幻獣保護局 雪丸京介 第八話

『セイレーン』

今回は分量の関係で2ページございます。あしからず。

 

終わりを知っていながら、その終焉へと歩み続ける者のなんと愚かなことか。
 
本当は嫌なんだと言いながら、それでも時の流れに縛られている者の、なんと
哀しきことか。
 
手を止め、空を見よ。
罵声を消して、歌を聴け。
神の声ではなく、正義の声でもなく、足元に踏まれた花の声をきけ。
 
知っているならば、躊躇うな。
分かっているのだから、背けるな。
 
未来が壊れる前に。
涙で大地が沈む前に。
 
──すべてがその手から離れる前に。
 
 
 
 
◇  ◇  ◇  ◇  ◇
 
 
 
 
 
「…………」
 
「…………」
 
シムルグはちらっと横上を見やり、小さく嘆息する。
昨日からずっとこうなのだ。
横を歩く優男と、赤毛の少年シムルグの間にはまともな会話がない。
別にケンカしているわけじゃないし、何かこの男を怒らせるようなことをしたわけ
でもない。……のだが。
 
「ねぇ、雪丸」
 
「何?」
 
「…………やっぱいい」
 
「なんだよ、途中でやめるなんて後味悪いな」
 
さっきから話かけているのはシムルグだけだったし、返してくる優男の声はどこか
上の空。
 
「まったく、変な子だねぇ」
 
ふわふわした猫みたいな黒髪に、これまた陽だまりの猫みたいな目。
世界の幸せだけを集めたみたいな微笑を浮べて、そんな空気だけを従えて。
長身の華奢な体躯に薄い枯葉色コートをまとい。
声も、顔も、すべての動作が──優しい。
 
広い広い地平線の彼方まで続いているたんぽぽ畑。
天高い蒼空と流れる白雲、そして花の黄色に輝く陽光。
それが彼の両手に抱えられた彼の世界。
 
名は、雪丸京介。世界を統べる魔導協会の中の、幻獣保護局に勤める
薄給役人だ。
だが、ただ今その優しさ故に協会とケンカ中。
 
 
シムルグにも彼の本心など分からない。
 
いつも浮べている柔らかい笑みは本物なのか。
いつもの優しい彼と、時折のぞく深く凍れる深淵の彼と。
世界の全てをいとおしむ顔をする彼と、世界の全てに失望した顔をする彼と。
どちらかが本物だと決めること自体、間違っているのか……。
 
 
 
「──着いた」
 
それが昨日から初めて雪丸側から発せられた言葉。
しかしそれもまた、実に事務的な内容だった。
 
「……ほんとだ」
 
彼の視線を追ってシムルグが見れば、草原の向こうに城壁が見えた。
緑の中の、石積。
それはいつもと全く同じような光景。
ここら辺では、城壁が街を覆っていることが一般的なのだ。
あの城壁が国、街を様々に守る。
 
「…………」
 
「どうしたのさ、雪丸」
 
「…………痛いな」
 
街へと続くその道に立ち尽くして、彼は言った。
細められた黒の双眸は、しかしじっと見入るように城壁へ。
そして再びつぶやく。
 
「やっぱり痛い」
 
太陽が雲に隠れるが如く、彼の顔から微笑がひいた。
柳眉がひそめられ、口が結ばれた。
彼は、街を見つめて微動だにしない。
 
「何が痛いのさ」
 
シムルグが首を傾げると、雪丸は意外にも即答してくる。
 
「──僕が、さ」
 
「具合悪いのか? 怪我したところか? それとも別か?」
 
「身体の奥が微塵切りされてるみたいだよ。銃弾でやられた時より数倍痛い」
 
滑らかにそう言って、また歩き出す雪丸。
その歩き始めと同時、草原を風が吹き抜けた。
 
「こりゃ荒治療になるかもねぇ」
 
「…………」
 
シムルグは──少年の姿をした鳥の王は、黙ってその数歩後を行く。
雪丸の楽しげな口調に、笑っていなかった目。
 
「疲れそうで嫌だなぁ、まったく」
 
風に乗るその言葉にはすでに疲労の色。
少年には何がなんだか分からなかったが、雪丸にはこれから起こるすべてが
見えている様だった。
この男をまた憂鬱にさせることが、あの街にあるのだ。きっと。
 
