もののけ草紙




 だるいながらも熱はなく、休む確固たる理由も見当たらないので、柾紀は夜九時から塾に行っていた。出席者には同じ学校の奴も多く、見知った顔もいくつかある。
 そして終わったのは十一時。この間受けた模試のことで、全員が講師にこってり油を絞られた後。
 家は近いし、自転車の鍵は異形の者たちに隠されたしで、あまり街灯のない道を歩いて帰っていた。

 しんと静まり返った夜の界隈(かいわい)は、昼間とは全く違った顔を見せる。
 太陽の下で見せた愛想はどこへやら、花壇の花々が花びらを閉ざし眠っているのをいいことに、家々は傲慢な態度でこちらを蔑み見下ろしてくる。
 院政時代、貴族が武士を見ていたように。
 空気は冷たく、響く足音は自分のものだけ。
 灯の当たらぬ四つ角には(すす)けた闇がわだかまり、近付くにつれ何かが(うごめ)く。
 人気のない公園を煌々(こうこう)と照らす、昭和ロマンの街灯。そこだけ時代が止まっているようで、知らぬ間に取り込まれそうな恐怖に襲われる。
 月のない濃紺の空を飛び雲を横切ったのは鳥ではない。聞き取れないほど小さな声で闇の中をざわざわと渡って行くのは、人ではない。
(…………)
 早く帰ろうと柾紀が足を速めたその時。

 足は凍りついた。
 後ろで“チッチッチ”と鳥が鳴く声が聞こえた。雀の鼠鳴(ねずな)きに似ているが、近頃やけに研ぎ澄まされた第六感は、違うと言っていた。それは背後の薄ら寒い夜の中からだんだん近付いて来る。だが振り返る勇気はなかった。
 それだけではないのだ、来ているのは。
(アレが来る──)
 毎晩窓の外からこちらをうかがっていたアレ。
 雀に呼ばれるようにして、それが背後に近づいてくるのを感じた。背後の空気に、嫌な影が集まっている。寒い寒い寒い。凍りつくような寒さじゃなく、涼しさが限度を超えた寒さが足元から身体を包んで離れない。
そして。
(──うっそ!!)
 柾紀は目を見張った。
 気が付けば、夢と同じ山中の水田のあぜ道に立っていたのだ。
 黒い山が風に吹かれてうなっている。
 まだ緑色の稲が、青波となってうねっている。
 葉擦れの音は潮騒(しおさい)のように寄せては返し、寄せては返し、迫ってくる。
 土の匂いと緑の匂い、そして水の匂いが肺に押し寄せてきて、逃れられない。
 密度の濃い空気に()され、息ができない。
(おぼ)れる!)
 心で叫んだ瞬間、後ろに巨大な(おそ)れを感じて彼は反射的に振り返った。
 彼の背の何倍もある黒い影が手を伸ばし、口をぽっかり開けていた。
 見開いた目が凝視したのは、影の中でこちらを見つめるふたつの目。
 ふたつの、思考のない真っ白な空間。
 それはまるで幼稚園児が描く化け物だった。
 目の部分だけを残して黒いクレヨンでぐりぐりと塗りつぶしただけの。
(!)
 影の手がぐいっとこちらに伸ばされ、何を思う間もなく身体をねじった瞬間、眼前で凄まじい白い火花が散った。
 柾紀は思いっきり後ろに跳ね飛ばされ──ごんっと頭の後ろで音がして、ぷつりと世界が途絶えた。





「……茜さん」
 何か重いモノが胸の上に乗っていて、柾紀は目覚めた。乗っているのは自分の家の猫だった。
「迎えに来てくれたの」
 辺りを見回せば、いつもと同じ塾からの帰り道。
 どうやらあの山にトリップしている間、道の真ん中で倒れていたらしい。携帯で確認すれば、塾を出てから二十分経っているから、寝ていたのはせいぜい十分といったところだろう。
 しかしたった十分とはいえ、よく車に()かれなかったもんだ。
 ぶつけたはずの後頭部をさすってみても、なんともない。
「ありがとう。帰ろうか」
 よっこらしょと猫を下ろし、ふたり並んで帰路につく。
 相変らずよそよそしく静まり返っている住宅街。異形の気配さえしなくなったそこを、ひとりと一匹はさっさと後にした。

