幻獣保護局 雪丸京介 第八話

『セイレーン』

 

それは、とても安らかな寝顔だった。
空虚な現実からはかけ離れた夢の世界で、きっと彼らは思う存分羽を伸ばして
いるに違いない。
そう信じるに足る、幸せそうな寝顔だった。
子どもの髪を撫でながら涙を流す母親が、滑稽に見えるほどに。
その眠りから子どもたちを引き離すことの方が、残酷であるかのように。
 
「やっぱり歌が関係してるのか?」
 
「たぶんね」
 
「歌の主をやっつけに行くのか?」
 
「…………」
 
返事をしない雪丸を訝って、少年は彼を見ようと首を回した。
次瞬、
 
「シムルグ、危ない。じっとしてて」
 
彼の両肘にぎゅっと肩を締められて、思い出す。
 
 
──馬、慣れてないんだっけか……コイツ
 
 
そう、今少年がいるのは馬の上。
手綱を握る雪丸の腕の中。
おばさんから教えてもらった、歌の主の棲家目指して草原を疾駆している最中。
さすがにのんびり歩くわけにもいかなくて、馬を借りたのだ。
童話に出てきそうな、すらりとした白馬を一頭。
だが、馬の背を軽く撫でながら雪丸は言った。
 
“前乗らされたのは何年前だっけかなぁ”
 
 
そして案の定その腕前は素人同然。
華麗なる白馬の王子様には程遠い。
 
だが彼は、真っ直ぐ前を向いたまま薄コートを風にひるがえし、ひたすらに飛ばした。
容赦なく飛ばした。
 
しゃべらないのは、馬を駆るのに集中しているせいだと思いたい。
自分を落さないように頑張っているせいだと思いたい。
 
「なんだか……音が聞こえてきた」
 
「歌の主がいるのは戦場にある丘の上だって、おばさん言ってたでしょ。
きっと戦争やってる音だよ」
 
訊いても返事を返さないくせに、独り言には反応してくるこの男。
少しばかりふて腐れ、シムルグは口を尖らせた。
 
「奥さんや子どもそっちのけでずっと戦争やってんの」
 
「──しょうがないんだよ。彼らにとっては崇高な理由なんだから。僕らがどうこう
言えることじゃない」
 
「それってすごく正当で悟ってるように聞こえるけどさ、でもおかしくない?」
 
「かもね」
 
「なんかさ、おかしいよな。子どもがみんなあんなになっちゃってるのに、王様の墓
なんつーもんを巡って戦争してるなんてな」
 
「戦争なんてそんなもんなんだよ」
 
上から降ってきた笑いはどこまでも透明で、刺も影も見当たらなかった。
 
「爆弾やら銃弾やらが飛び交ってる中を突っ切るのは嫌だな。少し
遠回りしようかねぇ」
 
 
 
 
 
 
◇  ◇  ◇  ◇  ◇
 
 
 
 
 
その丘からは、戦場が見渡せた。
焦土と化している草原の右と左に大きな陣営が見え、奇妙に描かれた
大地の色は、累々と横たわる屍。
凄惨であるのに、しかしどこか淡々としたこの世の地獄。
まばらに燃え盛る炎と、折れた剣。捨てられた鉄砲に、破れて無残な旗。
立ち上る黒煙。
 
そして件の湖は丘を取り巻く小さな森の中。
それは怒号も涙も鮮血も、すべての意味などくだらないとばかりに穏かに
水をたたえて、そこにあった。
人々の思惑など素知らぬ顔で、森を映し空を映していた。
 
 
──確かに。湖にしてみりゃ誰が埋まってようが関係ないよな
 
 
意味をつけたのは人々であって、湖ではない。
意味を必要としているのは人々であって、湖ではない。
 
神話と崇拝と利己から生み出されたその意味に、どれほどの価値があるものか。
結局その問いさえ、彼ら以外に意味はない。
 
 
 
「シムルグ。待ってる?」
 
いつの間にか馬から降りた雪丸が見上げていた。
 
「僕はあそこにいる彼女に用があると思うんだけど」
 
彼が指差したのは丘の上の枯木立。
 
「馬はどうするのさ」
 
「大丈夫」
 
「じゃ、行く」
 
何がどう大丈夫なんだかさっぱり分からないけれど、雪丸が大丈夫と言う
なら大丈夫なんだろう。
シムルグは適当に自分をなだめ、彼に続いた。
 
枯木立。
その一枝に身を留めて歌を歌い続けているそのヒト。
対の翼をもち、色美しい尾羽をまとい、頑強な爪で折れそうな枝を掴み。
天に向かい、戦場に向かい、どこまでも遠くへと微かな歌を歌うそのヒト。
海の魔女と呼ばれる半身半鳥の、幻獣。
 
