アンドレアルフース

─1─

 
 
「はん。僕を蔑ろにしたらどうなるか、思い知らせてやる」
 
ひとりの青年が暗い夜の回廊を歩いて行く。
金髪碧眼の、見目麗しい青年。
一冊の分厚い古書を脇にはさみ、もう片方の手には揺れるランプを持ち、広き城内を奥へ奥へと歩を進める。
 
「誰も分かっちゃいないんだ。僕は次期国王だぞ? なのにみんなまるで僕のことを信用しちゃいない。いつだって邪魔者扱いだ!」
 
外の風雨を聞きながら、彼は口をへの字に曲げ──そして、古書を見下ろしニヤリと笑む。
 
「一度徹底的に分からせなきゃならないんだ、あの愚民どもにさ! この僕の力を見せ付けてやらなきゃ、やつらはいつまで経ったって分からないんだ!」
 
言葉を連ねるたびに、酔っていく。
 
しかしまだ17にもならない若き王子を、誰が頼りになどするだろうか。
父王は健在。おまけに迫る敵国を次々と退けて、賢君と名高いというのに。
この城の中に彼を次期国王という眼差しで見ているのは、彼だけなのだ。
だが、血気盛んなお年頃には分からない。
注目の的でなければ、気が済まなかった。
 
 
 
「これだな」
 
城の最奥。表からは決して見えぬ小さな塔。その地下室に、彼が求めていたそれはあった。
 
眼前にそびえるのは頑丈そうな鉄の扉。無骨な、ただ中のものを閉じ込めておくためだけの扉。
地下牢とて宝物庫とて、こんな分厚い扉はついていない。
しかしこの世と地獄を隔てる扉ならばあるいは──……
 
王子は胸元を探り、ペンダントにした一本の鍵をとりだした。
隙を見ては父王の部屋を這いまわり、やっと探し出したものだ。
簡素な、手に重い銀色の鍵。
他の部屋のものとは違って宝石ひとつ付いているわけではないが、鉄扉の鍵穴にはぴったりだ。
 
 
ぎぃぃっと軋み音をさせ、ゆっくりと扉を引く。
すると長き年月わだかまっていた空気が、動き始める。
凍りついていた時間が再び刻み始めたかのように、そこだけが異空間であったかのように。
時を止められたその時のままの空気が、時を超えて息を吹き返した。
 
王子は開いた隙間から静かに中を伺う。
けれども明かりひとつない内部は、漆黒の闇に覆われて不可視だった。
仕方なく、手にしたランプを差し入れる。
 
──と、
 
 
「ぁ……」
 
息をつき、王子は思わず本を取り落とした。
ランプを持つ手も小刻みに震える。
明かりに揺れる碧の瞳は甘美な陶酔に見開かれ、彼は息を呑んだ。
 
かざした炎によって闇より浮かびしその者。
 
 
大きな鉄籠の中で身体を鎖にからめられ、自由を奪われ、眠っているひとりの男。
 
透けるような白皙と、耽美な造詣。
乱れた黒髪と、締まった肢体。
神が創りし至上の彫刻。
 
そして緩慢に漂う神性と堕性。
 
星なき闇夜を織ったかのような衣装がその男の身を包み、けれど彼の背中には……
 
「翼が……」
 
静寂の中で、王子は異常に響いた自らの声に驚いた。
一歩退いて再び見上げる。
 
「これが……」
 
そしてゆっくりと、石床に放り出されている古書に視線を落す。
彼は──禁忌を犯そうとしていた。
 
 
 
艶やかな黒翼を持った籠の中の男。
人形かとも見違う彼の、微かな胸の上下だけが生命の証。
人にはない、透明な美。
人にはない、透明な闇。
 
 
王子は畏怖と感嘆に呑まれながらその名をつぶやいた。
 
「悪魔、アンドレアルフース……」
 
 
 
 
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
 
 
 
 
吹きすさぶ風に冷たい雨が混じる、暗い夜。
聞こえる雷鳴は、まだ遠い。
 
王室付き召喚士のクローネ=カイゼリンは、与えられた自室の窓からじっと外を眺めていた。磨き込まれたガラスにぶつかっては、落ちてゆく雫。それを無意識に追う双眸は夜よりも深く、呪符で後ろに束ねられた髪は蝋燭の炎のような緋色。
深海のように沈黙した表情は老成で、しかし顔立ちは少女と女性との間。
 
