アンドレアルフース

─4─

 
夢は覚める。
だが現実は覚めない。背けても、何も言わずそこにある。
 
“信じられない”
 
それが愚かなる言葉だとは思わないが、同時、自分は一体何を期待していたのかと自嘲に陥る。
 
クローネ=カイゼリンもまた、そのひとりだった。
 
 
「……嫌な空気」
 
街の入り口に立って、彼女は僅かに顔をしかめた。
雨はいつの間にか止み、けれど暗鬱な厚い雲は未だ渦をまいて頭上にある。
おそらくもう、凍るような黎明(れいめい)が見えてもいい時間ではあった。が、この様子では見られないだろう。
寒々しい陽光の欠片でさえもあの雲を貫けないのだ。
魔が呼び寄せた不吉の雷鳴は、神の象徴でもある太陽に勝るのか。
 
「……嫌な風」
 
緋色の髪に全く似合わない青の召喚装束が、通り抜けた禍々しい風にひるがえる。
彼女はちらりと後ろを見やった。後先考えず、激昂のまま飛び出してきたが──どうやら追手は来ないらしい。
 
(向こうは魔物、こっちは人間。その気になればどこにいたって見つけられるものね)
 
嘆息交じりに自覚して、彼女は再び視線を前に戻した。
アンドレアルフース。あの、世界をも凍らす美貌の悪魔に毒を叩きつけ、壊すなら守ってやると宣言したこの街。
しかしこの何十年間生きてきて、特に愛着があるわけではなかった。
……なんてことを言うと冷酷無慈悲な人間に聞こえるかもしれないが、クローネは元来宮中の者。特に王室直属であったから、住まいも城なら生活範囲も城の中。
この街も、眼下に広がる景色の一部に他ならなかったのだ。
おまけにルノの埋葬に関する嫌な記憶もある。
 
「放り出しても、良かったんだけどね……」
 
売り言葉に買い言葉。
そして王室付き召喚士という肩書き。
それら柔らかく締め付け、のしかかってくる責任感。
彼女が今ここに立っているのは、ただそれだけの理由だ。
 
そしてただそれだけの理由で、彼女はどうしようもない惨状を眼前にしていた。
一夜にして変わり果てた街。
『王都』として華やかに彩られていたそこは今、色褪せた滅亡の風吹く遺跡。
人気はなく、美しいとさえ思える静寂に満ちている。
ひるがえっている破れたカーテンや、道端に散乱している生活調度品やらが、滅亡からの時が薄いことを示しているが──、それはなんの慰めにもならないこと。
 
問題は時の蓄積ではない。
滅びそのものなのだ。
 
“信じられない”
 
クローネは喉元まで出かかったその言葉を飲み込んだ。
 
「……でも、まぁ当たり前よね」
 
代わりにひどく素っ気ない感想が思わず漏れた。
そう。当たり前なのだ。悪魔に憎まれて残った都など、悠久の歴史といえどひとつも存在しない。どのように滅びたのかはともかく、全て滅びたことに変わりはない。
 
「滅びは免れないって、ことか」
 
彼女は知らずつぶやいた。
 
 
 
 
 
「──まるで占領地じゃないのよ、ねぇ?」
 
彼女が面倒くさげに吐き捨てたとおり、街の中では、通りが交差するごとに悪魔がふたり立っていた。
ただ静かに。一見すれば単なる立像であるかのように、彼らは立っていた。
鷹頭や狼頭の、下級悪魔。柄の長い大鎌を片手に、アルフースのような軍服をまとい、コウモリの羽を背中で折りたたんでいる。
威嚇するでもない、声を上げるでもない、彼らの視線は何もない虚空だけを見つめていた。
 
(…………けど)
 
クローネは訝って眉をひそめる。
 
“自ら、滅びへとひた走る。互いに滅ぼしあって、な”
 
壊され、粉塵の舞う家々を見る眼差しに、アルフースの言葉がよぎった。
そして彼女はそれを肯定せざるを得ない。
 
「これは、悪魔がやったことではないわね」
 
廃墟。廃都。廃街。
なんとでも言いようのありそうなその光景だがしかし、クローネの不快を誘うが如く、街を埋め尽くすどの破壊も人間の域を出ていなかった。
炎で焼け落ちているものはあれ、破壊によって全壊している家はない。
皿が割れ、食べ物が散乱し、槍やら小刀やら武器が転がって──けれど跡形もない区画はない。
 
(暴動)
 
その二文字が鮮明に浮かび上がってくる。
静か過ぎる、そしてどこからともなく漂う血臭の中、それだけが強烈に明滅する。
 
“愚かなものよ、人というのは。そう思わんか?”
 
