幻獣保護局 雪丸京介 第十六話

分身(ダブル)

─ 後 ─



 分身の街の、広場にある池のほとり。
 メリッサ・ダブルに放り込まれたのか、はたまた自ら無理矢理入り込んだのか、街灯の明かりで包まれたその場所に雪丸京介は立っていた。こちらに背を向けて。
「保護局が研究をして、新たに解明されたことがある。何故、分身(ダブル)と本体が出会うと死が訪れるのか」
 彼はこちらが近付く気配を察したのだろう、しゃべり始める。僅かに震える声で。
「何故か。分身は、本体の完全な複製ではないからだ」
「そうかい」
 雪丸二号に手を引かれながら、シムルグは優魔術師の背を見上げた。
 雪丸が部屋から出て行った後、二号は言ったのだ。「さぁ、僕らも行こう」と。君は重要なお客だから、と。
「それで?」
「人は、何かを欠いて生まれてくる。そしていくつもの矛盾した衝動、想いを抱えている。しかし個人として自我を保つためには、それらの矛盾した要素を取捨選択して一貫性を確保する必要がある。混沌を秩序と為すため、己の一部分を殺さなくてはいけないんだよ。清く生きようと願う者は、己の自由を求める心を。ひたすら己の欲するままに生きようと思う者は、時に良心を、殺さなくてはならない」
「…………」
 二号が少しの距離を置いて立ち止まった。
「その殺した自分こそが、“分身(ダブル)”。何かの拍子に別の実体として現れてしまった、己で殺したはずの、己の片割れ。自分に欠けたモノを持っていて、自分が持っているものは欠けている、相補の関係」
 池の水面に月が映って揺れている。いつも鏡のようだった池に、波の名残があった。
 雪丸はあそこから来たのか?
 あの朝、シムルグがこっちの世界へ来てしまった時のように。
「本体と分身、それはふたりでひとり。ふたりが出会い互いが触れたその時こそ、プラスとマイナスは相殺されてゼロとなり、完全な一人となる。同時に、彼の存在は世界と同化して消える。あるひとつの波が逆位相の波によって打ち消され、波ではなくなってしまうことに近いね。──それが分身(ダブル)と本体が出会った時の“死”の真相だ」
「お前は死が怖いんじゃない」
 二号が口を挟んだ。
「お前は、自分が殺している奥底の自分を知るのが怖いんだよ」
「いいや」
 その声に重ねるようにして、雪丸が小さくゆっくりと否定する。
「あの頃の僕はお前を“僕自身”だと思っていた。だから怖かった。お前を知ることが。でも今は逆だよ。分身と本体とはふたりでひとり。でも、だからこそ今の僕はお前のやっていることは決してやらないってことだろう。つまり、いたいけな少年を人質にとったり自分自身を殺そうとしたりなんてことは絶対にやらないってことになる」
 優男の口調に戦気を読んで、シムルグは身構えた。
「僕の連れ、力尽くで返してもらうよ」
 二号がぎゅっと肩を掴んでくる。
「お前には、こんな芸当できないだろう!」
 刹那雪丸が血の気の失せた笑顔で振り向き、
「──出でよタンポポ!」
唱えて両手を広げる。
 途端、シムルグの視界は黄色と白で覆われた。
「!」
 それは蒲公英(タンポポ)の花だった。それと綿毛。次から次へとドサドサ降って来て前が見えない……どころか窒息死の危険を感じた。綿毛が唇にくっつき、下手に息をすると吸い込んでしまうのだ。おまけに足が黄色の花に埋もれて動けなくなる。
「ぐぁ!」
 黄色の雪崩に混じり二号のうめき声が聞こえたと思ったら、少年を押さえつけていた手が離れた。
 逃げ出そうと蒲公英をかき分けもがくと、
「シムルグ!」
同時に頭上から手が差し出された。見上げるヒマもなく、腕を掴まれ引き上げられる。その時すでに蒲公英は少年の胸にまで達していた。
「大丈夫? 走るよ」
 有無を言わさず魔術師が走り出す。蒲公英の上を。
 ……だが、その黄色の絨毯の上に赤い飛沫が散っているのを、シムルグの目は見逃さなかった。
「雪丸、腕」
 シムルグの手を必要以上に強く握っているのとは反対側、魔術師の利き腕からだらだら血が流れている。
「あぁ、腕? 本体が傷つけば、分身も傷つくらしいからさァ」
 さも当然そうな言い様。
(……手段を選ばない奴……)
 二号が悲鳴をあげてシムルグから手を離したのは、この男が自らの腕を傷つけたからだったのだ。
「お前なぁ……──!」
 雪丸を見上げてハッとする。彼の顔がはっきりしないのだ。
 真剣な面持ちだが、まだ余裕の笑みがのっている。それは分かるのに、視界は顔だけがかすれて焦点がぼやける。
(そうか……、本来ここにいるべき存在じゃないから、世界に拒否されてるのか)
 気付き、ふとあの朝を思い出す。
「雪丸! もうひとりここに現実の人間が混じってる。この間はずみでこの世界に入ったんだけど、その時ここにいた。池の石像の魔術師だ」
「何だって!?」
 雪丸がかすれた声をさらに裏返した。
「この世界に入った!?」
「今驚くのはそこじゃねぇだろ!」
 思わず喚くと、魔術師は分かってる分かってるという顔をしてくる。……本当に分かってるんだか。
「そりゃメリッサ=イリアンソスだ。行方不明になってたメリッサ・ダブルの本体だよ」
「あっちに行こうとしてたぜ」
 シムルグの指差す方向を見、魔術師がつぶやく。
「──彼女の家か」