 寒気はひいていない。一連の出来事ががなんだったのかも分からない。
 黒い化け物からは、言い訳のしようがないくらい悪意を感じた。

 一瞬、脳裏に遠野の顔が浮かぶ。

「マジでお祓いしてもらった方がいいかな?」
 猫に向かって真剣に問うと、彼女はどっちとも取れる鳴き方でにゃあと言う。
「呪い殺されるのかな」
 あれを単なる夢だと自分で自分を誤魔化すほど、怖がりではないつもりだった。
 問題は、何がなにやらサッパリ分からないということだ。

 それでも、遠野に近付く勇気はなかった。



──三日後。

 学校行事の中には、三者懇談という地味ながらも痛いものがある。
 三者懇談というのは、子どもだけでなく親も担任教師の眼前に呼び付けられて“この成績じゃてんでダメですね”とか“英語は一番配点が高いんですからどうにかしてください”とか、成績の意味を暴露され、無理難題を突きつけられるという恐ろしい日である。
 例に漏れず柾紀の成績も下降気味であったが、連日の悪夢による寝不足のやつれ顔だったので、担任の白峰さんは、“まぁ、本人も気付いて頑張っているようですし”なんぞとのたまっていた。
 母親に至っては、“近頃風邪気味なのに塾を休みもしないで──”と流れに逆行する発言を繰り返していた。
 つまり。
 どうにかのりきった。

 暗い顔で昇降口へ親を迎えに行く柳の背中を叩いてやり、教室へ向か……おうとしたところで足が止まった。
(まずいまずいまずい)
 柾紀は前方に遠野を発見したのだ。
 しかもここは直線廊下で階段はない。今Uターンするのはあまりにも不自然だ。
 が、彼は柾紀に気付いた様子もなく、横を歩く保護者となにやら口論していた。
(……あれ、遠野の親父……じゃないよ、な?)
 遠野の横にいるのは、長い艶黒髪を後ろで緩くひとつに結んだ、藍色着流し姿の男だった。若いのか年なのかいまひとつ判然としない顔で、狐が化けてるんだろうと思うくらいの狐目。瞳が見えない。そして全体的に漂っている無責任に華やかな雰囲気は、万年花見酒をしているタイプの証拠だ。

 大学への進路ともなれば父親が来ることも珍しくないのだが──、聞こうとしなくても聞こえてくる口論の内容が妙だった。

「いい? 由良。何言われてもお前は“はい”って言ってればいいんだからな」
「そんな鸚鵡(おうむ)じゃあるまいに。拙が先だって読んだ本には、大学府へ行くにはそれに見()うたヘンサチが必要じゃとあったよ」
「余計なこと言わなくていいから」
「して、晴海。ヘンサチとは何かえ?」
「……。ある集団の平均値からどのくらい距離があるかをあらわした数値。偏差を標準偏差で割って10倍して50を加えたやつ」
 むっつりとした遠野が一気に言うと、保護者──由良と呼ばれていたか──の顔が一瞬強張り、ほうっと息をつく。
「晴海。大和言葉をしゃべりゃ」
「俺はさっきから日本語でしゃべってるっつーの!」
 怒鳴る遠野に、由良氏は手に広げた扇をぱたぱたと振って、“大声を出すでないよ”と悪びれもせずに言っている。ちなみに扇に描かれているのは見事な桜だ。
(……どういう関係なんだ)
 どう考えても親子には見えない。というかあの由良という人そのものが、人間とは思えない。大きくズレている気がする。
 遠野はかなりキているらしく、柾紀のことなど目に入らないよう。普段のクールさはどこへやら、大股でズカズカ歩いてくる。
 そのまま柾紀と二人はすれ違い──、
「……坊」
(げ)
由良氏がゆらりと振り返ってきた。
「吉野」
 ぼそりと遠野が訂正する。
「吉野坊」
 微妙に間違って言い直す由良氏。
「はい……」
 見透かすように薄っすら笑っている狐目が、ひしひしと怖い。
「お前さん、大層なものに目をつけられたようだねぇ。一体何をやらかした?」
「は?」
 絹を撫でる柔らかな声に、ドキリと心臓がすくむ。
「お前、まだお祓いに行ってないんだろう」
 遠野が口を挟んできた。
「あぁ、お祓い……」
「人なんぞに祓えるかねぇ」
 楽しげな様子ではらはらと由良氏が笑う。
「由良、いい加減にしろよ。あぁー無理言ってでもばーちゃん連れてくるんだった」
「賢人曰く、後悔先にたたず」
「──由良」
 遠野に睨まれて、由良氏が扇で顔を隠す。だが柾紀の位置からは、彼が扇の影で舌を出しているのがはっきりと見えた。
「いいか、早く行けよ? そうしなきゃお前死ぬぞ」
 ずいっと詰め寄ってきた遠野が、ぱっと離れる。
 彼の目が、廊下の奥、柾紀の背後を見ていた。つられて振り返ると、上田の姿。
「行こう、由良」
「茜によろしく言うておいておくれ」
(……茜さんに?)
 由良氏の言葉を不思議に思う間もなく、柾紀は目を()いて絶句した。
 歩み去って行く彼の後ろを、わらわらと異形の者たちが付いて行くのだ。

