遥かなる奈落
後編
佐伯桂子を本条に預け、しばし。
「どうする? 兄さん」
待ち合わせた夜中の公園に戒斗がやってきた。
彼ら以外人気はなく、ぽつんと佇む白い街灯のまわりにも、蛾の一匹すらいない。
「彼女を護ってるのが普通の人間なら、なんとでも芝居打って彼女への好意を消すことができるけど……」
「相手は意識不明の重病人、か」
「おまけに古凰センセー付き」
全く同じ顔をして、同じ黒髪をして、同じ黒のジャケットにスラックス。
それが並んでベンチに座っている様は、現実に切り貼りされた幻のようだった。
どこか滑稽で、人の匂いがしない。
マトリックスのワンシーンみたいに。
「そうは言っても俺たちに選択権は──」
「ないね」
戒斗が夜の先を見つめた。
速斗は寄り添う白い妖犬の背を撫ぜる。
数ブロック先の大きな通りから、車のクラクションが聞こえた。
まだ少し冷たく感じる風が、木々の葉をざわめかせて吹き抜ける。
濃紺の空では星が瞬く。
「俺たちはもう降参すべき……」
囁かれた速斗の声は、しかし無機質な携帯の着信音に遮られた。
鳴ったのは戒斗の携帯。
「──もしもし? あぁ、本条。僕だよ、どうかした?」
見えない相手からの叫びを受けて、戒斗が腰を浮かす。
「──何やってるんだよ、お前は! バカ!」
勢いで電話を切ってしまった戒斗に速斗が口を開きかけ、その機先を私が制す。
<佐伯桂子がいなくなったのよ。彼女の部屋からね。本条が目を離した隙に>
確認の兄の視線に弟がうなずく。
「ベルサリウス」
呼ばれ、白い犬がぱっと立ち上がる。
「さっき助けたお姉さんだ。分かるな?」
ベルサリウスが数回尾を振った。
『探せ!』
天城美菜穂はきっと、こんなにも憎い恋敵をどうして殺せないのかまだ気付いていない。
誰か自分を想っている人間がいるなど、考えてもいない。
佐伯桂子を殺そうとする度に自分を呼ぶ、止める声が何なのか、困惑している。
けれど彼女は決心したのだ。
今度何が聞こえようとも邪魔者を消そう、と。
ただひとり自分に優しくしてくれた本条を、決してあの女に渡すまい、と。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「──佐伯!!」
双子が佐伯桂子に追いついた時、彼女の身体は橋の上にあった。
正確に言えば──橋の欄干の上にあった。
吹き上がる川の風に、彼女の長い髪が流される。
「佐伯降りろ! って……言ったところでアレは佐伯じゃないよね兄さん」
「天城が憑いてる」
川は、小さいものではない。橋は、小さいものではない。
片側二車線に歩道もある。
落ちればおそらく助からない。
「どんな奴が天城を護っていようと、あいつが一度誰かを殺せば悪霊になる。だがこの場合誰かは佐伯だ。ベルサリウスに悪霊を喰わせることは出来てもビジネスは失敗する」
「本条に任せろって言った手前、黙って見てるわけにはいかないよ。それに、天城は佐伯を殺したら、今度は絶対本条を引き込む」
双子が顔を見合わせた。
『死なせるわけにはいかないな』
言葉と同時、ふたりは佐伯に飛び掛った。
ひるんだ身体を押さえつけ、欄干からひきずり降ろす。
磨かれた爪が空気と一緒に戒斗の頬を切り、細いヒールが速斗を蹴った。
弟はムッと口を曲げ、兄は表情を崩さない。
そして私はベルサリウスと共に後方で傍観。
白い犬は私の横で長い尻尾をパタパタやりながら、落ち着かなげに足を踏み鳴らしている。
早く天城をぱっくりやってしまいたいのか、飼い主ふたりが遊んでいると思っているのか。
キラキラしている彼の目を見るにつけ、どうやら後者。
「佐伯は殺させない。大人しくしろ、天城美菜穂」
佐伯の身体を歩道に無理矢理座らせ、速斗が冷たく言い放つ。
だが天城の方が一枚上手だった。
双子が舌打ちをハモらせて彼女から手を離したので何事かと見やれば、佐伯の手にはカッターナイフが握られていた。
部屋から持ち出してきたのだろうそれが、佐伯桂子の喉元に添えられる。
「佐伯が死ななきゃ終わらない、か。他の道はないのか?」