 雪丸二号の追撃を避け、次々蒲公英を投下しながら坂道を駆け上り、雪丸がある一軒の扉を蹴破った。
 広場から放射状に広がる路地の一本、こじんまりとした家々が立ち並ぶ生活区域の一郭だ。
「メリッサ=イリアンソス。迎えに来ました」
 ずかずかと家の中に入っていく雪丸を追い、
「お邪魔しまーす」
裸足の足裏を払ってから少年も家の中に入る。──と同時に息を呑んだ。
「!?」
 そこは、二号に見せられた過去の部屋だったのだ。
 嵐の跡はなく綺麗に片付いてはいるが、確かにあの場所だった。
 過去。ティーポットの置いてあるテーブルは横倒しになり、窓辺の植木鉢は割れ、土が流れ出し、そばには石が落ちていた。おそらく、外から投げつけられたのだろう。そしてその窓はそれ以上を拒むように、板が打ち付けられていた。
 今は清潔な毛布がかけられているあの寝台に背を預け、彼女は必死で雪丸に願っていたのだ。殺してくれ、と。

「今度こそ、貴女を助けに来たんです」
 奥から雪丸の声が聞こえた。
 どうやら、裏口があるらしい。
「どうやって助けるの。私の頼みを聞いてくれるの? それとも協会に保護するの?」
 女の声も聞こえた。少しふわついたところのある声音、けれどそこには明らかな敵意がある。
「どちらでもありません」
 シムルグはふたりの声のする方へと歩いて行き、目の前にあった木の扉を開けた。
 すると──
「うわっ」
何の心構えもしていなかったところに、下から強風が吹きつけてきた。
 髪が舞って、パジャマの裾が翻る。すぐ前にいた雪丸のコートもぱたぱたと音をたててはためいていた。
 そこは雨ざらしの細い階段、その踊り場だった。非常階段なのかもしれない。下を見下ろせば、遥か下に川がある。水量があるにもかかわらず、動きのない淀んだ川だ。きっと、どこか先で塞き止められているのだろう。
「ちょっとシムルグ、いきなり出てきたら危ないよ」
 じゃあノックでもすればよかったのかよと思うが、ここで言い合いをしても始まらないので、呑み込む。
 女の姿を探すと、彼女は少しだけ下にいた。手すりから背中を仰け反らせ、あとひとつの押しがあれば転落しそうな体勢。
「貴方は──、濡れ鼠の子?」
 くすんだドレスの魔術師が、びっくりした目で漏らした。(無論、顔はぼけやているのだが)
 シムルグは大きくうなずく。
「あの時はありがとう」
「は? なんだって? 鼠? 大丈夫? 君は鳥でしょ?」
 ひとり置いていかれている雪丸を無視して、少年は続けた。
「お姉さん、信じてあげてくれない? このヒト、昔と比べたら随分力の使い方上手くなったんだぜ。しゃべる言葉も増えたし」
「お前さん人を鸚鵡(オウム)みたいに言って……」
 頭上からボソリと聞こえてくるが、やはり無視する。
「お姉さん一生ここにいる気なのかよ? 自分が生み出した分身を野放しにしておく気なのか?」
「その人の連れだったの……そう……」
 彼女の目にどんな感情が浮かんだのかは、よく分からなかった。
「でもね、私はちゃんと責任を果たそうとしたわ。今もそれを願っているのよ。なのにあの時その人は願いを叶えてはくれなかった。責任を果たさせてはくれなかった。私を殺してはくれなかったのよ」
「……だったら自分で行けよ」
 何かが切れた。
「──シムルグ」
「自分で分身を探しに行けばいいだろ。自分で分身に会いに行けばいいじゃねぇか。コイツに頼らないでさ! アンタたちが消えてなくなることが責任を果たすってことだとして、責任ってのは自分で果たすもんじゃないのかよ。違うか!?」