 
──セイレーン
 
 
 
 
 
 
彼女は、雪丸を見つけるや否や言った。
 
「ずっとあなたを待っていたのよ」、と。
 
「光栄だな」
 
答えた彼は笑っていた。
顔見知りなのか、名乗りもしない。
そして両手を腰にあてて、生徒をなだめるようにとんがった声を出す。
 
「子どもたちを眠らせていたのは君だね?」
 
「そうよ。だって可哀想じゃない」
 
セイレーンは魔物。きっともう何百年も生きているのだろうに、まだどこか幼さの
残る顔つきで彼女がむくれた。
その大きな紅い瞳がずっと遠くを見る。
 
「可哀想でしょ。生まれた時から死ぬ時までずっと戦争と生きていなきゃ
ならないなんて。親も失って、でも大きくなったら自分も戦いに行かなきゃ
ならなくて。……眠っていれば何も起こらない。何も感じない。悲しくない、
苦しくない、憎しみもない」
 
心の真ん中を通り抜けていくような、彼女の美麗な声。
しかし雪丸はそれに感じ入った様子もなく、肩をすくめた。
 
「──その繰り返しが嫌だと思ったなら、いつかやめるだろうさ、彼ら自身がね」
 
「世界はいつか正しく作用する。人はいつか気がついて道を正す。……まだそんな
理想を捨てられないから、あなたはそんなコト言えるのよ。いったんこじれた感情は
そう簡単に修復できない。歴史は積めば積むほど戻れない。そういうものよ」
 
彼女は木立に腰掛けたまま、白い指で眼下の戦場を指差した。
流れる黒髪が頬になびくのを構わずに。
 
「あの場所で、本当に罪のある者はいないわ。誰もが各々の王を愛し、
各々の信念を信じ、勝利を目指して戦っているの。あなたは彼らに向かって
“愚か者”と言える?」
 
「言えるよ」
 
雪丸の即答に彼女が一瞬目を開き、ふっと力を抜いた。
 
「そうね、あなたなら言えるわ。あならなら、ね。……でも私には言えない。
けれど、私もこの戦争がいかに無駄で愚かなものなのかは知っているの」
 
「それで、子どもたちを眠らせた?」
 
「そう。ずっと海で船を沈めていたあたしは、飽きて陸を飛んだの。……そして
会ったわ。あの街の子どもに」
 
「…………」
 
淡々と話す彼女を眺めている雪丸の顔に、薄い影。
よく見なければ分からない、けれどいつも一緒にいるシムルグならば分かる、影。
 
「私があの子たちにセイレーンのことを話してあげたら、彼ら何て言ったと思う?
“アンタの歌があればアイツラをみんな殺せちゃうのに”って、“そうすれば平和に
なって、お父さんも帰ってくるのに”って、そう言ったのよ」
 
「子どもは直球だね」
 
「哀しくないの」
 
「どうだろう」
 
「……家族のない子がたくさんいたわ。手足を失った子もいたわ。明日戦場へ
行く子もいたわ」
 
「いるだろうね」
 
「誰もが平和を望んでた。でもそれは仲直りした平和でも、譲歩した平和でも
なくて、王墓を完全に取り戻した後の平和だった」
 
「そういうもんさ」
 
雪丸が、相変らずの調子で彼女を諭す。
 
「彼らが彼らであるためには、あの王墓が必要なんだ。目先の平和より、彼らは
彼らの誇りをもぎとろうとしているのさ。──それが余所から見ていかに愚かだろうが、
滑稽だろうが、ね」
 
