濃い藍色の闇。
薄っぺらな月が見下ろす街。
カーテンに包まれた、暖かな部屋。
石像の魔術師は誰だ?
雪丸京介は何を知ってる?
朝から晩まで、自分は何をしていた? ──かっぱらい? まさか!
じゃあ誰だ? 誰がやったんだ?
「おかしいねぇ。風邪ってわけじゃあなさそうだけど」
シムルグの反芻を余所に、雪丸が少年の額に手を当てて眉を寄せ、唸っていた。
宿に連れて帰られて一日。
熱が高いということはなく、咳が出るというわけでもないのだが、代わりに少年を襲っていたのはひどい頭痛だった。おかげで起き上がるどころか目を開けることもままならず(物を見るとグルングルンして吐き気がするのだ)、一日中寝台に留め置かれている。
おまけに、喉を痛めた時のように声が出ない。
「報告書を協会に送ってくるから、ついでに宿のご主人に花梨の蜂蜜漬けもらってきてあげるよ」
気楽な調子の優男は少年に毛布をかけ直すと、腰掛けていた寝台から立ち上がって机に向かう。
「ランプはこのままにしていくから。この魔術の火は燃え移って火事になることもないし」
(子ども扱いするなっつーの)
せっせと紙を束ねている男の背に毒づく。
「すぐ戻るから」
雪丸はコートをひっかけ振り返りひらひらと手を振ると、ほんの一瞬だけ部屋の奥を見て、扉の向こうに消えた。
濃い藍色の闇。
薄っぺらな月が見下ろす街。
カーテンに包まれた空間の、息を潜めた静寂。
人間がひとりいなくなっただけで、部屋の温度がぐんと下がった気がした。
ちろちろと揺れている炎さえ、冷え冷えとした夜に気圧されている。
「…………」
シムルグは寝台の上に起き上がった。
息を詰めて毛布をはぐ。ひやりとした床に足をついて始めて、頭痛が消えていることに気が付いた。
耳を澄ますと、かすかに階下の喧騒が聞こえてくる。人の話し声、笑い声、注文を叫ぶ声、肉の焼ける音、グラスに注がれる酒の音、皿とナイフが触れ合う音──……雪丸が戻ってくる気配はない。
あの魔術師の言っていた“送る”というのは、宿の配達に頼む方法ではなく、おそらく通信水晶を使ってのことだろう。普通は音しか飛ばせないのだが、高度な魔術をかけ直せば、文字さえも飛ばせるという。
こちらの手元にあった書類の文字が空間を飛び、向こうの水晶の前に用意された紙に複写されるのだ。ただし。中途半端な輩がこれを試みると、文字は自分勝手に鎮座して向こう側にはワケの分からない暗号文が届いてしまうという事態に陥る。
通信水晶は数区画離れた街の行政庁まで行かないとないのだから、彼が言っていたほど早くは帰ってこないはずだ。
パジャマ姿のシムルグは部屋の奥、窓の方へと歩いて行き、備え付けのクロゼットを開けた。中にはたたまれた彼の服。
「…………」
けれど、少年の目的は服ではなかった。奥で鈍く光っている鏡だった。
「あの時、俺はお前を見ていた」
──あの時。池に落ち、バラバラになってしまった時。
「俺は昼飯をかっぱらったりしないし、子どもを突き飛ばしたりもしない」
シムルグは鏡の中の少年を睨みつけた。
自分そっくりの、赤毛の少年。
「お前の仕業だな」
こちらが手を伸ばすと、向こうも手を伸ばしてくる。
「俺がこんなメにあったのも、何人も人が死んでるのも、お前の仕業だろうが?」
相手は答えない。
「あのダメ魔術師が何もしないって言うなら、俺がなんとかするしかねぇじゃん。あいつは自分がどう言われようと気にしないんだろうけど、俺はあいつがバカにされんのは嫌だからな」
鏡の中の少年は、不敵な目つきで睨み返してくる。
シムルグは鏡に向かって拳を突き出した。
「そうだろ、ドッペルゲン──」
濃い藍色の闇。
薄っぺらな月が見下ろす街。
カーテンに包まれた空間の、悪意漂う静寂。
「ただいまー。あれ、シムルグ、起きてて大丈夫なのかい?」
しばらくして、雪丸が帰ってきた。
「治ったみたい」
寝台の上に座った少年が、ぶっきらぼうに応えている。
「そりゃ良かった。ほら、約束の花梨」
「ありがと」
魔術師が差し出した湯気立ち上るカップを手にしばし間を置いて、少年がうつむいたまま続ける。
「なぁ、……おなかすいちゃったんだけど」
こちらへ向かいながらコートを脱ごうとしていた魔術師が、その手を止める。
「何かもらってきてあげるよ。何が食べたい?」
「…………」
「どしたの」
「下で食べたい」
「食堂で?」
「そう」
「酔っ払ってる人もいてかなりうるさかったけど、……大丈夫なのかい?」
「大丈夫」
「──そう」
そのため息の混じったような言い方、あの男のクセだ。ため息じゃない、笑ったのだ。仕方ないねぇ、と。
「いいよ。行こう。着替えはしてよね」
雪丸は歩いてきて、クロゼットから少年の服を取り出す。そしてチラリと鏡を見──静かに扉を閉めていった。
(──気付けコラ!)