「シムルグ」
 少年は肩に置かれた手を振り払った。
「アンタは結局コイツに助けてほしかったんだ!」
 女の眉間を指差して、彼は言い放った。
 そして一拍置いてその指を雪丸へと移動させる。
「お前も。二号が怖くないなんてウソだ」
 少年は魔術師に突きつけた手を軽く振ってみせる。
「強く握られ過ぎて手が痛ぇよ」
「──それは……」
 反論しかけた雪丸が、しばし沈黙して肩を落とす。
「大人はウソをつく生き物なんだよ」
 普段どんな仕事でも飄々としているこの男が。時折みせる激情の中にさえ理性の余白を持っているこの男が。顔を蒼ざめさせ、声を()らし、力の調節ができなくなるほどに己のコントロールを失っていたのだ。よっぽど二号の存在が怖かったのだろう。
 しかしそれでも彼はここに立っている。過去とは違って。
「お姉さん」
 シムルグはメリッサに向き直った。
「コイツはアンタの本当の願いを知っていた。だけどかつてのコイツはこの世界に踏み込む度胸がなかった。協会に楯突けるだけの基盤も、奴らを欺く(すべ)も、なかった。そしてアンタを助けてどうすればいいのかも分からなかったんだろうさ。命を助けただけじゃ何の意味も無いことくらいは分かってたんだろうけどな」
 下から冷たい夜風が吹いてくる。メリッサのドレスが揺れ、シムルグの赤い前髪が視界の前で揺れた。裸足の足には感覚がない。
「でも、信じてやってよ。このヒトはもう、アンタを助けられる人間になってるんだよ」
「けなされてんの? 誉められてんの?」
(そういう緊張感のない言葉が信頼を失わせるんだよ!)
 ギロリと魔術師を睨むと、彼は明後日の方を向いた。
「私は──」
『!』
 メリッサが口を開いたのと、夜空に閃光が疾ったのはほぼ同時。
 刹那空気を引き裂く爆音が轟いて、近くの民家が木っ端微塵に砕けた。呆然と見つめた数瞬後、崩れた破片が砂塵と共に川へと落ちていく。
 雷だ。それも、天災のそれより破壊力の遥かに大きい。
「…………」
 目が点。三人唖然としていると、またも稲妻が光りどこかに落ちる。
 四方八方から街が破壊される轟音が響いてくる。地面が揺れる。
「僕と僕が真正面から戦ったら、どっちが強いと思う?」
 パラパラと石クズが落ちてきた屋根を上目遣いに見ながら、雪丸が言った。
「無駄だと思う」
 シムルグが答えると、対岸の家が雷の直撃を受けて吹っ飛ぶ。
「僕もそう思うんだよね」
 瞬間、彼に背中を押された。はずみでメリッサの隣りまで階段を降りてしまう。手すりのおかげで止まり雪丸を振り返ると、
「川に飛び込んで」
彼は相変らずの呑気さで降りてくる。
「は?」
「現実に戻るよ。貴女もね」
 シムルグは無理矢理メリッサの手を握らされた。
 雪丸が手すりに手をかざし、
「──壊」
その一言で、鉄の柵はわずかきしみ暗い水の中へ落下していった。
「さぁ、飛んで」
 柔らかな脅迫に重なり青白い光が視界を覆った。
(メリッサの家が──!)
 間を置かず耳をつんざく破壊音。ぐらりと階段が傾く。
「さぁ」
「ちょい待っ──」
 反射で閉じた目を開ける間もなく突き落とされる。
「──道よ開け」
 耳元を過ぎる風鳴りの中、低い声が聞こえた。
 冷たい水の中に落ちる前、少年の目に映ったのは粉々になったメリッサの家、崩れかけた階段に留まり背後を振り返った雪丸、そして瓦礫の上で魔術師を見下ろしている二号──。