愚かだろうが。滑稽だろうが。
それが彼らの存在の意味であり、信じ守るべきものなのだ。
決して譲ることのできないことなのだ。
 
どれだけの悲しみが積もろうとも。
どれだけの屍が積まれようとも。
どれだけ子どもたちの未来を閉ざそうとも。
 
「そしてどちらかが滅びるまで、憎しみと悲しみを繰り返すんだわ」
 
「──そうだね」
 
「だから私は子どもたちを眠らせたの。両方の国の、ね。人が尽きれば戦争も
終わる。でしょ?」
 
これ以上の名案はないといった顔で、彼女はウィンク。
華やかな笑みで、こちらを見下ろす。
が、雪丸はどこまでも低く静か。
 
「……君はいつまで子どもたちを眠らせておくつもりだい?」
 
「王墓が歴史から忘れ去られるまでよ」
 
「長すぎる」
 
「だって、そうじゃなきゃ意味がないじゃない? 戦う理由そのものを消さなきゃ、
意味がないじゃないの!」
 
彼女の叫びに、しかし雪丸の声は有無を言わさず断固としていた。
 
「それは長すぎるよ」
 
「私のしてることは間違ってるの? お節介だってことは知ってるわ。でも、可哀想
なんだもの。子どもたちの未来には戦争しかない。それ以外のことは何もないのよ!」
 
「セイレーンは大海原を自由に飛ぶことができる生き物だからね。鎖で雁字がらめに
なってる彼らを憂える気持ちは分かるよ。どうにかしたいと思う気持ちも」
 
言いながら雪丸が彼女から視線を外した。
切れ長の目を戦場に向けて、つぶやく。
 
「でも、君がどうこうすることじゃない」
 
「どうして!」
 
「じゃあ、君の未来はどうなるんだい?」
 
「──!」
 
彼女の驚きと同時、シムルグも息を呑んだ。
 
「愚かな者に未来を捧げることほど愚かなことはない。違うかい?」
 
ねっ、と首を傾げて見せる雪丸。
刃物の反射みたいなその言葉と、ゆったりとおちゃらけた仕草。
……雪丸京介。
 
 
「くだらない理由で、君をいつまでもここに留めておくわけにはいかない。お役所と
してはね。……いや。僕個人としても、だな」
 
「でも」
 
「飛びなさい。セイレーンは、飛んで歌って船を沈めてまわるのが一番綺麗なんだよ」
 
彼がにっこり微笑んだ。
それは議論の終止符。
もう、終わり。
 
「ずっと木の上にいたんじゃ、せっかくある翼の意味がない」
 
「でもね」
 
「その歌は子守唄を歌うために授かったものじゃないでしょ」
 
「だけど!」
 
「……君が心配していることは、僕が代わりにどうにかしてあげるから」
 
しつこく食い下がる彼女に、雪丸が子どもをなだめる要領で顔をしかめた。
笑っているような、怒っているような、少し間の抜けた表情。
 
「どうにかって?」
 
彼女が片眉を動かした。
 
「もう話はつけてあるよ。この辺一帯の大地は協会が占有することになってる」
 
「…………」
 
「この湖には誰も許可なしでは立ち入れなくなる」
 
「奪い合うものを、協会が取り上げるのね?」
 
「──そういうこと」
 
「…………」
 
唇を結んでじっとこちらを見ている彼女。
きっと、シムルグと同じ言葉を思っているに違いない。
 
 
──おかしい
 
 
何かおかしい。どこかおかしい。
けれど、雪丸は飄々とした顔つきで笑ったまま。
 
「確かにそれなら戦争の意味も、プライドの意味もなくなるよな。でも──」
 
「他に、方法があるかい?」
 
言いかけたシムルグの言葉を、雪丸の深く堅い声が遮った。
穏かな笑みがのったまま、それでも彼の声は一本の針金のように。
 
「誰も死なずに、誰の命も奪うことなく、僕が彼らを止める方法はあるかい?」
 
一拍置いて、彼は続ける。
 
「僕は。確かに僕はここの愚かな人々を永久氷結させることもできるだろう。湖
そのものを消し飛ばしてしまうことだってできるかもしれない。だけど君が望んでいる
のはそういう平和じゃない。──でしょ?」
 
「…………」
 
セイレーンが雪丸を見つめ、戦場を見つめた。
 
「僕がどちらの手段を取っても、必ず死人は出る。湖を消したら消したで、彼らは
僕に向ってくるだろうからね。正直、僕は僕だけで彼らを諭すことはできないと思う。
僕は万能じゃないんだ」
 
「でもあなたは──」
 
「そういうことじゃないんだよ」
 
何事か言いかけた彼女を、雪丸がひとさし指を口元にあてて制した。
 
「そういうことじゃない。本人ですらどうにもできない感情の流れなんだ、他人が
変えるのはもっと難しいんだよ。歴史が積まれた分だけ、時間が重なった分だけ、ね。
僕には何もできない」
 
