アンドレアルフース

─ 3 ─

 
 
召喚とは、この世界とは違う場所、つまり異界から自らよりも力の強い者を呼び出す術である。そして、自らの代わりに敵と戦ってもらうわけだ。
それは古からこの世界で主流となっていた戦術であり、どれだけの召喚士を抱えているかが国家の命運を決めるとさえ言われていた。
剣士団も、近衛団も、全ては召喚士の前座のようなもの。召喚対召喚の戦いが全てを決し、王の行方を決める。
 
それが、誰も知らぬうちに創り上げられたこの世界のシステムであり、常則だった。何者もそれに疑問を持つことはなく、持ったとしても抗いようなどない強固すぎる枠組み。
 
しかしどれだけ強い者を呼び出せるかは、召喚士の力量による。
つまり──、結局勝負は戦う前から決まっているのである。
数で補えるようなものではなく、弱いものはどこまでも弱く、強いものはどこまでも強い。単純明快な規則がそこにある。多少は運も響くだろうが、結局は呼び出す者と呼び出される者、その力量だけで未来は決まる。
 
それでも召喚という術がこの世から消えなかったのは、人の愚かしさと言うべきか……
 
 
 
 
 
◇  ◇  ◇
 
 
 
「ねぇ、これは?」
 
クローネはメイド少女に案内されるまま人気のない廊下を歩きつつ、衣装をつまんで彼女に問う。
最初に湯を浴びるようカールソンに言われ、身体の冷気はもはや過去へと去っていた。
現金なもんだと自分でも思いながら、しかし世の物理的事象に精神は敵わないものである。
 
「はい……?」
 
「これって、召喚士の服よね?」
 
黒髪の人形みたいなその少女が、湯から上がったクローネに用意しておいてくれたのは、深い青色ではあるが先ほど彼女が着ていたのと同じ、肩があき裾が長い召喚士装束。胸元に奇妙な紋章が入っているものの、どうみても型は同じだった。
昔からこの国で使われている召喚士の衣装。
 
「まさか私がお湯に浸かってるあいだに作ったわけじゃないわよね?」
 
悪魔の館に、“ご主人さま”が敵と嫌う召喚士の服があるわけがない。が、現に着ているその服は召喚士装束としか思えない。
これがもし悪魔の正装だとしたら、……クローネにとってもアルフースにとっても、随分な皮肉だ。
 
カールソンによる新手のイヤガラセかと訝ったクローネだったが、
 
「あぁ、それは奥様のお召し物でございます」
 
「……は?」
 
さらりと返された言葉に一瞬歩みを止める。
彼女はこれ以上ない疑問符を浮かべ、再び少女へと問い直した。
 
「奥様って、アルフースの?」
 
「はい。ご主人さまの奥様です」
 
「…………」
 
軽い眩暈がした。
だが霞みがかかる意識の中、紙一重でイヤガラセではないと決定する。
きっとこの屋敷には、女物の衣装と言えばその“奥様”とやらの物しかないのだ。あとは、少女が身に付けているようなメイド服。
 
(それにしても……、そんなのアリかしら)
 
もちろん不死に近く、ン百年も生命をつないでいる生きる化石アンドレアルフースに、奥様のひとりやふたりや三人や四人、いてもおかしくはない。
おかしくはないがしかし、その奥様とやらが召喚士などということは……。
 
「暖まりましたか、クローネ様」
 
彼女が眉根を寄せたと同時、白々しいカールソンの声が背後から聞こえた。
 
「調度良かった。アップルパイとココアをお持ちいたしました。さぁ、こちらへ」
 
肩越しに見やる、一点の曇りもない笑顔が似合いすぎていて怖いこの男。
 
(…………絶対信用できないのよ、こいつは)
 
スタスタ追い越してゆくカールソンの背を睨みつけ、クローネは嫌々彼について行った。
 
 
寸分の隙もないところが最大の隙。隙だらけであって隙がない。
この男は昔からそうだった。
そしてそういう自分を良くわきまえている。どんな場面においても、自分の取るべき行動、言うべき言葉を計算し尽くしている。だからこそ彼は今、生きている。
 