──ぴし
 
薄暗い部屋に小さく響いた金属音。彼女は怪訝そうに眉をひそめて、ゆっくりと視線を自身の腕へと落した。
 
──ぴしッ
 
彼女がじっと見ている間にも、手首にあしらわれた銀色の腕輪が、ひび割れていく。湖にはった薄氷が踏み割られるが如く、ぱきぱきと脆く崩れてゆく。
 
「何が……」
 
クローネはつぶやいて腕輪を押さえた。だがその動作は一瞬遅く、腕輪は銀の粉と化して、毛足の長い紅絨毯へと無残に散らばった。
 
「一体これは……どうなってんのよッ」
 
苛立たしげに吐き捨てて、彼女は銀粉をぎゅむっと踏みつけた。
腕輪の装飾は非常に細かくて、そのうえセンスも良かった。そこら辺の露店で買い取らせてもかなりの額にはなるだろう代物だったのだ。
 
王族の金使いが荒いこの国にあって、一流召喚士と名高い彼女でさえその給料は低い。やめてしまっても構わないのだが、契約半ばで放棄するなどとは信用問題。次の就職にも多少は響く。だからこそ我慢してあと数ヶ月過ごし、“もしも……”の時にはこの腕輪を売ってお金を作るしかないと思って──
 
「誰かが封印を解きやがったってことかしらね?」
 
思ってはいたのだが、実際そんな無責任なことなどできるはずがない。
 
崩れ去ったその腕輪は、数十年前に彼女がある召喚獣を封印した証。
彼女が当時契約を結んでいた、最強とも歌われた召喚獣をも失い、そうしてやっと封印したという歴史の証明。
 
腕輪を壊すということはあの魔物をもう一度呼び起こすということであり、腕輪が壊れたということは、あの魔物がもう一度呼び起こされたということなのである……。
 
 
 
「ふざけないでよ!?」
 
まとわりつく白の召喚装束をなびかせて、彼女は部屋を飛び出した。
ばたばたと、凍れる形相で城を駆け抜けてゆく。
礼儀も作法もあったものではない。
 
出会う者々が何事かと問うてくるが、彼女に答えている暇などなかった。
腕輪が壊れた今、答えている暇どころか、走っている時間すら無意味かもしれないのだ。
 
昔共にアレと戦った召喚獣(相棒)はもういない。契約時に移った力により、クローネは年をとっていないが、しかしそれが今何の役に立つだろうか?
若さがあろうが、彼女に力があろうが、いないのだ。──呼び出す相手がいないのだ。
召喚士として致命的。
 
小さな者たちをその時々で呼ぶことはあれど、アレを封印したあの時以来、クローネは継続的な契約を結ぼうとはしなかった。
結ぶに値する者がいなかったのも事実。結ぼうという意欲を失っていたのもまた事実。
けれど、何にしても──
 
「アレに対抗できるヤツなんか、もういやしない」
 
だからこそ二度と起こしてはならなかった。
だからこそ腕輪をその身から離さなかった。
ここの国王がクローネを雇ったのも、彼女が“腕輪”という切り札を持っていたからに他ならない。
皆、思っているのだ。腕輪を持っている彼女ならば、かつてアレを封印した彼女ならば、アレを操ることができるのだと。大きな戦力になる。大きな脅しになる。……決意さえすれば、唯一の王と君臨することさえ夢ではない……。
 
けれどそれはすべて愚かなる者たちの浅はかな幻想に過ぎなかった。
何もかもが最強だったあの時でさえ、クローネは封ずることで精一杯だったのだ。
共に生きた相棒を失って、しかしそれでもアレを封印するだけで限界だったのだ。
 
忘れはしない。
忘れられはしない。
クローネはあの時初めて、限界の淵に突き落とされたのだから──。
 
 
 
 
 
 
「王子!」
 
クローネは声の限り叫んだ。
風雨に打たれ、長い衣装が冷たく重い。頬にはり付いてくる髪も鬱陶しい。
肩が大きく開いた作りになっている白服を呪った。
容赦なく叩きつけてくる雨に体温がどんどん奪われてしまうのだ。
服を着たまま風呂に突き落とされたような格好の自分に舌打ちし、そのイライラを眼前の馬鹿にぶつける。
 
「王子! 貴方は一体そこで何をしているのです!」
 
誰も立ち寄るはずのない、最奥塔。その鉄扉の前で、恍惚と笑みを浮べている高貴な人。
大きな本を抱え、止まらない笑いを抑えもせず、その碧眼の焦点はどこにも定まっていない。
 
 
──こりゃイカレてるわ……
 
 
「王子!」
 
しかしなぜか、近寄って肩を揺する気にはならなかった。
雨の中、不気味に笑い続けるその人をただ見ているだけだった。
この国の若い馬鹿に愛想が尽きたのかもしれない。
コイツの奇行に巻き込まれたくなかったのかもしれない。
 