(──うるさい!)
 
どこからともなく湧き上がってくるあの男の声に、彼女は両手を振って対抗した。
 
(黙りなさい!)
 
叫んで目の前の壁に拳を突き出す。
我ながら勝手な言い草だと思いつつ、腕を駆け上がるしびれに悔恨。
刹那、渋面を作った彼女の耳に別の声が飛び込んできた。
その家の裏手から。
 
「じゃあお前以外に誰が言うっていうんだ!? 他のやつらだって、みんなお前のせいじゃないのか!?」
 
「違う! 俺は何も言ってないよ!」
 
「この人はずっと私といたもの! そんなことできっこないのよ!」
 
「あんたの言うことが信用できるわけないだろ! こいつのためだったらいくらだって嘘を言えるような女!」
 
「嘘なんて言ってない!」
 
「じゃあなんでみんな城へ連れて行かれた!? お前が勝手なことを悪魔に吹き込んだからじゃないのか!?」
 
「違う!」
 
クローネが痛む拳をさすりながら裏へまわると、三人の人間が口論していた。
男がふたりに、女がひとり。どこからどうみても、この辺りの住人に間違いない。
けれど、ひとりの手には大振りのナイフが握られていた。
ちょっとばかり、普通ではない場面に思える。
 
「何、してるの」
 
彼女は咎めの口調で男をみやった。
 
ナイフを持った男。胸倉を掴まれているもうひとりの男。傍らで半狂乱に地団駄を踏んでいる女。
どう見ても状況は明らかだ。だが、彼女は問う。
 
「そんな物騒なもの、どうするつもり」
 
「うっせぇな! 誰だあんた!」
 
ナイフの男が顔だけをこちらに向けた。
ヤツは、娼館婦の品定めをするように、上から下まで視線を這わせてくる。
運がよかったのか悪かったのか、今のクローネの格好は一目で身分差が分かるもの。
間を置いて、男が逆上を収め問い直してくる。
 
「…………あんたは、誰だ」
 
庶民は到底手に入れられぬ純絹の、汚れひとつない長衣。
砂埃さえ流れてゆく長い髪。
この惨状から一寸外さない双眸。
そして、有無を言わさぬ口調。
 
「私はクローネ=カイゼリン。王室付き召喚士」
 
 
その一言が仇となるなど、彼女には知る由もなかった。
 
 
 
 
 
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
 
 
 
 
「──閣下」
 
カールソンが声をかければ、椅子に身を預けていた主が薄く目を開いた。
浅く、儚く、朧なまどろみから彼が戻る。
 
「何か用か? カールソン」
 
生きとし生けるものすべてがその声に震え、死に行くものは至福に逝く。
しかしカールソンは慣れている。アンドレアルフースの声に慣れるということがどんなに恐ろしいことであるか知らぬまま、彼は極めて平静に伝えた。
 
「ヴィネ様がお見えです」
 
「獅子頭王……あの男か」
 
主は、その主を“あの男”と呼ぶ。仮にも上司だが、彼は全く意に介さない。
組んだ足を小さく揺らし、こちらに顔を向けてくる。
 
「あの男が、はるばる万魔殿(パンデモニウム)から私に何用だ?」
 
「お嬢様もご一緒で」
 
付け加えた一言で、主の眼が冷たく光った。
氷った刀の切っ先のように。
冬の夜を映す月のように。
 
「…………」
 
しかし主は沈黙の後にその目を閉じ、厄介ごとに巻き込まれる覚悟をした下っ端然と大きく息をつく。
 
「追い返す……わけにもゆかぬな」
 
「御意」
 
「仕方ない、行く。どの部屋に通した?」
 
主が、無駄な動きのひとつもない緩やかな流れで立ち上がる。
薔薇よりも鮮やかで血脈よりも深い紅の爪が、再び白い手袋で覆われた。
休息などとは到底呼べるはずのない眠り。しかもそれは強引に打ち切られ──それでもその男の美には破綻がない。
 
「……一階の、奥部屋にございます」
 
「分かった」
 
主は軽くうなずき、束の間の安息に別れを告げる。
カールソンもその後姿に従った。
 
 
 
 
悪魔には、階級というものがある。
上から「帝王」「大公」「閣僚」「将軍」「王」「侯爵」「伯爵」「総統」「貴公子」「公爵」となるわけだ。美貌候と称されるアンドレアルフースは侯爵。今宵来訪したヴィネは獅子頭王と呼ばれる、王。
 
本来なら、上司の訪問とあれば昇格を目指して喜びいさんで歓待しなければならないところだが──その典雅な白皙によって彼は、随分と息苦しい立場にあった。ため息をついて上司を迎えねばならないほど。
 