大声を出しても届かないことくらい分かっていたが、それでもシムルグは叫ばずにはいられなかった。鏡の中から力一杯叫ぶ。
(ユーキーマール−! このバカ魔術師!)
あの男なら気が付くだろうと楽観していたのだが、どうやら間違っていたらしい。
(そいつは俺だけど俺じゃねぇ! 俺に見えるかもしれないっていうか、基本的には俺なんだけど俺じゃなくって……あぁもうワケ分かんねぇ!)
ワケが分からない。それ以外に言い様がない。シムルグには、自分が今、どこに存在しているのかもよく分からないのだ。
鏡の中か? それならなんでさっき雪丸は何の反応もしなかった?
クロゼットの扉は閉められているのに、空っぽの部屋の様子は手に取るように分かる。
あの間抜け魔術師が自分と──元・鏡の中のシムルグと──楽しげに部屋を出て行ったことまで、分かる。
(なんでだ?)
自問しても答えは出ない。気が付いたらこうなっていたのだ。
鏡の中にいたはずの“シムルグ”が部屋の中にいて、部屋の中にいたはずのシムルグはここ──面倒だから鏡の中──に閉じ込められてしまった。
なんだかんだ言って視界は完全に鏡の中からだ。今はクロゼットの扉が閉められているため、真っ暗闇。それでも、見ようと思えば部屋の全てが見渡せる。
不可解極まりない。
(……一生このままだったらどうしよ)
シムルグは闇の中であぐらをかき、腕を組み、唸った。
問題の中心にいるのは、“ドッペルゲンガ−”に違いない。
ドッペルゲンガ−:二重に歩く人。
“分身”とも呼ばれるそれは、どこからともなく現れる二人目の自分であって、自分の複写。水晶を通った文字が書き手の筆跡そのままに複写されるが如く、何から何までが自分と同じ、分身。
出会った者には時を置かず死が訪れるという──幻獣。幻なのか、獣に分類されるのか疑問ではあるが、一般にはそう言われている。
この街の人々が次々と不可解な死を遂げたのは、皆、自分の分身と出会ってしまったからではないか──シムルグはそう推測していた。
彼が池に落ちた空白の一日、各所で騒動を起こしていた“シムルグ”も彼の分身なのではないか、とも。
(アイツが俺の分身なら、アイツは俺だ)
紛れもない。
(どっちが“本物”ってことはないわけだ。どっちも“本物”だ)
ということは、だ。
(アイツがここにいようが、俺がここにいようが、何も変わらねぇってことじゃん)
そーかそーかとなんだか急に悟ってしまう。
シムルグと、今外にいる分身との間では決定的な変化が起きたのかもしれないが、結局は何も起きていないということになるではないか。
雪丸の連れが自分だろうと、自分の複写だろうと、変わりはない。全く同じなのだから、雪丸が気付かないことの方が当たり前なんだろう。自分の複写なのに子どもじみた悪戯ばかりしていたのが腑に落ちないが、もしかしたら、知らないところにそんなことをしたがる自分がいたのかもしれない。普段は抑えているだけで。
(…………)
目が慣れてきたのか、クロゼットの隙間から差し込む弱い光で中が見渡せるようになった。
すっからかんな棚が、余計空しい。
これなら右も左もない漆黒の闇に放り込まれた方がまだマシだ。
(一生このままかー……耐えられねぇー……)
ぼんやり思っていると、ふとひらめく。
(今の俺がアイツに会ったらどうなるんだ?)