 
「ねぇ、カールソン。アルフースの奥さんは召喚士なの?」
 
通された小さな一室には大きな窓が設えてあり、国都が一望できた。澄んでいるとは言い難い空気だが、屋敷の外見とは裏腹にそれほど埃っぽいわけでもない。
 
そして、詳しいわけではないが、城の比にならぬほど調度品のセンスは良かった。
天井の真ん中と四隅にあるのはユリの花を象った、淡い琥珀色の光を生むランプ。
毛足が長く、音を吸う絨毯にビロード張りの椅子が四脚。そして、ワイン色のクロスがかけられたオーク材の楕円テーブル。
 
「閣下の奥様──、ですか?」
 
アップルパイの乗った皿を並べ、ココアをカップに注ぎながら、カールソンが少しだけ言葉を切る。
 
「閣下?」
 
「アルフース様のことですよ。あの方は悪魔の中でも高位なのです、『美貌侯爵、30個軍軍団長官』。それがあの方の肩書きです。召喚される側の者にもちゃんとした世界があることを、貴女は知っているでしょう?」
 
それはいささか咎めるような口調だった。
クローネは手近な椅子をぐいっと引き寄せ、身体を投げ出す。
 
「知ってるわよ」
 
一呼吸置いて続ける。
 
「ルノが死んじゃった時、初めて知ったわよ」
 
だからこそ、彼女は召喚士として前進を止めた。
 
「ルノはアルフースに敵わなかった。……ふたりの力の差なんて初めから分かっていたのよ。ルノは私が制御できて、アルフースはできなかったんだから」
 
「…………」
 
カールソンは黙って立っている。
彼女は、気にせずアップルパイを細かく刻んでゆく。
 
「だから私はルノに戦うのは止めろと言ったのよ。──彼を失ってまで護るほどの価値なんてないと思ってたの、この国には。ルノがアルフースに殺られるのは目に見えていたわ。だから私は不戦敗を決めた。でもあの男……ルノは何て言ったと思う?」
 
「……何と、仰ったんですか」
 
「けじめはつけなきゃなんないって、それが掟だって、そう言ったのよ」
 
ぐさっとフォークをパイに突き刺す。
 
「ルノ様は、曲がったことがお嫌いのようでしたからね」
 
「逆立ちしたって勝てっこないのに、あいつは向って行ったのよ! ホントに馬鹿よ!」
 
「しかし──あの時戦っていなかったとしても、閣下はルノ様を消すために追いかけ続けたはずですよ。召喚されていたとはいえ、同族を殺した……“裏切り者”として。それが当時閣下の与えられていた使命だったんですから。それは、ルノ様も良く分かっていらした」
 
「…………」
 
口をつぐむしかなかった。
 
「一番苦しかったのはルノ様を失った貴女じゃない、亡くなったルノ様でもない。親友をその手で殺めなくてはならなかった、閣下でしょう」
 
「分かってるわよっ!」
 
クローネは叫んでアップルパイを口に放り込む。
 
 
 
大地は、ふたりの傷付け合った血で濡れていた。
戦場となった街は焼け落ち、見る影もなく崩れて果てている。
これ以上の“死闘”を、クローネは今まで見たことがなかった。力差は明らかであり──、しかしどちらもあらん限りの力でぶつかった。
それはまさに、誰も口をはさむことのできない真剣な“殺し合い”だった。
 
けれど、戦いはやがて終わる。始まりがあれば終わりが来る。
それもまた、抗し難い世の常則。
 
黒鳥のようなアンドレアルフースの翼は片方無残に折れていたが、しかし血の海に堕ちたのは、もうひとりの悪魔。コウモリの翼を持つ、シェーラー・ルノだった。
喉をかき切られ、絶命は明らか。
月光だけが照らす夜、吐き気がするほどの血臭の中、戦場は静寂に戻った。
 
『凄惨』
 
その言葉は、その時のために創られた言葉だったに違いない。
風も、闇も、月も、何も役には立たなかった。
胃を狂わせる風、孤独を増す闇、非情を露にする月、どれも美しいばかりで役には立たなかった。慰めにも、癒しにも、──感覚にさえ映らない。
 
クローネは、ただ呆然とその光景を見つめているだけだった。
だが何故か涙は出なかった。身体に穴が空いたようにひたすら空虚で、彼女はその場に立ち尽くした。
視界に広がるのは世界の終焉のような地獄絵図。
その中心にあるのは、力を尽くして散った、真っ直ぐな悪魔の死。ルノ。
そして傍らで鮮血に染まったまま涙している殺し屋、アンドレアルフース。
 