侯妃が身まかって150年。上はこぞって彼を自らの物としようと画策し、身勝手に奪い合い、過ぎた溺愛を注いでいた。
何かにつけては自分の城に呼び付け、小さな手柄に莫大な祝品を贈ってくる。
自分のものに出来ぬならばせめて血縁にと、娘を近づける。
彼が珍しく万魔殿(パンデモニウム)に出向こうものなら、さりげなさを装ってひっきりなしに上が寄って来る。
 
そしてそれは下からの反感と妬みを買うことに直結しているのだ。幸い指揮官としての資質は備えていたので、自分の部下から白い目で見られることはないが、位下の者からの陰口やら地味なイヤガラセはしばしば。
侯爵の会議に呼ばれなかったり、間違った召集状を送り付けられたり。
 
当人はそれを何とも思わない性格をしているが──さすがに、彼を檻に閉じ込めんばかりの争奪戦には、うんざりしている様子だった。
仮病を使って門前払いをしたこともある。
翌日、大量の見舞い品が届いて主は頭を抱えていたものだが。
 
 
“もしかしたら主はクローネに封印されて正解だったのかもしれない”
 
カールソンはそう思う。
 
 
 
 
「よくお出でになりました、ヴィネ王」
 
一番奥の、一番豪勢な部屋。扉を開くなりアルフースの唇から詩でも吟じているかのような台詞が流れ出た。
 
「おぉ、ようやく放たれたか、アルフース。長き年月、そなたの顔を見ないのは実に虚しいものだったぞ。色彩を失った……とでも言おうか?」
 
親愛なる情を表しているのか両手を広げ、部屋の真ん中に立っていた男が返してくる。獅子頭王、ヴィネ。黄昏色の髪をした壮年の、悪魔。
しなやかなアルフースとは違い、武人そのものという体つきをした男。
 
「光栄極まりないお言葉」
 
アルフースが恭(うやうや)しく腰を折る。
そしてヴィネの機先を制して言った。
 
「して、今回は何用でいらしました? 見てのとおり、個人的な怨恨でいささか騒がしくなっております。急ぎでなければ向こうに戻り次第」
 
「ん。んん……急ぎではないが、急ぎなのだ」
 
歯切れ悪く王がつぶやき、横をみやる。
隠し切れない慈愛が混じったその視線の先には、ひとりの若い女。
 
腰までまとわりつく黄昏色の長い髪に、誘うような媚態。そして上向き加減に、しかし離さずひたと見つめる大きな目。細くもなく、太くもなく、微妙なバランスを保っている四肢。
さすがは、悪魔というべきか。
この妖艶たる色は、地上の女の比にならない。
おそらく悪魔の仲間内でも美しいと評判なのだろう、疑いを一切持たぬ顔をしてアルフースに静かな微笑みを投げている。
その美がアルフースの前にあって、枯花のように褪せているとも知らず。
 
「これが、我が娘でな。前々からそなたと会わせたいと思っておったのだ。そなたも先妃を亡くしてもう随分経つ。そろそろ新しい妃を娶ってもよい頃であろう? 今度こそ、百年もせず死ぬような脆い人間などではなく、ずっと傍に置けるそれなりの悪魔を、だ」
 
「そういうお話は私がそちらに戻ってからにしていただけませんか?」
 
「戻ってからでは遅いのだ。皆手をこまねいて待っておるというのに。そなたとてあやつらの玩具にされるのはもう嫌であろう? 妃を据えれば誰も手出しはできなくなろうて」
 
王は、自らもその一員であるとは毛頭考えていないようだった。
アルフースにため息をつかれる対象であるとは。
 
「…………」
 
「話に聞けば、先妃はそなたと一緒になってから死ぬまで、一言も口をきかなかったというではないか?」
 
「…………」
 
アルフースの表情は全く変わらない。相槌さえ打たないものだから、話を聞いているのかいないのかさえも判別つかない。
 
「い、経緯(いきさつ)も聞いているがな……」
 
動かぬ美に静かに射止められ、獅子王ともあろう者が声をつまらせる。
彼はわざとらしく咳払いをし、視線を上へと──琥珀色にきらきら輝くシャンデリアへと移した。
 
「先妃は、そなたの知恵を借りようとしたものが生贄として差し出した召喚士だったのであろう? 天使下がりのそなたには人の身も魂も喰らう欲求はなく──かといって生贄となったはずの娘に人界での居場所はなく。結果、そなたが引き取ったと、そう聞いたぞ?」
 
