僕が最も怖れるもの?
──それは僕だ。
◆ ◇ ◆
シムルグは寝台の中で数度寝返りを打ち、それからゆっくりと手足を伸ばした。大きな欠伸をしながら目を開ける。
上宿屋の毛布はぬくぬくと暖かく、さらなる惰眠を誘惑してきた。しかし少年はもう一度全身で伸びをして、ゆるゆると起き上がる。
外はまだ夜が明けきっていないらしく、カーテンで閉ざされた部屋の中は薄暗くて寒々しい。
「……あいつ、何やってんだ」
目をこする少年がそっとつぶやいた先には、宿に備え付けられた机に突っ伏し寝ている魔術師の姿があった。
その男の手元を照らすランプには魔術の炎が入ったまま、隣りの寝台は使われた形跡がない。
「一晩中やってたのか」
あちこちはねた黒髪、年齢不詳、寒かったのかその痩身に薄手のコートを羽織った優男。
少年がのそのそと毛布から這い出し近付いて寝顔をのぞいてみれば、普段へらへらしているその顔はしかめられ、眉間にはシワが寄っている。
シムルグはフフンと鼻で笑い、肩をすくめた。
「自業自得だな。嫌いだからって報告書をためまくったお前が悪い」
世界を牛耳る魔導協会。その幻獣保護局に籍を置くこの役人魔術師は、机に向かう仕事が嫌いだ。以前協会内で事件を起こし飛び出してきたのをいいことに、出張と称して世界を放浪しまくっている。無論仕事はしているが(そうでなきゃ単なる給料ドロボーである)、やっているのは九分九厘実地肉体(?)労働。紙に字を書いているのなんて、束になった領収書を協会に送っている時くらいのものだし、ましてや会議に参加しているところなんて見たことがない。
しかし少し前、霜夜という名の同期の魔術師(向こうのがエライ)と鉢合わせたのが運のつき。そいつは局に雪丸の居場所をチクったらしく、近隣一帯に指名手配が敷かれ、シムルグと魔術師は立ち寄ったこの街で警備兵に捕獲されることとあいなった。
曰く、「戻って来いとは言わないから、いい加減たまりにたまった報告書を出してくれ。頼む」。
シムルグが睨みつけると、魔術師は頭をかいて引きつった笑みを浮かべてきた。
「いや、要点はちゃんと伝えてたさ。“助けたよ”とか、“保護して引き渡したよ”とか、“どうしようもないから消しちゃったー…”とか。詳細なんて後でいいでしょ」
「今がその“後”です」
遠隔地の音声を飛ばす水晶球がキッパリと告げてくる。
「書かないと経費落としませんよ」
「げ」
そんなわけで、魔術師・雪丸京介は宿屋に缶詰にされた。コーヒーやら紅茶やらココアやらをとっかえひっかえ片手にペンを走らせている様子はなかなか仕事人らしく様にはなっていたが、ココア一杯につき五行では当分この街から出られそうにもない。
「出かけてくるから」
着替え、赤毛をなでつけたシムルグは、苦悶の寝息を立てている男にそう言い残し、部屋を出た。
食堂も兼ねている一階に降りて行ったが、よほど朝早いのだろう、そこはガランと空虚に静まり返っていた。眠りこけている酔っ払いひとりいない。もちろん、宿の主人もいない。
少年は目覚めぬ食堂をぐるりと見回してから、足音を立てないようにテーブルの間をすり抜け、扉に手をかけた。
「……わぉ」
静かに静かにと思っていたのに、知らず感嘆のため息が漏れる。
そっと扉を押し開けた彼の眼の前に広がっていたのは、夜明けの深い霧が漂う街だった。
蒼色の霧が大河のように家々を包んでいる。息を潜めている緑の木々が、くすんだ赤や青の屋根が、姿を現してはまた霧の中に消えてゆく。まだ点いている街灯の火はぼんやりと丸く、淡い。それはまるで朧月。
少年がその海に身を投じれば、霧に軌跡が描かれ波紋が広がる。
頬を撫でる空気は冷たいが、陽が昇れば暖かくなるだろう。
どこからか人の走る音が聞こえてきて神経を尖らせていると、霧を割って新聞を配達するお兄さんが走って来た。
彼を見送り狭い路地の階段を降りてゆくと、犬を連れたおじいさんとすれ違う。猫同様犬も苦手なシムルグは、壁際にはりつき愛想笑いを浮かべてやりすごし、霧の街を駆けてゆく。
