アンドレアルフース
─ 7 ─
人気はなく、空気は刺すように冷涼。 煤(すす)けた街に吹きすさぶ夜明けの風。 そしてそんな荒涼たる絵の中を真っ直ぐに切り裂いて響く蹄の音。 「カールソン! 聞こえるでしょう、私の声が! 今すぐ迎えにきなさい!」 心で念じた言葉は知らぬうちに押し殺した声となっていた。 「言う事きかないと今度こそ標本にしてやるわよ」 緋色の髪をひとつに束ね、紅の召喚装束に身を包み、栗毛の手綱と銀の錫杖を握り締め、クローネは眼前に姿を現そうとしないバカ執事を罵った。 街の入り口から城へと一直線に伸びる大きな道。 彼女を乗せた駿馬はただひたすらに前へと疾駆する。 彼女は、済ました顔で美しさをひけらかしているそれを睨み見上げた。 思わず口の中で苦々しく舌打ちする。 水平線と垂直線で織りなされた荘厳な外観を持つあの城。歴史の重みと古に栄えた王家の威厳、否が応でもつきまとうあの城。いつだってあれは、偉そうに傲慢に天へとそびえているのだ。 ……もはや中に住む者にはそんな価値などありはしないというのに。 もはや胸を張って誇りにするような主を抱えてはいないというのに。 「カールソン!」 聞こえているはずである。あの執事は人の意を読むことが、聞くことができるのだ。 彼女の声は、聞こえているはずである。 「早く来ないと私は死にそうよ。頭は痛いし吐き気はするし節は痛いし身体はだるいし、目をつむると暗闇の向こうに花畑が見えそうよ!」 クローネは奥歯を噛みしめ口を引き結んだ。 ──カールソン! あんたは主人を見捨てる気!? 馬は荒都をひた走る。 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ 「あの召喚士は──役に立たない」 女の声は落ち着いていて、優雅で、そして余裕に満ちていた。たかが人間の、たかがこんな小さな国に君臨する、しかも──王妃。 ひと握りの権限さえ持たない、ただの女。 「そう思うでしょう? アンドレアルフース」 豪奢な羽飾りのついた扇をかざし、女が笑った。 どんな娘も羨むだろう、惜しげもなくレースがあしらわれた深青のドレスに身を包み、美しく波打つ金髪を宝石で飾り……女は妖艶な流し目を送ってくる。 「あの人は役に立たない。結局、この国なんてどうなったって構わないと思っているんだもの、ねぇ?」 次に彼女が微笑んだ先には、糸が切れた操り人形の如く玉座に座らされている王子の姿。目は虚ろに宙を彷徨い、口元には幸せそうな笑みがのっている。 そしてその手には、忌々しい魔導書。重厚な装丁がなされた、分厚く古びた紙の束。 王子の才と魔導書の知が、彼を──悪魔・アンドレアルフースを今、ここに立たせていた。厳かで、頽廃な、この舞台に。 アルフースはちらりと高い天井を仰ぎ、そして女に向き直る。 「お前は、その王子の親ではないな?」 「だから何だっていうのかしら」 それは、肯定。 「悪魔の貴方が家族愛でも説くつもり?」 「いや」 ただ単に、疑問に思っただけだった。これだけ成長した子どもを持つには、彼女は若すぎる。少し年の離れすぎた姉──それで充分通用するだろう。 「わたくしは、私の国をとても大事に思っているわ」 ──違う。 王妃が、衣擦れの音と共に近づいてきた。 「わたくしの国民のことも、大事に思っているわ」 「そうか」 両翼を掴まれた鳥のように、アルフースは微動だにしない。そして、多くを語らない。 「貴方たちが逃げ帰ってくれればいいと思ったのよ。退魔の呪いで、少しでも反撃できればいいと思ったの。そして幸いこの王子にはその才があった」 王妃が、霜がおりた紅の瞳を下からのぞきこんで微かに笑む。 一切の苦労を知らぬ指が、彼の肩に置かれた。 「帰ることが出来ない状況だなんて、知らなかったわ。悪魔の軍団を丸ごと、死の淵に追いやっているなんてね」 「だから──」 「だから?」 「我が軍は引き上げる。呪いを解け」 「イヤ」 「…………」 「そんなこと信用できると思う? 呪いを解いたらまたすぐこの国を包囲しないって保障はどこにもないじゃない?」 確かにそれは正論だった。 だがひとつ間違っている。 この女は国が心配なのではない。この女は国が大事なのではない。 