アンドレアルフース
 
 
─2─
 
 
雨は、降り続けていた。
さっきまでの荒れ狂う嵐は過ぎ去り、今彼女を濡らしているのは大地に染み渡るような慈愛の雨。緑を育み、生きとし生ける者に命を与える静かな雨。
けれど、どちらにしろクローネにとっては冷たい雨でしかなかった。
彼女は、凍りついた足をただ前へと進めて行く。生きているのはじっと闇を睨みつける瞳だけなのではないかと思うほど、彼女の四肢はその感覚すら放棄していた。
 
「復讐、ね」
 
絶望的な声音とともに、何故か得体の知れない笑いがこみあげてくる。
もはや、笑うしかなかった。
 
 
 
 
『罪もなき人々を差し出すわけにはいきません。わたくしたちが人質となっている間、あなたはあの悪魔を消してしまう用意をしてください』
 
それが、アンドレアルフースに囚われた王妃の言葉だった。
 
『我々はそなたを信じている、カイゼリン。どうか、どうかこの国を救ってくれ』
 
それが、アンドレアルフースに囚われた国王の言葉だった。
だが、ふたりの瞳の奥に映る陶酔に、クローネが気がつかなかったはずがあろうか……。
 
 
彼があの城の主となるのに、たいした時間は必要なかった。兵士も、侍女も、宰相も、将軍も、王妃も王も、皆ひとめ見るなり彼に酔った。城中に高貴な美酒がまわったかのように、すべての者の目が死んだ。すべての者が至福に沈んだ。
 
「ただ皆殺しにしただけではつまらない。抵抗くらいはさせてやる」
 
優雅に玉座で足を組むアルフースは、そう言って視界の隅に王を見遣った。
 
「何か案はあるか? 国王よ。私を楽しませられるような余興を考えろ」
 
「よ、余興でございますか……」
 
玉座の段下で卑屈に縮こまっている王が息も絶え絶えに喘ぐ。これがあの賢君だとは国民がみたらさぞかし嘆くであろうが、血筋は血筋。王子を見れば親がどうあるか、厚い皮の内側をのぞくことも可能であろう。
 
「抵抗と言いますれば……」
 
賢君の面影すら残さぬ眼差しで、王がクローネを見た。玉座の間の入り口で、びしょ濡れのまま突っ立っている彼女を。
その視線を全身ではねつけ、クローネはだんまりと無視を決め込んだ。
怯えも、寒気も、嫌な顔も、どんな表情すらもしたくはなかったのだ。考えていることを、読まれたくなかった。
 
下から上へと、算段を巡らせるように王は彼女を見、そして彼は揉み手すらせんほどの声でアルフースに告げる。
 
「そこな召喚士は、古、あなた様を封印することに成功した者でございます。どうでしょう、あの者を野に放し、再びあなた様に挑ませては」
 
「そうだな、国王。それは──面白い。自らの手は汚さずに山と屍を積み上げただけのことはある。貴様の案は気に入った」
 
アルフースが即座に口元をほころばせ、オペラの客人のように手を打った。ひとつだけ灯されたシャンデリアが、彼の姿を玉座に煌々と照らす。
 
「クローネ=カイゼリン」
 
彼は実に楽しげに言った。その名前の語感を楽しみ、その持ち主の未来を楽しむ。
ガラス玉のような切れ長の目がこちらへと動いた。
 
どうだ? やるか?」
 
「──いいわよ」
 
どうせ答えるべき言葉はひとつしかないのだ。正解が分かっているのに誤答をするような、そんな危険な橋を渡る必要はなど、今はない。
 
「では決まりだ」
表情を変えずに、アルフースが大きく一回手を打った。
 
「貴様をこの城から出してやる、クローネ=カイゼリン。召喚士を集めるも良し、腕利きを雇うも良し、または──逃げるも良し。貴様の好きにするがいい。私も私の好きにする。それからルールだが……」
 
彼は遠くを見るようにしばし眉を寄せ、そのまま視線をクローネに落とした。
 
「私がこの国の人間を全て殺し終えるまでに、貴様が私を殺すことが出来たなら、貴様の勝ち。私が貴様以外全ての者を殺し終えたら、私の勝ち。簡単だろう?」
 
流れるように紡がれた彼の言葉。玉座に響いたその言葉の意味を理解したのは、おそらくクローネだけだっただろう。
大理石の床に平伏して悪魔を見上げている者は皆、異国の歌を聞いているが如く、うっとりとしていた。 ──誰も使いものにならない。
 
「私が勝ったら貴方は死ぬ。貴方が勝ったら?」
 
「貴様も含めて、この国の人間は全て死に絶える」
 
「それで、終わる?」
 
「──さぁ。……それは分からん」
 
初めて聞く、なげやりな口調だった。
悪魔はきまぐれ。
思いっきりそれを肯定するかのように、ひじをつき、あごをのせ、組んだ長い足をゆらゆら揺らす。
 
「そこまで先のことを問うのは、クローネ=カイゼリン、貴様ともあろう者が愚問だ」
 
「…………」
 
肌寒い空気がわだかまる玉座の間に、静かな沈黙が流れた。
直線で結ばれる紅眼と黒眼。
意志もなく、情もなく、ただ交差するふたつの視線。
クローネは、アルフースを見据えたまま言った。
 
