アンドレアルフース

─5─

 
「……やはりどこまでいっても天使は天使。堕天は堕天、か」
 
蔑みの色濃い王の嘲りに、
 
「堕天だからではなく、性格です」
 
アルフースが柳眉ひとつ動かさず言った。
そしてそのまま押し黙る。
対する王もまた険しい顔をして腕組みをし──、絢爛豪華なその空間にどんよりと重い空気が沈殿していった。
どちらも引かない。どちらも折れない。
 
カールソンは壁際で背筋を正し、嘆息交じりで沈黙に口をはさんだ。
 
「陛下、今はやはり我が主は多忙でしてお話をゆっくり吟味する余裕がございません。また出直していただければ幸いかと……」
 
彼の主には歓待するつもりなど欠片もないし、王にも娘にも関心などないだろう。
ついでに言えば──地位にも今後にも興味はないはずだった。
アンドレアルフースという悪魔は、その静謐な美が笑う程不敵な……ある意味無謀な男。ヴィネ王に不況を買うことなど歯牙にもかけぬ輩なのだ。
それで身を滅ぼそうが、彼は変わらない。
 
「では、六日後だ。六日後まで地獄門を閉じる。鍵は私が預かり、六日間だけそなたの用事が終わるのを待ってやる。六日後になったら私は地獄門を開き、強制的にそなたを召還する。よいな」
 
王が一方的に通告した。
 
「…………」
 
黄金の双眸と紅の瞳が虚空で交錯する。
 
──譲歩ではない。
 
それは聡明な主なら分かっているはずであった。
 
この世界とあちらの世界を唯一つなぐ地獄門。アルフース級の悪魔であれば自らの力で開閉が可能だ。しかしヴィネ王は、その権限を取り上げると言っているのである。こちらとあちらを自由に行き来する権限を、『侯爵』であるアルフースから、奪うというのだ。
 
「私の行動をあなたが全て掌握する、と?」
 
アルフースが白に包まれた指を唇へと持ってゆく。
道化の笑みをたたえたままの、その紅唇。
 
「そうだ。従ってもらうぞ、アルフース」
 
「…………」
 
屈辱である。
これは大戦ともなりかねない、命令だ。
しかしアンドレアルフースという者は──
 
「いいでしょう」
 
そう言う輩であった。
 
「しかし閣下!」
 
それゆえに慌ててカールソンは意義を唱える。
 
「それでは退路が……」
 
「退路などいらぬ」
 
遮って断言された。
口をつぐみ、彼が主の顔を見やれば──恐ろしいと表現するのがふさわしいだろう笑みがそこにあった。
美しさを超えている。背筋が凍るほど、怖い。
全身に寒気がして、だがしかし目を逸らすことができない。
 
「もし我が軍が危険に陥ったならば、陛下が助けてくださる。可愛い部下を想う心は同じ。部下を通すくらい、許してくださいますね?」
 
それはつまり、どんな窮地に陥ろうと自らは助けを求めない。そういうことだった。
弱味を握られるくらいならば死んでやる。
誰の掌中にも納まってやるものか。
新手の、他の悪魔ならあり得ない──無言の抵抗。
 
「……いいだろう」
 
苦虫をいっぺんに噛み潰し、ヴィネ王が吐き捨てた。
そして彼は傍らの娘に目配せをひとつ、けばけばしく飾りたてられた衣をひるがえした。
空気がにわかに動く。
 
「アルフース。そなた、もう少し世術を覚えておくんだな」
 
「ありがたき御言葉」
 
横を通り過ぎた王に、主は慇懃無礼に手を胸へ。
 
「あなたはお父様に逆らえないのよ」
 
娘の言には一瞥すらくれず──悪魔は部屋を去るふたりに背を向けた。
もう話すことは何もない。
あからさまな、意思表示。
 
「シエル。お客様をお見送りしてきてくださいね」
 
「はい、かしこまりました」
 
廊下に控えていたメイドに指示を出し、そしてカールソンは後ろ手に扉を閉めた。
空気がまた、わだかまる。
一拍。
 
「──閣下」
 
「間違いだったか?」
 
背を向けている主が、機先を制して訊いてきた。
窓を臨み、顔を見せぬまま。
 
「……はい?」
 
「門を渡したのは、間違いだったか?」
 
「おそらく」
 
答えてカールソンはすぐに付け加える。
 
「ですが、閣下にはそれ以外選択の道はなかったかと」
 
組するくらいならば、孤独を選ぶ。
その黒翼を掴まれるくらいならば、死を選ぶ。
侯爵アンドレアルフースとしての誇りを選ぶ。
 
自らの仕えている主がそういう者であることを、カールソンはよく知っていた。
そしてまた数ある部下たちも皆、知っている。
常に剣の切っ先に立っているようなこの男。しかし離れられないのは、その悪魔あらざる潔さと愚かなるまでの強さのせいかもしれない。
そうだ。皆、愚かなのだ。
この男の下にいる者は、皆。
 
