由がある」

「そうかな?」

アラインは背筋が凍った。
霜夜の手にした切り札は、協会自身が一般に所持を禁止しているもの。
魔術師が持つことだって渋っていたはず。非協会員魔術師の間では横行しているらしいけれど、協会魔術師でそれを手にできる者はほんの一握り。
執行部くらいしかないはずなのだが……。

「無駄だと思うよ」

雪丸は軽く笑い飛ばす。
けれど──あの人はつい先日それに倒れたばかり。

そう、霜夜の手には、銃。
小型の、しかし充分に殺傷能力はあるはず。

「無駄かどうか試してみるか?」

「やめときなよ」

雪丸はひょいっと両眉を上げてみせ、口の端を吊り上げた。
俗に言う“ニヤリ”。

「霜夜。君の後ろにいるお偉いさんを殺したくなかったら、止めといた方がいいよ」

「…………」

「奇襲なら確かにそれは僕だって殺せるだろうさ。だけどそんな風に突きつけてたんじゃダメだね。僕はそれを暴発させて君を殺すこともできる。暴発の弾を後ろの方々に命中させることもできる。君が引き金を引く前に、ね」

「…………」

「試してみる?掛け金は君と君の後ろ全員の命。高いよ?」

「お前にそれができるのか?」

「だからできるって……」

「お前に殺しができるのか?」

「…………」

黙り込むのは雪丸の番だった。

「お前が、上司を殺せるのか?」

「…………」

長い沈黙。

「……分かったよ」

表情のない笑みを消さず、しかし雪丸は両手をあげた降参ポーズ。
一歩後ろに下がった。

「でももし僕の気に入らないことをしたら──」

「したら?」

“許さないからね”

きっと彼はそう付け足したかったのだろうと思う。
それでも、彼はそこまで言わずに言葉を切った。

そして──優しげな目をしたまま、なのに口をぐっと引き結んで、
雪丸は彼らに背を向けたのだった。



◇  ◇  ◇  ◇  ◇



──結局、協会の飼い犬じゃない

それは自分も同じことなのだが……無性に腹が立つ。

問題児「雪丸京介」といえど、所詮は組織の一職員。
面と向かって上に喰いつくほど英雄肌ではない、保身を考えずにはいられない。
そういうわけだ。

あの人ならば身を賭して信念を貫くものと信じていた自分が情けない。
失望? 雪丸京介への?

否。違う。

彼女は昔、自分はきっとすごい事ができると信じていた。
とても有名になってやる、偉大なことを成し遂げてやるのだと未来を描いていた。
だが年月が経つにつれ……道は狭くなった。
それは知らぬ間に「夢」を捨ててきてしまったということなのだろうか。

昔は絵本の中の英雄に憧れた。そして自分もなるのだと意気込んだ。
今でもその憧れは変わらない。

けれど、彼女はもう知っている。知りたくなくて目を背けているが、知っている。
彼女はどんどん夢から離れている。英雄から離れている。
どうしようもない現実に追い込まれている。

そして──彼女はその現実を打破できるほどに、周りのモノを捨てきれない。
全てを捨てる覚悟ならば、どんな無茶だってできよう。
全ての価値を知らなければ、どんな破天荒だってできよう。

彼女は捨てることができない。彼女は価値を知っている。

「だから私は、彼に私の望む英雄を演じて欲しかったんだわ」

アラインはひとり、寮の部屋でランプも付けずにつぶやいた。
徒労感が全身を包んでいて、何もする気になれない。
そして、外はもう暗い。
濃紺のベールがかかった外界は、草木が眠り、鳥が眠り、静寂が支配している。

「私は……どうしようもない奴ね」

自分にできないことを全部あの人に押し付けようとしていた。
彼なら上に真正面からぶつかってくれるだろうと、勝手に期待していた。
自分にできもしないのに。

「静かね。今日はあの声、聞こえない」

“──帰りたい!”  “私たちを天へ帰せ!”

