the uncompleted legend
THE KEY

第八章 分かたれた道標 1

レベッカとシャロン。ふたりが地下へ降りていくと、そこにはガラス張りの空気が満ちていた。
手を触れれば、すべてが壊れてしまいそうに薄いガラス。
肌を裂くように鋭利なガラス。

そんな中、壁をめぐり魔境がその触手を蠢かしていた。
その中心では金髪の召喚士──ハイネスと、コリウス教師が半ば呆然と突っ立っている。
真正面にある石の祭壇には半石身のヴェルト・メーア。

そして……その細首を優雅な手つきで締め上げている、王都よりの使者・イーサ=レオリオ。
刹那、

「──貴様」

銀光が閃き、

ッギィン

鈍い音が空気を震わせた。
薄氷の空気が砕け散る。

「──レベッカ!!」

「いきなり人に斬りかかるのは、あなたの悪いクセね」

光景を目にした瞬間抜刀し、斬りかかろうとしたシャロンの刃を、レベッカの錫杖が阻んだのだ。
彼の重い踏み出しを、彼女は左手だけで支えた錫杖一本で押し留める。

「理由も聞かないで斬るなんて、いただけないわよ」

「なんだと?」

シャロンの柳眉が冷たい怒りに歪められた。

──この男がここまで表情を見せるのは珍しい。

が、レベッカの顔は平静そのもの。
笑ってさえいた。

「一回話をしただけなんだけど、そこにいるお偉いさんは何もなしに人を殺すような、愚か者ではないはずよ」

「──お褒めいただき光栄」

ヴェルト・メーアの首からは手を離さずに、白皙の男が微笑む。
イーサ=レオリオ。無敗の調停官。
彼は相変らず煙草を口にしたままだ。
紫煙をぷかぷか漂わせながら、女の首を締めている。

それだけで充分猟奇的なはずなのに、この男がそれをしていると芸術絵画の一部になってしまうのがある意味恐ろしい。

「理由があれば殺しをしてもいいと、お前はそう言う気か、レベッカ」

それは背筋が凍るような声だった。
シャロン=ストーンの憎悪とも激怒とも取れるような低い声。
しかしそれに応えたのはレベッカではなく──

「何かをずっと憎み続けるというのは、とっても疲れることだって知っていたかい? シャロン=ストーン。そして、それでも憎み続けずにはいられない程の傷がこの世に存在するということも」

金と水色の不ぞろいな双眸を細めたイーサ=レオリオだった。

「正義では隠しきれない深淵があるということを、知っていたかい?」 

今目の前の女を殺めようとしているその顔には、けれど修羅の一片も浮かんではいない。
憎しみも怨みも、怒りもない。

ただ、眠たげでなげやりな薄い笑みが申し訳程度にのっているだけ。
はなから全てを捨てている、そんな笑み。

「──殺し……なさい、レオリオ」

「おや。貴女はここまできても私に命令する気かな?」

絶え絶えに発したヴェルト・メーアの言葉を、レオリオがふっと口の端で笑い飛ばす。

「…………っ」

そして更にその首を締める手を強めた。
ヴェルト・メーアの蒼い瞳が見開かれ、シャロンの手はその銀刀の柄を更に握り締める。

「俺の領域では誰も殺させない。俺の領域では好き勝手をさせやしない」

「言ってなかったわね。あなたはもう会長ではないわよ。ゴタゴタしているうちに罷免されちゃった」

意図しているのかいないのか、レベッカの差し水。
しかし目の前にいる黒の剣士は、そんなことでひるむような輩ではなかった。

──彼女がそうであるように。

「なら、誰がこの領域を守る?」

言い捨て走り出すシャロン。

「…………」

レベッカは肩をすくめて錫杖の尻尾を石の床に打ちつけた。

『──遮断せよ』

ギィンと耳に痛い音が円を描くように響き渡り、

「レベッカ!!」

同時、彼女の創った不可視の障壁にはじかれ、シャロンが無様にも床に転がった。

「レベッカ、いい加減にしろ! 何故こいつを守る? 何故彼女を見捨てる?」

瞬時に飛び起きた彼はそのままレベッカに斬りかかってきた。

「私は“まだ”何も守っちゃいないわよ」

キィン キィンと派手に連続する金属音。
シャロンの銀刀とレベッカの錫杖が火花を散らす。
上段、下段。斜めの斬り上げ。
真剣の軌道と同時に振り回される錫杖。

「ふたりとも、何をやっているんですか」

ハイネスの呆れたつぶやきを余所に、ふたりの無謀な戦いは続いた。
シャロンの黒スーツがひるがえり、レベッカは楽しげにくるくると錫杖を躍らせる。
彼の眼も、彼女の眼も本気だった。
本気だったのだが──あまりの速さと正確さに、王前の献上剣術試合のようになっている。
最強の剣と最高の盾。