「ルノやクローネ=カイゼリンに許しを願う私と、その起因を作った召喚士クローネ=カイゼリンを憎む私と、本物はどちらだと思う?」
 
「門を渡して退路を断ったあなたに対する憤りと、美貌侯アンドレアルフースとしての誇りを守り通したあなたへの賞賛と、どちらが本物でしょうね?」
 
白皙が肩越しにこちらを向いた。
黒髪の奥の紅眼には、澄ました顔の小賢しそうな執事が映りこんでいる。
 
「──フン」
 
主は、限りなく美しい。
息が止まるほど美しい。
だが、頽廃(たいはい)ではない。誰にも媚びない、自らを売らない。
 
極めつけに彼は、決して救いを求めようとしないのだ。
すべてをその肩に背負い、負いきれねばそのまま心中する覚悟で生きている。
それこそが彼の美しさと言うべきか、それともただ愚直なのだと言うべきか……。
 
「閣下。クローネも馬鹿ではありませんから分かっていますよ、あなたを憎むことが筋違いだと」
 
カールソンは諭すように告げた。が。
 
「……それが分かって何になる」
 
「え?」
 
思わず、聞き返す。
主・アンドレアルフースの目は笑っていた。
 
「理解と情は必ずしも一致しない。そしてそれを無理矢理正そうとするほどに苦しみは増す。そういうものだ、カールソン。分かれば分かるだけ、どうしようもなくなる」
 
それはクローネ=カイゼリンのことを言っていたのだろうか。
それとも──
刹那、
 
「カールソン様!」
 
勢いよく扉が開かれる音がした。
振り向けば、ヴィネ王・姫を送りにいったメイドがそこにいた。
少女は、真剣な顔で息を切らしている。
 
「どうしました? ヴィネ王は無事お帰りですか?」
 
「あの方たちは、きっちり地獄門を閉めてお帰りになりました。……ですが! それどころではないのです。閣下! 伝令が参りまして、街に置いてきた兵の様子がおかしいと!」
 
「……様子がおかしい、とは?」
 
柳眉をひそめ、目を細め、不快げにアルフースが繰り返す。
 
「伝令兵も弱っておりましたが、どうやら何か呪いをかけられたのではないかと思います。おそらく、退魔の呪いを。皆、弱り果てて動けないと!」
 
「退魔の呪いですか……? 厄介ですね」
 
退魔の呪い。それは一部の上級召喚士、加えて希少な退魔師だけが扱えるとされている、悪魔だけに効果を表すある種の呪いである。
規模によっては──アルフースの三十個軍全滅しかねない。
カールソンが唇を噛んで主を見やれば、彼はおどけた顔で肩をすくめていた。
 
「早速退陣したくなるとはな、私も運がない」
 
そして一息。
道化の顔が司令官の顔に一変。
彼らの主が張りのある美しい声音で命を下す。
 
「シエル、こちらにノルド第一次官が残っているはずだ。やられていない者と共に、街からここへ兵を撤退させろと伝えよ。それからキャリー第二長官はヴィネ王と交渉を。やられた兵だけでも向こうへ送り返させて欲しいと言え。次元が変われば呪いも解ける」
 
「かしこまりました」
 
少女がきびきびと部屋を出て行くと、主が鋭い顔つきでこちらを見てきた。
アンドレアルフースの臨戦態勢。
華をまとったような香が消え、月光の冷ややかさが寒気を呼ぶ。
 
「カールソン、お前は私の血を分けた者。堕天の血脈であるから呪いは受けぬな?」
 
「おそらく。退魔の呪いは純然たる悪魔の血にしか効かないと聞き及んでおります。閣下も、私もやられることはないかと思われますが……」
 
「では、我々は兵を助けつつ愚かな人間どもの城へ向う」
 
「…………」
 
カールソンはふと視線を下げた。
敷き詰められている紅の絨毯を見下ろし、言葉を探す。
 
「……何か意義があるか? カールソン」
 
ひとつ、気になることがあった。
独り言のように──しかし視線を上げて主の目を見つめ、彼はつぶやく。
 
「ルノ様は純然たる悪魔。……その血を分けられ契約を結んだクローネは……半悪魔。もしや……彼女もまた呪いの対象では、ないでしょうか」
 
 
 
 
 
◇◆◇◆◇
 
 
 
 
「なんだってのよ、まったく!」
 
どうにもならない身体を土壁に投げ出し、クローネは苦々しく毒づいた。
額に手をやれば、濡れた感触。
確認しなくとも分かる。血だ。
見れば貧血になるだろうことが分かっていたから、彼女はそのまま手を壁に擦り付けた。
 
「そりゃ私何もしてないわよ! してないけどしょーがないじゃない!」
 
大声を出せば見つかってしまう。
彼女は小声で愚痴り続けた。
 
「『お前が早く悪魔を始末しないからいけないんだ!』!? 『役立たず!』!? 『貴様のせいで皆が死んだ!』!? 冗談じゃないわよ! 誰があの綺麗なお兄さん面したバケモノに勝てるって言うのよ! 簡単に言ってくれるじゃない。だったら自分でやってみろってのよ! それに大体あいつを封印から解いたのはアンタたちが敬愛する馬鹿王子なのにさ!」
 