「僕はいつでも、僕を怖れてる」



 まぶしくて、目が覚めた。
 光だ。街に、冷ややかな黎明(れいめい)の光が差し込んでいた。
 シムルグは重くすっきりしない頭を二、三度振り、起き上がって周りを見回す。
 そこはあの池だった。
(戻って来たのか……?)
 隣りにはあの女が倒れている。
「そうだ、雪丸!」
 少年は慌てて駆け出し──
「雪丸!」
池の反対側に倒れている魔術師の姿を見つけ、駆け寄った。
 寝ているのか気を失っているのか、強く揺さぶってもウンともスンとも言わない。手は冷たく、白い。
「おい、バカ!」
 首元を掴んでがくがく揺すってもダメ。
「起きろっつってんのが聞こえないのか!」
頬をつねってやろうと手を伸ばすと、さっとその手首を掴まれた。
「起きたよ」
 言うや否や魔術師は立ち上がる。彼の目は鋭い“魔術師”の目。どうやらまだ終わってはいないらしい。
「シムルグ、メリッサを頼んだよ」
 一方的にそう言うと彼は空に向かって左手を掲げた。そして唱える。
「──封鎖」
 耳を澄ましもう一度。
「──封鎖」
「──封鎖」
 低い声がつぶやかれるたび、どこからか重い地響きが聞こえてきた。ずうんと、腹の底から突き上げるられるような。古に滅びたという巨人族が歩いているかのような。
「──封鎖」
「──封鎖」
 それはだんだん近付いてきて……
「──封鎖」
(……げ)
 魔術師の言葉と同時、仰いだ朝空から天辺の見えない巨大な黒柱が姿を現し、一気に降りてきて大地に(くさび)を刺した。
 街を囲むようにずらりと。まるで鉄格子の如く。天からの鉄槌の如く。
「──封鎖」
 さっき現れた檻の内側に、さらなる柱の檻が降る。
(……メリッサ・ダブルを追い込んでるのか……)
「──封鎖」
 この巨大な檻は結界と同じ原理なのだろう。魚を追い込む要領で、メリッサ・ダブルを捕まえようとしている。
 シムルグは倒れたままのメリッサをひきずり、物陰に隠れた。
 メリッサ・ダブルが彼女の身体に触れたら、彼女は分身と会ったことになり死んでしまう。それでは今までの苦労が水の泡だ。
「──封鎖」
 少年のすぐ後ろに柱が立つ。
 光の全てを吸い込んでしまったかのような漆黒。どれだけ首を曲げて見上げても、雲さえ貫いているその果ては見えない。触れてみようとは思わなかったが、触れた瞬間手が焼けるほど冷たいだろうことは本能が察していた。
──と。
「焼き尽くせ!」
 突然広場に鋭い呪詛が響き、
(!)
シムルグが視線をやったその瞬間、うねる火炎が雪丸目掛けて踊りかかっていた。
(メリッサ・ダブル!)
 しかし、
「──反!」
雪丸が手を翻すと炎は跡形無く消え、石畳に蒲公英の花がぱらぱらとこぼれる。
「──縛!」
 息継ぎなしに男の呪が飛び、広場に走り込んで来たメリッサ・ダブルの足元に真っ黒な闇が拡がった。
 それはあっと言う間に彼女の身体を包み集束し──……
「…………」
静寂の広場に、ころんと黒い小さなガラス玉の転がる音がした。
 鮮やかな黄色が咲く中に、ぽつんと黒いガラス玉。
 その場を一歩も動くことのなかった雪丸が、ゆっくり花を踏み分け歩いて行き、ガラス玉を拾い上げた。しばらくしげしげ観察していたかと思うと、最後は無造作に池の中へと放り込む。
 そしてぽちゃんと可愛らしい水音がしたと思った途端、
「──壊」
雪丸の呪文と共にぴしりと嫌な音が続く。
 池を造る石に魔術師の石像に亀裂が走り、ぱりぱりぱりと細かい裂け目が拡大してゆく。
 それを見つめながら、雪丸が言った。
「ここが向こうとこっちの出入り口なんだよ。ここを壊せばほぼ安心だ。鏡はあんまりのぞかない方がいいかもしれないけどね」
「悠長なこと言ってる場合かよ!」
 池が壊れたら一面水浸しだ。ずりずりとメリッサをひきずりながら、シムルグは怒鳴った。
「…………」
 はたと魔術師の顔が強張る。
「逃げろー」
 雪丸が軽やかに走って来てメリッサを抱き上げかけ……
「イタタタタタッ!」
悲鳴をあげて血まみれの右腕を押さえうずくまる。
「……バカかお前」
「バカだったら役人にはなれないよ」
 何故か大真面目に反論してくる涙目の魔術師を一瞥、少年は大きなため息をついてメリッサをひきずり続けた。