どういうわけだか、シムルグもその分身も、まだ出会ってはいないということになる。出会えば死んでしまうのだから、池の時も、この鏡の時も、入れ替わっただけというのが正しいのだろう。
しかしもしシムルグがどうにかしてコッチの世界から現実の世界へと抜け出して、アイツと出会ったなら。
分身に出会ってしまったアイツは死に、本体を失ったシムルグもまた死ぬのだろう。
自殺に近いが──少なくとも、一生この中途半端な場所で中途半端な存在としてただ在り続けるという苦痛からは逃れられるはずだ。
(もしかして……)
この街で死んだ人間は皆、それをやったんじゃなかろうか。
死んだのは分身の方で、殺したのは分身と入れ替わってしまった本体だった──?
出会って死んだのではなく、出会いに行って殺した……もう一人の自分を。
そして自分を。
この世界から抜け出してアイツに出会いに行く方法がどこかにあるのだ! ……とは思わなかった。
(…………)
どちらが本物のシムルグにしろ“シムルグ”が死ねば、雪丸京介という魔術師は深手を負うに違いない、そう思った。それが哀しみであれ責であれ、あの男の内にある氷の層をさらに厚く閉ざすことになるのだろう、と。
(……腹くくって一生ここにいるかぁ)
シムルグはクロゼットの煤けた天井を見上げ、つぶやいた。
(あんな池行かなきゃ良かった)
雪丸の警告を肯定するようで気に入らなかったが、結局あの魔術師が言ったことは正しかったのだ。
(──雪丸は一体何を見たんだ?)
波のない透明な水面に。
沈黙の池に。
(この街は、何なんだ?)
シムルグは独り、夜を見つめ続けた。
「貴方は貴方に殺される」
「…………」
「貴方は貴方から逃げられない。あの女と同じようにね」
「僕の相手は僕じゃない」
「私を捕まえても、恐怖は消えない」
「僕の相手は可愛い幻獣たちだよ」
──あれから二日。変化ナシ。
「次の街へはいつ行くんだよ」
寝台に腰掛けぷらぷら足を売らしている少年が、少々ぶーたれた調子で訊いている。
「まだ書かなきゃならない報告書が残ってるから、もう少しここにいるさ。書きあがったら新しい調査リストが届くだろうから、考えるのはそれからだよ」
机にかじりついている雪丸が答える。
「俺もう飽きたよ、この街。探検し尽くした」
「そりゃ観光名所でもない普通の場所だからね、ここは」
相変らずアイツは雪丸にまとわりついてシムルグをやっているし、雪丸は雪丸でそれに付き合いながら仕事をしている。
入れ替わったことに気付かないのが当たり前だと思いつつ、気付いてもらえないのはやはり悲しいものがあった。
「人が何人も死んだっていうアレ、あっちは片付けなくていいのか?」
「…………」
雪丸がペンを止めた。
彼はランプに手を伸ばして炎を強め、くるりと振り返ってくる。
「それはどういう意味?」
顔はいつものように笑っている。
部屋に落ちた彼の影は長く、子ども心に見れば怪物。
「真相を突き止めろってこと? それとも、解決しろってこと?」
「どっちも」
「…………」
雪丸が斜め上に目をやり、少年に戻す。
「真相なら分かっているさ。だから、僕の嫌いな捜査局に頼んだ方がいいことも分かってる」
彼が指先でコンコンと机を叩く。
「この街の不可解な連続死は、“分身”、あるいは“ドッペルゲンガ−”の仕業だ」
(──分かってるんじゃん)
シムルグが鏡の中でコケた時、
「シムルグ」
後ろから名前を呼ばれた。
振り返ったそこにいたのは、雪丸だった。
「…………」
冷静に眉根を寄せて前を見れば、アイツと対峙している雪丸。
冷静にあごをかいて後ろを見れば、雪丸そっくりの雪丸。のほほんとした笑い方まで同じだ。
「あぁそうか、お前は雪丸の分身か」
「さすが察しがいいね」
雪丸二号が呑気にぱちぱちと手を叩く。
「僕らがいるここは──そうだね、この街そのものの分身だと思ってもらえばいい」
「街単位!?」
「正しくは魔導協会が創り出した空間の歪みだけどね。似たようなものさ。現実の街と分身の街、ふたつ重なって出入り口になっているのが、あの池というわけ。ごく薄く、所々の鏡も重なってるけどね」
それだけ言うと雪丸二号はまわれ右をする。
「協会が創り出した?」
シムルグの疑問符に、彼は顔だけ振り返る。
「ついておいで、シムルグ。君にはあの男のしたことを知る権利がある」
あの男。それはひどく突き放した口調だった。
──貴方は貴方に殺される。
ふと、シムルグの脳裏に夢の中の声が響く。その声は石像の魔術師のものだったが、身体の芯が凍るくらい、悪意に満ちた声だった。そして彼女の声に応えたのもまた、雪丸だった。
(まさかこの二号が雪丸を殺すってことか?)
