幻獣保護局 雪丸京介

第九話 『蜃気楼』2

 

二種類の靴音だけが、やけに大きく廃ビルにこだました。
吐息のひとつもなく雪丸が作り出した魔の光が、ふらふらと地下へと続く階段を照らす。
剥き出しの灰色の壁。雨が伝ってきたのか、ホラー映画の血痕のように染みができている様は、見ていて決して楽しいものじゃない。
 
「下に……幻術師がいるのか?」
 
不気味さに耐え切れなくなって、シムルグは声を出した。
精一杯低く抑えつけたのに、それでも怖いほどに反響する。
 
「たぶんね。僕は魔術師だから魔力の動きはちゃんと感知できるんだけど、幻術師の力ってのを正しく読めるのかは分からない。だから絶対ってわけじゃないよ。でも、大きめの力は感じるのさ、この下から」
 
会話がないことに少年が怖さを増したのだと感付いたのだろうか、事細かに説明を入れてくる雪丸。しかしその声は壁に染み入るが如く、全く響かなかった。
 
「これだけの街をずっと映し続けていたんだ、……スゴイと思わないかい? この世界にはないものがたくさん描かれていた。協会と絶縁してる科学都市なら、ああいう派手な電飾とか、デッカイ乗り物とか、あるのかねぇ? それとも全部、彼の想像なのかな?」
 
──彼。
 
(まただ。また雪丸は、先を読んでる……)
 
「自己崩壊の寸前までいってしまった人たちが、傷を癒し、自らを回復させるための蜃気楼。世界を見限った人間が、理想と求める幻の街。人を傷つける者もなく、追いかけてくる時もなく、束縛する関係もなく、胸を痛める憂いもない。世界に唯一創り出された完全なる平和。──そういう場所も必要だと、僕は思うんだけどね」
 
「また協会に反抗すんのか?」
 
「……またってシムルグお前さん……、諦めモードに入ってるでしょ。でも人の話は最後まで聞きなさいよ。僕は必要だと思うけど、存在を許しておくわけにはいかないんだよ」
 
「なんで」
 
「そのうち、幻と現実が逆転するからさ」
 
 
幻と現実の逆転。
要するに雪丸の話はこうだった。
 
現実の痛みから幻へと逃げ込む人は、世界が今のままである限り決してなくならない。幻の街にはどんどん実体のある人間が入り込む。安息を求めて、皆が虚構へ身を投じる。
しかしそれが限度を超えると──幻の街は飽和状態になるというのだ。実態のある者ばかりになり、街そのものは幻でも、その中での人々の関係は現実と同じになってゆく。
対して、現実世界は人の希薄が進み、あたかも幻の世界のような状態に陥る。
結果、幻は現実に、現実は幻に……逆転が生じるというのである。
 
 
「そんなの、理論だろ」
 
少しだけ意地悪くつぶやいてみれば、
 
「理論にはふたつ種類があってね。実証してみなきゃいけない理論と、仮説で止めなきゃいけない理論がある。これは机上の話だけにしておかなきゃいけないことなんだよ。もし本当に逆転したら、手の付けようのないシステム崩壊が起こるでしょ。誰も責任取れないことはやっちゃいけないのさ」
 
あくまで淡々と、雪丸は言ってきた。
そして、足を止める。
頼りなげな光。その光と闇との境界に、行き止まりが見えた。
錆びだらけの鉄扉だ。
 
「この中、かね?」
 
言いながらこんこんと雪丸が鉄板を叩く。
 
『立ち入り禁止』の文字はないが、明らかにそんな雰囲気である。怪しい組織の秘密工場とか、マッドサイエンティストの極秘研究施設とか、そんな空気。
よく見れば、地下への階段はその扉で終わっていた。横道も、廊下もない。
 