 ついに池が壊れ水が押し寄せてきたのは、この三秒後。
 寄せてかえってゆく波の上、呑気な蒲公英がいくつも浮いていた。
「あーもーなんかヤダ」




◆  ◇  ◆



「彼女はもういません。協会は紛れ込んだ住人がいないか調査した後、あの空間を消滅させる決定を下しました。それでも、“分身(ダブル)”が現れないという保障は誰にもできません。分身(ダブル)が現れることも、分身(ダブル)とどう対峙するかも、それぞれ自身の問題です」

 雪丸が彼の兄弟子という人間に連絡を取って数日、メリッサ=イリアンソスに迎えが来た。捜査局に引き渡すのが本来なのだろうが、不良役人は“彼女には時間が必要なんだよ”と言って、そうはしなかった。
「整理がついたら、協会に裁かれに行くなり遠くでやり直すなり、好きにすればいい」とも。
 彼は掟破りの役人だが、過保護な役人ではない。しかしこだわりがあるらしい。

「君は誰なのか教えてくれる?」
 別れ際、メリッサが少年をのぞきこんできた。まだいささか憔悴の色は残っているけれど、芯のある顔立ちには生気が戻った。栗色の目は、しっかり少年を見ている。
「シムルグ」
「……シムルグ?」
「かつて鳥の王への謁見を目指した者です。真実は自らが王であったという、三十羽で一羽の霊鳥」
 雪丸が答えた。
 するとようやく納得したように、彼女がうんうんとうなずく。
「それで……、知らない世界に引きずり込まれたから、危険を感じて分裂しちゃったのね」
「たぶん」
「びっくりしたわ。手品にしては大掛かりだったし」
「俺もびっくりした」
「……分裂??」
 雪丸はあの朝のことを知らない。でも教えてやらない。この男には謎が多すぎるのだ、こっちだって秘密を持っていなければ不公平じゃないか。
 二号を相手にどうやってこっちに戻って来たのかすら、“企業秘密”と口に人差し指をあてて教えてくれないのだから。ケチ。
「良い助手を見つけたのね」
「お陰様で」
 シムルグの頭に雪丸の手が乗せられる。
 ちなみに、怪我をした方の腕はまだ治っていない。治療系の魔術が弱点かとはやしたてたら、“割れた皿を直すんじゃないんだから時間がかかるんだよ!”と言われた。どこまで真実なのかは不明。
「そうそう、貴女に言っておきたいことがあります。あの時には度胸も技量もなくて伝えられなかったことです」
 ……この男、根に持っている。
「僕の師が言っていたんです。“お前が奈落の底に落ちた時。それは本当の不幸ではない”ってね」
「……貴方ご自身は、どうお考えなのですか?」
 メリッサの真摯な眼差しに、雪丸が笑って答える。
「だからこの仕事をやってるんですよ。……いや、ようやくやれるようになったところか」
 いたって気楽に。
「昔は命を懸けられなかった」
「…………」
 彼女は少しの間真偽を確めるように魔術師を見つめていたが、ふと力を抜いて微笑を漏らした。
「私が私の心を変えるのは難しいことだと思うけれど、でも、シムルグに言われて、貴方の姿を見て考えたことがあるの。助けてくれてありがとう」
「それは良かった」
 雪丸が黒髪を風に揺らして笑った。
 いつもと同じ、穏かな笑み。
「やっと、貴女から貴女を助けることができたようです」