淡海(おうみ)、泣くなよ。あんな大事なもの失くすお前が悪い」
「藤の森(伏見稲荷)にバレたらどうなるかしれないというに、泣かずにいられようか!」
 由良氏の後ろには泣きはらした顔の若い神官とそれを慰める神官。瓜二つの顔に肩までのおかっぱまで同じで、性別も分からない。だが、両人とも白い狐の尻尾が生えている。
 その後ろには赤い着物を着た小さな女の子。続くのは深紫色に金糸の山野図が織り込まれた振袖姿の若い娘。何故か彼女はこちらを見て、会釈をしてきた。
 そして柳目をしたひょろりと背の高い若侍。その後ろには立派な矛を携えた青鬼、わらじに目がついた輩は大きな蜥蜴(とかげ)を馬にして、破れ傘殿は杖を手に、(みの)を羽織った琵琶(びわ)が四足に尻尾まではえた琴を引っ張ってゆく。うずくまってのそのそ動く一つ目の赤い物体に、小槌(こづち)を持った大蟻が三つ目小僧とちょっかいをだし、笹の葉持って毛皮を着込んだ釜がそれを無視して先へ行く。赤鬼が古唐櫃(こからびつ)をばりばり壊せば、中から山犬、黒狼が悲鳴をあげて逃げ出して、魑魅魍魎(ちみもうりょう)が詰まった葛篭(つづら)の上では、頭に糸切り(はさみ)をつけた邪鬼と着物を羽織ったなまずがどう開けようか算段している。その後ろをしゃなりしゃなりと鈴を持った乙女が歩き、地獄の業火を映した赤い雲に乗っているのは、ニヤリと笑う鏡。そして一番最後をどことなくボロボロした白い龍が床面ぎりぎりを飛んでいった。

(……百鬼昼行……)
 もともと学校にいた邪鬼たちは、ころころと廊下に出てきては一行を見送り、口々に“由良様、由良様”と騒ぎ立てている。
(……遠野って謎〜)

「吉野!」
「あぁ」
 上田が走ってきて、柾紀は我に返った。
「何て言われたんだ。っつーか、遠野の保護者も相当変わってるな」
 上田にも由良は見えるんだ……などと思いながら、なんでもないと返す。
「ホントに?」
「ホント」
 まさか“お祓いに行かないと死ぬって言われた”なんて言えない。
 上田にそんなことを言ったら、今度こそ遠野は“無関係の網”どころではなくなってしまうかもしれない。
 こんな上田だが、友達のことで時々暴走するイイ奴なのだ。迷惑を被ることもないわけではないが……というかなんで上田はともかく遠野までかばっているんだ?
「ならいいんだけどよ。な、おまえ白峰さんに何て言われた?」
「別にィ」
「何ッ!? 俺なんて“体育だけはいいんですが”って遠まわしな嫌味言われたのに!」
「何かひとつ飛びぬけたものがあるってのはいいことだよ」

 昼間はいい。
 灼熱の太陽が異形の者たちを見張っているから。
 化け物も、現れない。ひたひたと近付いて来る気配も感じない。

 一方──

 三者懇談のあった夜、柾紀は塾の帰り、またもあの道を通っていた。
 白く輝く月は細い。どこからか沈丁花(じんちょうげ)の香りが漂ってくる。
 しかし生き物の気配は全くなかった。犬も猫も、眠っているのか息を殺しているのか。
 チカチカしている街灯を通り過ぎると、自分の影が大きく前に伸びて一瞬息が詰まる。
“チッチッチ”
 また、あの鳴き声だ。始めはかすかに、だんだんはっきりと、後ろを付いてくる。
 意を決して振り返ったが誰もいない。
 がらんとした家々が沈黙している。
(…………)
 柾紀は口を結んで再び歩き始めた。
“チッチッチ”
 背後で雀の鳴き声も再び始まる。それは次第に距離を詰めて来る。頭の中で誰かが逃げろと言った。

──お祓いしないと死ぬぞ

 遠野の声がこだまする。
 柾紀は走り出した。何かが追ってくる。ぞわぞわと、背筋が寒くなる。それでも彼は走った。走り続けた。
(あそこを曲がれば大通りに──)
 光の中へ行けばどうにかなる。そう、希望が湧いた。
 あと少し、あと少し、あと少──……。

(…………!)