路面に片膝をついた速斗が問うと、天城がゆっくりとうなずいた。
話が通じていることを確認し、彼は続ける。
「お前の境遇は知ってる。居場所がなかった。甘えられなかった。味方のはずの母親は男に媚びてばかり、存在していることも否定されて、死んでも悲しんでくれやしない」
<どれだけ寂しいことか、分かる?>
初めて口を開いた天城に、
「分からない」
速斗が即答する。
「俺にはこれでも居場所はある。だからお前の寂しさの全ては分からない。だが──」
男は一瞬言葉を呑み、
「独りの寂しさは分かる」
言った。
「…………」
戒斗は何も言わずに天城を見つめている。
向こう岸の色鮮やかに輝くネオンを背に負って。
<私が優等生だったのは、捨てられたくなかったから。母さんに私を捨てる口実をあげないように必死だったから>
『…………』
<母さんの恋人に無視されるなんてどうでもよかったのよ。でも、男が私を邪険にするのを見て、母さんまで私をいらない目で見てくるのが耐えられなかった。悲しかった>
天城の声は淡々としていた。
<事故はね、どうかしら。事故かもしれないし、そうじゃないかもしれない。ただひとつはっきりしてるのは、私が死んで母さんはホッとしてたってことだけ。それからあの人、あの男と再婚したんだって。良かったじゃない? 幸せになれて>
あの人。
<始めは友達がお花を供えてくれてた。でも、みんな就職や進学で街を離れて──私はあの通りにひとり残されたの。私だけは死んだ時のまま、通りが変わっていくのを眺めながら、私なんか見ないでさっさと歩いてく人たちを眺めながら、私はずっとあそこにいたの>
心残りのある霊は、勝手に成仏できない。
生きている人間に祈ってもらうか、心残りを見届けるまで、そこに居続ける。
全ての人がその存在を忘れ去っても。
彼女の心残りは何だったのだろう。
母親の愛、か。
それとも恨み、か。
<そんな時にあの男の人がお花をくれたでしょ? ……私の事を気にかけてくれたんだって思ったら、どうしようもなくなったのよ>
「積まれ過ぎたストレスが一気に崩れた結果、か」
<自分でも止められないのよ。あの人が他の女に優しくしてると、なんだかワケが分からなくなっちゃう。手当たり次第物を壊したくなるの! 泣きたくなるの! この女を消してしまいたくなるの!>
「お前は──」
速斗が言いかけて、固まった。
私にはまた、彼女の後ろにあの荒れ果てた灰色の風景を見た。
おそらく、速斗も同じものを見ているのだろう。
自分が素通りされてゆく、その指先からすりぬける灰色の世界。
どれだけ渇望しどれだけ必死に手を伸ばしても、自らを拒絶する世界。
<私はここにいるの。私がここにいるの。あの人だけがそれを認めてくれたの!>
「お前が──」
言い直した速斗が、真っ直ぐに天城を見た。
風に揺れる黒髪の下から孤独な霊を見据える、目。
「お前が求めているのは本条じゃないな。お前の心残りは母親の愛でもないし、恨みでもない」
「君が本当に待っているのは──」
兄を継いだ戒斗。
そしてそれを継いだのは、
「僕だ」
パジャマ姿で路上に立つ、ひとりの青年だった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「美菜穂、覚えているかい? 日高だ」
『…………』
予想だにしなかった。
私も、双子も、目を丸くした。
だが私たち全員、わかってはいた。
彼は、病を治してここに来たわけじゃない。ここにいる彼はまだ死んでいない魂──生霊だ。
「僕のこと、覚えてるかい?」
その青年は裸足のまま、固いアスファルトの上を天城に近付いてゆく。
頬がやつれてはいるが、声音も歩みもしっかりとしていた。
……しすぎていた。
「助けに行きたかったけど、行かれなかった。花を手向けに行きたかったけれど、行かれなかった。ごめん」
<どうして……>
呆然自失したまま天城が口を開く。
「僕はいつも肝心な時に駄目なんだ。ちっぽけな病気にやられて動けなくなっちまった」
<そうじゃなくて、どうして貴方がここにいるの……>
