幻獣保護局 雪丸京介
第18話 夜明けは

340000HIT 樹華様に捧ぐ

前編


 夜明けがめぐる限り、世界は再生し続ける。
 僕らはつながり続けている。


◆  ◇  ◆  ◇  ◆


「──ここは?」
 シムルグは精一杯背をそらし、目の前にそびえる建物を天辺まで視界に納めようとした。
 だが陽光が目に入り、数歩後ろによろめく。
 すると頭上から、
「これは王立図書館だよ。並みの一国なんてもんじゃない広さのね」
雪丸京介の応えが降ってきた。
「世界中の知識が集まる場所だよ。唯一、過去と現在が交わることのできる聖域とも言われてる」
 薄い春色のコートを羽織ったその男は立ち止まりもせずに、足取り軽く少年の横を抜けて行く。
 おそらく彼は何度か来た事があるのだろう。この建物──端など地平の彼方、霞がかって目視することすらできないこの巨大な四角い箱を前にして、歩みを止めないなんて。
「……これが図書館かよ」
 シムルグはつぶやきもう一度建物を仰ぎ、
「王って誰だよ」
雪丸の後を追う。
 建物の周りを囲む緑深い木々の下を駆けると、葉擦れの音がさわさわといっそう大きく聞こえた。人の声はおろか、姿さえ彼ら以外にないのだ。五感を遮るものは何もない。
「この辺、こんなバカデカイ図書館を持てるほどの大国なんてないだろ?」
「魔導協会が創立された時代の王だって話だよ。あの時代はここ一帯王国だったらしいから」
「国は滅んで図書館が残った? 変な話だな」
「ついでに言うと、ここの周囲には遺跡もない。国があったっていう痕跡がないんだ、この図書館以外ね」
 含んだ笑みを浮かべて、雪丸が振り返ってくる。
 はねた黒髪の隙だらけな外見のくせに、力も、行動も、魔導協会がもてあます魔術師。
「それにさ、史実を信じるとすれば、この建物は四千年もこの姿で建っていることになるんだよ。コレを修繕した記録はないし、建て替えられた記録もない」
「四千年……」
 あり得なかった。あり得ない。
 少年が見上げたレンガ造りのそれは、ひび割れも色()せもなく、まだ風雨を知らない高飛車な顔をしている。昨日完成したのだと言われればうなずくが、とても四千年を耐えてきた老賢だとは──。
「というか、正確には建て替えるなんて不可能だって言うべきなんだけどね」
「は? 何で?」
 相手だけが答えを知っている謎かけは面白くない。自然と声が不機嫌になったのだろう、雪丸がニヤッと笑みを広げてきた。
「まぁまぁまぁ落ち着きなさいってシムルグ、入ってみれば分かるから」
「落ち着きがないのはお前だろ」
「そーうー?」
 今にも鼻歌を歌い出しそうな魔術師のまわりには、花が飛んでいる。
 そういえば、雪丸の自宅も集めた蔵書で埋もれているとかいないとか聞いたことがあったような。
(……まさかコイツ何日もここに閉じこもるんじゃないだろうな……)
 げんなりとしたため息は、花咲く優男には届かない。



 入り口の広いホールに置かれた受付で雪丸が身分証を見せ、ただそれだけで通された建物内。外見の威圧感とは裏腹に、確かにそれほどムキになって身分照会するほどのものではなかった。
 足音を響かせないための絨毯は図書館ならば当たり前、中庭を望む窓も特に凝ったところはなく、窓の反対側には一定間隔で並んでいる木製の扉。扉に貼り付けられた真っ平らな金色のプレートには、【王家】だの【人間】だの【魔術】だのといった大雑把過ぎる単語が彫り込んである。
 見るべきところもないこの廊下を延々と歩き続け、いい加減シムルグが飽きてきた頃、先を行く雪丸が足を止めた。【執筆】というプレートの部屋の前だ。
「この部屋には用はないけど、ここを抜けた方が近道だから」
 そう言った彼が扉を開け──……。