(泣いている……)
 
 
──そう。あの時、あの男は泣いていたのだ……自ら手にかけた、友の傍らで。
 
 
 
 
 
 
 
「私だって馬鹿じゃないんだから、分かってるわよ」
 
あの時、初めて彼女は知ったのだ。
召喚士が召喚する者たちにも、それぞれの世界が存在するのだと。彼らにも親がいて、愛する者がいて、友がいる。
彼女は──その全てをルノに捨てさせたのだと。
 
で・も!」
 
手首のスナップを利かせ、クローネは言葉と同時にフォークを飛ばす。
 
「…………」
 
銀の凶器は音を立てて空を切り、カールソンの右頬をかすめて壁に突き刺さった。
しっかりと、深々と。
 
「…………」
 
標的は真っ平らな顔に一筋の汗をたらし、横目でじっとフォークを見ている。
 
「元はと言えばあんたが悪いんじゃない」
 
「それは、まぁ…」
 
「あーんーたーが、制御もできないクセにアルフースを呼び出したりするからいけないんでしょ!? あげくの果てに敵わないと知ったらさっさと軍門に下るんだから! プライドはないわけ、プライドは!!」
 
「しかし強い者に従うは自然の摂理かと」
 
「……あ、そう」
 
反論したカールソンの今度は左頬をかすめてナイフが飛ぶ。
 
「…………」
 
「確かに遅かれ早かれルノはアルフースに殺されていたかもしれないけど、アンタがおかしなことしてくれたおかげで、国は巻き込むは私はアルフースを封印しなきゃいけないわでオオゴトになったのよ!? 自覚はある!?」
 
 
カールソン。
いや、ピーター=ウェルズ。……又の名をハロルド=ケレ−ニー召喚士。
およそ百年前(正確には九十年程前)、クローネ=カイゼリンと共に王室付き召喚士として名を馳せた男だ。
領土拡大戦のために悪魔アンドレアルフースを召喚し、呼び出したはいいが制御に失敗。と思ったら、さっさとアルフースに寝返り、彼の血を分け与えられたとかなんとかで、人間を捨てて悪魔になった。
どこまでも要領よく、やることが素早い男。
 
そしてそこから、アルフースが国家壊滅に至るまで暴れ、ルノとアルフースの殺し合いが生まれ、クローネがどうにかアルフースを封印するという、あの忌まわしい歴史が出来上がったわけだ。
 
 
「アルフースが封印されてもアンタが私に頭を下げてこなかったのは心外だったわ」
 
思いっきり意地悪く笑ってやりながら、更に投げるものはないかとテーブルを探る。
けれどきちんと整えられたそこにはもはや何もない。ココアのカップと水差し。そしてみじんぎりのアップルパイが半分ほど残っている銀皿。
トレイの上のティーポットとひと揃いのティーカップ。
 
「…………」
 
「…………」
 
唇の端を吊り上げるクローネの沈黙と、引きつった笑みのカールソンの沈黙。
無意味に空気が張り詰めた。
が、
 
「ダーツ大会か?」
 
ふいに部屋の入り口から低い声が響いた。
 
「──閣下」
 
あからさまに大きく息をつき、クロスタイを直すカールソン。
彼の視線をたどれば、黒の軍服をまとったアルフースが軽い笑みで扉に寄りかかっていた。銀糸の縁取りがなされた、長衣の軍服。
 
「お帰りなさいませ」
 
カールソンは自らの主に向って大仰に腰を折る。
一方クローネは、黙ったまま椅子に座り直した。
けれども自らの屋敷に捕らえた仇をアルフースが見逃すはずもなく──、彼は紅眼を意地悪く細めて言ってきた。
 
「クローネ=カイゼリン。私を殺める術は見つかったのか?」
 
「いいえー」
 
クローネは壁に突き刺さっているフォークをうらめしげに見つめながら、皿に残っているパイの欠片を口に放り込む。無論、手づかみで。
 
「ゆっくり探すがいい。──ただし、あまりゆっくりし過ぎると無人の都になりかねんがな」
 
「…………何をしてきたわけ?」
 
「特に何も」
 
しらじらしく喉の奥で笑うのがまたしゃくに障る。
 
「何もしてないわりには楽しそうよ」
 
「そうか?」
 
今度は鼻で笑われた。
と、アルフースが音もなく優雅に大窓へと歩み寄る。
そして眼下に広がる灰色の街を見下ろし、白い手袋をはめたままの指でコツコツとガラスを叩いた。
 