「気付かなかったの」
はぁっとため息をついて、日高が肩をすくめた。
「その女の子を殺してしまおうとしている君を寸前で押し留めてたのは僕なのに。自分が倒れてからね、ずっと君を見守ってたさ。力及ばず君を死なせてしまったけど。……君は頑張りすぎるから、いつ折れてしまうかと心配だった」
そして彼は笑った。
「もう頑張らなくていいよ」
私は、私の飼い主の方を振り返った。
彼は、私たちの後方にいた。静かに。
「それがお前の選択か、日高」
よれた黒スーツに身を包み、夜なのにサングラス。
お義理に締めたネクタイと、放り出した長い足。偉そうに組んだ腕。
一昔前の私立探偵みたいな格好をして、飼い主はそこに立っていた。
一見しても、じっと観察しても、高校教師には見えない男。
私立高校の教師だったら、品格に欠けるとかなんとかで即刻クビになるに違いない。
「やっぱり来やがった」
速斗がケッと横を向く。
「邪魔なのに」
戒斗もケッと同じ方向を向く。
「天城と逝くのか?」
サングラスの奥に隠された飼い主の表情は分からない。
声だけはいつもと同じ、軽薄。
「──はい」
対して日高の声は迷いがなかった。
<ど、どういうこと?>
「僕はもう三年間昏睡状態だ。それでも生きてたのは、古凰先生が幽体が抜けないように何度も来てくれたからで──。でも僕は決めた。もう君をひとりにはしない。僕は君と一緒に逝く」
<──!>
佐伯の身体がガクッと崩れた。
慌てて戒斗が駆け寄る。
ふたりの間をカッターナイフの刃がキラリと光りすり抜けて、アスファルトに跳ね橋の下へと落ちていった。奈落の底を思わせる、黒々とした水の流れへと。
「僕はもう決めた」
<私は──>
何か言いたげな天城が、天城の姿で立ち尽くす。
「お前が決めたなら、好きにしろ」
古凰が鼻で笑って背中を押した。
「俺は知らん」
「自分の生き方くらい、自分で決められますよ」
大袈裟に胸をたたいてみせ、日高が天城の手を取った。
「さぁ行こうか」
だが天城は手を振り払う。
<私は──自分を可哀想だって思うことに夢中で、ひとりで嘆いてばかりで、貴方を探そうともしなかった。思い出しもしなかった。私を引きとめていたのが貴方だって、気付きもしなかった>
「でも君は何かを探していただろう? その何かが僕だってことに気付いてなかっただけだ。それだけだよ。君は僕の声を聞いた。だからこそ悪霊にならずにここにいる」
<…………>
天城が古凰を見た。
「日高が決めたんだ。素直になれよ」
古凰がひらひらとヤル気なく手を振る。
私も手を振る。
すると彼女は差し出された日高の手を握り直し──……
「──何でだ」
今度は速斗がふたりの歩を止めた。
彼の眼差しは、ひょろっと立っている高校教師に向けられている。
「お前は何でコイツを止めない。お前は教師のクセに、自ら死を選ぶことを許すのか」
「日高が自分で選んだんだ、俺に口出しする権利はないね」
「じゃあコイツは死ぬために生きてきたのか? そういう運命か?」
「人間なんてみんなそうだろ」
レポートを読み上げるような速斗の口調。古凰も素っ気なくはね返す。
速斗が立ち上がった。
「アンタは、」
「僕は!」
制して、日高が声を上げた。
その思わぬ声量に、速斗が口をつぐむ。
行き場を失った沈黙の路上、車のヘッドライトがみっつの影をつくり通り過ぎて行った。
欄干にもたれ気を失っている佐伯、私の飼い主、そして速斗──……。
「僕は、美菜穂を護るために生きて、死ぬんです。死ぬために生きてきたわけじゃない。たまたま、目的のために死ぬことになっただけです。どうせ病で死ぬなら、結果が同じなら、僕は彼女を護りたい」
「…………」
速斗の醒めた目が、閉じた。
「彼女が引っ越した時、どうして僕は様子を見に通わなかったのか、今でも後悔しています。だからもう彼女を放り出してはおけない」
日高がぐっと天城の手を握り、欄干に足をかけた。
「死ぬことは運命じゃない。護ることが、僕の選択だ。──君たちに美菜穂の魂は渡せない」
「──やめろ!!」