自らが心配で、自らが大事、……なのだ。 影は、悪魔の目を決して欺けない。 悪魔は影を決して見逃さない。天使には見えぬ影も、あるいは天使ならば寛容に看過するであろう影も、必ずその目に捕らえる。 「では──」 「でも、取り引きっていうのはどう?」 王妃の言葉に、アルフースの双眸が細く絞られた。 「取り引き、か?」 「そうよ、あなたたちの呪いを解くことに、こっちだって利益が欲しいもの」 ──こっち。 紅が艶かしく引かれたその唇が密やかにつり上がる。 そして、穏かに直立したままでいる彼を咎めるように、女が重みを預けてきた。 自慢げな胸を押しつけ、喉を鳴らす。 「代償は、──ね?」 「何が欲しい」 微笑みの欠片も浮べず問い返せば、女がレースに包まれた両腕を彼の首にからめてきた。額に飾られた青玉が、目に痛い。 「それを女に言わせるの? 見かけによらずヒドイ男ね」 声は、華の香よりも甘かった。 そう、彼女の前にいるのは世界中何処を探しても手に入らぬ美しき者。 窮地に立って尚屈せず、──いや、違う。この男は始めから彼女に屈していたはずだ。ここにきた始めから降伏を宣言していた。それなのにまだ……屈していない。 まだ陥落していない。 未だこの悪魔は、王妃よりも高い位置から彼女を見下ろしている。静かに、冷ややかに、厳かに。 「紳士じゃないのね」 彼以外には着ることを拒むであろう黒の軍服。王妃は立て襟の掛けがねを巧みにはずし、そして下へ下へと次々にはずしてゆく。 「王はね、心労で倒れてしまわれたわ。だから邪魔する人はいない」 「…………」 アルフースはなされるがまま、立ち尽くした。 ふたつの影が重なってホールに伸びる。 玉座を囲むステンドグラスからは、刻々と幾層もの光が形作られ、天井の採光窓からは色のない白光が細々と降り始めていた。 段を上った玉座には壊れた王子。 階下には捕らわれた悪魔と捕らえた王妃。 太い円柱が支える天は高く、そして創り上げる空間はただ広い。 「わたくしはね、貴方が欲しいのよ、美しい悪魔」 アルフースは黙って王妃の碧眼を見る。 それはあり得ぬほどに澄んでいた。どこまでも透明で純粋な、欲望。 「貴方をわたくしだけのものにしたいわ、アンドレアルフース」 王妃の言葉に、彼はうなづきはしなかった。 だが、腕を振り払おうともしなかった。 「望みを叶えてくれたら、呪いは解いてあげる。──どう?」 アンドレアルフース。彼はあの時、選択を間違えた。 誰が仕方なかったのだと言おうと、彼は選択を間違えた。彼自身がそう思っているのだから否定のしようがない。 だが、今回は違う。 どちらを選ぶべきなのか、分かっている。明確に、分かっている。 自身の誇りなど取るに足らないものなのだ、今は。 捨ててでも守らねばならない者達がいる。 そして──命を引き受けた者には、この誇りをくれてやると断言してきた。 それがまた彼女への裏切りになろうとも、譲れない。 命を預かる者には、自らを捨てる覚悟がいる。そして自らを捨てることこそ、彼に最後残された誇りだった。 「……いいだろう」 彼は王妃を見据えたまま低く応えた。 そして彼女の腰にゆっくりと手をまわし、その長身を折り唇を── 「やめーっ!」 突如素っ頓狂な声がホールに響いた。 「茶番はそこまで!」 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ 「カールソン!」 その男が発した一言は、採光窓を蹴破り紅の物体を下へと落とした者へとかけられた。しかし返ってきたのは、ガラスの飛沫に混じった申し訳なさそうにない弁解。 「すいません、閣下。ですがこうしなければ釘打った棺桶に詰められて生きたまま埋められたあげくその上にうず高く石を積まれそうだったものですから」 悪魔が額に右手をあてて天を仰ぐ。 漏れたうめき声はどことなく絶望的に。 「……クローネ」 「なんだか浮気見つかった旦那みたいよ」 「お前死ぬぞ」 「分かってるわよ」 紅の物体──クローネ=カイゼリンは、こちらをスゴイ形相で睨みつけながらなおもアルフースにすがっている王妃を見やり、そして未だ彼女の腰を抱いたままの悪魔を見やる。 「死にそーな思いしてせっかく助けにきてあげたのに感謝の言葉のひとつもないわけ?」 