 “まさか”と“やっぱり”が胸の中で交互に反響する。
 必死の思いで身体を投げ入れたそこは、あそこだった。

 ごうごうと鳴る黒い山。うねる青田。灯のない夜の闇。渦を巻く冷たい風は柾紀のすぐそばで天に昇っている。千切れた若葉が、小枝が巻き上げられてあっという間に見えなくなる。
(……山だ)
 彼はそう思った。
 自分を追ってくる黒い化け物はこの山なんだ、と。
 田んぼを取り巻く山の森。その木々の根元で、葉の奥で、大木の(うろ)で、わだかまった闇がこちらを見ている。山全体から、寒気を感じる。目的のない、大きな怨みを感じる。
(逃げられない)
 四方八方から山が来る。森が降りて来る。ざわざわと吹き付ける風の音に紛れて、山が水田を呑み込みながらこちらに向かって来る。滑るように、なぶるように。
(袋の鼠ってのはこういうことだなぁ)
 などと思ってしまう自分が悲しい。
 もう、寒々しい感覚で分かっていた。背後にソレがいることくらい。
「やあ」
 できるかぎり友好的に振り返ると、嵐の中に黒い影はいた。
 目とおぼしき白い空洞が、真っ直ぐこちらを見ている。
 三日前と同じだった。
「い、一応、話し合いでの解決を希望するんだけど」
 声は端から吹き飛ばされてゆく。
 風はだんだん強く、影はだんだん大きく、空虚な目に縛られて、動けなくなる。
 背後からは山が彼を取り込もうと迫ってきている。
(どうしよう)
 思った瞬間、柾紀の後ろから何かが飛び出し黒い影に向かって身を躍らせた。
「茜さん!」
 どこからここに現れたのか彼の家の三毛猫は影に喰らいつこうとして──……ぱかっと口を開けた影にそのままぱっくり呑み込まれてしまった。
(……茜さん!)
 何がなんだか分からなかった。
 分からないまま叫んでいた。
「茜さんを返せよ──!」
「待ちや」
「待ってられるか! ぐえ」
 影に突っ込もうとしていた柾紀は、後ろからえりを掴まれて首が絞まった。
「言う事聞きぃ、吉野坊」
「…………」
 聞き覚えのある声。
「晴海の頼みもあるし、取り殺されるにゃ惜しい御子さね」
 そろりと顔をあげると、そこには瞳の見えない狐目の笑み。
「由良──様?」
「由良でよろし」
 白と金色が混ざったような長い髪、薄紫に桜を散らした着物をまとい、この場に全くそぐわぬ(ほが)らかさで彼は立っていた。きっとこの髪の色が本当の色なんだろう。
「さてお前、何ゆえ柾紀をすとーかーするんだい」
 由良が扇でびしっと影を差す。
<…………>
 答えはない。
「あの、ストーカーの意味が分からないんじゃ……」
「時代遅れな輩だねぇ」
 自分勝手なことを言い、由良が言い直す。
「何ゆえ柾紀を喰おうとする」
(それはそれで直接的過ぎ)
……寄越せ
「答えになっていないよ。だが聞かなくても見りゃ分かるかね。お前はどこぞの山の神であろ。人に潰され供養を忘れられ(たた)り神となった山神じゃ」
寄越せ!
「なんと見苦しい。神ともあろうものが怨みで誇りを忘れたか!」
 由良がいるせいだろうか、山はこちらに近付くのをためらっているようだった。森が威嚇の唸り声を発しているが、襲ってはこない。
たかが狐の分際で
 風も、由良を避けている。
知っておるぞ! 天狐の由良! 力を失い藤の森を追われた狐めが!
 影の声は、木のざわめきに似ていた。
 大勢が一度にしゃべっているようなかんじで、聞き取りにくい。
「確かに拙は力を()うした天狐(てんこ)の由良じゃ」
 ぽっと、由良が扇子を閉じた。朱色の飾り糸が揺れる。
「じゃが──」
 彼の笑った口が大きく裂ける。
「力をなくしたとはいえ、貴様程度をひと呑みにする力はあるえ!?」
(──!?)
 一瞬炎が地面を渡ったのかという錯覚。
 人間で言えば気迫というのだろうそれが、大きく闇を祓った。
 山がのけぞって(おののき)き、青稲が沈黙する。
「山神。これ以上祟っても無駄え? これ以上人を喰っても無駄え? 世はお前さんの(なつ)かしむ昔には戻らぬ。(ひら)けた山は戻らぬ。この青田はもう消えたのじゃ」
 由良の声は悲しげでも慰めるふうでもなく、ただただ(うた)うように若い緑の稲穂の上を流れていった。
「それはお前さまもよう分かっておられるはずよの。お主はただ、忘れられるのが怖かっただけじゃ。お主がこの山を護り人を護っていたということを、この山がお主だったということを、忘れ去られることが哀しゅうてならんだけじゃ」

