. アンドレアルフース6

 

アンドレアルフース

─ 6 ─

 
紅の瞳と目が合って──、クローネは小さく嘆息した。
 
(強制送還……)
 
アームチェアにゆったりと身を委ねている黒の男から視線を外し、彼女は絢爛な刺繍の施された天井を見やる。そして、腹いせ同然に不服を申し立ててみた。
 
「身体が動かないんだけど」
 
「退魔の呪いだ」
 
返ってきた言葉はその顔と同じくらい冷涼で、優しさの片鱗はおろか同情すら入っていなかった。しかし、分かりやすいことこの上ない。
 
「あぁ……私半分悪魔だものね」
 
言って、彼女はそのまま口を小さく開け、言葉を探した。
男も続く言葉を待っていた。
促すような沈黙がクローネを覆い、部屋を覆う。
 
再び夜の帳が降りた外。
月の見えない世界の闇と、人を閉じ込める屋敷の闇。
琥珀の小さなランプだけがそれを照らし、暖める。
 
「アルフース。私を殺しなさい」
 
彼女はかすれた声でつぶやいた。
 
「…………」
 
しかし横からは返事もなく──身じろぎの音すらもしない。
 
「このままここに放っておいてもいい。呪いでそのうち死ぬでしょ。あなたが剣で貫いてもいい。喉を引き裂いてもいい。……私を殺しなさい」
 
「何故」
 
水晶原石の声音で返される問いかけに、
 
「誤解をしないように。あなたの憎悪を癒すためじゃないわよ。私はあなたを憎んでて、あなたは私を憎んでる。それを断ち切ろうだとか私が死んで終止符を打とうだとか、そんな綺麗事のためじゃない」
 
彼女はきっぱり告げた。だが、もう一度問い直される。
 
「ならば、何故」
 
「私で最後なのよ。あなた達の世界へ道を開く術を知っている召喚士は、私で最後」
 
一拍後、彼女のあごに手がかけられた。紅の爪を露にしたアルフースの素手。抵抗空しく強引に彼の方へと顔を向けさせられる。
 
「問うぞ」
 
「なんなりと」
 
「何をした」
 
人は、本当に美しいものからは目を離せないものである。しかし人は、本当に美しいと思った人間からは目を逸らしてしまうものだ。
クローネも、顔だけは彼に向けたまま視線そっぽへ外す。
 
「ルノが亡くなってから、あなたを封印してから。私はずっとあなたの声を聞いていた。封印の証であるあの腕輪から、ずっとあなたの呪詛と憎しみと贖罪の声を聞いていた。けれど──私も同じだったのよ。ルノを悲しみ、あなたを恨み、そしてふたりに赦しを願った」
 
あごをつかんでいたアルフースの手がわずかに緩んだ。
 
「──聞いていた。お前が私の声を聞いていたように、私もお前の声を聞いていた」
 
「だから私はずっと、この九十年間この王国中、そして諸国を巡り、書物を焼き払ってきたのよ。召喚に関する本を全て焼き払ってきた。あの馬鹿王子が持っているのは由緒正しい魔導書だけれど、召喚術については載っていないの。……あげく剣と魔術を横行させて、召喚術の不必要をこの私自ら唱えた」
 
彼女はちらりと男を見、にやっと笑ってみせる。
 
「もうこの大陸には、私しか召喚士はいないわけよ。世界中に悪魔を召喚できるまでの召喚士は、この私しかいない。たぶんね」
 
「お前を殺せば召喚の知恵はほぼ失われる。悪魔召喚に関しては完全に消える。過ちの根源は断たれる……か?」
 
「禁呪を掘り起こしたがる奴ってのはどこにでもいるものだから、保障はできないけどね」
 
クローネはそう息ついて目を閉じた。
手が、ゆっくりと離れてゆく。
 
 
正義のためではなかった。アルフースのためでも、ルノのためでもない。すべては──自分のためだった。
こうでもしなければ自らへの憎悪でどうしようもない自己嫌悪に陥った。
何か目に見える償いをしなければ、祈るだけでは救われなかったのだ。
例えもしこの男から赦しの言葉がかけられたとて、救われない。
クローネ=カイゼリンが最も憎悪していたのは言うまでもない、彼女自身。
神など──結局役には立たない。
神など自らを救いはしない。
 