踏み出しを躊躇っていると、
「早く」
二号に呼ばれた。雪丸の叱責よりも鋭く、冷たく。
「分かったよ。行けばいいんだろ、行けば」
少年は半ば不貞腐れて二号の後を──分身の世界の奥へと──追いかける。
彼は怒っていた。毎回毎回変な事に巻き込むクセに、雪丸は必要以上に身を明かさない。自分のことについてロクに教えてはくれない。
「魔導協会の記録では随分昔のことになるんだろうけどね。あの男にとっては昨日とも思える事かもしれないね。それとも、薄情にもすっかり忘れ去ってたかな? 今更のこのこやってくるなんてさ」
二号が部屋の扉を開けた。のぞくように促され、シムルグは魔術師のコートのわきから顔を出す。
「なっ……」
そこは見知った宿屋の廊下ではなかった。
どこなのかも、誰のものなのかも、分からない部屋だった。全ての窓に板が打ち付けられ、割れたティーポットだの破かれた本だの脚が折れた椅子だの、ぼろぼろの家具が無秩序に散乱している部屋。空気は濁り、暗く陰気。
引き裂かれ綿の出ている寝台の横に、破れた毛布を掴み床に座っている女がいる。あちこちほつれ汚れのついたくすんだ紫色のドレス、ボサボサになっている長い栗色の髪……石像の魔術師だ。
だがそんなことよりも──
「……雪丸」
その女の前には、彼女を見下ろすようにして雪丸京介が立っていた。
思わず横を見上げる。二号はここにいる。じゃあ、彼は?
「君の知っている、正真正銘の魔術師雪丸京介だよ。そこにいるのは」
疑問を読んだかのように、二号が言う。
「正確には“いた”だけどね。ずっと昔の彼だ。過去だよ」
雪丸が女に向かって手を差し出した。
「さぁ、行きましょう」
確かに全体的には若いが、今と同じ、輪郭の薄い穏かな顔つきだ。
けれど女は頑なに首を振り、毛布を握り締め、すでに後退れないところにいるにも関わらず、さらに逃げようとする。
「怖い怖い怖い!!」
耳に突き刺さる女の悲鳴。
立ち尽くす雪丸が、ほんの少しだけ顔をしかめた。
「彼女は魔導協会の役人だったんだ。雪丸と同じ、ね。けれど彼女は彼ほど才能に恵まれていなかった」
二号が解説を始める。
「魔導協会に入るのはそれなりに難しい。けれど、そこで生き残る方がさらに難しい。周りはみんなデキる奴ら。デキない奴を見て、自分を安心させる奴ら。彼女は自分と視線とに負けて、協会を辞めたんだ。辞めて、逃げて、ここに来た」
雪丸がもう一度息を吸い込んだ。
「メリッサ=イリアンソス。貴女の身柄は協会が責任を持って預かります。だから──」
「私を殺して! お願い! 殺して!」
焦点のあやふやな目で、女が叫ぶ。
「…………」
雪丸は黒曜の目で彼女を見つめたまま、動かない。
「あの子は何をするか分からないの! 私にもどうしたらいいのか分からない! 怖い怖い怖い! あの子にとって皆殺しなんて簡単なことよ! 私が! 皆殺し!」
「あの子というのは、分身のことですか?」
「お願い! 私とあの子を会わせて! 私を殺して!」
