もののけ草紙
前後編
人の業にて、禍風はやってくる。
光で溢れ音で溢れた現代にも、逢魔時はやってくる。
物陰に潜み草陰で笑い、ひたひたと付けて来る。振り返れど、長く伸びた己の影以外には誰もいず。首を傾げてまた歩み出せば頭の上から忍び笑い。
「莫迦だね」
「莫迦だね」
「気付かないなんて、莫迦だね」
見上げた電線には黄昏にも染まらぬ烏だけ。
人の業にて、ソレはやってくる。
そこにいると信ずれば、ほら。
暖かき闇が凶を祓い、はらはらと呑気な笑みをたたえて貴方を護る。
「ほんに世話の焼ける御子じゃのう」
「誰が来てくれっつったよ!」
「婆が迎えに行ってほしいと」
「ばーちゃんかよ。俺は幼稚園児じゃない! 高校生だ!」
「おうおう、負け犬がよう吠えよる」
「──由良。今夜いなり寿司抜き」
「えええ。それはちと狭量というものではあるまいかえ? 拙は悪うないであろ」
たぶん。
(拙:「私」の意)
= カミ =
眠い眠い日本史の授業。
教卓に陣取っている教師は時折資料集のページを指定するだけで、ほとんど教科書を追って補足しているだけだ。
それにまだ桜も残っている学期始めだから、大した内容が語られているわけでもない。今時小学校低学年でも知っている卑弥呼の時代を抜け、それでもしつこくアニミズムがつきまとう、そんな時代の話が延々と続いている。
衣食住を確保した人間が次に欲したのは富と地位だった、なんて憧れもロマンもありゃしないし、そのために神様仏様とくれば、自然真面目に授業を受ける気だってなくなるというものだ。
そう理屈をこね、吉野柾紀(17)は学生服のポケットから小さな水晶玉を取り出した。もちろん教師に見つからないように、前の人間の背の影にそれを隠しながら、ことりと机の上に置く。
見れば見るほど不思議な水晶玉だった。
大きさはテニスボールくらい。
透き通って向こうが見えるわけではなく、石の中には桜色をした薄い雲──霞といった方が正しいのだろうか、そんなもやもやがたなびいている。
その桃色も一定ではなくて、まるで刻々と変わる夕暮れ時の空のように、その色合いを変えてゆく。紅梅の色からほとんど淡雪に近い白まで、ゆっくりと美しいグラデーションを描いて気ままに変わってゆくのだ。
(桃源郷ってこんな空なんだろうか)
ぼんやりとそんなことを思う。
(落とした人、困ってるかな)
ふと、後ろめたい気もした。
この水晶玉は、今朝登校途中人とぶつかった時に相手が落としたものだった。相手は帽子に黒皮ジャケットという男だったが、何やら凄まじく慌てているようで、柾紀が謝るヒマもなく転がるように角を曲がって消えてしまったのだ。
で、その場にころんと残されていたのがこの水晶玉。
本当はすぐ警察に届ければよかったのだろうけど、拾って見つめたそれがあまりにも綺麗で、女の子じゃあるまいし──と自分でも思いつつ今に致る。
が、この水晶玉を拾ってから変なのだ。
今もまた。
なんだか古典の教科書の挿絵に出てきそうなかんじの、強いて言うなら地獄の餓鬼という奴に似た小さいのがいくつも、教師の肩に登っていた。
すると教師がしかめ面をしてコキコキと肩を鳴らし腕をまわす。小鬼はぱらぱらと床に落ちて霧散した。
(…………)
今月すでに四日の病欠を数えている蒼白い顔のクラスメイトの首には、柾紀の腕ほどもある大蛇が巻きついていた。教室に入ってそれを見た時は叫びそうになったが、本人もまわりも全く感知していない様子から、実物ではないのだなと悟った。
(我ながら順応性が高い)
他にも変なのはたくさんいる。細い蛇にも見える何だか分からない羽の生えた生き物たちは、時々ぼぉぉっと不思議な炎を吐きながら蛍光灯のまわりを飛んでいるし、僧服を着たぎょろ目のひき蛙っぽいのは教師の頭上、時計の上でエラソーに学生たちを見下ろしている。その目が左右別々の方向に動くので不気味だ。
小鬼は教師だけでなく、寝ぼけまなこでノートにいびつな曲線を描いている学生たちの背も登っていた。
(ここは学校か? 新手のアミューズメントパークか? それとも僕は朝からドリーマーなのか? もしかしてどこかで事故にあって今昏睡状態だったりして。……ヤバイ。それだったらヤバイ。こんなくだらない授業聞いている場合じゃない。入院してる病院探して早く身体に戻らなきゃ。っていうか僕もう死んでて、“死んでることに気付いてない幽霊”だったらどうするよー!)