闇夜をぬって響くかすかな声。

“礼ならばいくらでもだそう!” “このままではダメになってしまう!”
“我々を天へ帰してくれ!” “──帰してくれ!”“お願いだから帰してくれ!”

どこからか聞こえる悲痛な望郷の叫び。
まるで彼女の気持ちを代弁しているかのような。
それが今夜は聞こえない。
彼女は窓を開け、外へと身体の乗り出した。

「聞こえない……」

月も、星も見えない夜。春だといってもまだ夜の風は冷たい。
嵐の前の森の如く、外は静謐。
冴え渡った空気と均一な闇。
物音ひとつしない世界を前にして、彼女は奇妙な胸騒ぎを感じていた。

「…………」



◇  ◇  ◇  ◇  ◇



「いない! 何もいない!」

アラインは翌朝すぐにあの施設へ走った。

「いない、いない、いない!!!」

何もいない。

檻の中には粉々になった岩々が散乱。そして壁は高音で焼かれたらしく焦げ目がついている。
頑丈な檻でさえ熱によってかひしゃげている箇所もある。
そして開いたままキーキー軋んでいる檻の扉。

「なんで!? どーゆーこと!? なんで何もいないの!? これは何!?」

ここは本当に保護施設なんだろうか。
彼女は迷ってもう一度プレートを見直した。
だがそこは紛れもなく保護施設。

「ホントに……どういうこと?」

唯一答えてくれそうな飼育員のおじさんの姿もない。
この中にいた幻獣は、この檻をも溶かした炎によって焼かれてしまった……

そういうこと?

彼女はぺたんと冷たいコンクリートに座り込む。

「まさかそんなこと」

「やられた」

いきなり背後で響いたその声は穏やかで優しかったが、深く手負っていた。

「──やられた」

聞こえているのに繰り返す。

「…………」

アラインは無言でその顔を見上げた。
予想どおりの人がそこにいる。

黒いクセっ毛。端正な血の気なき白皙。
けれどその顔にはいつものような笑みはない。
双眸に映っているのは悔恨か、悲哀か、それとも怒りか。

「どういう、ことなんですか」

アラインは震える声を絞り出した。

「これは、何なのですか」

「…………」

彼は目を合わそうとしない。
彼の握り締めた拳は白く、柳眉を険しくして凝視するのは施設の中のただ一点。
開かれた檻の扉。

「何があったって言うんですか!!」

「…………」

彼は答えない。
歯軋りが聞こえるほどに奥歯を噛んでいる。そして無意識だろうか、彼の右手が

自身のコート、その左胸あたりを掴んだ。

「僕は……」

流れた言葉は冥府の旋律のように静か。だがそれは聞くも耐えない悲しみ。

「僕は、こんな小さな怪我をして、少し臆病になったみたいだ」

「雪丸さん?」

「そのせいで、大事な人を傷つけてしまった。僕の怪我は治るのに、あの人の怪我は治らない!」

彼は上を仰いで両手で顔を覆った。

「闘うことを恐れる魔術師に何の価値がある。自身が傷つくことを恐れて何を守れる!?」

「──君はまず規則を守るべきなんです」

「うるさいよ!」

雪丸が叫んだ瞬間、彼の後ろの地面が消し飛んだ。

「規則を守ってあんたたちみたいになるくらいなら、規則を破ってクビになった方がマシさ!」

今度は保護施設の屋根が粉々に砕け散る。
この男は呪文なしで魔術が扱えるのだろうか、アラインは頭をかばいながら施設の中から避難。

奥にいたために分からなかったが、雪丸に声を掛けたのはあの霜夜とかいう役人らしい。
ブルーストライプのシャツにブラックスーツ。酷薄そうな切れ長の目が、怜悧に笑いながら雪丸の激昂を眺めている。

「僕は探偵じゃないけど、あんた達のやることくらいは見当がつく。……あんた達、ここにいた子を、ここで保護していた“天空の雄鹿”を焼き殺したね」

普段怒ることのない人間が怒った時。
それは何にも増して恐いという。
まさに今の雪丸はそれであった。

「だから何だって言うんだ? 駆除の理由が聞きたければ教えてやろうか」

「理由。理由、ね」

雪丸がフンと鼻で笑った。

“天空の雄鹿”