「お前が出る幕ではない」 「どうかしらね? アルフース、羽をひとつ貸しなさい」 クローネは有無を言わさずふたりに近づいた。 三歩足を踏み出した途端、王妃が金切り声をあげてそれを牽制してくる。 「役に立たない召喚士が! 今更何をしにきたの!」 「あなたの毒牙からこの男を救ってあげようと思ってきたのです、王妃様」 足を止めて一礼し、彼女はもう話は終わったと言わんばかりにアルフースへと向き直る。 「早くしなさい」 「何をする気だ?」 「いいから」 「…………」 紅眼が不満そうな色を示し、だが彼は従った。何事かをつぶやき、見えぬ虚空を撫でるように指を滑らす。そして一度深呼吸をして背筋を伸ばした。 「これでいいか?」 次瞬、その背に壮麗な翼が現われる。両手を広げるより遥かに巨大で、水に濡れたような漆黒の、堕天の翼。混じりのない黒。偽りのない闇。染まらない深淵。 曇りなき美。 悪魔・アンドレアルフース。 「クローネ」 「……充分よ。一本でよかったのに」 ため息をつきかけたクローネは、彼の声で我に帰った。 しかし今更ながら、自らの近くにいるこの者は──確かにこの世の者ではないのだと思い知る。神を見放した堕天なのだと、痛感する。 古にふたりが対峙した時には、この翼は無残な姿をさらしていた。 折れ、そして血と砂に塗れ、破れていたのだ。 赦し得ぬ死闘の果てに、傷つきすぎ、飛ぶことすらできなかったのである。 あの時この男は完全に敗者であった。勝者であると同時、敗者になった。 (──百年は……長いものね) 感慨にふけるのは歳を重ねた証拠だと、誰かが言っていた覚えがある。 彼女は小さく嘆息しつつ羽を一本だけ取り、そのままふたりから少しだけ離れた。 「私は召喚士なわけよ。自分でいうもの嫌だけど、そこらへんにはいない、ね。だから──」 彼女は言いながら失敬した黒の羽を大理石の床に置き、手にした錫杖の先で方陣を描いてゆく。 力のない者が描いてもただ滑稽なだけだが、召喚能力のある彼女が錫杖を振れば、その軌跡は光を放って虚空に留まる。 「こういうことも出来たりするわけ」 複雑怪奇な紋章を描き終え、彼女は声高に叫んだ。 『我が命により開け地獄門!』 すると、ぽむっと魔方陣から小さな木箱が飛び出した。 『…………』 アルフースが無言でこちらを見、王妃が鼻で笑っていた。 だがクローネはそれを手にとり満足げに撫でさする。 「この箱は、万魔殿へと続いてる」 「まさか」 「私の召喚は極論、門を必要としないわけ。どこにでも穴を開けて引っ張り出すの」 「…………それで?」 促したその男にも、クローネの意図は伝わっているはずであった。 だが、彼は問うてきた。 だから彼女はキッパリと応えた。 「あなたたちを強制送還します」 「クローネ」 「戦う気はもうないんでしょ? だったらあなたを封印する必要はない。兵士は次元を別にしないと死んじゃうでしょ? だったら早くしないと可哀相」 「お前、」 彼女は口をはさませなかった。 隙を与えず錫杖で床を叩く。 『病める兵士たちよ、もとの世界に戻りたまえ』 言葉に答え、箱が小刻みに震えた。 彼女の手の上でカタカタと立てるその音が、何もないホールに大きく響く。 閉じられたままの蓋。不気味に刻むオルゴール然とした小箱。 なんの煌びやかな細工もなく、ただ側面に彫られたツタの紋。 「お前はどうなる」 「──どうなる?」 振動が収まってから、クローネは面白可笑しく首を傾げた。 それがどこかにある逆鱗に触れたか、アルフースがあからさまに柳眉を跳ね上げてくる。 「お前もここに残れば必ず死ぬ。……呪いを解かねばお前は死ぬんだ。分かってるのか?」 「分かってるわよ。でも他にやり方が見つからないんだもの」 「だから私は──!」 「誇りを捨てるアンドレアルフースなんて見たくないわよ。私も、カールソンも、あなたの部下も、みんな」 彼は、幻想だ。 崩れてはいけない幻想だ。 「あなたの部下は皆、向こうに還った」 「…………」 「百年前ならこんなことにならなかったのにね」 憎しみしかなかったあの時ならば、こんなことにはならなかった。 アルフースは喜んで彼女を置いていったろうし、彼女はアルフースの誇りを守ろうなんぞという気にもならなかっただろう。 