──忘れられることが、怖い?

「人も神も(あやかし)も、忘れられることを何よりも怖がる。自分がそこにおったという証が次々消えてゆく哀しみと恐怖は、いかばかりかの。山は消え、いつしかそこに山があったことなど誰も知らぬようになる。狐は消え、いつしか稲荷の宮には苔がむす。琵琶の音は久しく絶え、それは橙の甘い果実のことかと(わらし)は言う。赤い彼岸の花が咲き乱れても、いつしかしおれ枯れ果てても、誰一人墓には来ない」
<私は! この里を護り続けてきた! この山を護り続けてきた!>
「人が山と暮らし始めてからずっと」
 由良がひらりと扇を舞わせた。
 すると夜は一転、里は太陽輝く昼間の姿に変わる。稲穂は金色、かかしが埋もれるようにして、雀がその頭の上で鳴いている。
 山は赤と黄色と緑のまだらになり、小さな生き物たちの気配で溢れている。アキアカネが前進しては止まり、前進しては止まり、吉野が人指し指を立てると一匹が羽を休めにやってきた。
 見上げれば、いわし雲を背負った天。数羽のとんびが大きな円を描いて飛んでいる。
<あれだけの時をかくも簡単に忘れ去られるなどと──私は!>
「山神。人は、我らの如く千歳(ちとせ)を生きる者ではないのだよ」
<由良>
「なんだい」
<我が怒りと哀しみはおさまらぬ。人は痛みを与えてやらねば何も気付かぬ。今までそうであったように。──人柱を寄越しや!>
「黙りゃ!」
 影がいきなり膨らみ大口を開け突進してきた瞬間、由良が大きく扇を一閃した。
 黒い影がスッパリ両断されたのが見えた。
 しかし同時にものすごい風が巻き起こり、柾紀は思わず目をつむる。その途端、頭に何かがどっと流れ込んできた。
(ビデオの早送り……)
 それは景色だった。次々と変わってゆく景色。
 山で鹿を追う男たち。田を耕す人々。火を囲んだ盛大な祭り。錫杖を打ち鳴らし過ぎる僧。木を切り開墾する村人。作られた田舎道を通る粛々(しゅくしゅく)とした貴族の行列。空を行く雁。不穏な夜を駆け抜けてゆく馬の(ひづめ)。夜陰に光る刀の刃。家は増え、田も増え、役人が広さを計る。痩せた者たちが山へ入り木の実を拾い、田を増やせと山を拓き、道が敷かれ──。

 誰のものか分からない記憶が、耳元でごうごうと鳴る風と共に過ぎてゆく。

 突然、まぶたの裏で稲妻が走り雷鳴が轟いた。
(嵐だ)
 水路の水は溢れ、道を濁流の川とし、わずか残る水田の稲をなぎ倒す。遠くで、地鳴りが聞こえる。破壊の意志しかない風が木々に家に吹きつけ看板が飛び、しかし硝子が割れる音は容赦ない雨音にかき消される。

「カミは、我らを護る者ではないのよ」
 どこからか、由良の声が響いてきた。頭の中に直接、あのゆったりとした大河の口調が流れてゆく。
「カミとは、森羅万象、善も悪も取り込んだ混沌の者じゃ」