 
 
「私は、私を赦せるだけの理由が欲しかった」
 
「それで、お前はお前を赦せたのか」
 
高みからかかる声は絹布のように柔らかく降ってきた。
神などよりもずっと美しく、天使などよりもよっぽど律された、男。
悪魔紳士録に名を冠する地獄の使者。
 
「──さぁ。でも、赦しを乞えるだけの身分にはなったかしらね……?」
 
「…………
 
返事がないのを訝り目を開けて見上げれば、虚空を凝視して歯噛みする悪魔の姿がそこにあった。柳眉を寄せ、双眸を険しくし、悲哀と憎悪そして怒りが入り混じった視線でただ一点を睨みつけている。
 
「赦せるものか」
 
地を這うような声音。
 
「お前が私をどこまでも赦せないのと同様、私も決して赦せはしない」
 
紅眼が音もなくクローネを見据えてきた。
 
「だが──、安易に死を口にするな」
 
有無を言わさない口調だった。
クローネは静かに、その瞳を見返す。
悪魔の背後、夜の木立の向こうには光なき闇が沈んでいた。
 
「死は想えば想うだけ、口にすればするだけ、お前に近づく」
 
「神父みたいなことを」
 
「同族のことは同族が一番よく知っている」
 
「勝手に私の首を落としてくれるなら、本望」
 
「お前は!」
 
悪魔が声を荒げて身を起こし、次瞬ベッドに片膝を上げ彼女の首に手をかけてきた。
 
「お前は私に殺される。それ以外の誰にも殺されてはいけない」
 
血の気を失い蒼白の首筋に力をこめられて、それでもクローネは声ひとつ上げずに、苦悶の表情ひとつ浮べずに、真上の白仮面を見つめた。
それだけで人を切り刻めそうに鋭利な語気とは対照に、血よりも紅いその瞳は冷えたまま。厳しい表情は変わらずに、瞳の奥は澄んでどこまでも深く凍っている。
 
「赦しなどあるものか。お前にも私にも赦しなどあるものか。もし愚かな救いを求めるとすれば、お前が私を、私がお前を、今ここで同時に殺せばいい。互いに地獄よりも深い底へ堕ちればいいのだよ!」
 
しなやかな男の手に骨が浮き、更なる力がこめられた。
 
「私がどれだけお前を血に沈めようと思ったか分かるか」
 
けれど力が追加されたのは彼の手ただそれだけで、彼女の首ではなかった。
 
「だができぬのだ。だができぬ。私もまた愚かに赦しを求めている。ルノが殺した者へ。そしてルノへ」
 
「…………」
 
「それに」
 
「──それに?」
 
アルフースが締めていた喉から手を放した。ベッドの端に腰を降ろしたまま、両手をクローネの首両脇についたまま、その紅が翳(かげ)る。
 
「……ルノが死に際、私に言った。“クローネ=カイゼリンを頼む”と」
 
「…………」
 
「あいつはどうしようもないガキだったが、頭だけは良かった。友より規を選んで闇から出られなくなった私が、もう二度とあいつを裏切れないだろうことを知っていた。最期に交わす約束だけは背約されないと知っていた」
 
「…………」
 
「よりにもよってお前を頼む。あいつを地獄に引きずり込んだ、私をも憎悪の輪廻に陥れた、そんな素晴らしい大召喚士様をたくされたのだよ、私は。決して違えることのできない呪縛にかけられた。おそらく解けるのは我が身が滅びる時だろうな」
 
言うべき言葉は、見つからなかった。
そして彼女は、言葉を吐き捨てながらも泣き様ひとつ見せることなく凛としている悪魔に、心底恐怖した。
 
「お前の命は私がルノから譲り受けた」
 
──この悪魔は正真正銘に強いと、そう思った。
 
自分は無様に涙を流しているというのに。
 
──涙?
 