互いをかばいあうことなどあり得なかった。 (──百年は、長すぎた) だが彼女は感慨を捨て、“召喚士”の顔で悪魔を見据えた。 「帰りなさい、アンドレアルフース。それが全てにとって最善です」 「最善」 彼が薄気味悪い笑みを浮べて、こちらへ歩いてくる。誇示するように翼を広げ、優雅な足取りでやってくる。 動けない。 「私の最善は、私が決める」 歌うように滑らかな宣言。素知らぬ顔をして神の御前で冒涜文(ぼうとくぶん)を読んでみせるような、しらじらしい静けさ。 彼女の目の前に立ち、錫杖を掴み、アルフースが嫌味ったらしく笑う。 「我が行く先、人間などに決められてたまるものか」 「なんとでもおっしゃい。あなたは従わざるを得ないんだから」 クローネがフッと鼻先で笑い捨てた瞬間、あごを掴まれた。 力こそこめられていないが、抵抗は許されない。結果再び、どこから見てもご機嫌斜めな白皙と、否が応でも対峙する羽目になる。 彼女は胸中でため息をついた。どうしてこう、いつでもケンカ腰なのだ? 「召喚士はどうしてそう強情なのだ?」 「奥さんも強情なの」 「死ぬまで私と口を聞かなかった」 「……そりゃ立派だわ」 微妙なズレに気がついて、クローネは口を閉ざす。 この男は、過去形を使ったのだ。 つまり── 「お前は私が殺すと言ったはずだが」 奥方はもう、亡くなっている。そして、それは彼女が普通の人間だったということか。 「私は万能ではない。過去何度も道を誤った。未だ最善だったのか分からぬ選択もある。だがな、これだけは今確かだ」 凍った紅玉のような双眸が強い意志を灯した。 「お前を殺すのは私以外であってはいけない」 再び肉体と精神を一にして出会ったのはつい先日。 百年という時を経て、対峙したのは先日。 だが、それだけではないのだ。 彼らは百年の間、終りなき輪廻の会話をひたすら積み重ねてきた。 憎しみと哀しみとそして贖罪の言葉を、日々呪詛の如く祈りの如く囁きあってきた。 百年だ。 百年互いに枷を背負い、偽りない叫びをぶつけあってきたのだ。 百年前、封印された美貌の悪魔。そして百年前、悪魔を封印した不死の召喚士。 その間には奇妙な関係が築かれた。 互いに心の内は知り尽くしている。 正も負も、光も影も、見せ尽くしている。 どちらに切り札もなく、どちらに嘘もない。 そんな存在が、果たして世界にもうひとつあるだろうか。 「お前は私の手の中以外で死んではいけない」 「アルフース」 彼女の呼びかけは嘆息混じりに。 「いいか、お前の命は──」 「アルフース!」 クローネが床を踏み鳴らす勢いで怒鳴ると、悪魔が少しだけ背を逸らす。 「あのねぇ、私は、あなたがあの女の餌食になるかと思うと背中に虫唾が走るのよ」 彼は彼女で、彼女は彼だった。 時と言葉が、相反する者を同一の者とまで成したのだ。 憎悪と愛、ふたつの矛盾を抱えたまま、彼らは互いの中に自分を見た。 憎む者はまた愛すべき者。 愛する者はまた憎むべき者。 だがその者はまた自ら。自らを投げ打ってでも愛すべき、自分。 「さようなら、アルフース」 彼女は不意打ちで大きく身体を引き、小箱を抱え直した。 紅装束がひるがえり、錫杖が落ちて派手な音を立てる。 そして見据え、大きく唱えた。 『執事カールソン! そして美貌侯アンドレアルフース! 汝ら自らの場所へ帰還せよ!』 小箱が揺れて採光窓の黒い影が消えた。 そして── 「クローネ=カイゼリン! 私は我が約束違えぬぞ」 大きくはばたいた漆黒の翼と残された紅の残像。 そして冷凛たる黒の誓い。 「決して違えぬからな!」 それはつまり、死ぬなということか。 「分かったわ」 愛しき悪魔は堅く笑み、黎明差し込む虚空にかき消えた。 そして紅の召喚士は、そのまま地へと倒れ伏す。 全ての幻想を打ち消すが如く、そして力強き生命を讃えるが如く、始まりの光は世界を照らしていた。 砂塵舞う王都は白く輝き、城のステンドガラスは目まぐるしく鮮やかに。 回廊には長く柱の影が伸び、ホールに佇むふたつの人影も朝に浮かぶ。 夜が、明けたのだ。 Back Menu Epilogue Home Copyright(C)2003 Fuji-Kaori all rights reserved. |