 嵐は去り、日照りが来る。
 土は割れ、緑は死に、アスファルトはひたすらに焼け焦げる。降り注ぐ陽射しが(はぐく)むべきものはなく、蛙の一匹も見えぬ夏。向日葵も首を垂れ、朝顔は花を咲かせず枯れる。
 蛍も飛ばない。

「恵みをもたらし、人々をその大いなる(ふところ)で護るカミの和魂(にぎみたま)。怒りを露わにし、人の所業を破壊し尽くすのがカミの荒魂(あらみたま)。人は恵みに感謝し、怒りは甘んじて受けるしかない」

 道はアスファルトから土へと退行し、きれいに刈り取られた稲田が見えた。
 夕暮れの里。胸に迫る色濃い茜空には点々と烏の影が横切り、里を囲む山からは、鹿とおぼしき動物の声がする。里へ目を下ろすと、茅葺(かやぶき)の家々から夕餉(ゆうげ)の支度をする煙が上がっている。
 母親がご飯をよそい、部屋の奥の神棚へと供える。子どもたちがその後を追い、親の真似をして手をあわせる。
 かまどの炎は赤々と、鍋はふつふつ秋の香りを里じゅうに運ぶ。
 男たちは集まって祭りの話し合い。焼けた肌で笑いながら、今年はどれだけ()れたと自慢しあう。

 何故か涙が出た──気がした。
 身体の中から込み上げてくる切なさに、どうしたらいいのか分からない。
 これは山神の記憶なのだ。懐かしみ、戻りたがっている。戻りたいと、魂の底から叫んでいる。けれど戻れないとも知っている。
 自分は消え行く古なのだと知っている。このまま忘れられて行くだけなのだと知っている。

「今この世があるのは、時の流れの中で消え去り忘れ去られたカミが、恵み戒め大地を護り続けてきたゆえと心得ておかねばならぬ。感謝し、あるいは罵り、人より大きな者がいることを心に留めておかねばならぬ。されどさすれば、彼らの念は妖ながらに闇を祓い、決して人を見放しはしないだろうよ」
(由良みたいに?)
「──そうじゃな」
 由良がどこか遠くで笑った。桜の花が散るように、はらはらと。

 脳裏に頭巾を被った子ども達が見えたと思ったら、道を車が走り始めた。青田が次々と家に変わり、人々は朝になると家を出て行き山の斜面は平らにならされ──。

 突然すとんと身体が地面に下ろされた。足の裏に、固い感触。

「吉野」
「……は?」
 額を小突かれて目を開けると、眼の前にはしかめっ面をした遠野の顔があった。
 見回せば、いつもの帰り道だった。
 帰ってきたのだ。
「大丈夫か?」
「たぶん」
 軽く車に酔った気分だったけれど、たいしたことはない。
 目じりを(ぬぐ)うと、やっぱり泣いていた。
 けれど遠野は、
「なら、いい」
それだけ言うとこちらに背を向けてくる。
(早っ)
「──遠野お前って奴は……ん? 何拾ったんだ?」
 アスファルトの上にしゃがみこんで何かを手の中に入れた遠野を、後ろからのぞきこむ。すると、
「…………」
 何も言わず両手をずいっと差し出される。
「……山吹」
「正解」
 彼の手の中にあったのは、一輪の鮮やかな花をつけた山吹の株だった。小さな、小さな。
「これってもしかして……」
「祟り神になってしもうたさっきの山神の元々の姿じゃよ。妄執に憑かれてあんな醜い姿になってしもうておったがの」
 由良も遠野の手の中にある山吹をのぞきこむ。
「へぇ〜。で、どうすんの、これ」
「ウチの庭に植える」
 即答された。
「…………」
「祟り神とはいえ、庭に植えて丁寧に(まつ)ってやれば、そのうちいいご隠居になるだろう。気は心だ」
 遠野の口調は相変らず一本調子で、山吹を見つめる顔も冷めている。
 それでも、
「今まで護ってもらった年月分くらいは、感謝しなきゃな」
淡々とそんなことを言う。
「…………」
(こいつ……めっちゃくちゃいい奴だよ)
「ウチ、そんなのばっかりだな……」