そのくらいはアラインでさえ知っている。
鉱山の岩盤の中に閉じ込められているという、金色の毛皮をもった幻獣。
それが“天空の雄鹿”だ。
もともとは太陽神の使いであったというが、故あって鉱山に閉じ込められてしまったのだという。彼らは非常に天へと帰りたがっており、機会あるごとに岩盤の奥から工夫たちを誘う。

“金でも銀でもくれてやる。だからここを砕け。ここを開けろ。私たちを天へ帰せ”

彼らは人の気配をよく察知し、望郷の嘆きを繰り返す。

“──帰せ!” “私たちを天へ帰してくれ!”

けれど、財宝に目がくらんでかそれとも彼らへの純粋な同情のためか。
一度岩盤を砕き割り、彼らを外に出したが最後、鉱山は死の山と化す。
“天空の雄鹿”が陽光を浴びた時……美しき彼らの姿は一瞬にして溶け、その黒い残骸は疫病をもたらす死神となってしまうのだ。その鉱山は死人の山となる。

「すべては心弱き魔術師のせいさ。君もよく知っているはずだけどね? 雪丸君。ここでの厳しい試練の数々、新人には並みの精神力じゃあ耐えられない。……あの幻獣の望郷の嘆きは、失望と疲労が重なった魔術師たちをさらに奈落へと追い落とすんだ。私も君も、奴等の声に共鳴して身を滅ぼした魔術師を幾人も見てきたじゃないか」

「どうせ学者が意見書でも出したんだろう?」

<帰りたい> “帰せ、私たちを帰せ”

何処へ? 何時へ?

<昔に、家に帰りたい> “帰してくれ! 天へ帰してくれ!”

「全員一致の意見だった。あの幻獣は害獣だ、とね。若い魔術師にとってあいつらはマイナスにしかならない。弱い心をさらに弱くして蝕む。魔術師だけじゃない、あいつらはどこへ移しても人の心を病ます」

「そして鍵を飼育員のおじさんに開けさせた」

「疫病の件は心配ない。陽光に当たって変化するまえに魔術師の炎で浄化した」

<帰りたい。もうこんなところにいるのはイヤ>

“帰りたい……明るい天へ帰りたい”

何故?

<もう一度夢を見させて! 夢見られる頃へ帰して!>

“私達はここにいるべきようなものではない! ここは暗すぎる!”

「どうしておじさんに開けさせたんだ」

本当に雪丸京介という人間がしゃべったんだろうか……それは、そう思うほどに憎悪のこもった響きだった。
地獄の底から世界を呪う者の如き憎悪。

──大事な人を傷つけた……彼の言葉はそういう意味だったのか。

アラインは今更になって分かった。

「あんた達の決定にも理由にも破綻はないさ! どこにもね! けど、保護した幻獣をこっちの勝手な理由で駆除するだなんて保護局の名が泣くよ! あの子たちを駆除したことも、その理由も、僕は気に入らないけどね。あんた達に情はない。あんた達は合理的にしか動かない。それは僕だって分かってるんだ。それが協会の役目でもあるんだから! ──だけど!」

「…………」

霜夜の後ろの地面が派手にえぐれる。
だがその冷徹男は眉ひとつ動かさない。

「あんた達はわざわざおじさんを傷つけた! あんた達にそんな権利はないはずだね? あんなに世話してたおじさんに、駆除の加担なんてさせなくたっていいじゃないか」

雪丸の猫のような瞳に映っていたものは何だったのだろう。
彼は目の前の霜夜を凝視しながら、けれどどこか違うところをにらみつけていた。
そして再び左胸を押さえ、据えられた双眸を細くする。

「ダメだね、僕は選択を間違えた。一度死ぬ目にあって、死を近くに感じすぎた。いつもみたいに無謀なことができなくなってた。臆病になってた、──あの時全員消し飛ばしてしまえばよかったんだ、ねぇ霜夜。だから僕はいつまでたっても夢見の理想屋だって君に言われるんだ。僕の首も命も投げ出して、あの時全員消してしまえば、少なくともおじさんを傷つけることはなかった」

