４・宰相暗殺前編

この大陸がセレシュ＝クロードによって平定されてから、“生きるか死ぬか”の瀬戸際に立たされる人間の数は極端に減った。
無論ＲＪが自分で比較研究したわけではないし、実際の所はどうなのか分からない。
病に倒れる者、飢えに明日の見えぬ者、貧困に惑う者。生きるべき道を知らぬ者。
生死はいつでも背後にあり、それを忘れることこそ愚かだと賢者は言うだろうか。

しかし、少なくとも国同士の戦乱はなくなった。領土問題、国勢問題、侵略問題は完全に消え失せたのである。
少数民族はその存在を認められ、自治を許された。奴隷とされていた捕虜も解放され、貴重な技術を持つために各国に囲われていた種族もまた“自由”を手にすることとなった。

大陸の暁（あかつき）か。
それとも大陸の黄昏か。
人々は、野望の炎ひとつ見せぬその男を計りかねた。
何故彼が大陸統一などという荒業を押し進めたのか、誰にも分かりかねた。
力を示したいわけでもなく、人の上に立ちたいというわけでもなく──そう、その男の目には何も映っていなかったのだ。何も。
剣を奮う、城から帝都を見下ろす、静かに命を言い渡す、その何処にも明確な意志が見られなかったのである。

敵国の軍師として捕らえられたかつてのイェルズ＝ハティが、引き出された御前で問うたことがあったという。

──貴方は何のためにこんなにも多くの人命を踏みつけるのか、と。

すると雪より白い長衣をまとい、動かぬ蒼の目をしたその男は、感慨なく即答した。

──私が定めた私の運命だからだ

と。

北の氷に閉ざされた闇の大地から、南に広がる砂漠の果てまで。
東の方（かた）連なる山脈の奥から、西に裂ける底無きクレバスの遥か彼方まで。
セレシュ＝クロードの名を知らぬ者はいない。
多くの戦火で空を染め、多くの鮮血で大地を濡らし、多くの死をもって神々を慄かせた──紅蓮の皇帝。
渦巻く空気は嘆きと歓喜の声に震え、風は大河を渡り森を抜けて恐怖と崇拝を大陸中へと運ぶ。

しかし、セレシュがもたらした自由は、善政へと結びつくことは結局なかった。
奴隷を取り上げられた上層階級は不満を募らせ怒りのままに民を虐げ、いきなり自由の海へと放り出された民族は右も左も分からず彷徨い続け。
長く夢見た“自由”が彼ら弱き者に与えたのは、逃走と流浪であった。

憧れは失望へと変わる。
喝采は怒りへと変わる。

そして全ては──……。

◆　　◇　　◆　　◇　　◆

「美しいであろう？」

前を行くインペリアル・ローズが、ゆったりと衣の裾をひきずりながら言ってくる。

「あぁ、確かにな」

ＲＪが短く返せば、後ろからカースが断片的な感嘆をもらす。

「これが……帝城……」

「これは神の子 ──ラフィデール族が建造した城でな」

「天上の民、……ラフィ（神の）デール（子）か。まだこの地に残っていたのか？」

彼の声はいつに増して堅かった。
押し殺し、言葉少なく、隙の無い黒眼だけが機敏に周りを射る。
何人（なんびと）であろうとため息をつくであろう白亜の城。
気を緩めれば即囚われる、幽幻の城。

「ラフィデールってあの、ラフィデール？　この大陸に人間より以前に住んでいたっていう……儚くも巨大な力を持った精霊……？」

「さよう。彼らは神に最も近き美を解し、全てを凌ぐ自然の力を操り得た者たちだった。その天性だけで言うならば、今この大陸を制しているのは彼らであるべきだったのだよ。だが、世界はそう廻らなかった」

身の丈どれくらいの巨人が住まうのかと訝（いぶか）る程に天高く広く創られた迎えの間、そして奥へと続く巨大な回廊。
支える円柱は太古より生き長らえし大樹を超え、天に描かれるはまだ記憶色褪せぬ幾多の戦劇。
曇りなき白と、人間を押し潰さんとする圧力。
人間ひとりの存在がこれ程までに小さいのかと息を呑む。