「──あのさ、ここ、なんなのさ」
「執筆室」
「……あのなぁ」
 幾千のペンが幾千の羊皮紙を滑る嵐のような音の中、雪丸の不親切な答えにシムルグは己の額を抑えた。
「図書館っていうのは、本が置かれてる場所だよな? 本を書くところじゃないよな?」
 部屋は扉の慎ましさに反して、あまりにも大きかった。魔導協会の大講堂に匹敵するほどの空間。そしてそこには、開かれた分厚い本のページに絶え間なく文字を綴り続ける羽ペンの群れがあった。
 まるで姿の見えない学生が一心不乱に試験問題を解いているかのように、羽ペンたちは羊皮紙の上を飛び回り続ける。部屋は、インクの匂いでいっぱいだった。
 くらくらしてくる。
「ここは図書館だよな?」
 シムルグがしつこく念を押すと、
「僕らは、ここを表せる言葉を持ってないんだよ」
雪丸がしみじみとした声音でつぶやいてきた。
「だからここを創った先人たちは仕方なく、自分たちが知っている中で一番近い言葉を選んだのさ。僕らの精神に対して、言葉はあまりにも足りない」
 そして役人は手近なペンを指差す。
「何を書いてるか、のぞいてご覧よ」
「…………」
 またどうせ何か驚くことが待っているんだろう。けれど素直に驚いてやって雪丸を満足させてやる義理はない。シムルグはぐっと警戒して近付き、羽ペンの踊る羊皮紙をのぞいた。
「……何も書かれてない」
「書かれてはいるんだ。僕らには見せてもらえないだけで」
 羽ペンの黒いインクは、滑るたび羊皮紙へと吸い込まれてゆく。流麗な筆跡をほんのわずか残して、紙の中へと消えてしまうのだ。
「あぁ、そう」
「ここにいる羽ペンたちは、世界に住むあらゆる生き物、あらゆる物、すべての現在を書き留めているんだって言われていてね。ひとつのペンはひとつのモノについて誕生から消滅までを書くんだそうだよ。例えば、あれ」
 雪丸が定まらない一点を指差した。
「あの本が僕の本だとすれば、あの羽ペンは今まさに僕のしゃべっている内容を一字一句違わずに書いているはずなんだ」
「お前が死んだら?」
「執筆は終わって本は閉じられる。そしていくつもある【人間】書庫のどこかにしまわれる」
「じゃあさ、お前のヒミツとか霜夜の弱点とか、ここに来て探して開いて読めば丸分かりか?」
「残念。本の内容は誰にも読めないんだよ。誰が開いてもページは空白だ。見たでしょ?」
 雪丸はさも当然そうに肩をすくめてくるが、シムルグは納得できずに口を曲げる。
「誰にも読めないものに意味あるのか? っつーか、誰も読んでいないのに、どうして“書いてある”って分かるんだよ」
「この図書館の創設者がそう言ってるんだよ。魔導協会に説明書きが紙切れ一枚残っててね、僕らはそれを信じてる」
 盲目なお子様でしょ、と優男が笑う。
 けれど、悪びれていないし恥ずかしいとも思っていないのは丸分かり。
「僕らの立つ大地に名前がないのも、魔導協会の設立者が“必要ない”と言ったからなんだ。僕らはその人の言葉を信じてるんだよ。“名前というのは、ふたつ以上のものを区別をするために付けられるべきものだ。だがこの世界は、遥か散らばる小さな世界をすべて包含したただひとつの世界。自滅の意志と再生の意志、ふたつを背負ったひとつの世界。故に名前は必要ない”」
 魔導協会は魔導師を絶滅させるために創られた──それが世間の定説ではある。
 けれどそれだけではないのだと、きっとこの魔術師は信じている。
「僕らの原点だね」
 そう言う彼の声は楽しそうだった。



 受験戦争もどきの部屋を抜けると、再び凡庸な廊下に出た。
 この建物は、部屋の中と廊下との格差が激しすぎる。内は現実を超えた現実、外は現実過ぎる現実。
 その廊下を五歩横切って雪丸が止まる。
 シムルグが見上げたプレートには【地名】と書かれていた。
「ここはかなり普通の書庫でさ、世界各地の地名についての資料がそろってるんだよ。今回行けって指示された場所、どこにあるのかもよく分からないんだよね……実は」
「あそ」
 分からないのなら協会に問い合わせればいいのだが、この男、諸事情からあまり協会には関わりたがらない。協会の役人のクセに。
「えーと、オ…オ…」
 高い高い天井めいいっぱいまである本棚の林を行ったり来たり数時間、脚立に乗ったお役人はよくやく目星をつけて本の背表紙に指を這わす。
「あ、この辺」
 無駄なことまで口走るのが、いかにも雪丸っぽい。
 疲れて絨毯に足を投げ出し、シムルグはそっぽを向いたままヨカッタデスネと拍手を送る。
「でもってこの中のオレイ──」
 突然、魔術師の声が途切れた。脚立がカタカタと音を立て、シムルグが顔を上げるとその視界に迫ってくる重厚な本。
「ッダァァァァァァ!」
 間一髪、少年は素早く転がり凶器を避ける。本はゴンッと世にも恐ろしい音をたてて絨毯と衝突。
「雪丸!! テメェ何やってん……」
 脚立の上に魔術師の姿はなかった。
「……おい」
 天井までを大きく見回し、息を止めて耳を澄ます。だが、人の気配はない。
「これか?」
 少年は、絨毯に怪我を負わせた加害者を拾い上げた。
 ぱらぱらとめくっていけば、何故かひとつだけ虹色に光っている単語。
「オルトロス?」
 彼が虹をなぞり声に出せば──、
「ちょい待て! 待てって! おい!」
その姿は虚空にかき消えた。まるで、雪が指先で溶け消えるように。