「王子、貴方が……」
 
だが、彼女はしっかりと理解していた。
自らの心の底辺にある言葉を、しっかり聞いていた。
 
 
──封印が解かれた
 
 
「貴方が、破ったんですね?」
 
問いに力はなかった。
 
彼女はただ、近づきたくなかったのだ。
そこにある忌まわしい過去に、そして静かに迫り来る未来に。
何も見なかったことにして、踵を返したかった。部屋に戻りたかった。
何と罵られてもいいから、背を向けたかった。
 
だが、それは叶わない。
 
「隠された驚くべき才だな」
 
「…………」
 
背後から響いた声に、クローネは天を仰いで目を閉じる。
 
──きた
 
誰もの琴線をかき鳴らすこの声音。
柔らかく、鋭く、妖しく。そこかしこに嘲笑を含んで、最後に聞いた言葉は確か“お前らを許すものか”。
その綺麗な呪いの言葉を、彼女は恐ろしいほど鮮明に覚えていた。
 
「才とは素晴らしい。そう思わんか? クローネ=カイゼリン」
 
軽やかな笑い声は耳元で囁かれ、
 
「再び貴様に会えるとは、神も粋な計らいをするものよ」
 
白い手が、黒服に包まれた腕が、冷えきったクローネの身体を後ろからゆっくりと抱きすくめてきた。
夢でないことを確かめるように、長き年月を慈しむように。
重さが、暖かさが、現実を伝える。
鼓動が、呼吸が、ふたりを行き来する。
 
彼女はされるがまま、雨落ちる天に顔を向けて、目を閉じたまま。
 
その首元に、白い吐息がかかった。
 
「何度もお前の夢を見た。お前を私のこの手で血に染めてやる夢を、何度も」
 
「──そう」
 
「この国を炎の海にしてやる夢も見たのだ。……お前に見せてやりたいほど、美しかった。夢だと分かっていても、この身体が震えた」
 
「屍の海は不満だったわけね」
 
クローネが言うと、白い指の尖った爪が、咎めるように彼女の唇をなぞった。
 
「安心しろ。美しいもの全てを見せるまで、貴様を殺しはしない」
 
「それはどうもありがとう」
 
棒読みの台詞を吐き捨てながら、クローネは自らの意志を凍らせた。
 
 
この男は、まだ気がついていない。
もはや彼に敵う者などいないのだということに。
彼が憎み憎むクローネ=カイゼリン。彼を封印したその本人でさえ、もうすでに彼に抗する術を持っていないのだということに。
ならば──
 
 
「夢で見た貴様の死に様も美しかった。憎き貴様がこの腕の中で息絶えてゆくのだ、あろうことか……愛しく思うほどに美しかった」
 
「じゃあ、もう一度夢の世界へ帰りなさい!」
 
クローネは叫んで己を縛っていた腕を振りほどいた。
……というよりも、彼女が叫んだ瞬間、男がぱっと身体を開いたのだ。
 
握った短剣は空を斬り、しかし彼女は振り向きざまに投げつける。
 
「そんなに楽しい夢だったのなら、私がもう一度戻してあげるわよ?」
 
彼女が振り返った先には、忘れもしないひとりの男。
 
この嵐の中雫ひとつたらさずそこにいる、長身の男。
澄ました白皙、闇に輝く紅眼。
比類なき美貌を包んだ黒衣と──、誇らしげに広げた黒翼。
 
「どう? アンドレアルフース」
 
彼女が問えば、彼は頬に走った鮮血へと指をやって、眺めてほぅ、とつぶやいた。
そしてゆっくり視線をこちらへ向ける。
楽しげに彼女を見つめる、憎らしいまでに落ち着き払った残酷な笑み。
 
「それは名案だ、やってみろ。礼に──貴様には、心行くまで地獄を見せてやる」
 
美しく優しい笑み。
危険で純粋な笑み。
 
それが、悪魔の微笑。
 
 
 
 
 
 
 
彼が気付いていないのならば、偽りとおさなくてはならない。
 
全てはあの頃と同じなのだと。
あの頃と同じ、クローネ=カイゼリンなのだと。
憎むべき、殺すべき、破壊の最終目的である召喚士なのだと。
 
でなければ、彼は全てを破壊する。
怒れる悪魔に容赦はない。
彼が怒りの矛先を失えば、全てが塵と消える。
国も、人も、愛すべきもの全て。
 
だから──
偽りとおさなくてはならない。
再び奴を、眠らせる日まで。
 
 
 
彼女は、静かに黒の双眸を細めた。
 
 
 
 
 
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