聞いたこともない速斗の怒声だった。
ばっと見開かれた瞳の底に何があったのか、私には分からなかった。
「日高! お前たちは!」
地を蹴り手を伸ばした速斗の手は、虚空を掴む。
日高が欄干を蹴る方が早かった。
速斗の手を逃れたふたりの白影は川面に霞の波紋を映し──……消えてしまった。
ふっと、空に溶け消えてしまった。
覗き込んだ橋の真下は、昏く何も見えない。
水は、何も見ていなかったフリをして沈黙のまま海を目指す。
そうやって、いつの間にか何もなかったことにしてしまう。この世界は。
「……お前たちは……一緒にはいられないんだ」
自ら命を断った霊は、罪が重くなる。
普通に死んだ霊とは、違うルートを歩む。
日高と天城は、必ずどこかで道が分かたれる。
「知ってたのに教えなかったな、古凰」
川に反射する光の戯れをぼんやりと見下ろしながら、速斗が言った。
私の飼い主は、両手を腰にあてる。
「言ったところで日高の決心は変わらない。なに、奈落の底に着くまでは充分過ぎて嫌になるほど時間がかかるだろうから大丈夫さ」
眠りこけている佐伯の頬を軽く叩きながら、本条にだろう、電話している弟を横目、
「奈落の底、ね」
速斗がつぶやく。
彼は欄干にもたれさせていた身体を反転し、古凰に向き直った。
「俺にはもうすぐ底が見えそうだ」
「抗えよ」
「無茶苦茶なこと言うなよ。他人事だと思って」
「抗え」
古凰がサングラスを外した。
露わになるのは、成り上がり者らしいハングリーな黒い双眸。
そしてその目は速斗の視線を追い、戒斗へ向かう。
次々走り行く車のライトの中、影を落とすことのない若者へと。
「……アイツは、気ぃ抜くと影を付け忘れるんだ。馬鹿だから」
兄貴面で、速斗がクツクツと肩を揺らした。
そして真顔になる。
「アンタたちはきっと初めて会った時から知ってたよな。正確には──鳳家の血を引く人間はもうあとひとりしか残っていないってことを」
「あぁみえて、戒斗は死霊だな」
「そのとおり」
「初めは俺も驚いたよ。影さえきちんと付けてりゃ、見かけは完璧な人間だものな。実を言えば氷雨に確認するまで──半信半疑だった」
「呪いを解くにはベルサリウスを殺さなきゃならない。だが俺にはそんな力はないし、家族のコイツを殺すなんてことはできない。戒斗は逃れられなかった。俺も逃れられない。……鳳の運命だ」
話が分かっているのかいないのか、ベルサリウスは大人しく川を眺めている。
柵の間から鼻先を突き出して。
「運命か。運命ね。運命なら、降参するのか?」
古凰が嘲った。
「…………」
「放棄するか?」
「…………」
「俺は金八さんじゃないからな。待ってたって格言はあげられないし、導くこともできないし、答えを教えてもあげられない」
<じゃあアンタは何ならできるわけ>
古凰は私の鋭い一言を笑殺した。
「速斗。ラプラスの悪魔は知ってるかい?」
「──世界の未来は始まったと同時に決まっていて、ラプラスの悪魔は遥かなる歴史の全てを知っている。これから何が起こるのか、どうなるのか、世界の始まりから終わりまで、全部」
速斗が静かに答えた。
彼は、古凰に何を言われるのか分かっている。
それを分かっていて、古凰は続けている。
「数学者ラプラスは、ある時間における宇宙の全ての粒子の運動状態が分かれば、そこから先、未来に起きるあらゆる現象はあらかじめ計算できると言った。それを計算する驚くべき頭脳を持っているのが、ラプラスの悪魔だな。彼は何でも知っている。俺の明日一日のメニュー、これからの昇進や異動、一生で稼げる金額、これから受け持つ全ての生徒の名前、性格、成績、もちろんまだ生まれていない奴も全て含めて──彼は知っている。全ては決まっている」
<神はダイスを振らない>
私が口を挟むと、飼い主が皮肉げにニヤリと笑んだ。
「アインシュタインがそう言ったっけな。決定論者は言うんだ。全ては決まっている。人間が認識できないだけだ、ってね。だがハイゼンベルグが現れた」
「不確定性原理、か」
速斗が腕組みをして、眉を寄せた。
私も口をへの字に曲げた。