 
──永遠に歩くことになったとしても、ずっとあの街に着かなければいい
 
 
だんだん大きくなってくる城壁を前に、シムルグは胸中で呪った。
 
 
 
 
◇  ◇  ◇  ◇  ◇
 
 
 
 
 
その街は、閑散としていた。
門を守る衛兵もなく、道をにぎわう人々もなく、走り回る子どももなく。
生なる者の気配がないわけではないのだが、妙にスカスカした街中。
綺麗なレンガ造りの家々が寒々しく、ぱたぱたと風にあおられている看板が
虚しい。
 
さっきから小一時間。門を入った大通りの先端でじっと立ったままのふたりが
見たのは、道を横切ったおばあさんひとり。手前の家から奥の家へと歩いて
行ったおばさんがひとり。計ふたり。
 
聞こえる音といえば、時折思い出したみたいに通ってゆく風の音。どこから
ともなく微かに聞こえてくる歌声。
ただそれだけ。
 
「なぁ、雪丸」
 
「ん?」
 
「疲れた」
 
「……そだね」
 
返ってきたのはいつものように軽い相槌。
けれど見上げた先、優男の眉間には小さなしわ。
 
「泊まれるトコ、あるかな」
 
「それは大丈夫。協会が手配してくれてあるから」
 
「飛び出してきたのに面倒見てくれるんだ?」
 
「飛び出したって仕事してやってるんだから当たり前でしょ」
 
ようやく彼がこちらを向いて笑った。
意地悪く口の端がつりあがる。
 
「僕だって分かってるんだよ、そう簡単にアイツラが僕を切り捨てられないこと
くらいね。彼らはまだ僕の力を手放すのが惜しいとみえるじゃないか?」
 
──そう、彼は協会が切り捨てられないほどの魔術師。一国すべての人々の
命を奪うことも、気に入らない協会幹部を全員呪えることも、できるほどの。
 
「僕はお前さんが思ってるほど“いいひと”じゃないんだよ〜。ちゃんと色々
考えてるのさ」
 
「ふ〜ん」
 
いつもの調子が戻って来た雪丸を見て、自然とニヤける。
 
「いいひとだと思ったことはねぇけどな」
 
「そう?」
 
軽薄に肩をすくめた雪丸の視線が、シムルグを素通りして後ろへいった。
 
「ねぇ、シムルグ。あのおばさんさっきからずっと僕らを見てるんだけど。何か
したかな」
 
「何かしたかなって……突っ立ってただけだぞ」
 
見れば、すぐ脇の家の窓から、ひとりのおばさんがじっとこちらを凝視している。
出窓いっぱいに飾られた花。その間から見える彼女の顔。
沈んだような、すがるような顔。
それは──きっと人が神様や天使に何かを必死に願う顔。
 
「話、聞いてみよか」
 
雪丸がコートの内ポケットから免罪符の名刺を取り出した。
警備兵の制服や、裁判官の紋章と同じような効果を発揮するこの名刺。
ちなみに、詐称は重罪である。
 
「すいませぇ〜ん」
 
すたすたと足取り軽く家に入ってゆく雪丸を見ながら、シムルグはひとつ嘆息。
何も聞かずに、この街に巣くう幻獣だけカゴに入れてしまえば楽なものを。
 
静かな静かなレンガの街。
風の音よりも小さく流れる歌声。
身体に吸い込まれてゆく旋律。
 
「ひとりでさっさと行くなよ」
 
まとわりつく感慨を振り払って、少年も後に続いた。
 
 
 
 
 
◇  ◇  ◇  ◇  ◇
 
 
 
 
 
「まぁ、そうですか……協会の方」
 
「えぇ」
 
どうでもいいことにいちいちうなずいて、雪丸が出された紅茶に口をつけた。
 
「各地の幻獣を保護したり、調査したり、環境を整備するのが仕事です」
 
いつもヘラヘラしてるくせに、大人相手だと彼はきっちりちゃっかり役人面。
 
自分の前に出されたココアを両手で大事に包みながら、シムルグは探るように
室内を見回した。
しかし、そこはごく普通のレンガ家。
疲弊している様子もないし、調度品も小綺麗で品がいい。
おばさんが身に付けているエプロンドレスにも継はぎはおろか、目立つよごれ
ひとつない。
 