明らかに真意を問いただす最後の疑問符だったが、アルフースは片眉を上げて応えただけだった。
 
「同情は美徳ではないのだ、アルフース」
 
諌めの調子で一歩前へ出た王。
それを牽制するように、アルフースは冷たく切り返す。
 
「あの娘は私を憎んでいたのだから、口を利かぬは当然のことです。だが我が妻としては──充分でしたよ。悪魔は、手から逃れようとする者を追う習性がある。妻は、逃げようとはしなかった。しかし私を捕らえようともしなかった。私を煩わせることは、何一つしませんでしたから」
 
言葉だけなら、都合よく遊び、都合よく捨てるどうしようもない輩(やから)のように聞こえるだろう。だが発言の主、その美貌にもその姿にも、ふざけた遊び人には絶対にないものがある。
生まれ持ったものか、本人の意志か、古風な言い回しをすれば、凛々しさか……。
闇夜に咲く薔薇の妖気と月夜に咲く白百合の凛気。
双方を抱いている美貌だからこそ、見る者を幻惑してやまない──。
 
案の定、王の娘はアルフースに一瞥すらされていないにもかかわらず、陶酔した様子で頬を赤らめていた。
言葉を交わすだけで融けてしまうかもしれない。
この男を目の当たりにして酔いも恥じらいもしないのは、その美に慣れてしまったカールソン。そして意志の固まり、クローネ=カイゼリン。
亡き者もいれれば──彼の部下や、ルノ。そして、かつての細君も数えられよう。
 
 
「しかし過去はともかく。今はそれどころではないのですよ、ヴィネ王。本当に」
 
冷笑とも思えるような笑い方で、アルフースが茶化した。
世界で一番美しい道化。
 
「我が屋敷からネズミが一匹抜け出しまして」
 
「ネズミなど放っておけ」
 
王が低く潰す。
だがアルフースは尚も道化を演じる。
 
「──放っておくわけにはいきますまい? 私を封印したようなネズミ。いつ他に波及するか知れませんよ」
 
「お前はまた繰り返すつもりか?」
 
忌々しげな王の声が部屋を震わせた。アルフースを軽く上回る軍団を率い、天上地上を踏み荒らした獅子頭王。目が、据えられる。
 
「お前が求めるものは全て、お前に刃を向けた氷像なのだ、アルフース。お前の欠片残された悲愛で抱いても暖かさを伝えない、お前に血を流させるだけの氷像だよ。お前は何度裏切られた?」
 
「…………」
 
「人々平等に愛を与えると信じていた神に裏切られ、哀れにいとおしんだ先妃に裏切られ。──いい加減に分かれ、アルフース。お前は聡明なはずなのに、何故分からないのだ?」
 
軽く唇を結んだままの華麗なる悪魔。王は互いの肩が触れるほどに踏み込み、それに小さく重く耳打ちした。
 
「そなたに必要なのは、そなたが求める者ではない。溺れることの出来る海だ。無償の愛。ただ、そなただけを愛する者」
 
王が後ろの愛娘へと目をやれば、彼女は定められたようににっこりと微笑む。
 
「あれは、そなただけを愛す。そなたの全てを受け入れる」
 
「──死も?」
 
「あ?」
 
遮るように割って入った鋭い言葉に、王は咄嗟に聞き返す。
それを嘲笑うかのようにひどく落ち着き払って、アルフースがもう一度言い直した。
 
「私が望めば、死すら受け入れると?」
 
「あなた様の仰ることでしたら何なりと」
 
答えたのは艶美な娘御。
だがアルフースは彼女を見もせずに斬って捨てる。
 
「嘘だな」
 
「…………」
 
娘は僅かに唇を噛んで沈黙した。
父王が渋い顔をする。
それを無表情で眺めてから、アルフースが霜の降りた目を静かに閉じた。
そして言う。
 
「ヴィネ王。私に必要なのは溺れるための海でも、無償の愛でもない。深く愛されることでもないのです。私に必要なのは──贖罪」
 
聖歌の如く、祈りの如く流れた旋律。
しかし次瞬、王の罵声がそれを踏みにじった。
 
「贖罪! 悪魔と堕ちたそなたが贖罪を必要とする!?」
 
「神に願うわけではありませんが」
 
「では何に赦しを乞う!? 何故に!」
 
悪魔が、ゆっくりとまぶたを上げた。
長い睫毛が紅眼を彩り──零度はるか下をゆく視線が露になる。
そして、声は厳かに。
 
「永遠に失った者たちに。運命を狂わせてしまった召喚士に。堕天にも劣る己が罪名」
 
空気は冷え切って。
 
「──友より規(のり)を選んだ我が身が罪名」
 
 
言葉は救いなく地に沈む。
 
 
 
 
 
Back   Menu   Next
 
Home
 
 
 
Copyright(C)2002 Fuji-Kaori all rights reserved.