「っつーか、その中に入るしか道がねぇじゃん」
 
「ごもっとも」
 
口の中で応えつつ、雪丸は扉を隅から隅まで調べている。一通り確かめ終わると、彼は一端大きく息をついた。
 
「これだけボロなら……魔術使うまでもないな」
 
「あん?」
 
少年が小首を傾げたと同時、雪丸が構えから気合一線、鉄扉に蹴りを叩き込んだ。
 
身体を重く揺さぶる重低音と細かく舞い散る粉塵。
耳を覆わずにはいられない大音響と急激に渦巻く澱んだ空気。
鉄扉はあっけなく向こう側に倒れ伏してゆく。
 
「おぃおぃ……ホントかよ」
 
思わずシムルグは声に出してうめいた。
 
「術に頼りっぱなしってのは、ダメになる一歩なんだよ。魔術師はね」
 
(そういうことが言いたいんじゃないんだけど)
 
本当にこの男は芸達者な輩である。これならば、協会がいくら楯突かれても手放せない人材であることにも納得がいく。
彼ならば、同意さえすればどんな難題も片付けられるに違いない。
同意さえすれば。
 
「シムルグ、行くよ」
 
「雪丸〜。あんたホントに人間か?」
 
「一応ね」
 
 
 
 
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
 
 
 
 
「わぉ」
 
緊張感のない感嘆を上げたのは、もちろん雪丸京介だった。
 
「……養殖場……」
 
少年は呆然とつぶやく。
 
鉄扉を踏みつけて到達した広い地下空間。
ぽつぽつと天井につけられた裸電球が薄暗く照らし出しているその場所。
そこには背の低い水槽が所狭しと並べられ、空気を送るポンプらしきものがぽこぽこと泡を作り出していた。もちろんその中には──シムルグの手のひらよりも大きな貝、貝、貝……。
 
動物好きなシムルグでさえげんなりするのも無理はない。
 
「よくもまぁこれだけたくさん集めたもんだねぇ……」
 
天下無敵の雪丸でさえ、気圧され気味である。
が──
 
「これくらいなきゃ、あの街をあんなに長い間出現させておくのは、無理ってことですか……」
 
突然口調を改め、彼がわだかまる薄暗がりの奥を見据えた。
そして確信的にその名を呼ぶ。
 
「アルヴィン=ツァールト幻術師」
 
「…………」
 
目を凝らしてもシムルグに人影は見えない。だが、声は返ってきた。
 
「何をしに来た? まだ何か私に言い足りないか?」
 
おそらくは雪丸よりも若い、男の声。線が細く、その芯が微かに震えている。
 
「保護局の、雪丸と申します。来た理由は……お分かりでしょう」
 
いつになく柔らかい声音だった。
 
「あなたの創り出したこの街は素晴らしい。おそらく、何人もの人間が心を癒しているはずです。これだけ大掛かりな幻は──あなた以外には創れない。数年前、希代の幻術師として名を制したあなた以外には。けれど、この街は非常に危険なところまできています。このままでは幻と現実の逆転が起こりかねません」
 
「これを消せというのか」
 
「手っ取り早……」
 
「やっと手に入れた平穏を手放せというのか!?」
 
(交渉の余地はねぇなぁ)
 