ふたつの意志が真正面からぶつかり、空気を薙ぐ。

──危うい均衡。

「あなたはそれでいいのよ」

シャロンの斬撃をことごとく跳ね返しながらレベッカが笑った。

「シャロン、あなたはそれでいいのよ!」

『…………』

レオリオが訝しげにその手を緩め、シャロンが思わずその手を止める。

──キィンッ

止まったその瞬間を狙って、レベッカがシャロンの刀を跳ね上げた。
瞬間シャロンも後ろに跳び、はじかれた銀刀を宙で拾う。
軽い音を立てて彼が着地をすれば、レベッカと彼の間には大きな間合いが出来ていた。
一歩では踏み込めない、場外の間合いが。

「あなたと私が同じ方向を向いていたんじゃ意味がないでしょ」

レベッカが言って錫杖を降ろした。

「世界っていうものは、ひとつの正義じゃ壊れるものよ」

その茶色の瞳は作られた笑みで彩られ、奥に潜む本心を一片たりとも見せていない。
じっとシャロンを見据えてはいるが、その視線には何の言葉も混じらない。
そもそも彼女の表の表情など紙っぺらのように薄いものだが。

「ひとりでふたつの正義は語れない。けれど、ひとつだけの正義では報われない真実が闇となる」

「──お前の正義は、理由のある殺しを黙認することか?」

「違う」

冷ややかなシャロンの声にレベッカの声が重なった。

「違うわよ」

しかしそれはただの否定で終止符。
彼女は短く言っただけでシャロンからは視線を外し、そのままゆっくりと祭壇のイーサ=レオリオ
調停官を見上げた。

「…………」

やや青白い顔をした美貌の人は、つまらなそうに煙草をふかしながらこちらを見下ろしていた。
彼の手はすでにヴェルト・メーアの首から外されている。
無論、まだ彼女は生きていた。──しかし顔をあげようとはしなかったが。

「君はどこまで知っているんだい?」

白い長衣を引きずって、レオリオが階段を下りてくる。
意志ではなく、重力に従わざるを得ないといった彼の足取り。
彼は、調停官──? いや違う。
その姿を直に見た者ならば、彼を調停官などとは思うまい。
反逆罪を承知して言葉にしたのなら、“王”。誰もがそう言うに違いない。

それだけの風格と美しさが、彼にはあった。
やる気のなさ=余裕、と映っているだけだったかもしれないが。

「レベッカ=ジェラルディ。賢い君は、どこまで分かったんだい?」

穏かな、夕闇迫る海。
声は綺麗で、見えない底は深く深い。
繰り返された彼の問いに、レベッカは小さく肩をすくめて言った。

「──何も。分かっているのはただひとつだけ。あなたがレジェーラ=フェレストを飼っているということくらいのものよ」

「──ありえません」

計られた沈黙を破ったのは、プライドの召喚士だった。
ハイネスの澄んだ碧眼は、自らの容姿に輪をかけたようなレオリオに向けられている。
いつものように背筋を伸ばし、ちょっと不機嫌そうに眉をひそめて。

「我々召喚士が体内で飼える限度は堕天と聖天。もしそれ以上のものが飼える召喚士がいたとしても、──魔王を飼うのは不可能ですよ」

「どうして?」

からかうようなレベッカの言に、しかしハイネスは顔をしかめたまま凛と応えた。
まるで教科書を読むように。

「人間の身体というものは、異質なものを受け入れることに限度があるのです。入れるものが大きければ大きいほど、自らにかかる負荷も大きくなる。魔王ほどの者を入れるほどのキャパシティは人間にありません。いくら修行を積んで限界にまでそれを伸ばした召喚士であっても、です。もうそこは生物学的な限界なのですよ」