「こちらにはお仕事で?」
 
「まぁそういうことですね。幻獣を一匹補導しろ、と。何かお心あたりは
ございますか?」
 
「心あたりなんてものじゃありません。私たちはずっと貴方のような人が来るのを
待っていたんです。ずっと、ずっと」
 
彼女の声は静かだったけれど、どこか擦り切れていた。
待ち続けていた者が今その目の前にいるというのに、その顔には喜びも安堵も
見えない。
そこには年月に刻まれた疲労の色だけが浮いていて、もはや感情を動かす
気力さえ失われているようだった。
 
「この街の有様はご覧になったでしょう?」
 
「えぇ」
 
彼女の一語一句が重く、ゆっくりと流れてゆく。
柔らかい笑みを浮べて紅茶をすする雪丸は、役人というよりも牧師のように。
 
「街と呼ぶには、いささか寂しいですね」
 
「──理由が、お分かりですか?」
 
「人が……いない?」
 
「確かに、人はいません。男は皆、隣国との戦争に出ています。ここは昔から
境界を巡って争いが絶えませんから。……リルメ湖の湖底には、両者の
創国主が眠っているんです。ですからどちらも譲れない。偉大なる国主のお墓が
相手の領土に囚われるなんて、どうしようもない屈辱でしょう?」
 
真摯な視線をテーブルに落として、彼女は淡々と言う。
真摯な声で雪丸が微笑んだ。
 
「慕われているのですね、一代目の国王は」
 
「私たちの父とも言える御方ですから。慕われる……なんて弱いかもしれません。
私たちは、崇拝していると言っても過言じゃないんです。余所の人には分からない
かもしれないのですけど」
 
「すべて世界は本人のものです」
 
雪丸のその言葉に、彼女が笑った。
 
「協会には関係ない、ということですか?」
 
そして今度は彼女のその言葉に、雪丸が慌てて首を振る。
 
「いいえ、それは誤解ですよ! 当事者にしか分からないことがあるということです。
世界で起こるあらゆる事象について、全部自分が理解できる、善悪を判断できると
思ったら大間違いだと、そういうことですよ〜」
 
「変わった方なんですね」
 
 
──変わった方だから子守りしてるこっちが異常に疲れんだよ、ったく。
 
 
足をぶんぶん振り回しながら、シムルグは毒づいた。
ホントは自分が彼に保護されている身分なのだが、どうもそういう気がしない。
何かにつけて、自分が世話を焼いているような錯覚。……錯覚?
 
「でも、人がいないのはそれだけじゃないんです。……子どもの姿、見ました?」
 
「そういえば、見てませんね」
 
「では、歌は?」
 
「……歌?」
 
歌。
風と共に聞こえていた微かな歌。
子守唄のような、暖かくて懐かしい、歌。
 
「歌なら、聴いたぜ」
 
疑問符を浮べている雪丸に代わって、少年は答えた。
 
「街に入ってからずっと聴こえてた」
 
「……そう。やっぱり」
 
彼女の視線がこちらを向く。
哀しいような、でも溢れるまでの母親の眼差し。
 
「やっぱりまだ歌っているのね。君にも聴こえたのね……。私の息子も言っていたわ。
綺麗な歌が聴こえるって。子どもたちはみんな言っていたの、今まで聴いたことも
ない素敵な歌が聴こえてくるんだって……」
 
「──言っていた、ですか」
 
使われた過去形に、雪丸が眉を寄せた。
手にされていたカップが静かに皿へと降ろされる。
 
「えぇ……。そう言っていたの」
 
何を想うのか、しばし彼女の目が虚空を彷徨った。そして奥へと続く小さな扉の前で
止まる。
 
「歌が聴こえたこの街の子どもたちはみんな、……眠ってしまったの。五年前から
ずっと眠ったままなの。生まれてくる子どもたちも皆眠ってしまうの。この世界を
嫌がるみたいに、その歌に連れ去られるみたいに、みんな眠りの国へ行って
しまうの」
 
一気に言った彼女の頬を、やつれたその頬を、一粒の涙がつたった。
 
 
「私の息子も、ずっと眠ったままなのよ」
 
 
 
 
 
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