 残されたのは、使用者をなくした脚立がひとつ。赤絨毯に投げ出された本が一冊。静まり返った図書室は、知らぬ存ぜぬを押し通す。
 ようやく誰もいなくなったと欠伸をひとつ、穏やかなまどろみが再び部屋を覆っていった。



◆  ◇  ◆


「寒い寒い寒い。死ぬ死ぬ死ぬ」
 尻餅を付き雪の中に埋もれたシムルグが最初に目にしたものは、カチカチと奥歯を鳴らして震えている雪丸京介だった。
 その姿の背景には、夜空にはみ出る巨大な月。
 地平から昇り切ることができないんじゃないだろうかと思うくらい大きな月が、煌々(こうこう)と夜の冬空を照らしていた。
 そしてその冷たい光が、凍りついた世界を薄い蒼色に染めている。
 少年の背後、影絵のように広がる森。雪の中、ぽつんぽつんと立ち枯れている木々。濃い藍色の空、月を横切るように流れ行く雲海。まばらな足跡が小さくなってゆく先、雪に閉ざされた人の街……。
「シムルグ、君、何してんの」
「何って?」
 ようやく彼の存在に気付いたらしい雪丸の声に、シムルグは我に返る。しかし彼が言葉を続ける間もなく降り注ぐ雪丸の叫び。
「僕は君が向こうで頑張って助けてくれるもんだと思ってたのに、その君がどうしてここにいるのかって訊いてるんだよ!」
「……助けるって何だよ、ここが仕事先なんだろ?」
「違うよ! 全然知らないところだよ!」
 優男は天を仰ぎ片手を額へ片手を広げ、
「っていうかここがどこかも分からないよ!」
嘆く。
「ンなこと力一杯言われたって知るかよ……」
「……だよねぇ」
 シムルグは役人ではないし、彼の仕事の相棒でもない。ただ彼の行く先にくっついて歩いているだけだ。そのことは雪丸自身が一番よく理解している。早く協会で大人しく保護されていろと説教しているのは彼の方なのだ。
「きっと呼ばれたんだね、僕は」
 魔術師がため息まじりに言う。
「そういうことだろ」
 誰に呼ばれたんだとは訊かない。誰かに呼ばれたのだから。
「とりあえず、あの街に行こうか」
 白い息を噛み締めて雪丸が歩き出す。
「雪丸。たぶんだけど、あの街の名前は“オルトロス”って言うんだ。本にそう書いてあった」
 シムルグは図書館での出来事を思い出しながら、魔術師の足跡を辿って後に続いた。
「オルトロス。──夜明け、って意味か」
 男が凍えた手をさすり、息をかける。
「そりゃまた、ずいぶんと深い名前だね」
 それっきり彼は黙り込んだ。
 本来が華奢に出来ている彼にとって、この道なき雪道を前へ進むのは酷なことだろう。おまけに薄いコート一枚羽織っただけの状態で。だからこそ、鳥の姿になれば苦労しないシムルグも、少年の姿のままで雪をかきわけて行く。
 指先つま先は凍るように冷たいのに、身体は熱い。滲んだ汗が氷風に吹かれて寒さが増す。
「なぁ、今お前が凍死したら労災おりる?」
 沈黙に耐えられず、シムルグは恐る恐る男の背中に声をかけた。すると、
「……仕事とは関係ない場所にいるから無理だろうなぁ」
意外とのほほんとした答えが返ってきた。
「それよりさぁ、シムルグ。ここで行き倒れても誰も見つけてくれないような気がしない?」
「確かに。何千年も冷凍魔術師になってるかもな」
「解凍したら生き返るかな」
「普通無理だろ。吸血鬼じゃあるまいし」
 白うさぎの姿ひとつない零下の雪原に、ふたつの影がもそもそと青い溝をつけていく。
「吸血鬼って生き返るわけ?」
「首()ねても聖剣でぶった斬っても生き返るんだって」
「……そう…だったっけねぇ?」

