the uncompleted legend
THE KEY

第七章 鍵を見る者 1

「一体何者だ?」

シャロンにそう問われても、老師の顔色は全く変わらなかった。

「何者……? 異な事を。見てのとおり、デュランタ教師じゃが?」

「あんたはデュランタ先生じゃない」

シャロンの呼吸に合わせて、長めの前髪が揺れた。
いつでも踏み出せる間合いと、いつでも退ける警戒。

「生徒の長である君が、そんなに恐い顔をしているもんじゃない。……どうすればワシじゃと信じてもらえるかのう?」

柔和な苦笑を浮べてきた老師に対し、シャロンは冷たく両断する。

「デュランタ先生は俺を“シャロン”と呼んだことはない」

「…………」

軽い沈黙が通り過ぎた。
ホールの大窓から見える外には一日の終わり、黄昏が迫っていて、不気味な橙色をした空には
コウモリが黒い影となって横切ってゆく。

「先生は俺のことを必ず“シャロン=ストーン”と呼ぶ。どんなに切羽詰まっていても、だ」

空気中に漂う埃が、世界にかけられた最後の光をきらきらと反射して、シャロンの構えた銀剣も美しい光をまとう。
しかしそれ以上に、サングラスの奥に忍ぶシャロンの紫眼が強い光を放っていた。

「先生は古風な人だから家柄をとても大事にする。先生は俺がここに入学したその日におっしゃったんだ。“君はストーン家を背負って立つべき人間じゃ。その自覚を失わぬよう、ワシは君を敢えてシャロン=ストーンと呼ぶ”とね。そう言われたのは俺だけじゃない。俺の知っている限り、マグダレーナ=ミリオンも、ハイネス……ハイネス=フロックスも同じことを言われたんだよ」

「…………」

「なのにお前は俺を“シャロン”と呼び、ハイネス=フロックスを“ハイネス”と呼んだ」

シャロンは衣擦れの音ひとつなく、剣の切っ先を老師の眼前に突きつけた。
漆黒のロングコートに包まれたシャロンの長身は、時と共に夜の闇へと同化してゆく。
彼は紫眼を細め、老師の深い青のローブを見つめた。
右手の位置に白いチョークが拭われた跡のある青ローブ。
そして一気に言う。

「お前はデュランタ先生じゃない。先生はチョークを使わない」

「…………」

「…………」

老師は構えもせずゆったりと、シャロンは剣を水平に保ったまま。
どちらも微動だにせず時が行く。

「……慢心が過ぎたかのう」

ひとしきり沈黙を味わって、老師が──老師の姿をしたそれは、それでも表情ひとつ崩さず笑った。

「姿形、彼の知識、話し方、クセ……全て理解していたつもりだったんじゃがね」

「彼はチョークで手が汚れることを嫌ったんだろう」

「写し難き意志というわけじゃな。クセは他人に分かるが意志は分からぬ」

「──お前は一体何者だ?」

シャロンは老師の口上を遮り、振り出しの問いに戻った。
表情はすべてサングラスに阻まれ、しかし剣を構えたその体勢のどこにも隙はない。
王都が欲しがる随一の剣士。
レーテルが放さない希代の剣士。

「何者……か。君は伝説というものを信じるかな、“シャロン”」

「──伝説? 信じるに足るならば、信じる。だが盲信はしない」

闇をぬうシャロンの低い声がホールに響いた。
対照的に老師の声はしわがれていて、意味もなく明るい。
そして発せられた言葉はシャロンの予想をまたしても裏切る。

「このシャントル=テアという世界に、魔王がいたとは信じておるかね?」

「魔王?」

彼の柳眉が小さく歪んだ。

「そうじゃよ、魔王じゃ。魔王、レジェーラ=フェレスト。まさか知らないとは言うまい?」

「それは信じているか否かの問題じゃない。魔王と魔導師ブラッド=カリナン、騎士セーリャ=クルーズ、彼らの“三強の戦い”は伝説ではなくて王都の公式記録だ。勝敗は誰も知らないが、戦ったことは事実」