ルノの言葉にか? それともアルフースの葛藤にか?
彼女には自らの涙の理由さえ分からない。
 
「悔恨は永遠で、運命は唐突だ。懺悔も祈りもそして死も、何も救わない。神は誰も救わない。我々は閉じ込められているのだ、クローネ」
 
「分かってる。始めから分かってる」
 
「赦されることなどあり得ない。どこまで行こうがお前はお前を赦す事などできようはずがあるまい? そして私も同じだ。だが──」
 
険しかった白皙に、皮肉げな笑みが浮かんだ。
瞳の色を濃くしたクローネを諌める如く、彼が静かにその額へと口付ける。
 
「だが、私はお前のその意志を受け入れよう。ルノから託されたその命、お前の差し出したその命、赦免と引き換えに完全に我が物ともらう」
 
「…………」
 
白い指が涙の流れを辿る。
 
「生かすも殺すも──私次第」
 
この男が何故天を裏切ったのか。主なる神に牙を剥いたのか、分かったような気がした。何故その美しき身を悪魔と堕としたのか。
 
「……アルフース!」
 
「逆らうな。お前は私のものだと言ったろう」
 
明けることなき夜闇の中、悪魔が微笑と共に優しく唇を重ねてきた。
壊れ物を愛おしむように、折れた翼をいたわるように。
 
「決して逃がしはしない」
 
彼が、消えないようにと証の言葉を刻む。
ついばむような口付けが首筋へと降りていき、クローネはいつの間にか閉じていた目をゆっくり開いた。身体に運命の重みと男の体温を感じて息をつく。
 
「私は──逃げないわよ」
 
一瞬アルフースが動作を止め、彼女の顔をのぞきこんできた。
黒髪の向こうで煌々とゆらめく紅の双眸。ふたつの視線が真っ向からぶつかり──だが先に彼が折れた。
 
「だろうな」
 
あきらめの混じった嘆息が漏れ、笑う。
そしてもう一度、深く唇が重ねられた。
 
 
 
 
 
届く先のない祈り。
 
再び失うことがないようにと、再び奪われることがないようにと、願うのは愚かか否か。
抗い得ぬ流れの中にあって、それでも望むことは愚かか否か。
互いに分かたれた断崖の淵に足をかけ、それでも手を伸ばすことは罪か否か。
 
この闇にしか安息がないのなら、世界をこの色で染めてしまえばいい。
誰かが救われ、誰かが見捨てられる。
そんな世界ならば、愛を偽り選別の杖を振るう者になどなりたくはない。
堕ちてその杖を折ってやる方が潔い。
白い羽根が黒く変わろうとも、“悪魔”と忌諱され蔑まれても、血を血で贖(あがな)う戦場に立つのだとしても。
辿る道に癒えぬ傷が残ったとしても。
 
 
その果てにやっと手に入した奇跡が、永遠であるようにと祈ること。
 
愚かであると、人は言うだろうか。
幻想であると、世界は嘲うだろうか。
 
 
 
 
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
 
 
 
 
憎悪には理由があり、しかし愛に理由はない。
悪魔は、闇の中でそう囁いた。
 
 
 
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
 
 
 
目覚めればアルフースはやはり傍らにいて、窓の外の夜は白んでいた。
 
「雲が」
 
「──退魔の呪術によって私とカールソンとシエル以外皆伏している。だから暗雲を留めておくほどの力もないし理由もない」
 
朝を呼ぼうとする空に一瞥くれ、長い足を組んだままのアルフースが面白くもなさそうに吐き捨ててくる。
 
「みんな万魔殿に戻れば呪いは解けるんじゃないの?」
 
「王に不興を買って門を封鎖された」
 
……ミもフタもない答え。
 
「我が兵だけ通してやるという約束だったはずだが、打診しても返事がない」
 
「そりゃあ大変ね」
 
言葉だけ並べれば随分他人事のようなクローネの言であるが、彼女とてやられている本人なのだ。相変らず眩暈はするし、身体も思うようには動かない。
ただ、人形よろしく白いベッドに収まっているだけ。
 