 ──“そんなのばっかり”。

「あのさ遠野、昼間お前とすれ違った時なんだけど」
 柾紀がおずおずと切り出すと、
「あぁ、あれ全員ウチの人さ。動けない人とかもいるから、欠席者も多いが」
遠野の涼しい目が、山神を問答無用で黙らせた狐に向く。
「由良が外へ行くっていうと、付いて来たがるのが多い」
「人徳人徳」
「お前の力が太陽の力を跳ね返すからだろ!」
「みんな晴海坊が今度は何やらかすか見物したいのさね」
「由良!」
 怒鳴られても悪びれもせず、狐がけらけらと笑う。
 つられて柾紀も笑った。
「……なんでお前まで笑ってるんだよ」
「だって、遠野って学校じゃクールだからさ。怒るなんて絶対しないだろ?」
「…………」
 憮然とする遠野の後ろで、由良が腹を抱えて笑い転げていた。
 しかし早々にニヤニヤを消した柾紀は、狐がひとしきり笑い終えるまで待ち、訊いた。
「由良。茜さんなんだけど」
 するとにっこり笑った彼がぱしっと扇で路地を差す。
「茜様はわたくしが」
 いつの間に現れたのだろう、そこには昼間見かけた深紫の振袖を着た娘さんが立っていた。そしてその腕の中にはぴくりとも動かない三毛猫。
 ……尻尾が二股なのは、まぁ、もう、仕方ない。
「茜さん!」
 駆け寄ると、
「大丈夫ですよ、生きていらっしゃいます」
彼女がにっこりと笑う。
「わたくし、夜雀(よすずめ)雲居(くもい)と申します」
「ど、どこかでお会いしました?」
 昼間会釈されたことを思い出したのだ。
「貴方の後ろをついて、祟り神様が来られるとご忠告申し上げていたのは、わたくしにございます。いつも力及ばず危ない目にあわせてしまって」
 “チッチッチ”の正体が、この彼女……。
「本当に申し訳ございません」
「…………」
 ひたすら頭を下げる彼女に、“怖さが倍増しました”などとは、言えなかった。



◆  ◇  ◆



「なんというか……すごい屋敷」
 柾紀は感嘆のため息を漏らした。
「そうかね? まぁ、最近のジュ−タクジジョーというやつからしてみれば、珍しいかもしれないね。こんな古臭い屋敷は」

 けっこう重症な茜さんを由良に治してもらうため、柾紀はそのまま遠野の家にやってきていた。しかしこれは、家じゃない。“屋敷”、だ。
 ごちゃごちゃと色々な木々が植えられ、雪柳、沈丁花、レンギョウが競い咲き、春紫苑や蒲公英までが乱立し、池があり、川があり……そんなある意味豪快な庭園を眺める場所に、由良の座敷はあった。妖にひと部屋与えるとは、なんともすごい家だ。
 おまけに、文机(ふづくえ)に片腕をのせている由良のまわりには、見たことあるような無いような妖がたくさん張り付いている。
 二匹の白狐神官、柳目の若侍──名は雨月(うげつ)だと紹介された──、琴や琵琶や……じっと座ってこちらを見てくる三味線の爺さんがいささか怖い。
「…………」
 身の置き所がなくて居心地悪く感じ始めた頃、
後神(うしろがみ)、気持ち悪いから俺の後ろを歩くのやめろ」
「そんなこと言われても後ろにいるのが商売なんですが」
(うろ)に戻ってろって」
「みなさんで月見の宴というに私だけ帰れとおっしゃる?」
「……宴じゃない」
 江戸時代の幽霊みたいな白い妖を引き連れて、お茶を持った遠野が入ってきた。
「ここに人間の客が来るのは珍しいから、みんな見物に出てきただけだ」