 事件は、“分身(ダブル)”と出会ったための死として普通に処理された。
 何故こんなに“分身(ダブル)”の出現が相次いだのかという質問に対しては、「人の心の中なんて分かりゃしませんよ」なんて分かったような分からないような答えを返していた。雪丸は。
 それなのに「根本は断ちました。こんなことはこの先まず起きないと思いますよ」などと平気で言うあたりはお役人だし、「そうですかそうですかそれはありがたい」などと意味も分からず納得して頭を下げてくる向こうのお役人もさすがだ。

 真面目に原因を追及するとすべては魔導協会の責任になるのだから、うやむやにされてしまうのも仕方ないといえば仕方ないのだろう。

 メリッサ=イリアンソスが分身を生み出してしまったことが元凶であることには違いない。しかし、“分身(ダブル)”の何たるかを知らなかった協会は、その消滅方法も知らなかった。分身を生み出したと思われる人々は、往々にしてその不幸な出会いにより命を落としていたからだ。
 そこで協会はその解明も兼ねて、メリッサ・ダブルを捕獲することにした。協会は空間を歪め街を複製した世界を創り上げ、若かりし頃の雪丸京介がそこに彼女を追い込んだ。
 “分身(ダブル)”の恐怖に断続的な錯乱症状をみせていたメリッサは捜査局に連行されたが、司法の場に姿を見せることなく脱獄。
 しかしどうやって逃げ出したのか、どうやって生き延びたのかさえも覚えていないと彼女は言っていた。気が付いたらあの複製の街にいたのだ、と。

 街に池が造られた数ヶ月前、彼女は街に戻って来た。そして──長年閉じ込められていたメリッサ・ダブルは動き始めた。池が現実の街と重なっていることに気付いた彼女はメリッサ本人と無理矢理入れ替わり、自分こそが本物のメリッサとなるべく、この複製の世界を壊してしまおうと考えた。
 空間の歪みは不自然に創られたものであったから、空間は常に自然に戻ろうとする。そこにきて研究に飽きた協会が注視していなかったものだから、街のあちらこちらに向こうとこちらの接点ができてしまい、ふとしたはずみで分身を生み出し、入れ替わってしまう者が増えた。
 鏡を見、そこに映った自分に疑問を感じた時、池の中から見つめ返してくる自分に怯えた時、分身が生まれる機会なんていくらでもある。普通は、それが実体化するほどの念にならないだけだ。
 メリッサ・ダブルは、複製の町の中で嘆く本体たちに教えた。池を通ればこちらから現実の世界に行くことができる。分身の凶行を止めることができる、と。
 自分自身に怖れをなしていた人々は、悪魔の囁きに乗った。
 それはメリッサ・ダブルの遊びであり、ある男を呼び寄せるための撒き餌でもあった。

 そしてその男──雪丸京介がやってきた。複製の世界を壊してくれそうな男が。
 当初は、事件を聞いた彼が分身の街を発見し、協会の怠惰に怒って歪んだ空間を壊してしまえばいいと思っていた。しかしメリッサ・ダブルは、彼が街に入って初めて、何故自分が彼を待っていたのかに気が付いた。偽りの世界を滅ぼせるような魔術師ならば他にもいるのに、どうして自分が雪丸京介を待っていたのか。
 復讐だ。
 彼女をここに閉じ込めたことへの。あの時逃げたことへの。
 そしてそれは、彼女が彼に捕まる際吐いた台詞を現実とするためでもあった。