そこから先は誰とも会わなかった。生活の匂いがする細い路地を抜け、洒落た店ばかりが立ち並ぶ大通りを走り抜ける。カラカラと音をたてる馬車はこない。威勢のいい物売りもいない。それぞれの目的地へと歩く人もいない。
まだ、みんな寝ている。
「ここだここだ」
目指していた場所を視界に捉え、シムルグの駆け足は歩みに変わった。
そこは背の高い煉瓦造りの建物に囲まれた街の中心、人々が集まる小さな広場。少年の目的は、その中心にある煉瓦で造られた噴水の池だった。
数ヶ月前に、魔導協会の指導のもと新しく造られたという池。
まわりにはいくつかベンチが置かれていて、昼間ともなれば色々な人が座り語らってゆく憩いの場所だ。
買い物帰りの母親、書物を持った学生、編物をするおばあちゃん、新聞を逆さまに広げ煙草を咥えたサングラスのアウトロー……。
さすがにこんな早朝とあっては人ひとり猫一匹いなかったが。
「これが問題なんだろ?」
シムルグは霧をかきわけ煉瓦に手をかけて、噴水を見上げた。
それは足元に蔦を絡ませた長い髪の魔術師が、瓶を抱え大地に水を注ぐ石像。
昼間はその水瓶から水が流れ落ちているのだが、夜の間は止められている。今、魔法の水瓶からは時折思い出したように水の粒が滴り落ちているだけだ。小さな水音が大きく響いて、一瞬の水紋が現れては消えてゆく。
少年は石像から水面へと視線を下ろした。
水の中からは、自分とソックリの顔をした赤毛の少年が無表情にこちらを見返してくる。
「この池が気に入らないんだ、お前は。違うか?」
シムルグの言葉は、宿で眠る魔術師に向けられていた。
この街では立て続けに人が死んでいた。
殺されたのではない。文字通り死んでいたのだ。病気でも、事故でもなく、苦しみの表情もなく、ただふと心臓が鼓動を忘れて死んだ。
ひとりやふたりならまだしも、ここ数ヶ月ですでに二桁の死人。尋常ではないと恐ろしくなった街の行政が協会に連絡をとったのと、雪丸京介が連行されたのはほぼ同時。
そういうワケの分からないものはお前の仕事だろうとその場で命令が下されたのだが──書き仕事を一段落させ夜の街を歩き回った雪丸はこの池でしばらく足を止め、水中をじっとのぞき込んだ後、“僕の手には負えない”と早々に敗北宣言をしたのだ。
「これは僕とは最悪の相性だよ。別の誰かを呼んでもらおう、話はつけるから」
書類作成をさっさと終わらせたいための口実なのはミエミエだった。誰もがそう思っていた。シムルグをのぞいては。
「アンタほどの魔術師がどうしようもないモン、誰なら対処できるんだ?」
訊いた少年に、魔術師は夜空を仰ぎ少しばかり苦味のある口調で応えてきた。
「魔導捜査局かな」
魔導協会司法部門、広域・狭域魔導捜査局。
表向きは世界的な警備組織。裏の顔は、“魔術師”とは違う“魔導師”という種類の人間を絶滅させるための精鋭組織。
「……魔導師絡みなのか?」
「──どうだろうね」
機密事項かとわざわざ声を低くしてやったのに、雪丸は首を横に振ってきた。
「それなら……」
「だけど」
シムルグの言葉を遮った優男が、波ひとつない池に目を落とす。
そしてしばし黙してつぶやいた。
「そうか……これは報いなのかもしれないね。決着をつけろってことか」
──そう言ったあの男はこの泉に何を見ていたのだろう。
それを確めたくて、少年はここに来た。
こんな時間に来たのは、雪丸に近付いてはいけないと釘を刺されていたからだ。
止められてはいたけれど、来た。
なんだか悔しかったのだ。あの“雪丸京介”があっさり負けを認めるなんてことは。何もしないまま引き退がるなんてことは。
それに、どうやらこの街の人間は“雪丸京介”を知っているらしい。格安で上宿を提供してくれたり、せっせと雪丸の飲み物を運んできてくれたり、シムルグが外を歩いていると「雪丸さんのお連れさん」と呼ばれてお菓子やら劇場のチケットやら色々なものをもらったり。
この街に来てどことなく浮かない雪丸とは正反対の反応だ。
彼らは雪丸が降参した時ひどく落胆していたが、それでもこれだけ良くしてくれるのは、まだ期待しているからに違いない。彼が解決してくれる、と。
彼は昔ここに来たことがあるのか?