 
“私は王室付き召喚士、クローネ=カイゼリン”
 
名乗った瞬間、諍いをおこしていた三人の顔が呆けた。
ここまではクローネの予想通りだった。
だが次瞬、彼らは予想を越えた動きをしてくれたのだ。
彼らは石を──石を、投げてきた。
罵詈雑言とともに、これでもかと投げてきた。
 
アンドレアルフースがそれを見ていれば、きっと言ったに違いない。
 
“いけにえが必要なのは悪魔ではなく、人間の方なのだな”、と。
 
 
 
「ホントにもう、なんで私が逃げてるわけ!?」
 
釈然としないまま、彼女は身をかがめて通りを渡る。
壁の端から伺えば、彼女を探す三人の後ろ姿。
息を殺して気配を抑える。
 
(なんで私がこんなことしてるわけ!?)
 
声が去ったのを確認し、クローネはあごをひざの上にのせた。
すべてが馬鹿らしく思える。
誉めてもらおうとか、讃えてもらおうとか、思っているわけではない。しかし、石を投げられてまで守るココは一体なんなのだ?
召喚士だろうが強かろうが、石を投げられるのは痛かった。
 
(放棄よ放棄、もー知らない)
 
灰色の空を見上げる。
 
(──?)
 
焦点が、合わなかった。
 
(…………)
 
呼吸と心拍が乱れていた。
 
それだけではない。気がつくにつれ、あらゆる内臓が暴走していった。足が震え、手が震え、胃がひっくり返るようにねじれている。吐き気がして──身を起こしていられない。
 
(今度は一体何なのよー)
 
声はただ風を切る息となり、祈りさえする意識も拡散してゆく。
 
(……不幸だわ)
 
今不幸でなくてなんだろう。
死んだ方がマシ、まさにそんな状態だった。身体の全てが彼女の命令を無視し、しかも各自好き勝手に動いている。今までひとつの生体となっていたものが、ばらばらに分裂していくように……。
 
(私の身体なら……私の言う事くらい、聞き…なさいよ!)
 
色鮮やかに乱れ、そしてただ真っ白に霧散していく意識。
混濁した視界の隅に、ふと黒い影が映った。
 
(あ。死神)
 
それが最期の断片。
 
そして。
彼女は眠りについた。
 
 
 
 
◇◆◇◆◇
 
 
 
 
 
──許せ。
 
(あの人は始めから咎めていない)
 
──許せ。
 
(私に咎める権利はない)
 
──だが、消えぬ。
 
(私も同じ)
 
先の見えない暗闇に、声が響いていた。
百年間、いや正確には九十年間、クローネが聞き続けていたその声。
贖罪と、憎悪の声。
封印の腕輪を通して、ずっとその声は聞こえていた。
 
──憎しみが消えぬ。
 
遥か陽光の届かぬ海の底。
氷に閉ざされた水の底。
茫洋と行く宛てもなくたゆたう言葉。
救われることなく、廻り続ける嘆き。
 
──私は、どうすればいい!
 
(どうしようもない。もう、どうしようもない)
 
黒一色に塗られたそこに、ひとすじの雫が落ちる。
 
(全てはどうしようもない。止められない、変えられない!)
 
叫んでいるのは自分か?
思った瞬間声が止んだ。
しかし再び新たな言葉が闇に響いてくる。が、……質が違った。
 
 
──やはり彼女は半分悪魔。やられていましたか。
 
(?)
 
──額の怪我は呪いのせいではなさそうだがな。
 
(会話?)
 
──どちらにしろ……ひどい有り様ですね。当分は起き上がれないでしょうし……こちらに留まれば確実に死ぬ。
 
──半分人間だったのが災いしたか。呪いに対する抵抗力が、薄いな。
 
──カールソン様! すべて兵士を確認いたしました。
 
──分かりました、今行きます。……では閣下、私は向こうを看てきますので。
 
──任せた。
 
 
頭上を巡っていた会話が途絶え、闇が薄くなっていく。
意識。
そう、意識。手放していたはずのそれが、いつの間にか戻っていた。
だが、身体は未だ言う事を訊かない。
 
(まだダメだってば)
 
クローネの制止も聞かず、勝手に意識が光へと走ってゆく。
闇の向こうの一点へと収束してゆく。
 
──そして、目が開いた。
 
彼女の目に飛び込んできたのは、申し訳程度にだけ灯されている琥珀色のシャンデリア。
孔雀羽の紋章が所狭しと描かれた天井。
自らの身体が横たわっている、豪奢な白のベッド。
そこは年季が入り、金も糸目なくつぎ込んでありそうな一室だった。
 
一通り視線を巡らし、おもむろにベッドの横を見やれば……
 
「起きたか」
 
「…………」
 
こちらを見下ろす紅と、目が合った。
 
 
 
 
 
Back   Menu   Next
 
Home
 
 
 
 
Copyright(C)2002-2003 Fuji-Kaori all rights reserved.