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- 「兄貴〜! 兄貴〜!」
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- どたどたと廊下を走る音が聞こえて、彼は読んでいた新聞から顔をあげた。
- 無表情で、つまらなそうなその顔を。
- ちらりと外を見やれば外は夕闇。そろそろ階下の酒場が繁盛し始める刻限だ。
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- 「兄貴、大変です〜!大変なんですよー、兄貴!」
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- 自分を呼ぶ声は止みそうにない。
- 彼は少しでも力をいれれば全壊しそうなテーブルに新聞をたたみ、少しでも乱暴に開ければ崩れ落ちるだろう扉をじっと見つめた。
- ──もちろん、その新聞が数日前のものであることは、彼にとって何の問題もない。
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- 「兄貴!」
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- 「……うるさいぞ」
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- 「それどころじゃないんですよ、兄貴!」
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- 「…………」
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- 勢いよく開かれて無残に崩れ落ちた扉を眺め、彼は嘆息。
- しかし身をあずけたボロ椅子から立とうとはせず、彼はただその双眸を細め、眼前の若い男に問うた。
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- 「カース。いいか、俺たちは存在そのものが違法だな?」
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- 「はい」
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- 男の至極素直な返事に、彼は胸中で頭を抱える。
- コイツはいつだってそうなのだ。
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- 濃い茶色の髪をテキト−に乱し、いかにも悪ガキな顔つき。
- 華奢な体躯だがその分身は軽いわけで、悪事は一通り一人前。
- しかし何故かコイツは彼を慕って、『兄貴兄貴』と呼んでは尻尾を振ってついてくる。
- 裏稼業者には有り得ない素直さで、彼の言う事を聞く。
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- ──彼は苦手なのだ。素直な、奴が。
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- 「いいか、俺たちは普通の宿屋には泊まれない。そしてここは、この帝都で唯一違法者でもかくまってくれる心優しき闇宿だ。ここを追い出されたらどうなるか──分かってるな?」
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- 「はい」
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- 「分かってるんなら物を壊すな静かにしろ」
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- 「はい、兄貴」
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- 「行ってよし」
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- 言い置き、彼は足を組みなおして再び新聞を取り上げた。
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- くすんだ灰色の長い髪、斜に構えた氷れる闇色の目。
- 秀麗な顔の左頬に付いた傷は稼業の証。そして、闇夜に溶け込む長い黒衣。
- 20も後半という年齢だが、とりあえずは年より若くみられる。
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- それが、彼。
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- 「以後気をつけるように」
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- 「あ、はい。どうもすみませんでしたっ!……って兄貴、そうじゃありません、大変なんです!」
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- 「…………」
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- ぶんぶん拳を振り回してくるカースを、彼はうさん臭げな目で見た。
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- 「オレ、兄貴のことを嗅ぎまわってる女をとっ捕まえたんです!」
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- 「俺のことを嗅ぎまわる?」
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- 「そーなんっすよ! 今までの仕事とか、これからの予定とか、行きつけの場所とか、行動する時間とか、色々な場所で聞き込みしてたんっすよ、そいつ!」
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- 「…………」
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- ──仮面の殺し屋。
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- 人々は彼をそう呼んだ。
- 闇とともに現われ、表情ひとつ変えずに標的を葬る。
- 素でありながら仮面の如く無機質で、人でありながら仮面の如く温度がない。
- 人々は彼をそう評した。
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- しかし、そう呼ばれたのはもう昔のこと。
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- 「今更」
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- 彼は自嘲の微笑を口端に浮かべ、目を閉じる。
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- 「今更俺に張り付いてみたところで、収穫なんぞあるわけがない。過去は役にたたん。放っておけ」
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- 「そうかのう? 過去は未来への礎(いしずえ)。……そうは思わぬか?」
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- 「…………」
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- 突然響いた楽しげな声に、彼は片目を薄く開けた。
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- 「貴様の持つ過去が無意味ならば、貴様は意味のある未来さえも持っていないので
- あろうなぁ?」
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- その視界に入ったのは、縄でぐるぐる巻きにされて床に転がっている女。
- たっぷりとした黒髪を高く結い、場違いな白い細身のドレスを身にまとい、……笑っている。
- 襟元は首まで覆われ、袖は長袖。裾は足首。
- 色気の欠片もないドレス。
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- 「捕まえたってのは……これか?」
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- 彼はこめかみに手をあててうめいた。
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- 「これです」
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- 申し訳なさそうにカースが小さな声で答える。
- どうやら部屋の外に置いておいたものが、勝手に入ってきた模様。
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- 「これとは失礼な。私は重大な任務をもってここへ来たというに」
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- まったくもって棒読みな口調で彼女が言う。
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- 外見は年の頃20前。
- だがその言葉使いからも、据えられた黒の双眸からも、実際年齢は分からない。
- おまけに──
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- 「仮面の殺し屋、RJ(アールジェイ)」
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- ニヤリと笑ったその笑みさえも無味乾燥。
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- 「私は貴様を消しにきたのだがのう?」
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- 「…………」
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- ボロ椅子に身をうずめて口を引き結んだまま、彼──RJは静かに女を見据えた。
- 彼の鋭く、怜悧な目。
- 昔持っていた、暗殺者の目。
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- しかし彼女は全く意に介した様子もなく、それどころか更にからかうように告げてきた。
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- 「貴様が皇帝陛下暗殺を請け負っていることは、調査済みなのだよ?」
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- 栄枯盛衰。
- 奢れる者も久しからず。
- 桜の満開も長くは続かない。
- 『仮面の殺し屋』。
- かつてそう恐怖に囁かれた暗殺者も、時が過ぎればただの裏人。
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- ──しかしこの日。
- 彼は人生第二の波乱に出会った。
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- 『RJ』
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- その名を、再び世に知らしめる波乱に。
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