「貴方は貴方を封じた私を憎んでる。貴方に貴方の仲間を殺させた私を憎んでる。なら──私を殺せばそれで全て終わるはずよね?」
 
対して、しばし考え込んだアルフースが返した言葉は。
 
「──貴様、いくつになった?」
 
「……120」
 
「もうそんな婆さんか」
 
「ン百年生きてるアンタに言われたかないわよ」
 
「召喚の契約に基づく作用か?」
 
「私は、殺されるまで死ぬことはなく、年もとらない」
 
「……シェーラー・ルノ、か」
 
ひじに顔をのせたまま、吐息のようにつぶやかれたその名前を知る者は、この冷たい空間の中でただふたり。アンドレアルフースその人自身と、クローネ=カイゼリン。
クローネが唯一契約を交わした召喚獣、悪魔のルノ。
そして、アンドレアルフース無二の友。
 
「だから、私は殺されるまであの者のところへ行けないのよ。貴方が私を──」
 
「お前は」
 
はいつくばった者たちが、思わず悲鳴をあげて身を縮めた。
クローネの言葉を有無を言わさず遮った、底冷えのするアルフースの悪魔の声。
 
「人よりは長い年月を生きたのだ。死を超えた苦しみがあることくらい、知っているだろう。死は、時として逃げ道にしかならぬことも」
 
「…………」
 
それくらい、クローネだって充分分かっていた。自らが起因となっていることで、他の人々が苦しまねばならないのだとしたら──とりあえず良心が痛むだろう。
いかに年はとらぬとはいえ、そんな事態になって全く平気でいられるほど、人間を辞めたわけでもない。
 
けれど、全部が全部アルフースの思いどおりに進んでいることが気に入らない。
だから彼女は返事をしなかった。
 
「…………」
 
黒い紳士は口の端に笑みをのせ、足を組みかえる。
 
「貴様を感単に殺してやるものか。 言っただろう? 全ての美しきものを見せてから殺してやると」
 
 
 
 
 
 
 
街を見下ろす小さな丘を覆い尽くしている暗い森。雨に打たれて道はぬかるみ、夜鷹の鳴き声ひとつ、生き物の気配ひとつない。
 
クローネは熱に浮かされたように、わき目もふらず獣道へと足を踏み入れた。そして確たる意識も持たぬまま、そこへ来ていた。
木々をわけ、泥をはね、小枝を踏み折り、いつの間にか行き着いていた場所。
 
「…………」
 
足を止め、ふと見下ろせば白い墓標があった。まだ新しい花冠が捧げられた、小さな板切れ墓標。
 
「……ルノ」
 
凍りつき、動きを止めた喉からは声など出せるはずもなく、音は小さな吐息で終わる。
クローネは膝を冷たい地に下ろし、肩にまとわりつく緋色の髪をはねのけ手を伸ばし、朽果てもせぬ白木に触れた。
 
 
シェーラー・ルノ。
ここは、誰にも知られぬよう、彼の亡骸を埋めた場所。
命を投げて国を救った悪魔は、しかし共に戦った兵士たちと同じように墓地へと埋葬することは許されなかった。彼は、“悪魔”であったから。
当時の王は理解を示したが、人民を説得することはできなかった。同じ悪魔に大切な者々を奪われた彼らが、同地埋葬など許容できるはずもなく。
 
 
 
 
「それが、ルノ様のお墓ですか?」
 
「……ピーター」
 
「その名前は大昔に捨てました」
 
「……ハロルド」
 
「それは昔に捨てました」
 
クローネが声に振り向いた先の、飄々とした男。
のっぺりした端麗な顔に、薄情そうな蒼の双眸。シワひとつない白シャツに、水滴ひとつついていない黒スーツ。執事の見本のような格好をして、彼は彼女の後ろに直立不動で立っていた。
 
クローネはげんなりしつつ彼の最後の名前を呼ぶ。
 
「カールソン」
 
「結構です」
 
大げさにうなづき、男は切れ長一重の目を細めた。
が、すぐに柳眉を寄せる。
 
「……失礼な。私の目は一重ではなく奥二重です」
 
「あんた──」
 
「多少は」
 
他人の考えが読めるのか。問う前に答えが返ってきた。
 
「風邪をひきますよ、そんな状態で雨の中歩いていらしたら」
 
絶句しているクローネを余所に、カールソンは淡々と言う。
 
「我が主の住処はすぐそこです。お迎えに参りました」
 
「あんたの主」
 
「我が主アンドレアルフース。身体の芯まで雨に凍えた貴女がどこかをうろついているはずだから、探して屋敷へ連れて行くようにと仰せつかりました」
 
「…………」
 
もう、どうでもいい気分になってきた。
あの悪魔が目覚めてからずっと、奴の手の中で踊ってばかりいる。
どうせ“風邪なんぞに貴様を殺されては困る”、あたりがアレが言う妥当な理由なのだ。本気で彼女の身を案じているわけもない。
 
 
──それ以前の問題で、罠でしょう、これは。
 
 
自身が疲れたように言ってくるが……
 
「貴女のお好きなアップルパイとホットココアを用意してございます」
 
「分かったわよ。行けばいいんでしょ、行けば」
 
暖かさには、勝てなかった。
 
 
 
──どうにでもなれ。
   どうせ世の中、事はなるようにしかならないのだから!
 
 
 
 
やけくそだった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
Back   Menu   Home  Next 
 
 
 
 
 
 
 
 
Copyright(C)2002 Fuji-Kaori all rights reserved.