「愚かなものだよ、人間というのは。──私が手を染めるまでもない」
 
「…………」
 
「少しだけ、奴等の負感情を引き出した。とは言っても、もともと奴等が深層に持っているものを開いただけに過ぎん。私は何も足していないし、私が操っているわけでもない」
 
「……で?」
 
「猜疑心、劣等心、不安、怒り、絶望、嫉妬、恨み、焦燥……少しバランスを乱しただけでそれは無意識に暴走する。弱き人の精神では、どうにも抑えられない。──負に喰われる」
 
彼の無感動な視線を追えば、街の所々に黒い煙が上がっていた。
 
「自ら、滅びへとひた走る。互いに滅ぼしあって、な」
 
「悪魔」
 
全く悪口になっていないことくらい分かっていたが、思考より先に言葉が出た。
 
「私はただ皆に言っただけだ。──神に祈る者は許さない。他を裏切る者は許さない。もし、誰かがそんな真似をしたら、すぐに街中に配備した私の部下に伝えろ、とな。もちろん、褒美は出す」
 
その結果がこれだ、と彼は窓の外をあごでしゃくってみせる。
おそらく、夜に流れている黒煙は街人による互争の末だと言っているのだろう。
 
「次から次へと謀反人を差し出す人間が城へ来たぞ」
 
余裕を含む声音で付け足すことも忘れない。
 
「…………」
 
無言のままクローネが彼を見上げれば、冷ややかな紅い双眸が、白い仮面のような顔が、容赦なく返答を要求していた。
 
「…………」
 
クローネはやる気のない顔で、視線だけは外さぬままに押し黙る。
 
(小さな部屋でアルフースと対峙──まぁオマケのカールソンもいるけど──それがもっと違う事情だったなら、私は世界中の女という女に恨まれるのかしらねぇ?)
 
綺麗なだけで愛嬌の欠片もない彼の顔を見ながら、ぼんやりとそう思う。
だが開けた口から流れたのは随分マトモな内容で、
 
「アルフース。それは……素晴らしく賢い方法だわ。一国を、世界を滅ぼすには充分な、ね」
 
言い置き彼女は立ち上がる。
 
「反則な程強いのにそのうえ頭の回転まで速いんじゃ、これはまさに世の中の不公平さをアナタが具現してるとしか思えないわよね」
 
「……どこへ行く」
 
彼女が扉まで歩くと、あたかも引き止めているような声がかけられた。
その問いの意味を理解するまでにしばしの時間を要し、
 
「決まってるじゃない。街の暴動を止めるのよ」
 
彼女は答える。
 
「無駄だ」
 
「何でよ」
 
「人ひとりでは暴走した負には向えない」
 
「人生には無駄と分かっていてもやらなきゃいけないことってのがあるのよ。私も、ただ馬鹿みたいに年を重ねたわけじゃないわけ」
 
「殺されるぞ」
 
(本望よ)
 
胸中で短く返して身をひるがえす。と、
 
「──クローネ=カイゼリン!」
 
同時に追って響くアルフースの声。
やたらと偉そうで──、苦々しい。
 
思わず歩を止めて振り返れば、前髪を通した彼の紅眼が僅かに不快を示していた。
けれどそんな言葉にいちいち従ってやるほど、クローネもお人好ではない。
 
──いや、今度こそ思い通りになんてなってやらない。
 
彼女は心に誓ってひたとアルフースに向き直り、
 
「今更許してくれなんて言わないわよ。召喚の過去は変えられないしルノも生き返らない。貴方の仲間も生き返らないし、もう全部どうにもならない。でも今貴方がやってることも地上の人間と同じ、負の暴走なのよ? 私への憎悪、殺意と、召喚士への恨み、憎しみ。貴方は今それで動いてるわけ、国を滅ぼしてるわけよ! 貴方、人の事どーこー言う資格ないじゃない!」
 