「彼女は普通よりはデキる魔術師だったから、この街に来て皆から頼りにされていた。薬を調合したり、重いものを運んだり、街中の掃除を箒にやらせたり、失くし物の在り処を言い当てたり。皆彼女を慕っていたし、尊敬していた。──ところが」
二号が声量を絞った。
「ある日事件が起こった。悪質な器物損壊事件だ。ある家が何者かに侵入され、屋内がめちゃくちゃに壊されていた。幸い死人は出なかったが、その後も捜査を欺いてこの事件は続き、ついには家人が鉢合わせて鈍器で殴られ重傷を負った。もはや死の声を聞くのは時間の問題だった。街は……見えない恐怖で墓場のようになったんだ」
「怖い怖い怖い!」
シムルグの眼の前にいる女はそれだけを繰り返していた。涙も枯れ果て、喉も嗄れ、手足には自分で引っ掻いたのだろう赤い傷が無数に付いていた。
「貴女が行くのは魔導協会です」
雪丸の声には、色が無くなっていた。
「そして、ある重要証言がもたらされた。事件現場からメリッサが出てくるところを見たという証言がね。確かに数々の破壊は炎で焼かれていたり、雷で打たれていたり、魔術による犯行だという見方が強かった。ところが、その目撃時間に彼女は酒場にいたということが立証され、捜査は迷走した」
二号は過去に立ち尽くす雪丸を眺め、薄笑いを浮かべて続ける。
「疑いが晴れたかと思った彼女だが、その後も事件は続き、目撃証言も続き、しかし彼女の現場不在証明は成立するということが続いた。頭を抱えた当局は協会の魔導捜査局に連絡を取り──幻獣保護局からそれは“分身”ではないかという答えがあった。そこで派遣されてきたのが……あの男だよ」
二号の目が雪丸を指す。
「あの男はすぐにメリッサの“分身”を捕まえた。驚くほど早く。魔導協会が捕獲のために創り出したこの空間に“分身”を閉じ込めたんだ。さすが、一般の魔術師とは格が違うよね。彼から捕獲の一報を受けた協会は、彼に最大級の賛辞を送ると共に更なる指令を与えた。メリッサ本人は死んだことにしろ、そして研究体として極秘に協会に連れ戻せ、ってさ」
「研究……」 「メリッサの分身を捕まえるために街の分身をわざわざ用意したところですでに、研究に使おうって腹だったんだろうさ。それにあの男も異を唱えられるような立場じゃなかったんだ。単なる言い訳だけどね」
雪丸が靴音を立てて彼女に近付き、かがみこんでいた。
「“分身”が生まれてしまったのは貴女のせいではありません。矛盾を抱えた我々は皆、彼らを生み出す可能性を秘めています」
言葉のどこかに硬さがあるのは、まだ現場慣れしていないからなのだろうか。
「……怖い怖い怖い」
しかし女は耳を塞ぎ、聞いていない。
二号があごを引き、雪丸を見据えて言った。
「協会への憎しみ。その裏にある憧れ、未練。人々にもてはやされる幸せの裏、それでは満足できない自尊心。私はここで終わる人間じゃない。これは本当の私じゃない。──よくあることだ。その葛藤から“分身”が生まれることもね」
(なら、お前は雪丸の何から生まれた? 俺の分身は、俺の何から生まれた?)