──貴方は貴方に殺される

 メリッサ=ダブルは、シムルグを複製の街に引きずり込み人質として、その魔術師が最も怖れている者と戦うよう、それによって滅びるよう仕向けた。

 それが、雪丸の見解だった。




「街の人間は魔導協会の指導に従ってあの池を造ったと言っている。協会側はそんな指導はしていないと言っている。確かにね、協会が小さな街の“池”なんかにかまうはずがないんだ。でも協会の──捜査局の人間が創らせたんだろうさ。彼女の脱走、逃走を手引きしたのも身内だよ」
 メリッサ=イリアンソスを見送り、行政庁への説明を終え、その堅牢な扉を背にすると、雪丸が投げやりに言った。
「ただし、組織ぐるみじゃない。単独行動だ」
「心あたりがあるんだろう」
 シムルグが上目遣いに訊くと、彼は少しだけ眉を寄せた。
「そいつは僕以上に自分が怖いのさ。だから僕を試したんだ。彼は手段を選ばないから」
 手段を選ばない。出入り口を造ることによって──自らの意志でとはいえ──死者が出ることさえ、気にしない。
「そりゃまた厄介なのに目をつけられてるんだな」
 陽の当たる道は長閑(のどか)で、もうすでに日常に戻っている。
 メリッサを助け出したあの日には、家の窓から雪丸の魔術である鉄格子を目撃した人がいたし、無論広場の池が破壊されて大騒ぎになっていたが、事件解決のためだと説明すればそれで収まった。

「人は、自分の中にとんでもないものを飼っていることを知っている。自分はこうだと思っている自分への信頼を、簡単に打ち崩してしまうような自分がいることを知っている」
 煙草をくゆらせながら歩いてくるおじさんがいる。
 家の前を掃き掃除しているおばさんがいる。
「協会はあんな小難しい結論を出したけど、それでも結局彼は僕なんだよ。僕の中には彼がいる」
 彼──二号。
「僕は彼になることができる。その時彼は僕になれる。そして僕はまだ、彼を正視できない」
 正面から風が吹いてきて、雪丸が分厚い封筒を抱え直した。
「僕はどこまで──」
「無理だと思うぜ?」
 シムルグが彼の言葉を制して断言すると、
「……何が」
ボソリと言われる。
「何がって」
 少年は行政庁の人間から貰った飴玉を口の中に放り込み、足を速めた。
「ちょっとー、何が無理なのさー」
後ろで雪丸が喚いている。
(どこまで非情になれるかって言うんだろー? どうせ。でも無理無理)
 風にのって飛んできた綿毛が、シムルグの鼻にひっついた。彼はつまみあげてもう一度風にのせてやる。
「いいんじゃないの? “俺は完璧だ”なんて思ってる奴より、コワイコワイ言ってる奴の方がよっぽど安全さ。自分が怖いと思うなら、野放しにしないように努力すりゃいいだけの話だろ」
「何かイイコト言ってるっぽいけど、それ全然答えになってないから」
「うっ」
 後ろから背中を突かれる。膝蹴りだ。
「お前なぁ!」
 怒鳴りながら振り向くと、雪丸の背が見えた。
「…………」
 魔術師は立ち止まり、後方の道端に立っている白樫の木を見ていた。
 木の傍では数人の子どもが地面をつついている。蟻の巣でもあるのだろう。
「どうした?」
「──いや」
 立ち止まるふたりの横を学生がばたばたと走っていく。
「なんでもないよ」
「ふーん」
 ふたりはまた、歩き始めた。
 本当は訊かなくても分かっていた。彼は木の下に二号を見ていたのだ。きっと。
「僕の相手は僕じゃないんだよ」
 後ろで雪丸が笑う。
 シムルグは頭の後ろで手を組み、坂を下る。
「可愛い幻獣がお相手なんだろ」
「おー、分かってるじゃないの」
「あほ」
「は!?」



THE END



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=あとがきっぽいもの=

 年末。しかも論文。なのに何故か書いてしまいました。しかも3ページ。(吐血) こちらは、27万打を踏んでくださったゆう.様に捧げたいと思います。もっとのほほんとした楽しい話を書こうと思ったのに、どこでなにをどう間違えたか、こんな話に……すいませんすいませんすいません(汗) しかも長らくお待たせしてしまい……(さらに汗)  最後の方で雪丸が言っている“そいつ”。某短編や前回十五話にちらりと登場した蒼い人のことです。
そして。自分より大事なものがあるということは、ワンダフルなことだと思います。     不二 香



BGM by Ayumi-Hamasaki [Moments]
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