やれやれと首を振りながら雪丸を見れば、彼はようやくサングラスを取って胸ポケットへとしまうところだった。習って、シムルグも取る。
 
「平穏」
 
そして、雪丸が試すようにその言葉を口にした。
 
「逆転が起これば、そんなものは露と消えますよ。現実にも、幻にも、世界のどこにも平穏はなくなる。その言葉自体、憧憬だけになる」
 
「放っておいてくれ! これ以上何も言うな!」
 
どこからか響き渡る声は激昂していた。しかし、怒りではなく──追い詰められた叫びのような錯乱。
 
「…………あぁ」
 
しばらく口をつぐんでいた雪丸が、ふと思いついたように上を見上げた。
 
「言葉、か」
 
「?」
 
「言葉というものには、力がある。使っている本人でさえ気付かない多大な力が、ね。それは剣よりも深く傷を負わせ、それはお金の山より至福を与えることができるんだよ」
 
ぽこぽこ水に湧き上がる空気の音を背景に、彼は諭すように闇へと目をやった。
説明はシムルグに。方向は幻術師に。
 
「“ありがとう”の一言。“嫌い”の一言。たったそれだけで世界は劇的に変わるもんだ」
 
猫のような黒い双眸は、穏かな光をたたえたまま。
 
「だが──いかんせん、その力の大きさを心得ている人間は少ない。むやみやたらと浅はかに振り回す人間が、多い」
 
彼は役人の顔を崩さずに言った。
 
「何が、あったんです? アルヴィン幻術師」
 
「…………」
 
沈黙は長かった。
裸電球の光が届かない奥にわだかまる闇。こちらの気分までを暗くさせる沈殿した空気。
そこから痩せたひとりの男が姿を現してくるまで、雪丸もシムルグも身じろぎひとつしていなかった。
それは忍耐で創られた、沈黙であった。
 
「幻術師とは、幻を創り出す魔術師を言う」
 
若い。その男はどう見ても雪丸より若い。美しい銀髪に、双眸は碧。だが彼は、圧倒的に老いていた。
身に付けている“気”そのものが、疲れていた。
高貴な白の装束が、灰色くくすんで見えるほどに。
 
「幻術師は記憶を呼び、思うままの世界を呼び、古の物語を呼ぶ」
 
「えぇ」
 
雪丸が、目を細めて相槌をうった。
しかし聞こえていたのかいないのか、幻術師は更に独白を続けていく。
 
「それは確かに虚構だ。実体のない、現実には到底敵わぬ儚い偽りだ」
 
アルヴィン=ツァールト幻術師。
若く老いたその男が、狂気よぎる碧眼でふたりを見据えてきた。物言わずただ小さな光を投げかける裸電球の下からくる、いくつもの感情が倒錯した視線。
シムルグは我知らず一歩退いて、雪丸のコートの影へとまわった。
どうにも耐えられない、背筋を虫が這うような目つきだったのだ。
 
「だが、虚構はなくてはならぬ。嘘も偽りも、なくてはならぬ。それで人々が楽しみ、癒されるのならば、一時だけでも痛みを忘れることができるのならば! 幻は存在の意味を得る。誰がそれを否定できよう!?」
 
「否定されたんですね?」
 
「享楽のための幻は、人々を貶める悪業だと言われた。幻術師などいてはならぬと! 存在そのものを否定されたのだ」
 
「誰に?」
 
「知らんな。多くの幻術師に、協会に、人々に、そんな紙切れがばらまかれたのだよ」
 
「そして当時最盛だったあなたが、そこから発した幻術師批判の標的となった……そういうことですか」
 
「当たらずとも遠からず」
 
ふと狂気が緩んだ。
 
「……批判など大したことではない。人々にはそれぞれの感覚があり、それぞれの考えがある。その事実を受け入れられる者だけが高みへと登ることができるのだ。──私が現実を捨てたのは、そんなことのためではない」
 
彼は一言一言ごとに、前へと進んで来る。
音もなく忍びよる死神のように、雪丸へと近づいてくる。
 
「あなたの名前は知っている、雪丸師。だからこそ──世界に知られる者だからこそ、あなたも分かるはずだ。名が知られている者ほど悪意を浴びやすい」
 
「嫌悪あり、嫉妬あり、万民に受け入れられる者などありはしません」
 
ガラス質の嘆息。
おそらく無自覚なのだろうが、雪丸の顔からは一切合切の感情が抜け落ちている。ただどこまでも穏かで優しいだけだ。
 
「皆に愛されはしない。それは分かっていた。そうなろうとも思っていなかった。だがしかし……。さっきあなたは仰った。たった一言の言葉で、世界は劇的に変わると」
 
白い幻術師は、声量を上げた。
 
「批判ならば甘んじて受けよう。奢った私への諌めならば真摯に向おう。けれど……相手に悪意があったのかなかったのか、それは知る由もないが……私はたった一言に滅ぼされた。この私が、ただひとつの言葉に! 無秩序になされた批判の中に、その言葉はあったのだ。それは投げ捨てられたような、感情的な言葉だった」
 