柾紀は昨日、母に付き合って吾郎さんの番組を見てしまった。いい話も悪い話も、幽霊の話がわんさか出てくるコワイ番組である。
(誰か僕の魂を導きに来てくれよー! っつっても、じーちゃんばーちゃん健在だしな。その上の代の人たちの顔なんて知らない……)
「それでは、ここまでにします。次はもっと進める予定ですから」
教師が言うのと同時、終業のチャイムが鳴った。
途端に教室がざわめき、厳粛な学び舎はノートを閉じる音や椅子をひく音、ばさばさと教科書を重ねるでいっぱいになる。
「吉野ー。ノートとった?」
眼鏡のあとがくっきり頬についている柳が振り返ってきたのを見て、心の片隅で“良かった死んでないみたいだ”とつぶやく。なにせ家を出た時から遅刻寸前だったうえに人とぶつかったので、始業と同時に滑り込みセーフ、誰とも言葉を交わさずこの授業を受けていたのだ。
「ごめん、取ってない」
柾紀は素早く水晶をカバンに滑りこませた。
「なんだよー、お前帰宅部だろー? 俺、昨日部活がものすげー長引いてさ。試験近いのにひでぇよな。だから授業睡眠時間に当てなきゃなんねぇわけよ」
だったら試験はあきらめろよと思いながら、
「ごめんごめん」
とりあえず謝る。
「上田、取ってるかな」
「うーん、どうだろ。前半はシャーペン動いてた気がするけど」
本当は、上田がどんな風に授業を受けていたかなんて知らない。けれど、柳にとってはそんなことどうだっていいのだ。肯定の返事さえもらえれば、それでいい。柳だってそのことくらい分かっているはずだ。見えすぎるというのは、いささか味気ないものだけど。
「そっか。サンキュー吉野」
彼はそう言い残して席を立った。
「おい、上田ー」
頭脳選手タイプ・柳の学ランを見送り、柾紀も次の授業へ行く準備をする。次は生物だ。校舎を越えた大移動をしなくてはならない。
「めんどーくさ……ン?」
ふと背後に視線を感じて振り返る。
しかし、視線の先には慌しく動き回る級友の姿があるだけだった。
(違う)
そこにあったのは人の目じゃない。
自分の中で誰かが言った。
いや、そう思ったのは確かに自分だし、巷でブームの“客観的な自分”というやつが吐いた台詞でもない。自分がそんなことを思うとは信じられなかったのだ。
(違う)
それは人間なんかよりももっとずっと暗くて、重くて、湿っていて──。
(あ……)
知らない間に鳥肌が立っていた。
柾紀は弾かれたように全てをカバンに詰め込むと、教室を飛び出した。
そこにはかすかな草の匂いが残っていた。
◆ ◇ ◆
翌日、朝七時の吉野家朝食。
三つ目の蜥蜴やら小鬼やらがわらわらと群がってくるのを手で払いのけ、柾紀はひとつ大きなため息をついた。
だるい。身体が重い。
「熱でもあるんじゃないの? 柾紀」
ご飯をよそいながら、母が顔をのぞきこんでくる。
「大丈夫大丈夫」
原因は分かっている。
柾紀はみそ汁の中をのぞいている鉛筆ほどの竜モドキをキッと睨みつけた。
しかし奴は上目遣いにこちらを見てくる。
(…………)
仕方なく卵焼きの欠片を分けてやると、それを見た他の者たちまでが竜モドキにたかり、彼らはころんころんとテーブルの下に落ちていった。
そうなのだ。頭が重いのも身体がダルイのも目の下にくっきりはっきりクマができているのも、全部こいつらのせいだ。
「今日は塾もあるし、早く帰ってくるから」
昼間は大したこともしないこいつらだが、夜は違った。
台所から勝手に食べ物を持ってきては騒ぎ、机に積んである参考書の山をくずし、必死で宿題をやっている手元を走り抜け、棚の上から石を投げつけてくる。
洗面所の鏡には一度も自分が映らなかった。それはしわだらけの身なりの悪い坊さんだったり、口元を扇で隠した赤い着物の女だったり、のぞくたび住人は違っていたが、みんなこちらを見てニタニタ笑っていた。
「塾なんか休んじゃえばいいじゃない」
「お金払ってるんだから、もったいないよ」
「んまっ。高校生の分際で」
極めつけは寝る時だ。我先にと布団の上にやってきて、寝かすまいとするのだ。跳んだりはねたり、まぶたを無理矢理開かされたり、耳元でブツブツと囁かれたり、寝つきは悪く寝心地は最悪で──最悪な夢を見た。
暗い、周囲を深い山に囲まれた田んぼのあぜ道を、必死で走っていた。追いかけてくる何かから必死で逃げていた。何から逃げていたのかは分からない。けれど、ものすごく嫌な感じがしたことだけは、起きた今でもはっきりと覚えている。