しかし物理も得意らしい数学者先生な古凰は、べらべらとよくしゃべる。
「ラプラスの言う、粒子の運動状態。それを正確に知ることは不可能なのだと、ハイゼンベルグは決定論者に突きつけた。運動量と位置、そのふたつが決まってはじめて運動状態は決まる。しかし、どちらかを決めれば、もう一方は確率的にしか決まらないことが分かった。観測技術の問題じゃない。原理的に無理だった。原理的に、どちらかしか決まらない。……結局世界は確率的にしか決まらないってわけだ」
「ミクロな世界の法則と、マクロな世界の法則は同じ視線で見ていいのか?」
「確かに。それは考える必要がある」
神妙な様子で古凰がうなずく。しかし彼はやられたわけではなかった。
「だが、科学は我々のマクロな世界に『カオス』を見つけた。それは複雑な混沌の奥にある秩序だ。非線形な現象は、一見複雑そうな……あるいは無秩序な現象に見える。例えば、立ち上る温泉の湯気。風に揺れる木の葉。舞い落ちる雪。あんなものが秩序だった法則に従っているとは思えんだろ。しかしそれはその運動が“非線形”であるから無秩序に見えるのであって、実はちゃんと秩序がある。その一見無秩序な秩序がカオスだ。だが、そのカオスゆえにマクロな世界にさえ──不確定は忍び込む」
古凰が顔の前に指を一本立てた。
「北京の蝶の羽ばたきが、一ヵ月後アメリカで嵐を起こすって例え話、聞いたことないか? それこそがバタフライ効果。カオスの本質。カオスは、初めの小さな誤差が後にとんでもなく大きな違いを引き起こすんだ。蝶の羽ばたきで嵐なら、蟻のため息で曇りかもな。つまりカオス自身は秩序、決定論の上にあるが、カオスを含む現象は全て──予測不可能だ。神はダイスを転がさないとしても、人は神に到達できない。決定された歴史が存在するのか否か……分からないものを“存在する”とは言えないな」
天気。
どんな素晴らしい装置を使って未来の天気を予測するにしても、未来をはじき出すには現時点での数値──すなわち初期値が必要となる。気温、風速、湿度……。
気温は25.0度か。それとも、25.000000001度か。
たったそれだけの違いが原因となり、カオスである天気では、数日後の予測に「晴れ」と「雨」正反対のふたつの結果が生まれてしまうのだ。
カオスのバタフライ効果。
だから長期予報は当たらない。
「速斗。お前は今自分がどこに立っているか、自分の在り処が分かっているか? 始まりの場所が寸分の狂いなく決定できなければ、未来は予測できない」
古凰が、立てた指を唇に当て口端を上げた。
やや垂れ目でつり眉な彼は、人々に薄ら寒い不信感を抱かせる。
「でも俺はどこかに立っている」
「そうかねー? 位置と速さは同時には決まらないものだよ」
「……それは粒子の話だろ。俺は粒子よりデカイ」
「君は、本当にただ一点に立っているのか?」
古凰が指をさっと速斗に向けた。
そして応えを待たずにまたしゃべる。
「ついでだがな。お前たちが理論の砦と思っている数学でさえ──完全ではないんだよ。ゲーデルは不完全性定理を数学的に証明した。完璧な理論の中には、証明も否定もできない命題が必ず存在する。完璧な理論は、自身に矛盾がないことを己の理論の中では証明できない、とね」
古凰の目が笑う。
「つまり君たちが完全だと思っているアレは結局──正しいと信じているだけのものなんだよ」
対して、速斗があきれた嘆息。
「ご高説ごもっともなんて言いたいがな、アンタそれでも数学教師か?」
「もちろん」
「…………」
「これでまだ運命を信じるなら、降参する気なら、そうすればいい。他人の志向には深入りしない主義なんでね。生徒の意見は尊重することにしてるんだ」
例えそれが、愛しい者のために死んでやるって意見でもね。
彼はそう付け加え、再びサングラスをかけた。
「奈落の底は案外遠いぞ」
私は、飼い主が双子に背を向けるのを見、速斗に手を振った。
彼も肩をすくめて振り返してくる。
視線を横に移せば、電話を終えた戒斗も手を振っていた。
私は先を歩いて行く古凰に訊く。