「きっとあの馬鹿王子、退魔の素質もあったのよ。あの若造が持っていた魔導書に術が載ってるもの。──困ったもんよね。馬鹿にはさみどころじゃない、爆弾持たせたよーなものよ?」
 
「このままでは門が開く日を待たずして部下が皆死ぬ」
 
「どうするの」
 
「手は、ある」
 
悪魔が立ち上がり大きな窓にその姿を映した。濃紺と薄い青がグラデーションを描き始めた世界。黒いシルエットとなった木立の上に瞬く無数の光。
月は、ない。
 
「私が直々に交渉してやる」
 
「呪いを解いてくださいって?」
 
「…………」
 
問いには答えず、アルフースが肩越しに口端を吊り上げてきた。
 
「お前は私にその命を捧げた。──私はお前に私の誇りをくれてやる」
 
再び外へと向けられた端麗な顔。
薄いガラスに、光届かぬ水底へ沈んだような哀しい笑みが反射した。
 
「もう我が愛すべき者たちを失うわけにはゆかぬ。そしてお前を──私以外の者に殺されるわけにはゆかぬ」
 
「…………」
 
黙って思案していると、アルフースがこちらを向き鼻先で笑った。片手を腰に、片手で漆黒の髪をかきあげて。
 
「お子様は寝てろ」
 
美しさと強さとを盾にした、傲慢な物言い。
 
「だが、私がすべて片付けてきてやるまで死ぬのは許さんぞ」
 
「そう簡単に死なないわよ」
 
「それは失礼した」
 
ムスッとして口を曲げたクローネの額、不敵に笑いながら軽く口付けて、悪魔は彼女の傍から立ち去った。
彼は夜を後にした。
そしてそのまま血染めの戦場へと。
 
 
 
 
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
 
 
 
 
「…………」
 
遠ざかる靴音をしばらく聞いた後、クローネは再び黙考を始めた。
大きく豪奢なマクラに背を預け、緋色の長い髪を散らしたままに、じっとひたすら考える。そしてつぶやいた。
 
「馬鹿ばっか」
 
彼女は痛む身体に嘘を付き、魅惑のベッドからどうにか這い出ようとした。
 
「シエル! シエル!」
 
アンドレアルフースが交渉のために城へ向ったとすれば、カールソンを連れて行くはずである。ということは今この屋敷で動けるのはあのメイドひとり。
 
「お呼びですか?」
 
案の定、少々の時間は要したが、小さなメイドが扉を押して現われた。
倒れた兵士の世話をし続けて疲れたのだろう、目の下にはクマができ、恭しい言葉もどこか擦り切れている。
 
「この屋敷に召喚士の錫杖は置いてない? アルフースの奥さんのやつでいいから。それから──私が乗れそうな馬、いない?」
 
「錫杖も馬もありますが……ダメですよ! ご主人様からあなたを絶対に屋敷から出すなと言いつかりました」
 
「あのねぇ、私はお姫様じゃないの」
 
クローネはベッドの端に腰掛けてため息をついた。
 
「私はね、綺麗な悪魔に囚われて、嘆きつつその鳥カゴの中でのうのうと自分の存在について考えたりする殊勝な少女じゃないわけ。あの人の顔色を伺ってその度に一喜一憂する夢見な儚い乙女でもないの」
 
語気を強めて少女の瞳を見据える。
 
「私はあの男を助けられる唯一の召喚士よ」
 
 
 
 
世界の地平には、夜明けが迫っていた。
 
 
 
 
 
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