思い出しただけで、冷や汗が背中を伝うくらい。
息がつまり、心臓が凍るくらい。
振り返れば追いかけてくるそれに手をつかまれそうで、しかし逃げても逃げてもいきなり前方にソレがじわりと現れてきそうで、生きた気がしなかった。
耳の奥に、水田の脇を走る用水路の水音が残っている。黒い巨大な化け物のような山がざわめいている声が残っている。
灯の光なんかなくて、月もない夜で──。
「アンタに心配されるほどウチは落ちぶれていませんよ、ねぇお父さん」
「どんと来ーい」
(アホ親父……)
呆れて食事に戻ると、足で何かを蹴っ飛ばしてしまった。
慌ててテーブルの下をのぞきこむと、三毛猫の茜だった。母方のばーちゃんじーちゃんが息子夫婦と同居をするというので、吉野家が引き取った猫。義叔母さんが猫好きの猫アレルギーなのだ。
しかしこちらもアパート住まいだから、大家さんには内緒で飼っている。
(茜さん……)
猫は転がり落ちた化け物たちを突付いて遊んでいた。そしてあろうことか──ぱくっと食べてしまった。一瞬彼女の尻尾が二股に見えたのは気のせいだろうか。
「……ごちそうさま」
柾紀は食べる気力をなくして箸を置く。
「ちょっと、そんなに残してー! 本当に大丈夫?」
背筋が冷たい。寒気がする。小鬼が乗っているわけでもないのに、重い。
(こりゃ本格的に風邪かな)
彼は思って席を立った。
──それから四日。
週も明けたというのに風邪薬は全くその効き目を現さず、かといって病状が悪化するということもなくて、なんともし難いチャランポランな状態が続いていた。
けれどあの悪夢は毎晩続き、友達から心配されるほどに寒気がおさまらなかった。学ランを着ていても寒いし、手足の先は自分でもびっくりするくらい冷たい。そのうえ学校と塾へ行くだけで異様に疲れを感じるようになっていた。自分で見る限り、異形の者たちが何か悪さをしているというわけではなさそうなのだけど……。
そういえば、鏡はいつの間にか元通りに柾紀を映すようになっていた。家の中にいた邪鬼どもも、みんな遠巻きにポテチや夜食ラーメンを物欲しそうに見ているだけで、あまり近寄ってこなくなっていた。柾紀を避けているように。
反対に茜さんだけはベッタベタにすり寄ってくるので邪魔なのだけど。
しかし彼自身、疲労の原因はなんとなく分かっていた。この頃(というかあの水晶玉を拾った日から)、夜になって布団に入ると、誰かが窓からこちらをのぞいているのだ。柾紀の家はアパートの三階だから人間がのぞくということは考えにくい。カーテンだって閉めてある。
それでも、目を閉じていてさえ分かるのだ。
──来ている、と。
何かが窓の外にいる。こちらの様子をうかがっている。何か大きくて禍々しいものが、深く静かな呼吸をしながら。
その気配を感じると、柾紀の部屋から異形の者たちはさっと消えてしまう。茜さんだけが甘えた声を出して布団の中に入ってくる。
──早くどこかへ行けどこかへ行けどこかへ行け……
念じ続けてふと胸が軽くなった瞬間窓に目をやると、信号機の赤い点滅ライトに照らされて黒い影がカーテンに浮かび上がり、去るのだ。
柾紀の知る何物にも例え難い、形のソレ。
最後まで窓に押し付けられていたソレの手は、枯れ枝のほうに細く尖っていた。
眠るのが怖い。部屋の電気を消すのが怖い。夜が怖い。
そんなことを思ったのは、幼稚園以来か。
「吉野〜、お前大丈夫か? 医者行った方がいいんじゃねぇ? 市販薬は症状を抑えるだけで治らないってウチのお袋言ってたぜ」
数学の授業を終え今日も当てられずに生き延びたとホッと息をついた時、柳が上田と共にやってきた。
「勉強勉強で寝てるヒマなんかない、とか?」
少し嫌味が混じった口調で上田。
「これじゃ勉強にもならないよ」
言うと、
「だよなー」
アッサリ納得する。
「そーだ吉野、飯食いに行かね? 俺、今日学食なんだ」
「いいよ。柳は?」
「俺は弁当持ちだけど付いてくわ」
「じゃ、行こう」
柾紀は促されるままふたりの後について行く。
──と。
「医者じゃダメだ。祓ってもらった方がいい」
一歩廊下に踏み出したところに、横から声がかかった。
「……え?」
戸の影になるように立っていたのは、柾紀と同じくらいの背をした男子生徒だった。冷たい切れ長の目をした奴。名前は知らない。