息継ぎせずに吐き捨てた。
 
「これが貴方の私への復讐だって言うなら、私にだってそれを止める権利はあるはずよ。復讐を受けて立つ権利くらい許されてもいいでしょう」
 
そして窓際の悪魔を険悪に見据えてつぶやく。
それは、奇妙な最後通牒だった。限りなく黒に近い未来を予見した捨て台詞。
 
「……私はね、アルフース。もう召喚士でいるのに疲れてきたのよ」
 
 
 
 
 
 
 
◇  ◇  ◇  ◇  ◇
 
 
 
 
 
「──閣下」
 
カールソンが声をかけるまで、その男は身動きおろか瞬きすらしなかった。
彼の主は、召喚士のいた場所をひたすら凝視し続けていた。
 
「留めておかなくてよろしいのですか?」
 
カールソンの問いかけに、紅眼の双眸が思い出したようにこちらを向く。
 
「……好きにさせておけ」
 
小さな間の後、主は大きく息をついた。
 
「召喚士という輩は、──どうにも聞き分けがない」
 
気だるげに軍服の襟を緩めながら、彼は静かにこちらへと戻って来た。
 
「…………」
 
カールソンは主の独り言を聞き流し、紅茶の準備に手を動かす。
 
「大人しく流れに身を任せれば、疲れることもなかろうに」
 
主の白い手袋がテーブルに置かれた。
そして彼は手近な椅子を無造作に引き寄せ、ありもしないはずの疲労を労わるかのようにゆっくりと身をうずめる。
足を組み、黒煙の夜を映す大窓に背を向けて。
 
「抗おうとするから血を流すのだ」
 
どこかぼんやりとしたままのその声音のどこにも、刺は感じられなかった。
ただ心に浮かんだ言葉をぽつぽつと連ねているだけ。そんな調子だった。
紅茶を煎れる手は休めぬまま、カールソンは諭すように言ってみる。
 
「放っておけばあの召喚士──クローネ=カイゼリンは死にますよ。……彼女は奥底で死にたがっていますから」
 
「分かっている」
 
それは即答だった。
が──
 
「…………」
 
待っても会話の続きはやってこない。
暖かな芳香が部屋を漂い、何故か沈んで色褪せているランプの光にゆらめいた。
まだこの季節、暖炉に火は入れておらず──居心地が悪くなる静寂がやんわりと肌を刺してくる。
 
「……どうして彼女を庇うのですか?」
 
主には何も続ける気がないとみて、カールソンは疑問をそのまま口にした。
 
素直ということは、時として愚かであることと変わりない。例えそこに何ひとつ違いがなかったとしても、結果は必ず分かれる。
運命と言うか賢智と言うかは人の自由だが、とかくカールソンは事情の読みには強かった。今も、昔も。
そして、そんな曖昧な確信を持って主を見やれば──、
 
「庇う……か」
 
案の定、彼は声を荒げるでもなく頬杖を付いて考え込んでいた。
 
「庇っているように見えたか?」
 
「えぇ、……まぁ」
 
「そうか」
 
主は短く区切り、空いている方の手でティーカップを取り上げる。
鼻腔をくすぐる香りがカップを緩慢に追いかけ、乾いた空間に波紋を描いた。
 
そして、今度はそう長くない沈黙の後に彼の唇から吐息が漏れる。
 
「憎悪すべき者はまた愛すべき者。……愛すべき者故に憎しみは増す」
 
──愛。
 
「憎しみは我が渇き。だが、憎しみは同時背約でもある」
 
(……背約…)
 
着飾った台本のようなその言葉を、カールソンは無意識に反芻した。
背約。
それは忠誠に背くこと。誓いに背くこと。約束を違えること。
つまりは──違約。
 
(……背約?)
 
カールソンは胸中でもう一度繰り返し、次いで彼の主の顔を見た。
前の虚空を静かに見つめたままの主、悪魔アンドレアルフース。
 
その手が再びティーカップを口元へと運び──、ふと唇から離される。
 
 
「神に背約した時は、どこにも痛みなど感じなかったものをな」
 
 
感慨もなく絨毯に吸い込まれていったその言葉は、ため息だったのか。それとも自嘲だったのか。
 
結局カールソンには分からなかった。
 
 
 
 
To be continued.
 
 
Back   Menu   Next
 
Home
 
 
 
Copyright(C)2002 Fuji-Kaori all rights reserved.