「君は王都の公式発表を信じているのかね?」

試すような老師の眼差しに、シャロンは硬質の声音を返す。

「──いいや。だが、王都が魔王の手駒と言われた“魔公”と、歴史の上で何度も戦ったのは完全な事実だ。魔公という魔物がいるのなら、魔王という魔物がいてもおかしくはないだろう」

「フン」

老師の口が三日月形に引き伸ばされた。
細められた目には、シャロンとはまた違った、いうなれば爬虫類を思わせる光が宿っている。
ちらちらと狂気が見え隠れする目──。

「小僧、なかなか面白い物の見方をするのう。魔公ありて魔王あり、か。……間違ってはおるが、人間にしては考えた」

「…………」

「教師として間違いを正してやるならば、魔公は魔王の手駒ではない。魔王も魔公など必要としていない。魔物は互いに馴れ合わぬ。利害の一致があれば共闘もするが、それだけのものでしかないのじゃ。特に魔王は、共闘などという考えすら持っていないじゃろうて」

「詳しいんだな」

それは疑問ではなく確認。
だが老師は、自分の言葉をただ淡々と続けてきただけだった。

「魔王は争いごとを好まぬ。面倒になればすべて消し去る。あやつにとっては魔物も魔公も、大した違いはないのじゃろうて。……歴史の中で、王都は何回魔公を撃退した?」

「知らんな」

「王都は一度も己の力で魔公を倒したことがないのじゃよ。全ては魔王の仕業。あやつは何度も言っておったわ。人間と面倒事を起こすな、と。だが元々我らは主従関係にあるわけではなかったし、人間どもは我らに怯えて性懲りもなく戦いを挑んできおった。……我らが人間如きに退くわけにはいくまい? ──そして」

「しびれを切らした魔王は、魔公全てを封じた」

「それは伝説の虚偽なる部分じゃよ。魔公はそれほど弱くない。何十といる魔公を一度に封じるなど、魔王への過信も甚だしい」

「お前は……」

シャロンは剣をしっかりと据えたまま、しかし緩慢な動作で一歩引いた。
剣士としての本能が告げているのだ。

──覚悟をしろ、と。

そしてホールには老師の演説が更に続く。

「魔王は未だ世界にいる。そしてまた魔公も未だ世界にいる。封印された者は半分に過ぎぬのじゃ。残された者は皆、魔王を葬ろうと機会を窺っておる。次は我が身じゃからな。だが魔王は自らの命を狙われようと、全く意に介さない。何故か分かるか?」

「…………」

「魔王は、王都にとって恐怖の対象じゃった魔公を封じた。それなのに王都は魔導師と騎士を送り、奴を亡き者にしようとした。何故だと思うかね?」

「分からないね」

シャロンはまた一歩後ろに下がった。
何歩下がっても足りないだろうが、間合いは長い方がいい。──大して意味はないかもしれないが、彼は本能に従った。

そして──

饒舌な老師は、暗闇に浮かぶ灯のないシャンデリアを仰ぎながら両手を広げて叫ぶ。

「魔王には見えるのじゃよ。魔王は世界唯一見える者なのじゃよ! ふさわしき者が現われるまで世界に埋まり、誰の目からも姿を消すはずの“始まりの鍵”!! 奴にはそれが見えるのじゃよ!見えるからこそいつでもその鍵を手に出来る! いつでも“選択”を行なえる! いつでも我らをまとめて消し去ることが出来るのだよ! 我ら魔公も! 王都も! 世界そのものも、じゃ!」

「“始まりの鍵”が見える?」

訝るシャロンに、老師はさらに声を荒らげた。

「鍵に選ばれし者は世界の脅威。いつでも鍵を手にしている者はそれ以上の脅威!! 魔王が魔王たる所以はただそれひとつのみ! 奴はただそれだけのために、しかしその絶対的な力のために、世界の頂点にいるのじゃよ!」