「……だからあなたは現実を捨てたんですね」
 
咎めの色はない。悲哀の色もない。
何の色もない黒の眼差しで、雪丸が幻術師を見つめている。
 
「私には分からなかった。何故、そんなことを言える者がいるのか。何故そこまで他人を傷つけることができる者がいるのか! 罪悪もなく、決定的な言葉を使える者がいるのか!」
 
アルヴィンが膝を折り、冷たい床に手をついた。
 
「私には分からなかった。今も分からない! だから私は現実を捨てた。世界を捨てた。同じく傷つき瀕死になった者を救うべく、この街を創った。……私は間違ったか?」
 
「──いいえ。あなたは正しい」
 
今度は雪丸が、ゆっくりと彼に近づいて行った。
シムルグが何を言う間もなく、男は少年から離れていく。
 
「想像力の足りない者は数多くいます。考えなしに己の感情をぶつける者、自らが正しいと一寸の疑いも持たぬ者、取り返しのつかぬ事を軽々しく言う者。発した言葉の重みも知らず、その言葉の鋭利さ加減も知らず、何も知らず」
 
丁重で、抑揚のない声音が響く。
 
「あなたが何を言われたのか、書かれたのか、問いはしませんが……。言葉は人を表すもの。万民に好かれる者が存在しないのに対し、悲しいかな世界は、言葉の重みが分かる者……自らに先んじて相手を思うことができる者だけでもない」
 
「そんなことは充分に分かっていた。……分かっていた……」
 
アルヴィンが骨の浮いた手を握り締め、嗚咽のような声が地下の空気を震わせる。
雪丸が柳眉を寄せて、幻術師の細い肩に手をのせた。
 
「あなたは、──優しすぎる」
 
「…………」
 
幻術師の嗚咽が止まった。制止ボタンを押されたように、動きが止まる。
と。
 
「…………あなたもだ」
 
刹那、幻術師の声が変わった。雪丸が少しばかりの驚きと共に手を引き、一歩下がる。
彼を見上げたアルヴィンの目に、再び狂気が灯っていた。
 
(──逃げろ)
 
「あなたの声が聞こえた。あなたも同朋だ」
 
「同朋?」
 
喉の奥から押し出された魔術師の疑問符。
何故か彼はそこから動かない。……動けないのかもしれない。
それを見て、アルヴィン=ツァールトが使命めいた笑みを浮べる。
 
「あなたは我々よりもずっと強く自らを縛っている。……気付いている? それとも気付いていない? どちらでもいい。あなたは我々と同じだ」
 
(逃げろ!)
 
「幻に溺れる者、ですか?」
 
「世界を捨てる者、理想郷を求める者、だ」
 
(逃げるんだよ!)
 
アルヴィンが胸元で複雑な印をきる。
すると、水槽の中からぽわんぽわんと白いふよふよした大きな水泡が湧いてきた。
『蜃』の息。幻の源だ。
それが──意志ある如く雪丸にまとわりついていく。驚くべき速度で……。
足から、次々と泡は他の泡を取り込み大きくなってゆく。
 
「僕を取り込むんですか?」
 
「あなたはそれを願っている。だから、抵抗できない」
 
「…………」
 
泡は次々と雪丸にひっつき、彼の動きを封じた。
術を放とうと宙をかいた指先までが、呑まれる。
当の雪丸は無表情だが、それゆえに笑みは消えていた。
 
「雪丸!」
 
近づくべきではないという本能から、シムルグはその場で叫ぶ。
 
「勝手にひとりで行くんじゃない!」
 
「…………」
 
返事はない。
届かない。
もはや──雪丸の全身はひとつの大きな水泡につつまれていた。
彼を幻へ引き込もうと。彼を現実から引き離そうと。
 
「雪丸!」
 
彼は諦めたように水の海に身体を預けていた。目を閉じ、腕を、足を、投げ出して。
 
“世界を捨てる者、理想郷を求める者、だ”
 