どれだけ心を閉ざしても仰ぎ見ざるを得ない、人知の外。
それが世界の大きさなのか、それとも運命の重さなのか、計り知れぬ何かがそこにはあった。
手を伸ばしても届かない。
剣で薙いでも抗し得ない。

だが、身を包む不可思議な安堵もまた真実。
神秘の森深くに湧き出でる泉の如く、城内は静謐をたたえて世の煩いを遠ざける。
殺めることにすら心を砕かなくなった黒の男。
一寸の痛みすら感じなくなった暗殺者。

彼を安らかな眠りへと引き込む空気が、そこにはゆったりと流れていた。
いつからか雁字がらめに彼を縛り付けている鎖を解き、黒から白へと優しく浄化してゆく誘（いざな）い。
神に愛でられし者達が創造を重ねたその城は、あたかも天上。
災い憂いで溢れる世界は果て遠く。
ただ慈悲深き女神の歌声だけが、鳥と共に城を守る。

それが、セレシュ＝クロードの居城。
それが、帝国の要。

「やがて細々と生きていたはずの人間は、掲げる主を軸にして領土をめぐる争いをし始め、世界には血が流れ、涙が落ち、悲しみと怒号が大地を揺るがした」

「ラフィデールはそんな大陸に愛想を尽かしてこの地を捨て、天へと帰った。──どこまでが本当でどこまでが寝物語だ？」

鋭さを忘れようとする己が身を忌々しく思いながら、ＲＪは投げやりに言ってやる。

「愚か者が」

何故か不機嫌にローズが睨んできた。
と。
回廊入り口の右手、これまた大きく荘厳な曲がり階段から、

「ローズ、客人に嘘を付くな。今となってはもう、この城を創ったラフィデールさえこの地に留まってはいないだろうに。この見捨てられた大地に未だ未練たらしく残っているラフィデールは、北の大地の闇の王、魔術師たちの親玉、あいつだけだ」

あからさまに嘲りの入った声が降ってきた。
見上げて刹那、ＲＪは息を止める。

──セレシュ＝クロード

階段の手すりに手をかけて、その男はこちらをじっと見下ろしていた。
氷のような蒼の双眸。
後ろで束ねられた銀の髪は光を反射し輝いて、彫刻のような美貌は猛禽類を思わせる程隙がない。

「…………」

が、しかし。ＲＪは小さく眉根を寄せた。なにか違うのだ。
衣装が、先入観と違うということもある。
記憶の中のあの男は、そして予測する未来に現れるあの男は、不動の皇帝を暗示する長衣をまとっていた。決して血に闇に染まらぬ白の長衣を。
対して眼前の若い男はやけに軽装だ。
色こそ白で統一されてはいるものの、貴族が狩りに行くよりも軽い服装をしている。
立ち襟で細身の剣術服に身を包み、足を護るのはふくらはぎをすっぽりと覆う黒のブーツ。だが帯びた武器は腰にくくった二振りの短剣のみ。

けれどもっと決定的に──圧力が違う。

──こいつは……。

「兄上のせいさ、全て」

見上げた先の男は、憎々しげにローズを睨みつけていた。
記憶の中の皇帝よりも遥かに──意志を宿し強い光を放つ蒼の視線。

「フォール」

「兄上はラフィデールに永遠なる平和を約束してこの城を創らせた。だが実際はどうだ！？　あいつがやったのは大義名分で着飾ったただの虐殺だったろう。あいつには平和をどうこうしようなんてつもりは始めからなかったんだよ。兄上は彼らと約束を結んだその時から彼らを裏切っていた」