「怪物が住んでる池ってわけでもなさそうだし」
濁りのない池の底にはどこからか飛んできたのだろう木の葉が所々に沈んでいるが、それ以外には何もない。きちんと清掃されているのか泥もたまっていないし、水草や藻も隅の方で揺れているだけだ。
魚がいないのは寂しいが、それゆえに何も怪しいものがいないのは一目瞭然。
見えるのはさっきから同じ、こちらを見つめる赤毛の少年がひとり。
「…………」
目が合った。
口をへの字に曲げた少年が、じっと見つめてくる。
その瞳の奥にあるものが親しみなのか敵意なのか、全く読めない。それはまるでこちらの心を見透かしてくるような瞳で──……。
(こいつは何を考えてる)
シムルグは銀盤に映る少年を凝視し続けた。
そこに映っているのは確かに自分だ。けれど、そうでない気もする。
彼は身を乗り出して手を伸ばした。
水面を叩いてしまえば向こうは消える。あの目は消える。
そう思った彼の指先が冷たい水をひっかき──
「──!」
空しい水音をたてて、少年の上半身は池の中に落ちた。
耳元でゴボゴボと水が鳴り、咄嗟に目を閉じる。しかし前に突き出したままの手はすぐに池の底に届き、彼は勢いよく顔を上げた。
大きく息をついていると上から下へと水が伝ってゆき、ぞわぞわ〜っと鳥肌が立つ。これぞ正真正銘の鳥肌。……そんなことを言っている場合ではない。
「…………気持ち悪」
髪も、服もびしょ濡れだ。
池の水は冷たくて、霧が漂う早朝の空気もまだ薄ら寒い。
「ハ…ハ…ハックション」
シムルグは冷え切って震える身体をぎゅっと抱き締めた。
「寒い寒い寒い」
これは早く宿に帰って湯浴みをしないと、風邪をひくのは間違いない。
彼は宿に向かおうと回れ右をして、
「あ。すいません」
くすんだ紫色のドレスをまとった女性にぶつかりそうになり、謝った。
「まぁ。どうしたの?」
こちらに向き直った彼女の声は透明で、思ったよりも若い。
「濡れ鼠じゃない。池に落ちたのね?」
「まぁ」
「そのままじゃ風邪をひくわ。私の家にいらっしゃい。遠くないから」
「ありがとう」
宿へ戻ればいい。頭ではそう思っているのに、口はいつの間にか別のことを言っている。
「温かいココアをいれてあげるわ」
シムルグの手をふわりと取り、彼女が歩き出す。引かれて、少年もついてゆく。
──おかしい。
彼女の髪が長いことは分かる。彼女が時々こちらを見ながら、優しく笑っているのも分かる。だが、彼女の顔が分からない。滲んでぼやけて、分からない。
広場を囲む建物の群れ。ようやく昇り始めた朝陽に照らされ白く輝く霧の中、街が目覚めてゆく。
彼女が一歩進むたび、霧は晴れ街に色が広がった。緑が葉を輝かせ、花が花弁を開く。青い鳥が頭上を飛び、開け放たれた窓で黄色のカーテンが揺れる。
「…………コラ!」
突然、シムルグの腕から一羽の鳥が飛び立った。
「どうしたの?」
彼女が振り向いてくる。やっぱり顔は分からない。
けれど、彼女が池にあった石像の魔術師だということだけは分かった。鮮明に。
「コラってば!」
その間にも鳥は次々飛び立ってゆく。大小様々、色とりどり。
シムルグは鳥の王だ。
勇敢なる旅を成し遂げた三十羽の鳥たちが形作る、一羽の幻獣。一羽の王。