「そうやって始めから諦めるのか? 協会の力で全部丸め込むのか?」
 
「協会に世界の支配権を与えたのは彼ら自身で、協会はひたすら完璧な秩序を
創ろうと目指してる。……戦争をその権力で抑え込むのも協会の仕事だよ。
いや、協会にしかできない仕事、かもね」
 
雪丸が肩越しに笑った。
シムルグは頬をふくらませながら口をつぐむ。
納得できないのだけれど、この男が断言すると絶対な正論に聞こえてしまう。
 
「あなたも、大変なのね。これ以上困らせると可哀想な気がしてきたわ」
 
優雅に翼を羽ばたかせて、彼女が木の上から降りてきた。
基調は青だけれど、シムルグのものと勝るとも劣らない見事な翼。
彼女の白磁のような腕がそっと伸ばされ、その指が雪丸の形よいあごに触れた。
 
「ねぇ、あなたはどうしてこんなことしてるの。あなたの本来いるべき場所は──」
 
「どうしてだろうねぇ」
 
朗らかな笑い声を立てて、またもや雪丸が遮った。
 
「きっと、運命なんだよ」
 
「…………」
 
しばし彼女は口を開けていた。
そして、
 
「…………まったく」
 
しょうがないヒトね、と嘆息。
 
「どうなっても知らないから」
 
「君が僕のことを心配する必要はないんだよ。さぁ、貴女の空へ行きなさいよ。
後は僕に任せなさい!!」
 
 
 
 
 
◇  ◇  ◇  ◇  ◇
 
 
 
 
「…………」
 
「どうしたんだ、雪丸。やっぱりどこか痛いのか? 具合悪かったのか?」
 
青い宝石が空へと消えると、雪丸が枯れ木にもたれかかってずるずると座り込んだ。
 
「──なんだか疲れたよ」
 
近づく少年を振り向きもせず、彼は半ば呆然として前方に視線を彷徨わせていた。
微笑みこそ捨てられてはいないけれど、それもどこか色褪せている。
 
「慣れないゴタクを並べると、疲れるね」
 
「……そうか」
 
独り言のようにつぶやかれたその言葉で、シムルグはその男の本心を知る。
 
やっぱりこの役人は理想屋なのだ。
厳しく両断を装っていても、内ではまだ信じている。
 
 
──世界はいつか正しく作用する。人はいつか気がついて、道を正す。
 
 
雪丸はまだ、信じている。
 
「大変だな、お役人さまも」
 
シムルグは言って、彼の隣りに座った。
 
「時々ね。今日はまだこれから、あの戦場の真っ只中に行かなくちゃ〜〜」
 
ため息まじりに雪丸が薄く笑う。
 
「こういうのは霜夜の方が向いてるんだよな」
 
「……霜夜?」
 
「僕の同僚だよ」
 
彼の、奥が見えない漆黒の瞳が真っ直ぐ上を見上げた。
雲ひとつなく、高い高い蒼天を。
何ひとつ無関心な空の海を。
 
「簡単なことのはずなんだけど、世の中上手くいかないもんだねぇ。きっとみんな
分かっていることなのに」
 
「?」
 
意味が分からず雪丸を見上げたと同時、少年はくしゃくしゃと頭を撫でられた。
 
「少しだけ。少しだけ譲歩できる勇気が持つことができたら……、それだけで
くだらない争いはなくなるんだよ」
 
彼が声をかけているのは誰なのか。
彼が見ているのは何処なのか。
 
「本当に。ホントに簡単なことなのに、ねぇ?」
 
 
 
 
 
 
彼が優しくつぶやいたその足下。
 
未だ、争いの音は鳴り響き続ける。
まるで、その言葉を耳元から遠ざけるように──
 
 
 
 
 
 
 
THE END
 
 
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遅くなりまして申し訳ございません……。
イメージが先に出来上がりすぎて、中々言葉が見つかりませんでした。
今回はテンション低いですね(汗) しかもなんか疲れてるしッ!
結局、彼の中では始めからこのシナリオが出来ていたということです。
今回ばかりは一から十まで協会に従った、と。
でも釈然としてないふたりですが(笑)
 
そういえば、裏設定では京介氏、12月12日生まれとなっております。
次回はそのくらいになるんでしょうか……(あまりあてにはなりませぬよ!/笑)
 
 
 
 
 
 
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BGM 「眩暈」  by鬼束ちひろ