<──本当に、速斗が呪いに勝てると思ってるの? また離れ離れになっちゃうのに、日高を死なせてよかったの>
別に、訊かなくてもよかった。
けれど、訊くのが私の役目だった。
「……そうだな」
彼は私を見ずに細いあごに手をやった。
「俺たちが俺たちの理論の中にいる限り、俺たちは決して真理には辿り着けない。ゲーデルが証明してしまった。だから──正解なんてどこにもない」
<ゲーデルはどうでもいいのよアンタの考えを聞いてるの>
「…………」
男が、私を肩に乗せた。
表情を見せないつもりなのだ。
「日高のことは、あいつが決めて俺が決めたんだ。責任を負えといわれるなら負うだけの覚悟はある」
きっぱり言い切り一拍置いて、古凰がサングラスをずらし私を見上げてきた。
「だけどな、氷雨。俺はただのお人好でもなければ、イイ先生でもない、正義漢でもないぞ。数学者でちょっとばかし人間主義な合理主義者だ。俺だって結局、理由と利益がなければ動きゃしない」
彼はきっと、双子の事を言っているのだろう。
心配だから。
それだけの理由で関わっているんじゃない、と。
俺をイイヒトを見る目で見るな、と。
「俺の腹の内は、お前も知らない」
<知らなくて結構>
──結構。
そう、知らなくたって結構だ。
私は彼のことを知らない。
彼が、話さないから。
彼は私のことを知らない。
私が、話さないから。
……──本当に?
「あぁそうだ、氷雨。俺、病院寄って行くから。先に家に帰ってな」
<──嫌>
男が止まった。
彼はしばし黙して……何故か吹き出す。
「……仕方ない。極力大人しくしてるんだぞ。変な電波だして医療機器壊さないこと」
<リョ−カイ>
本当は、知っている。
古凰は私を、私は古凰を、知っている。
彼は私の言いたいことを分かっているし、私は彼がどうして双子に関わるのか、分かっている。訊かなくても。
確定も不確定も含めて知っている。
速斗と戒斗がそうであるように。
あとは、日高のようになれるか、だ。
きっと。
たとえそれが世界のシステムだとしても、そうでないと言い切れるかどうか、だ。
ねぇ、可愛げのない双子ども。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「何話してた?」
「物理と数学の話」
「へぇぇ……」
戒斗があからさまに嫌な顔をした。
速斗は訊き返す。
「お前の方の電話は? 本条だろう?」
「なんかさー、本条、怖くて来られないとか言ってるんだよ。あいつ優しいけど気ぃ小さいんだよな。それでも男か! って言ったら男女差別だって言われた」
「……で、奴は来るのか? 来ないのか?」
「佐伯サン、彼女の部屋まで送ってきてって。アイツ彼女の部屋で待ってるからって」
「仕方ないな。車で送ってくか。戒斗、お前俺の車、情報収集に使ってたろう? 公園来る時乗ってきたか? それとも家に置いてきた?」
「……兄さん、ごめん」
「?」
「兄さんの愛車、……こすっちゃった」
「お前っ」
「あとぶつけちゃった」
「──どこにっ!」
「電柱、とか」
「とかって何だ、とかって! 複数形なのか!?」
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あとがき
えー、こちらは、123457打を踏んでくださった高遠一馬様に捧げたいと思います。
……相変らず、まとまってません。おまけに都市伝説じゃない……。すいませんすいませんすいません。(いつも謝ってるよこの人は)
なんというか、現代を駆使した話になりました。(笑) 本当は量子論ではもうひとつ、エヴェレットの多世界解釈なるものがあります。ファンタジーやSFで時々使われるパラレル・ワールドに似た理論なんですけどね。これまで持ち出すと何が言いたいんだかワケ分からなくなるので止めました。
遅くなったうえにこんなん出来てしまったんですが、ヒマ潰しにしてくださいーーー。(逃走) 不二
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