そう言ったアルヴィンの台詞がシムルグの脳裏に甦る。
雪丸が世界を捨てたがっているかどうかは分からない。
けれど彼は──少年が知りうる限り最大の、理想主義者だ。
惜しげもなく理想論を曝す。
馬鹿にされると分かっていても、曲げない。
ため息つきつつ見ないフリをすることはあれ、自分の理想基準を変えることはしない。
どうしようもないほど徹底的……。
 
「雪丸! 保護者ならちゃんと保護しやがれ!」
 
それでもシムルグは喚いた。
 
「無駄だよ、少年。師は自らの望みに抗えない。理想を求める者であればあるほど、世界に失望を重ねる。幻であろうと、平穏を追う。師は君側の人間ではない。我々と同じ側の人間なのだよ」
 
「うるさい!」
 
少年はゴタクを並べる幻術師を一喝。
そして水の中、眠り姫よろしい男に指を突きつける。
 
「雪丸! 俺はグレるぞ!」
 
最大音量のその通告が聞こえたのか、はたまた気迫が伝わったのか、男が眠そうに薄目を開いた。
首をまわし、漆黒の瞳が少年を捕らえる。
じっと、まどろみの中にいるままの目が見据え続ける。
 
(…………?)
 
ただ一点、少年のポケットを見据えている。
 
「あぁ」
 
(そうか)
 
男の目が再び安穏に閉じられた。
幻の安息にからめとられた。
 
「少年。君は帰りなさい。師は死ぬわけではない。ここで彼を現実に戻す方が酷であると、君も分かっているだろう」
 
幻術師が憐れみの口調で告げてくる。
 
「分からないさ」
 
シムルグは凶悪に笑ってみせた。
サングラスを着用し、さらに雰囲気を出す。
 
「あいつの考えてることなんて誰にも分かりゃしないさ!」
 
彼は大声で啖呵を切ってポケットに手をつっこんだ。
 
「少なくとも、そこで水遊びしてるお兄さんは俺(こっち)を選んだみたいだぜ!」
 
そして幻術師が眉をひそめた瞬間、シムルグは一片の名刺を手に、叫ぶ。
 
『薔薇のトゲ、パンのみみ、トンボの眼鏡!』
 
(なんじゃこりゃ)
 
思わずツッコミを入れた次瞬、まばゆい閃光が世界を埋め尽くした。
白、白、白。
目を閉じてさえ消えない光が全てを覆い、全てを消した。
 
 
 
 
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
 
 
 
「ごくろーごくろー」
 
シムルグが目を開ければ、視界にニヤついている優男がいた。反省の欠片もない笑顔。馬鹿にしているとしか思えない。
思わず拳を突き出して、殴ってしまう。
 
ぐるんぐるんするアタマで回りを見渡せば、夜の街は消えていた。
明るい青色の空と、緑の草原。遠くに伸びている白石の街道。
そして伏している幻術師とぽつぽつ倒れている人、……大量にぼとぼと落ちている貝…。
見れば見るほど頭がガンガンする。
 
シムルグはとりあえず雪丸に視線を戻した。横に座っているこの男、言いたいことはたくさんあるのだ。
まず、
 
「なんなんだよ、あの呪文」
 
「あれね、あってもなくても僕は困らないシリーズ。幻術消滅術用」
 
意味が分からない。
 
「特にトンボの眼鏡だよ。知ってる? トンボってのは目がふたつに見えて、あれは小さい目がたくさん集まってできてるやつなんだってさ。だから眼鏡をかけるとなると無数につくらなきゃいけないし、かけなきゃいけないんだよね。分かる? 眼鏡かけるよりさ、目が悪いヤツはそのままにしておいた方がまだマシだと思うんだよ。第一トンボって耳ないだろ? 眼鏡なんてナンセンスだよな」
 