「夢のない話ね」

「──そういうことは生物学者に言いなさい」

「…………」

反論に行き詰まったレベッカは、未だ階段の中腹にいるレオリオに向かって視線を投げる。
無論、答えの要求だ。
始めから答えを知りたがるのが自分の悪い所だと、常日頃色々な教師から言われている彼女であったが、異、この問題に関してはこれ以上考えても無駄である。

無駄な事にエネルギーは使わない主義なのだ。
そして幸運にも壇上の美しき閣下は、意地悪な教師ではなかった。

「限界を超えたキャパシティ、あるいは無限のキャパシティを持っていること……それが、召喚士における最大にして最悪な才能だったとしたら、どうだろうね」

『…………』

地下を覆った沈黙の意味はなんだったのか。

──ありえない。

しかし断言はできない。
世界には、『奇跡』だとか『偶然』だとかいう、とんでもなく無責任な言葉があるのだ。
あらゆるものを可能にしてしまう言葉が。

『…………』

ただ唖然としているコリウス教師。
未だじっとうつむいたままのヴェルト・メーア。
口を一文字に結び、しかしサングラスで表情をひた隠すシャロン。
口元だけ笑っているレベッカ。

そして、ハイネスがゆっくりと重く口を開いた。

「魔物を体内で飼う時には契約が必要です。──あなたは……あなたは何を代償にして、魔王に何を求めたのですか?」




「世界は、全てその鍵を中心に歴史を刻んできたんだよ」

レオリオがゆるやかに、しかし迷いひとつなくレベッカの胸元、白いスカーフを指差した。
それは鍵を隠している純白の布。
彼は魔王を飼っている。彼には鍵が見えている──。

「誰にもこの伝説の行く末は分からない。けれどそれがもし、伝説に言う“選択”がもし、この世界の均衡を破るものだったら? 実際に鍵を目にした者、権力の座にある者はそう考えずにはいられない」

言って、彼は口元を三日月に歪めてみせた。
空虚な笑み。

「もちろん、世界が危ないだとか、滅びの危機だとか思った者もいるだろう。けれど実際に世界を動かしたのはもっと違う危機感──王都なら王都の威信。レーテルならレーテルの独立。その崩壊への危機感だったのさ」
 
「──自己保身、ってやつですか」

ハイネスがつぶやく。
彼が発した質問とは大幅に違っているレオリオの口上だったが、彼は敢えて正さなかった。
相手の方が一枚も二枚も上手である。
それは、なんとなく分かっていたし、だからこそ文句は言わなかった。
 
そしてレオリオの言葉は更に続いてゆく。
 
「王都がまず始めに守ろうとするのは“王都”。レーテルがまず始めに守ろうとするのは“レーテル”。彼らはまず自らのカゴを守ろうとし、自らの構築してきたシステムを守ろうとする。それがこの世界の……鍵が作られて以来、この世界の流れを生み出してきた根本」
 
──鍵の恐怖。システムの保身。

「世界は鍵を作り、その監視者として一匹の魔物にそれを見る力を与えた。けれど──そのことに気が付いてしまった人間がいたんだ。あの魔導師ブラッド=カリナン。彼女は、魔王が鍵を見る力があると悟ってしまった。──レベッカ、君が僕の中の魔王に気がついたようにね」

「ブラッド=カリナンが、ねぇ?」

片眉を上げたレベッカに、レオリオが簡単なことだよ、と笑う。
 
「その頃王都の敵は“鍵”と魔境の魔物だったんだ。魔王は戦いを好まなかったらしいが、だからこそ戦いを終結させるため、何度か自ら王都軍を叩き潰したのさ。たまたまそこで魔王とブラッド=カリナンとが遭遇してしまったんだろうよ」
 
紫煙が漂う緩慢な空間。
感慨もない石造りの地下は厳格な舞台。
 
歌うように独演するイーサ=レオリオは、役者の如く遠くを見つめ、一度煙草を口にした。
それからしばし沈黙し、大きく息をついてから再び続ける。
 
「鍵を見ることができる魔物。それは王都の新たなる脅威。だからこそ王都精鋭の魔導師ブラッドと騎士セーリャを魔王討伐にやったんだろう。まぁ結果は知ってのとおり。いや、はなから勝機なんてものはなかったんだけどね」