「…………」

──恐怖

ただそれだけが伝説を取り巻いている。

鍵への恐怖。

ただそれだけが世界を動かしている。

 
かの三強の戦い。世界を徹底管理したがる王都の方針。魔王による魔公封印。
すべては“鍵”への恐怖から。
子どものおとぎ話と笑われる“始まりの鍵”。それが与える恐怖から。

鍵の持つ、あらゆる可能性という中に秘められた、自らの消滅という結末。
その恐怖のみが、世界を動かしている──


「──しかし頂点とはいつか陥落するものよのう? シャロン」

老師が不気味な笑みを浮べてきた。
恐怖に怯える敗者ではなく、完全なる未来を掴んだ勝者の笑みだ。
それを見たシャロンがそのポーカーフェイスが崩し、苦虫をまとめて噛み潰したような顔をする。

今更ながら、自らの失態に気がついたのだ。

「まさか、コリウス教師もお前側か? ハイネスを使うつもりか?」

彼だって完璧に生きているわけではない。
彼の判断がいつでも正しいわけではない。
彼に全てが見通せるわけではない。

「彼をどうこうしようと言うわけではないよ。ちょっと力を借りるだけじゃ」

「魔王召喚でもさせる気か?」

「魔王とて魔物には違いなかろうて。力ある者が召喚すれば、その意志も消え、自由に操れる。魔王には鍵の在処を見つける犬となり、塵と消えてもらえばいいのよ」

「鍵を見つけてどうする気だ?」

「そこまでは分からんね。──とにかく鍵さえ我が手に入れば何にも怯えることはない。世界が我が手にあるも同然なのじゃからな」

「…………」

見つけたところで、そう安々と鍵をもらうことができるだろうか。
シャロンは鍵の持ち主を思い描いてため息をつきかけ、──しかし口元を引き結ぶ。

彼女は優秀な防御魔導師だが、優秀な戦士とは言えない。
悲劇のヒロインではないが、何をやりだすか分からない。
彼女が追い詰められた時、彼女が何を一番に優先するのか、シャロンにも分からない。
彼女が最後に守るものが何なのか、彼にも分からない。

彼女は──自身をさっさと切り捨ててしまいかねない。



「俺の領域を好き勝手荒らされて、黙っているわけにはいかないね」

彼は低く言い捨てる。

「シャロン、お前さんがそう怒ることではあるまいに。確かに生徒はさらったが、ちと拝借しただけじゃよ。用が終れば返してやるわい、無傷でな」

その小さな目をわずかに細めて、ニヤリと笑った老師。
その輪郭が水の波紋のように空気へと溶けてゆく。

「面倒事を起こす気はないんじゃよ、魔王を葬るまではな。大人しく、我らの戦いを傍観していればよい。損はしないのだ、会長のつまらないプライドなど放っておけ。未来を約束された剣士が、こんなところで命を無駄にすることもなかろう?」

彼の姿は闇に消え、声だけが空虚な階下に落ちてゆく。
もはや老師に聞こえてはいないだろうが、シャロンは独り言の如くつぶやいた。

「──いいや。そんな簡単な話じゃないさ。……お前さんが“鍵”を狙っている時点で、俺はもう完全に巻き込まれているんだよな、きっと」

嘆息して剣を鞘に戻しながらも、彼は柳眉を険しく寄せたままだった。

──魔公のひとり。魔王直下、変化王アガレス。

随分前に魔導生物学でちらりとやったその名前。
それこそが、老師になりかわっている者。
老師の姿を借り、生徒をさらっていた者。
魔王に反逆する者。

そして、レベッカを狙っている者。

魔公。
それは魔王に次ぐ力を持った魔境の魔物。
魔王を恐怖し、人間に恐怖を与え──
そう、王都の軍団は一度も、彼らのうちひとりですら……破ったことはない。





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