トンボの眼鏡についてそこまで語る方がナンセンスだと、いつになったら彼は気付くのだろう。
 
「──本気だったか?」
 
シムルグはまだ動かない幻術師を見やりながら、ぽつりと言った。
 
「何が?」
 
「本気で、世界を見限ろうと思った?」
 
「…………」
 
虚をつかれたような顔をして、雪丸がまじまじと少年の顔をのぞきこんできた。
そして、ネジが外れたように笑い出す。
 
「まさか! グレられたら困るでしょ!」
 
ケラケラと失礼な程笑い転げてから、
 
「僕だってね、ふたつの術を同時に使うことはできないんだよ。でも今回は、幻を消すことと、その衝撃から実体のある者を守ること。それを一度にやらなきゃならなかった」
 
「…………」
 
シムルグは白い視線を雪丸から外すことなく、その言葉を反芻する。
 
「つまり──」
 
始めから最後まで、この男の筋書き通りだったというわけか?
劇的に見えて、全てこの優男の組み立てたシナリオの中にいた。
 
何が楽しいんだかニコニコしたままの雪丸を睨みつけ、シムルグは草原に寝転がる。
 
「つまりあんたは、そーゆー奴だってことだよな」
 
(本気でグレでやろうか)
 
「まぁまぁ、怒らない怒らない。終わりよければすべてよし」
 
軽薄な雪丸の声を聞きながら、シムルグは再び眠りの船をこぎ始める。
雪丸用の呪文は、さすがにきつかった。
 
 
 
 
 
「『蜃』は、一度協会に納めます。いくら交代だったとはいえ、ずっと統制されていたのでは彼らの疲労も蓄積されていることでしょう」
 
雪丸は極めて事務的に言った。
 
「…………」
 
幻術師は呆けたまま、何も応えない。
 
「貴方たちの処遇ですが──」
 
「もう一度創る」
 
止められやしないと、雪丸は分かっていた。
だから、首を縦に振った。
 
「そうしてください」
 
「……止めないのか?」
 
「世界はいつも傷ついている。泣かない者がいない日はない。しかし協会はそれに手を差し伸べることはできないし、僕も全てを救うことはできない。結局、身を休める幻は必要なんでしょう、どこかに」
 
幻術師は座りこんだまま、ぼんやりと地を見つめていた。
そして、彼もまたシムルグと同じようなことを訊いてくる。
 
「雪丸師。私は確かにあなたの声を聞いた。……私が聞いた声は、……本物だろうか」
 
雪丸は小さく苦笑して首を傾げた。
 
「さて……。あなたはどんな声を聞いたんですか? アルヴィン=ツァールト」
 
白い幻術師が困惑顔のまま彼を見上げてくる。
雪丸は、彼の碧眼を見据えてやんわりと言った。
 
「何が本物かなんて、誰にも分かりゃしませんよ」
 
「…………」
 
彼はまだ何か言いたげな様子だったが、雪丸は強引に話題を変えた。
 
「それよりもあなたの傷。大丈夫なんですか?」
 
しかし幻術師は素直に受け止めたようだった。
抱えたひざにあごをのせ、相応な若い表情で遠くを見つめる。
 
「……分からない。当分は──新たな『蜃』を見つけるまで、人間の言葉を聞くのが恐ろしくてしょうがないだろう。世界はみんなあなたのような人ばかりじゃない」
 
「言葉は、恐ろしい。けれどあなたはその恐ろしさを知りすぎるほどに知っている。それで充分じゃありませんか」
 
雪丸は、再び軽い笑みを口端にのせた。
 
「人生で大事なのは魔術の知識でも、机上の知識でもなく、そういう人間的な奥の深さですよ」
 
「雪丸師──」
 
アルヴィン=ツァールトが前を見つめたそのままの姿勢で、名を呼んだ。
そして宝石のような輝きの戻った双眸を僅かに曇らせる。
 
「はい?」
 
そして、言った。
 
「あなたは、──優しすぎる」
 
「…………」
 
優男の双眸が細められ──、しばし黙考。
彼は胸元からサングラスを出し、格好つけながら陽光に向ってかける。
そしてそのまま軽く笑って肩を揺らした。
 
「まさか! それこそ、相棒に生き埋めにされますよ!」
 
 
晴々としたその台詞は、草原を渡る風にのり、蒼天高く吸い込まれていった。
 
 
 
 
 
 
 
THE END
 
 
 
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