──客。

“僕か?”と柾紀が自分を指差すと、遠野が無表情のままうなづいてくる。
 確かに、由良のまわりだけでなく、部屋の中にわんさか異形の者たちがいる。柾紀の部屋四倍は有にありそうな座敷なのに、いささか息苦しい。
 遠野が由良と柾紀の前に茶と草餅を置くと、柾紀の皿にはわらわらと手が伸ばされ、あっという間に餅が消えた。
「…………」
 唖然として由良の皿を見ると、そちらはちゃんと残っている。妖も、人を選ぶのか。
「それにしても、何で吉野があんなにしつこく狙われたんだ? お前、本当に心当たりないのか?」
 空の皿を無視して、遠野が眉を寄せてくる。
「山に悪さした覚えはないよ。お前こそ、何で僕を助けてくれたんだ?」
 柾紀はかねてからの疑問を口にした。
 彼は、遠野の名前すら知らなかったというのに!
「そりゃ見える奴だからに決まってる」
「見える奴?」
「晴海は同じ人種が恋しいのさね」
 狐が横槍を入れてきた。
「由良!」
「拙らの見える人間が近頃めっきり少なくなったゆえ、寂しいのよ」
 あぐらの中に入れた三毛猫の背を撫でながら、狐はそれだけ言ってそっぽを向く。
 その袖を、白狐の神官がひっぱった。
「由良様〜! そんな人間如きに構っている場合ではござりませぬ! いい加減、淡海の失態が藤の森に知れてしまいます!」
「おや、まだ見つけてなかったのかい。それは大変だねぇ」
 全然大変そうな口調ではない。
「狐の珠は数ない宝珠であるものを」
「人間に盗られたのでございまする! 追いかけようとしましたが、咄嗟(とっさ)のことだったうえに、狼の式神を使われ──」
「稲荷の使いになった途端にそれかえ。先が思いやられるねぇ。それにしても、そやつは普通の人間ではないね。人相は? 似絵(にせえ)は描けるかね?」
「黒い男でした! 帽子もかぶっていて!」
(…………)
 黒い男。帽子。どこかで聞いたキーワードだ。
 じゃあ、まさか。
「あのー」
「何かえ? 吉野坊」
「もしかしてそちらの神官さんがお探しのものは、これですか?」
 塾のカバンの中に移し入れてあった、あの桃色水晶玉を由良の前にそっと置く。
「あ──! これじゃ! これじゃ!」
 その瞬間、おかっぱ頭の神官が声高く叫び、ぼろぼろと涙をこぼして水晶を取り上げ、頬擦りをした。
「私の大事な大事な宝珠!」
「この間学校を遅刻しそうになった時に、黒いジャンバーを着て帽子をかぶった男とぶつかって……」
「取り戻してくださったのですね! さすがは晴海坊ちゃんのご友人であらせられる!」
「えぇといや、あの……」
「これがないと大変なことになるんですよ、ほんっとうに大変なことに! あぁ助かった! 吉野様は私の命の恩人でございます!」
「あのね、だから……」
「いいじゃん。そういうことにしておけば」
 優雅に茶をすすりながら、遠野が無責任に言う。
「狐の宝珠は強い陰の気の塊じゃ。おそらくそのせいで祟り神をひきつけてしもうたのじゃろうよ。よかったの、吉野坊。あの程度の祟り神にすとーかーされるだけで済んでよかったのぅ」
「え?」
「淡海は色は白いがまだまだ未熟な地狐(ちこ)での。本当は稲荷狐になれぬのだが、なにしろ藤の森も人手不足らしく、先日稲荷を命じられた。これが本物の白狐や天狐の宝珠であってみぃ。力が大きい分、喰おうと狙う妖も巨大なものになる」
「……げ」
「妖の物を人が持つと、ロクなことにはならぬのよ」
 と、どこからか出てきた小鬼が、由良に白い杯を捧げた。
「おお、甘露(かんろ)(酒)かえ。気が利くねぇ」
 由良が嬉しそうに受け取り小鬼の頭を撫ぜると、小鬼は喜んで次の献上品を探すべく(ふすま)の向こうへ消えた。他の妖たちは座敷の中、てんでばらばらに座を組みすでに酒を交わし、ポテチやスルメを牙だらけの口に放り込んでいる。
 新たな酒の(さかな)を探しに襖へ消えてゆく者も多い。
「おい! 家の中ひっかきまわすなよ!」
 遠野が叫んでばたばたと廊下を走ってゆく。

 縁側ではふたりの狐神官が銀色の月に向かって拳をあげていた。
「晴海坊万歳!」
「吉野様万歳!」
『由良様万歳!』
「飛騨! 盗人には天罰を下さねばなるまいよ!」
「淡海! 見つけ出しお灸を据えてやらねばなるまいよ!」
 息巻くふたりを横目に、
「まだ新米だからねぇ、盗人を見つけ出すのにいつまでかかることやら。のう、吉野坊」
 狐目の由良がはらはらと笑った。


 霞たなびく春の夜。
 常の人には見えぬ宴。
 花咲き乱れ匂いたつ庭を望む座敷に座るは、ただひとりの青年。
 夕月の明かりが差し込む文机の上には、山吹の花ひとつ。

 青年は自ら杯に酒を注ぎ、ことりと花の前に置いた。



<了>


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ほーむ



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