「…………」

 
レベッカが軽くシャロンを見やれば、漆黒の剣士は乾いた顔でレオリオを──否、その先のヴェルト・メーアを凝視している。
流れる銀髪が乱れるのも構わずに頭を深く垂れている、古の会長さまを。
 
「──そして鍵と魔王に戦々恐々とする王都は様々に暴走を重ねたのさ。どうにかして魔王を葬ろうと闇雲に軍を向け、レーテルから無理矢理に若い魔導師を奪っていった。鍵を持った人間は次々と暗に消された。──レベッカ。君が今生きていることが不思議なくらいにね」
 
「私は昔から幻想の中で生きている子ねって言われてたもの。今更私が鍵を持ったなんて言ったって、誰も信じやしないわ」

「それは運が良かった」
 
彼がため息と共に吐き出したその言葉は、皮肉でも何でもないようだった。
安堵と哀しみが混じったその双眸。
端正な顔に浮かんだ深い憂い。
 
「比べて僕はただ運が悪かっただけかもしれないね。魔王を扱うことができるだけの才を手にしてしまった。知らずにレーテルに入り、その才を開花させてしまった。知らぬは罪。昔の人は上手いことを言ったもの……───ッ!?」
 
突然彼の言葉が奇妙に息切れた。
曇りなきガラスの目が見開かれ、動きが止まる。

「レオリオ閣下?」

「レオリオ?」

緩やかな煙の線を描きながら、彼の手から煙草が落ちた。
それを追うようにゆっくりと白衣が崩れ落ちてゆく。
 
胸をきつく抑えたまま。
驚愕と怒り、哀しみ、悔恨、そして虚無──すべての負の感情をその白皙にのせたまま。
 
秀麗な唇が苦しげに動き、しかし空気を震わせたのは切れぎれの息吹。
次瞬、彼の膝が冷たい石の床につき──
そして、その身体が沈んだ。

糸が切れた操り人形のように、伏したままぴくりとも動かない。

「レオリオ……レオリオ閣下?」
 
駆け寄ったレベッカが彼の肩を抱き起こしても、反応はない。
がくがくと揺する動きにあわせて、絹のような長い銀髪が宙で踊る。それだけだ。

「閣下……?」

 
力を無くして投げ出されている手に触れてみれば、血が通っていないかのようにひんやりと冷たい。
脈は弱いがある。
死んではいない。
けれどその身体にはまるで力も意志もなくて──

「どうしたんです、閣下!」

レベッカはきつく瞼が閉じられたままの彼の顔を覗き込む。

──刹那、

「なっ!?」

彼女の顔が一変。のけぞって悲鳴に近い怒声を上げた。

「何を!?」

<──余は契約を実行するのみ>

聞こえた声は、レオリオのものではなかった。

「閣下!?」

 
レベッカが驚いたのも無理はない。
死んだように垂れていたレオリオの手が、突然彼女のスカーフをぎゅっと掴んだのだ。
鍵ごと。

 
そして瞬間後ろに回されたもう片方の手が、器用にペンダントを外す。
全てはあっという間。

「ちょっと何すんの!」

「レベッカ! 馬鹿!」

「鍵……!」

唖然と目を丸くしている彼女の首根っこをつまみ、シャロンが慌ててレオリオから引き離した。

「レオリオ?」

ヴェルト・メーアの小さなつぶやきを背に、彼がすっくと立ち上がる。
金色の双眸をした彼が。

<兵士が王都に報告したか>

 
憂いげな顔も塵と消えそうな美しさも変わらないのに、彼は違っていた。
彼は彼でなくなっていた。
 
<不憫なことだな。優秀すぎる部下は逆に疎まれる。少しでも道を外したら呪い殺されかねないなどとは、救いようがない。昔から王都というものはそうだったが……>
 
天井を見上げて独りごちているその姿の中には、面倒臭さもなげやりさもないのだ。
あの優男特有の無情感、虚無感がないのだ。
そこに立っている男には、存在感がありすぎたのだ。
 
イーサ=レオリオが持っていたような、人の心を侵食していく存在感ではなく──、人を上から抑えつける存在感。空気に重さを感じさせるプレッシャー。
その者こそが、

「レジェーラ=フェレスト。鍵を返しなさいよ。それは私のなんだから」

魔王。





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