 そんな他愛もない会話を繰り返しながら、二人は一度も休憩を取ることなく──取ったら一巻の終わりになりそうだった──、街へと入った。
 とりあえず暖かくて何か食べられてついでに泊まれるような場所を探そうと、大きな通りを行く。さすがに通りの雪はある程度片付けられていて、下半身が埋まるようなことはない。
 ただし、住民が片付けた雪は家や店の軒先に迫るほど積まれていて、本当は綺麗に舗装されているのだろう道は踏み固められた雪の下。慎重に歩かないと、つるつるに凍っていて転びかねない。
 特に雪丸のようなお年を召した人間は、コケて腰でも打ったら致命傷だ。
 そんな中──、
「……ねぇ、シムルグ。変じゃないかと思うんだけど」
街の微妙な違和感に気付いたのは雪丸だった。
「俺は変じゃない」
「いや君じゃなくて」
 雪丸が立ち止まった。後ろを歩いていたシムルグも仕方なく止まる。
「今、夜だよね?」
 魔術師が夜空の月と少年とを交互に見ながら首を傾げた。
「俺たちの常識が通用するなら、夜だと思う」
 シムルグも、夜空の月と雪丸とを見比べて返した。
「だとしたらさ、変だよ」
 言われてシムルグは周囲を見回した。
 きゃいきゃいと数人の子供たちが道の脇で雪だるまを作り、その横の露店では、並べられた冷凍果実を見比べている母親がいる。そしてその背景を、毛糸の帽子を目深にかぶった商人が荷馬車に薪を載せ横切っていく。
 数軒先には雪かきをしているおじさんがいて、通りの向こうには犬を散歩させている青年がいる。
「夜なのに子供が遊んでて、荷馬車が動いてて、露店もやってて、酔っぱらいもいなくて、酒場の呼び子もいない。まるで昼間みたいだと思わない?」
「……確かに。でも世界には色んな文化が──」
「でしょ。……あ、すいませーん」
 聞いちゃいない。雪丸はひとりで断じると、さっさと雪かきおじさんの方へ行ってしまった。
「すみません、ちょっとお聞きしたいんですが、今って夜ですか? 昼ですか?」
 この男は時々、役人のくせにとんでもない訊き方をする。もっとまわりくどい訊き方はできないのか。
 しかし訊かれた方はこんな質問に慣れているらしく、
「夜だが昼だよ」
雪かきの手すら止めずに答えてくれた。
「この街に朝は来ないよ。ついでに春も来ない」
「朝が来ない……ですか?」
 雪丸の口調が変わり、シムルグは視線だけ向けた。
「それはいつからなんですか」
「さぁ、いつからだっけかな。朝を呼ぶ召喚士が仕事をしなくなったのさ」
「朝を呼ぶ、というと──フェニックスを呼ぶことのできる召喚士が?」
「あぁ、そういうことだ」
 おじさんが雪かきの手をとめた。スコップを雪に突き刺し、腰の後ろに両手を当てて背を反らせる。
「召喚士はフェニックスを呼び、フェニックスは朝を呼び、街に朝がやってくる。朝と夜とが同じ回数行き来して、季節は冬から春へと変わる。アンタの国だって同じだろう? だが俺らのところの召喚士様は職務放棄しやがった。おかげでいつまでたっても朝は来ない、春は来ない。屋根の雪が消えることはねぇし、月しか見たことのない子供までいる。年寄りは外を歩くのもままならねぇ、雪かきだって難儀するがやらなきゃ家が埋まっちまう。療養所はいつだって骨折っただの足を捻挫しただの、じいさんばあさんでいっぱいさ」
「その召喚士は今どちらに?」
「街の外の森に住んでるよ。俺には、街をこんな目に遭わせといてそれでもまだこの街の見える場所にいられるってその精神が分からないがね」
「……なるほど、そういうことでしたか」
 雪丸が神妙に言い置いて、
「ところで」
いきなり素に戻った。
「どこか無料で食べさせてくれて無料で宿を貸してくれるところって知りませんかね?」
「金を払えばいくらでもあるが」
 おじさんの声音が(いぶか)しさを含んだ。
 万年脳内春男は気付いていない。
「たぶん通貨が違うと思うんですよ。僕らもんのすごく遠くから来たもので」
 雪丸は飄々とした調子で「ホラ」とコートのポケットからひらひらのお札を取り出したが、手渡されたおじさんは近付け遠ざけ目を細め、フンッと鼻を鳴らして彼に突き返した。
「しかしですね、必ず後ほどお支払いできますから。私はこういう者でして」
 お札と交換に押し付けるとどめの名刺。
『魔導協会 外遊部門 幻獣保護局 雪丸京介』
 何故か理解してもらえる地域が非常に狭いという、役立たずな紙切れだ。
「は?」
 案の定、おじさんの顔はさらに険しくなった。
「雪丸、もういいから行くぞ」
 漂い始めた不穏な空気に、シムルグは雪丸のコートの裾を引っ張った。
 だが、
「魔導協会でしがない役人をやっておりますので、ツケていただいた分は全部経費で落とします。ご安心ください」
少年の忠告を無視した雪丸は営業微笑でおじさんに手を差し出す。握手のつもりで出したのだろうその手は、しかし手首をがしっと掴まれた。
「ん?」
「詐欺だ! コイツ役人を(かた)ったぞ!!」
 おじさんが叫ぶと、店から家から強面(こわもて)の男たちが飛び出してきた。あっという間に包囲され、鳥の子一匹逃げられない状態に陥る。
「えーと?」
 笑顔のままおじさんに疑問符を投げる自称役人。
「王族を騙る者は死刑、役人を騙る者は永久禁固刑だ」
「えぇ〜〜?」
 法律家のような厳然としたおじさんの断言に、ようやく優男の顔がひきつった。
 じりじりと狭められてゆく円の中心で、冷や汗を垂らしている。
「……声かけたのが若いネェちゃんならちょっとは違ってたかもしれないんだけどなぁ」
 シムルグは深く深くため息をついた。
「さぁ、ちゃっちゃと歩け!」
「なんでー!」