「そう言うと思ったよ」

霜夜が構えた。

「だから……」

「だから僕が上にしっぺ返しをする前に叩きのめして来いって命令されたんだろ」

言い放ち、雪丸は左手で印を結び右手を振り上げた。

「─────なっ!!」

アラインはあまりの大音響に思いっきり耳を塞ぐ。

雷。
立っていられないほどの地鳴り、肌に響く空気の振動。
あまりの凄さに視界が揺れる。
地面が揺れ、空気が揺れ、全てが揺れる。

稲妻の閃光はすべてを焼き尽くすかのごとくまばゆく、一瞬にして世界を飲む。
爆風と轟音。

彼女は耳を押さえ、目を閉じてその場にへたりこんだ。

けれど脳裏からは彼の顔が消えない。
氷ついた柊のような雪丸の顔が。険しい悲しみに沈んだ彼の顔が。

「僕を相手にするなら構えるなって教えておいたのに」

雪丸は、倒れている霜夜の身体を足でつっついている。

「あの、雪丸先輩、その人死んじゃったんですか?」

「……口ではどう言ってみても、やっぱり僕は夢見の理想屋だよ。殺せやしない。……局内で唯一の同期だからね。雷を至近で喰らって気絶してるだけさ」

その顔はいつもどおり。その言葉も飄々としている。

やることはやった。

そういうことだろうか。

「飼育員のおじさん、どこへ行ってしまったんでしょう」

「たぶん、もうこの街にはいないよ」

アラインは言外に雪丸の声を聞いた。

──許さない

「霜夜は片付けたし。いつまでもここにいたってしょうがない。君ももうすぐ勤務時間だろう?」

気が付けば、今日は昨日とうって変わって暖かい春陽気。
眩しいまでの陽光と、我関せずに広がる蒼空。
施設のまわりに咲き誇るタンポポの群れ。

霜夜の周りが円状にえぐれていること。
ところどころ焼け焦げていること。
保護施設が倒壊していること。
それらを視界から外せば、こんなにのどかで綺麗な景色は今まで見たこともない。
そんな絵本のような世界の中、雪丸のテノールが吟遊詩人のように歌う。

「幻獣はほとんどがみな、人の心が創り出したもの。“天空の雄鹿”だって例外じゃなく、ね。あの子たちは人間が自らの罪を逃れるために生みだした魔物なのさ。財を求めて山を掘り、あまりの無法ぶりに手の付けられなくなる鉱毒。そのすべての言い訳があの子たちを生み出したんだ。自らの咎で失った命を、“天空の雄鹿”のせいにした。財を求めたのはあの子たちが惑わしたから。みなが次々死んでいったのはあの子たちが陽光にあたり、疫病の源と化したから。……よくできたもんだろう」

彼は陽光に目を細め、肩をすくめた。思い出したようにコートの煤を払う。
相変わらず、ふわふわした人だ。
そんな彼にアラインは告げた。

「私、ここ辞めようかと思います」

「──どうして?」

怒りの嵐はどこへやら。
彼の顔には偽りない笑顔。
すべてを忘れたかのような笑顔。
アラインを真っ直ぐ見つめて、タンポポの綿毛のように微笑んでいる。

──彼には春がよく似合う

「同類になるのが嫌なんです。“役人”になってしまうのが嫌なんです。偽善者みたいに聞こえるかもしれませんけど、エリート面して法律と書類と権力と、そんなものに縛られてあんな人たちと一緒になってしまうのは嫌なんです」

あんな人たち……飼育員のおじさんを傷つけ、そして雪丸をも傷つけた人たち。

「協会に失望した?」

「はい。……それと自分に。私も“天空の雄鹿”と共鳴しそうになった弱い心の持ち主です。私のせいでおじさんが傷ついたも同然……。私、ここにはいられません。仕事も全然うまくできませんし……みんなに笑われるばっかりで。はっきり言ってやっていかれません」