「黙れ、フォール。私の前で暴言は許さぬ」

低い威嚇の声がローズの紅唇から漏れ出た。
だが、フォールと呼ばれたその男はこちらを射抜いたまま、言葉を止めない。

「裏切られたラフィデールは皆この地を見捨てて天上に逃れてしまった！　アンタだって裏切られたんじゃないのか、インペリアル・ローズ！　アンタは何のためにあいつを庇う！？　平和のためだとか人々のためだとか思っていたら大間違いだぞ」

「私とセレシュの間に約束など存在しない。私はあやつそのものだ」

「狂信者ってわけか！　……この帝国もすぐ終わりだな。誰も兄上を恐怖以外の目で見てはいない。誰もこの帝国の存続を望んでいない。滅んだって涙一粒流れやしない」

「去ね！　フォール＝クロード」

荘厳なホールに響き渡ったローズの怒号は、静かにもかかわらず有無を言わさなかった。ゆっくりと見上げた彼女の肩から黒髪が滑り落ち、悪意なき針の双眸が階上のフォールを退かせる。

勝敗は明らかだった。だが、

「……人の血の上に立った帝国などさっさと滅んでしまえばいい」

強情なのか負けず嫌いなのか、彼は手すりを握り締めたまま吐き捨てる。

「…………」

ローズは瞬時に怒りを消した無表情で、何も返さない。
彼女はただ顔を背け、身体を反転させようとしていた。
が、その時。
二階の回廊奥から聞こえた歌うような声が彼女の歩を止めた。
降ってきたのは柔らかく澄んだ、女の声音。
綿毛のように、和やかな陽射しのように、流れる言葉。

「フォール、何をしているの」

「……あぁ、ロベリア」

フォールの眼先に沿ってＲＪが瞳だけを動かして見やれば、回廊から出てきたひとりの見目麗しき姫が黒に映る。

──ロベリア＝キャプシーム。……皇帝の囲う歌姫、か。

「どうしました？　ごめんなさい、私には自由な時間があまりありませんから……待つのが得意ではなくて……」

薄紫の後ろ裾が長い衣、複雑に編まれた金の髪、憂いを含んだ微笑をのせた可憐な造詣。どこを取っても、非がない。
それどころか、何故か無意識に目が彼女へと吸い寄せられてしまう。
分かっても、視線を外せない。

「何でもないよ、すぐに行く」

インペリアル・ローズが主である時には、畏怖と覇道の権化であったこの帝城が、彼女の声ひとつで気高き女神の神殿へと色変わりしていた。
何をするでもなく、空気が彼女に支配されてゆく。
造り物めいたローズのそれとは違う、染みこむような場の支配。

「では、私は向こうでお待ちしております」

彼女は微笑んで再び回廊の奥へと去った。
春の花の香が漂い、白に溶ける。
ＲＪが半眼でカースを見れば、彼はぼーっと頭に花が咲いていた。

しかしその穏かな暖かさを、欠片の妥協なき冷気が一蹴。

「さっさと行け、フォール」

過剰と思える程に、刺々しいローズの毒。

「行け！」

フォールは気圧されたか舌打ち一回、そして何故かＲＪを敵意溢れる眼差しで一瞥し──足音高らかに回廊へと姿を消した。
歌姫が去っていったのと同じ、回廊へ。

「不平不満を並べ立てるしか能のない若造が！　思うならば動いてみろ、動かしてみろ！　何も分かっていないくせに知ろうともしないで言葉を使うなど愚か者が」

大人げなく舌を出して小さく罵詈雑言をつぶやき続けるローズは見ないことにして、ＲＪは彼らが消えた回廊を見上げたまま、訊く。

「仲悪いのか？」

「フォール＝クロード。出来の悪いセレシュの弟だ」

「あぁ、それ分かる分かる。上が出来すぎるとな、下ってつらいんだこれが。オレの家も兄ちゃん頭良くて困った困った」

カラカラと爽快に笑い声を上げるカースだが、淡々としたローズに一刀両断される。

「あいつはただ根性が曲がっているだけよの」

「…………」

ＲＪは深く息を吸い込み、そして深く吐き出す。

「……そうかい」

とりあえず、ミもフタもないお家事情ではあるらしかった。

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