シムルグは、背筋が寒くなるのを押さえられなかった。
「あの子は私がためらうことでも平気でやるの。思ったことは何でもやってしまうわ! 自分の利益に適うなら! 人を殺すことだって! 私が、人を殺すのよ!」
女の声が高くなってきた。
対して役人のトーンは一貫して変わらない。
「しかし彼女を生み出したのが貴女であることは事実です。責任能力を問わず事実を処するのが協会のやり方です」
「だから! 今ここで殺してって言っているでしょう!? あの子がどれほど危険か、貴方は分かってない! 私はもう、怖くて耐えられない!」
「司法手続きは踏んでもらいます。不当な不利益を被ることはありませんから──」
「私は協会が怖いんじゃないわ! 貴方みたいな優秀な魔術師には分からないんでしょうけど、──私は私が怖いのよ! 何をしてしまうか分からない私が!」
女に掴みかかられて、雪丸がバランスを崩し後ろにひっくり返った。
「司法手続きなんてウソよ! そんなことする気ないでしょう! 協会のやり方は分かってるのよ!」
「…………」
「怖いのよ! 怖いの! あの子は何を考えているの!? 私はこれ以上何をしてしまうの!?」
女は魔術師の襟首を離さない。がくがくと揺さぶり、壊れたように“怖い”を繰り返し続けていた。
ずっと。
「結局彼女は捜査局によって極秘に連行され、雪丸によって捕獲され“分身の街”に閉じ込められたメリッサ・ダブルは、保護局がしばらく研究していた。その後、この事件の全てが捜査局の管轄に移されて……最近、メリッサ本人が脱獄した」
「脱獄?」
「広域魔導捜査局から脱獄するなんて、ありえない。だけど彼女はやった。そして現在、行方不明」
「…………」
シムルグは女に揺さぶられるまま言い返せないでいるかつての雪丸京介を見やり、口を結ぶ。
なんだか今回は、嫌な味のする泥沼に足を取られたらしい。自分も、彼も。
「あははははは!」
突然、現実の部屋から素っ頓狂な自分の笑い声が聞こえてきて、シムルグは思わず身を翻しそちらに走った。
「分かってて、このくだらないお芝居に付き合ってくれてたの!」
「出方を見ていたんだよ、君のね」
「よく言うわ! また逃げようとしてたクセに!」
現実の部屋の中、寝台の上で少年が笑い転げていた。 そしてぴたりと止まり、目を輝かせる。 「ねぇ、なんで分かったの? 私が彼じゃないって」
椅子に座った雪丸は、少年をじっと見つめていた。
為す術なく目を曇らせていた過去とは明らかに違う、深い深い魔術師の眼差し。 「シムルグはね、食事中僕に説教するときは必ず、フォークの尖った先端を僕に突きつけながら話すんだよ」 「へぇ」 少年は感心半分嘲り半分の声を上げ、しかしそれも束の間蛇のような目つきで魔術師をねめつける。
「あの時貴方はメリッサの言うとおり、あの女と私とを会わせるべきだった。私たちを殺すべきだったのよ。その方が彼女も幸せだったし、貴方だってこんなことにならなかったのに」
その言葉でようやくシムルグは確信した。寝台の上にいるのは自分の分身ではない、と。
「…………」
「でも、貴方はあの世界に閉じ込めた私を探しには来なかった。何故? 貴方は貴方自身が怖かったから! 魔導協会が創った“分身の街”の中で、己の分身の存在を知ってしまうのが怖かったから!」
いつの間にかシムルグの背後に立っていた雪丸二号が、小さく笑う。
ひんやりとした、底のない笑み。
「貴方は誰よりも自分を怖れていた!」
少年が声高に言った。
「貴方は自分がどれだけ非情になれるか薄々知っていた! メリッサ=イリアンソスが自身の内にある憎しみ、嫉妬心の大きさに気付き、それゆえ狂うほど私を怖れていたように!」
「…………」
「よくも私を閉じ込めてくれたわね」
少年が目を細め、低く囁く。
「協会の奴らにどれだけ追いまわされたと思う? 閉鎖された逃げ道のない檻の中で」
「シムルグを返しなさい。メリッサ・ダブル」
雪丸の声は穏かだが毅然としていた。
だが少年は気にした様子もなく、
「あの子は、貴方の分身が保護しているわよ。向こうの街で」
言った。そして楽しくてたまらないという笑みを満面に、ぽんと手を打つ。
「そうだ! 貴方の分身に頭下げて頼んでみなさいよ! どうか返してくださいって。彼の気が済むまで殴られ続けでもすれば、返してくれるんじゃない? あぁ、ダメね。私は貴方に言ったんだったわ。──貴方は貴方に殺される、って」
「…………」
雪丸がすっと立ち上がり、コートに手をかけた。
「捜査局を呼ばなくていいのかしら? 手に負えないって言っていたでしょ?」
くすくす肩を揺らす、メリッサ・ダブル。
雪丸がニヤリと笑って肩をすくめた。
「記憶にございませんねぇ」
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