「正直だねぇ」

雪丸が声をたてて笑った。
陽だまりの中、寝ぼけながらねこじゃらしで遊ぶ猫みたいに。

「君の気持ちは分かるよ。だけど──」

そして彼は春風のままに歩を進めながら言い、数歩進んでゆっくり振り返る。

「だけど、ここに来たのも何かの運命だと思ってもう少し頑張ってみなさいよ」

思いがけない言葉に、アラインはまじまじと彼の顔を見た。

「…………」

「“役人”って、ひと括りにされてもめげない強さを身に付けなさいよ。確かにこんな強固な組織の中で染まらないことは難しい。僕だってよほどのことがない限り、上に刃を向けたりはできない。けれどね、どんな理由であれ──他に仕事がなかったからって理由だとしても──君はココに来た。僕もココにいる。……運命だったんだって割り切ってみなさいよ」

「運命、ですか」

「ネガティブにその言葉を使うのは嫌いだけどね。あきらめて前進するには、なかなか便利な言葉だよ」

彼はクスクスと笑った。
黒髪があわせて揺れる。

「自分の良心に合わないことはやらない。自分の信念に反することはしない。そうすればこんな規則正しい檻の中にいたって染まらない。“役人”にならない」

彼がアラインの肩に手を置いた。
そしてぽんぽんと叩く。

「おじさんも同じこと言うと思うけどねぇ?」

自分の良心に合わないことはやらない。自分の信念に反することはしない。
それがどれだけ難しいことかは分かっているつもりである。
多くの新人がそんな気持ちで入り、そしていつの間にか染まっていくのだろうから。

だが、それをやり通している人がいる。
いかに弱き人の心といえど、染まらずにいられることを証明している人がいる。

彼は最後に華やかな笑みを浮かべ、指をぱちんと鳴らして彼女の前から消えた。

この街から去った。

この時はまだ誰も知らない置き土産を残して。

アラインは彼の消えた方向に向かい、小さく“ニヤリ”。

「私、あなたを目標にします」



◇  ◇  ◇  ◇  ◇



翌日は前代未聞の出来事があった。

協会の半数もの職員が病欠したのである。
出勤できた職員たちも一様に口をそろえて報告した。

“物凄く苦しい病気にかかる夢をみました”

──あいつのかけた呪いだ……

上層部は気が付いていた。けれどみな病に伏していた。

一週間後。

やっとのことで病床から這い出した彼らは、円卓を囲んで声を潜める。

「“天空の雄鹿”の件についてはあの男の耳にいれるなと注意したはずだぞ!」

「……どこまでも鋭い奴だ」

「優秀な局員がひとり半殺しにあったらしい」

「死人が出なかっただけマシか?」

「あいつは望まない者に死を与えたりはせんよ。死ぬより生きる方が難しいことをよく知っているからな」

そして全員が声のトーンを一段低くする。

『あいつの力が協会全体を呪えるほど強大だとは……』

すぐにその男、悪夢の元凶は執行部に召喚された。

だが、呼び出した時間になってもそいつは現れなかった。
遅れるとの連絡さえもない。

しびれを切らした係の者が奴の襟首捕まえに向かえば──

『雪丸京介……出張中』

出欠プレートが、からからと楽しげな音をたてて揺れていた。

──運命だよ

そう笑いながら



THE END

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〜あとがき〜

 
まとまってない上にやたら長いですねー。ごめんなさい。
雪丸は一話書くのにレベッカ三話分くらいのエネルギーを要します。当社比)
だいたい一ヶ月に一話ペースになっていると思うんですが、二週間ネタで悩み、二週間書きながら悩み、雪丸の間にレベッカを書いているんじゃないかという・・・(どっちがメインだ!?)
人心と幻獣。テーマ二本立ては難しいです。
◇ネタ補足──病欠が半分だったワケ
病気で寝込んでしまった人は雪丸に負い目のある人間。夢を見ただけですんだ人は雪丸と対しても

正々堂々していられる人。半分くらいは善人でもいいですよね。     不二

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