「早く、どこかでお祓いをしてもらった方がいい」
感情の薄い落ち着いた声は、確かにそう言った。
「は? え? お祓いって──」
「吉野ー!」
向こうで上田が呼んでいる。ご機嫌斜めだ。
「何道草食ってんだよ! 昼飯食えなくなっても知らねーぞ!」
「いいか、絶対行けよ」
そんな言葉を押し付けて、名前も知らない男はクルリとこちらに背を向ける。
上田を怒らせた責任も取らないで。
「…………」
「吉野!」
呆然と見送っていると、耳元で怒鳴られてぐいっと腕をつかまれた。
振り向けば上田。
「……あぁ、ごめん」
「あいつ、なんだって?」
上田の視線が人波に紛れて行く男を追った。
「え? あぁ、よく分からない」
「だろー?」
ワケ知り顔だ。
「あいつ三組の遠野っていうんだよ。遠野晴海。お前は誰が何組とかそーゆーの興味ないだろうから知らないだろうけど」
大正解。知らない。
「で、だろーって何?」
「あいつ人を捕まえては、ネガティブ・ナンセンスな忠告ばっかりしてくんの」
「例えば?」
「曰く“墓参りに行かないと母親が怪我する”、曰く“先祖の罪を償わないと病気がちな体質は治らない”、曰く“水辺に行くと引きずり込まれるかもしれない”」
「へぇ」
確かにネガティブでナンセンスかもしれないが、こんな日本的な内容を英語で説明するのはやめてほしい。
「それにな、あいつ時々お話ししてるんだってよ」
「誰と?」
「俺らには見えないヒト」
上田が声のトーンを落とす。
(つまり──)
柾紀は廊下の隅を見やった。
(こういうのか)
そこでは法衣を身に付け厨子を背負った大きな鼠が右往左往している。おそらく、穴がなくて困っているんだろう。
「……そりゃすごいね」
「何もないところに話しかけたり何かを手で払ったり、迂闊に近寄ると不気味な予言されるし、それがまた結構な確率で当たるんだ」
「当たるの」
「あいつが予言したことをあいつ自身が実行してるんじゃないかって」
「遠野って人が他人の母親に怪我させんの?」
「違うよ。ほら、なんかあるだろ、呪いとか。古典にもよく出てくるじゃねぇかよ」
(呪い……)
「お前もあんま関わらない方がいいぜ」
「そうだね」
柾紀は遠野という男が消えた廊下を一瞥すると、学食へと身体の向きを変えた。
(まさかね)
“お祓いに行った方がいい”って……お祓いに行かなかったからって、まさか本当に呪われるなんてことありえないよな……と思いながら、身体の横をすり抜けてゆく異形の者たちに、【ありうる】と断言している自分がいる。
それとも夜の事といい、もうすでに呪われているんだろうか。まさかあれは世間で有名な式神というやつなんじゃ……。
(俺は遠野に呪殺されるのか!? なんで! 俺は予言者だって愚民どもに知らしめるためか!?)
思い始めると止まらない。
(遠野っていうのにはなるべく近付かないようにしよう)
それが結論だった。
そして三日後に第二の結論が出た。遠野は変わった奴だ。
……不本意ながら、人を避けるこということは、そいつの行動を見張っていることに等しいのである。
一応進学校の高校生ともなれば、はやし立てたり教科書に落書きしたりという幼い残酷な仕打ちはしないようだったが、彼はいつも独りでいた。
別段、無視されているわけではない。連絡事項は伝えられているし、彼が何か尋ねれば答えは返ってくる。彼に勉強のことで小さな質問をする者もいた。
けれど彼のまわりには、“無関係”の網が張り巡らされていた。
皆が“彼とは無関係”を静かに主張して、彼も“君とは無関係”を冷徹に貫いている。
皆は友人として彼を扱ってはいなかったし、彼も皆をかなり大きな円の外に置いていた。線の中へは一歩たりとも入れない。
そして彼は真面目な顔をして他人を捕まえてはアヤシゲな忠告を繰り返していた。一度なんて女の子を泣かしていたが(何を言ったのかは知らない)、それでも彼は止めようとしなかった。
(変な奴)
おまけに彼は柾紀を見かけるたびにこちらへ歩いてくる。
そのたび柾紀は逃げる。
(疲れる……)
そんなことを感じ始めていた夜だ。
塾の帰り、僕はあの場所に連れて行かれた。
夢で見た、誰もいない田んぼのあぜ道に。
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