 雪丸とシムルグが連行されていたその頃──月桂樹の紋章を冠したかの王立図書館には、別の来客があった。
 魔導協会の役人と鳥の王が素通りした、【人間】の名を掲げる部屋の奥。誰のためにか設けられた長椅子に、黒の化身かとも思われる男が静かに本のページを繰っていた。
 息を呑む美貌の持ち主だが、生憎それを褒め称え陶酔する観客はいない。

 彼の開いた本は確かに一文字の記述もなく、しかし男の白い指は紙面を滑り、紅い双眸はその指を追っている。
 秘密を堅く守るはずのこの本でさえ、男の艶麗な声音に頼まれるとたちまちにして我を失い、かつて紡がれた物語を見せてしまうのだ。
「…………」
 流れていた男の指が一瞬止まり、今度はゆっくりとした動きに変わる。
 それは、これから語られる長い長い一瞬の概略を記した序章──。

 
各国には朝を呼ぶ召喚士がおり、魔界に住むというフェニックスを順番に呼ぶ。
 フェニックスは雄鶏を目覚めさせ、太陽を引き連れ、人々に朝をもたらす。
 それゆえに夜明けは時間を追い、世界のあちこちで訪れるのだ。ひとつ、またひとつと、ろうそくに灯がともされるが如く。

 そして朝と夜が何度も繰り返され、季節は変わる。各国気候の差はあれど、雨が降り雪が降り、嵐が過ぎ風が乾き、果実が実り水が凍てつき、季節は巡る。

 しかし、ヒラールが召喚を放棄したことにより、オルトロスから夜明けと春は消えた。

 地平を染める夜明けは久しく忘れ去られ、雪を映す闇の帳が街を覆い、人々は身を縮ませ、木々は芽吹きをあきらめた順に死んでいく。
 オルトロスの人々はヒラールに代わる召喚士を招聘することにしたが、それでも不死侯・フェニックスを召喚できるほどの者となれば、探し出すのは容易ではない。多くはすでに朝を呼ぶ責務を背負っている者ばかりである。
 彼らがようやく交渉に成功したハロルド・ケレーニー召喚士も、遠方の王室付き召喚士であったため、到着はいつになるか定かではなかった。

 夜は長く、傷は深く、夜明けは遠い。




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