それが今、三十羽に戻ろうとしていた。勝手に。
「貴方は──誰なの!?」
強張った口調で彼女が言った。
「そりゃこっちの台詞だって」
叫びは鳥たちの羽音にかき消され、──少年の意識は拡散した。
「怖い怖い怖い。ねぇ、あの子は何をするか分からないのよ? 何をするか分からないの! 私は怖いの! 私をあの子に会わせて! 私を殺して! 怖いのよ!」
「貴女の行き先は魔導協会の本部です」
「怖い! 怖いわ! ねぇ、私を殺して! そうしなきゃならないのよ! そうしなきゃあの子は──!」
「…………」
「ちょっとー」
声をかけられたと思ったら、
「いつまでそーやってるの、起きなさいよ」
ぐわんぐわんと身体を揺さぶられる。
(……頭痛ェ)
「焼き鳥にするよ!」
(はぁ?)
「シムルグ!」
「…………のわっ!」
目を開けると雪丸の真っ黒い吊り目が飛び込んできて、思わず飛び上がり仰け反る。
「ななな何だよっ!」
「何だよってお前さんねぇ。いつまで外をほっつき歩いてるつもりさ」
「……え?」
優男にトゲトゲ言われて少年が辺りを見回せば、彼が座っているのは朝訪れた広場のベンチで、しかしそこはすっかり夜の帳に包まれていた。
噴水の止まった池を街灯が照らし、周囲の建物の中にさえ、光はない。
「朝からいなくなって。おなかすいたなら帰ってくればいいだろうに。パン屋のおじさんと果物屋のおばさんが取り立てに来たよ!」
「取り立て?」
「お連れの坊ちゃんがかっぱらって行った分、払ってくださいって」
「かっぱら……!?」
そんなことをした覚えはこれっぽっちもない。
「それは、」
「あげく学生から教科書奪っただの、人の家の花壇から花折って持って行っただの、植木鉢割っただの扉壊しただの子ども突き飛ばしただの……もう仕事してる間苦情来っぱなし」
雪丸が言い置いて片目を瞑り、もう片方の目で見下ろしてくる。
「──熱でもある?」
「……頭痛い」
本当に、頭の奥が重くズキンズキンと脈打っていた。
「じゃあ帰ろう」
魔術師は笑って言う。
「歩いて帰れる?」
シムルグが黙って首を横に振ると、
「仕方ないねぇ」
よっこらしょと歳を感じさせる掛け声ひとつ、少年は魔術師に抱え上げられた。
優男が池に背を向けると、必然シムルグの目には池が映る。
暖かい色を落とす街灯の下、水瓶を携えた石の魔術師が、しらじらしい穏かな眼差しで水面を見つめている。
夢の中で怖いと繰り返し叫んでいた、女の金切り声。
それは早朝池で会った、石像の魔術師の声だった。
そして、それに応えた男の声。感情の殺された、事務的な言葉。
それは──雪丸京介だった。
男の歩調が心地良く、遠ざかる池は眠気にかすんでゆく。
「あの池には行くなって行ったのに軽く無視してくれてー。君は僕を何だと思ってるんだろうね。協会もたぶん黙る魔術師だよ? その言うことが聞けないっていうなら、誰の言うことを聞くっていうのさ」
シムルグの耳元で、雪丸の柔らかい軽口は延々と続いた。
少年が眠りに落ちるまで、ずっと。
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