White Hazard

第四章 「宰相暗殺」 中編

 

セレシュ=クロードの弟・フォール=クロードの姿を見送ってから、ふたりはローズに先導されるままに奥へ奥へと歩を進めて行った。
広く荘厳な回廊を抜け、左右を緑の木々に囲まれた渡り廊下を通り、おそらく最奥かと思われる突き当りの階段を登る。
絨毯も何も敷かれていない大理石剥き出しの階段は、冷たく靴音を響かせた。
だが、彫刻以外飾り気のないそれがまた、静かに俗世を見下ろすあの男の神性を増大させるのだ。

神の子と呼ばれる種族、ラフィデールの最後にして至高の建造物。
彼らの腕は若き城に偽りの時を与え、ただの石積みに冷徹な神威をまとわせた。

(……いや、違う)

RJは自分で自分の言葉を否定して、小さく首を横に振る。

(ラフィデールがこうしたんじゃない。全てはここにあの男がいるからだ……)

セレシュ=クロードを恐いと思ったことは一度もなかった。
殺し屋がひとりの人間を恐れることなど許されることではないのだ。
恐れは腕を鈍らせ、思考をさまたげ、直感を狂わせる。
だがしかし、皇帝セレシュ=クロードには畏怖せざるをえない自分が今ここにいるのもまた事実。

(なんだってんだ全く)

そんな彼の苛立ちを察したのか否か、

「セレシュ=クロードってのは……一体何者ですか」

後ろからカースが遠慮がちに囁いてきた。

「この大陸の皇帝だ」

ばっさりと斬ってやると、ンなことは分かってますよという小さな声が返ってくる。
しかしRJはそれっきり口を結んだ。
それは彼の方が叫んでやりたい質問項目であったのだ。
苛立ちのままに大声で怒鳴りつけてやりたい。

(──何者だ!?)

彼の脳裏にあの男の過去なる幻影が浮かび──、そして細めた目には前を行く白の女が映り込む。
この世全てを震撼させる白の男と、それに全幅の信頼と忠誠を寄せる白の女。
あり得ぬ強さを誇って大陸を掌中に納めた男と、存在そのものが人でないことを痛感させる女。

「着いたぞ。セレシュに会ってもらおう」

感情のないインペリアル・ローズの声に、RJは思考を止めて前を見据える。

「…………成り行きでとうとう来ちまった……」

連れてこられたのは、思い描いていたような一室ではなかった。
簡単に言えば、吹き抜けのホール。
城を囲んでいる森を見下ろすことのできる、がらんとした空洞。
ここで優雅に景色でも眺めていれば、心安らぎ静かなひと時を過ごせるのであろうが──たったひとつの存在によってそれは不可能となっていた。
静かには違いない。優雅にも違いはない。
だが、その存在は他に安らぎを与えることはできなかった。
畏怖と、警戒と、屈服。それだけが蒼白い空気の下にわだかまっている。

場を染め変える存在。
ひとつだけ置かれた長椅子に背を預け、物憂げな眼差しで眼下の緑を眺め、彼はそこにいた。
この大陸唯一の皇帝、セレシュ=クロード。
RJが、十年前に一度だけ出会ったことのある白の男。
積まれた年月の分だけ重さを増した帝気を背負い、近寄り難き純白の帝衣に身を包んだその男は、まさに皇帝と呼ぶにふさわしかった。

否。……それ以外ではいけないのだ。

この男は『皇帝』でなくてはならない。何がというわけではなく、どうしても、なのだ。
もし“運命など欠片も信じない”そう頑なに言う者がいるのなら、一度この男に会ってみればいい。
身を持って、運命というものの存在を思い知るだろう。
──異質なのだ、何もかも。



「セレシュ。件(くだん)の男を連れて参った」

ローズの言葉に、鋭く研がれた蒼眸がこちらを向いた。
そして耳に届く憂いの声。

「……苦労をかけた」

「そう思うのなら我が進言を門前払いするのは止めよ」

「お前の言いたいことは分かっているのだ。聞くまでもない」

「…………」

ローズが口を開きかけ──閉じた。
彼女は黒い瞳でセレシュ=クロードをしばし見つめ、静かに嘆息する。

「お前は私ではなく、私はお前だ。それなのに何故お前は私の言いたいことが分かり、私はお前の考えていることが分からないのだ?」

「不思議か?」

「不思議だ」

ローズはいつもの如くの無表情で、セレシュは目元だけの微笑。
そして静謐を揺らした答えはごく軽く。

「お前は硝子(ガラス)で、私は鏡なのだ」

「…………」

RJが横目で見やれば、言われた彼女の表情は全く変わっていなかった。皇帝の一言を理解したのかしなかったのか、瞬きひとつさえもしなかった。

「ローズ、下がっていろ。後でまた呼ぶ」

「……御意」

彼女はそれ以上の言葉もなく、簡素に一礼だけするとその場を去って行った。
蒼く、白く、そして緑の沈黙がやってくる。
カースは例の如く入り口に佇み、RJはそれより二歩ばかり前に出たところで微動だにしない。
そして皇帝は、長椅子の手に肘をついたままインペリアル・ローズの去った方向を虚ろに眺めていた。が、その蒼が僅かに動いてこちらを射抜く。

「よく来た、仮面の殺し屋RJ。いや──……」

続けようとしたその男の言葉を、RJは軽く手を挙げて制した。

「RJ。この場にはそれ以外の名は必要ないでしょう、皇帝陛下」

「……変わらないな」

相手がそう言って微笑を浮べるのを見、彼は不快に眉を寄せる。

「変わらない?」

「お前は十年前も同じだった」

「何が同じですか? ……腕なら、かなり落ちましたが? 何せ大陸が平定されてから国同士のイザコザが消え去って、面白味のある仕事までなくなったんでね」

茶化してみたはいいが、面白くもないかわし方だと自分で思うRJ。
案の定皇帝は無視してきた。

「お前の目の前には何もない。それが十年前と同じだと言うのだ」

「…………」

「お前の前にあるのはただ茫洋とした虚空だけなのだろう? だからお前は進まないし、進もうともしない。虚ろな時間に流されて身を更なる血に染めてゆく」

皇帝の氷れる蒼眸がRJから外されて、再び外の緑へと向けられる。
抑揚なく、感情なく、ただ美しく流れてゆく声音。

「私を皇帝にしたのはお前だ、RJ。だがお前はそれを狙ったわけではないな? 歴史を動かす暗殺者になるがためにやったのではない、いわばお前は──単なる通りすがりだ」

「…………」

RJは沈黙をもって返す。
それが肯定となることは充分知っていた。だがここでこの男に虚勢をはってみせたところで、敵うはずもない。

「かつてのお前は暗殺者として栄光の階段を駆け上り、そしてその頂きを極めた。だが、極めてすぐに地に落ちた。何故なら、お前は極めた先の道を持っていなかったからだ」

「階段があるから登った。登りきったら先がなくて落っこちた。──そう言いたいわけですか」

「違うか」

「否定はしませんよ」

蒼白い神域に立つ、黒の男。限りない黒にして、逃れられぬ黒。
城の空気は男を完全に拒んでいたが、それでも彼はそこにいた。
RJはそこに──皇帝セレシュ=クロードの目の前に、いた。

「目的は、ない」

正解とされない正直な答えを言えるくらいには、強くありたいと願う。
だからRJは、躊躇いなくそう断言した。
軽い沈黙が訪れても、セレシュ=クロードが立ち上がっても、その言葉を訂正するつもりはなかった。

だが──、

「私は今、この世界で最大と言うべき裏切りをしようとしている」

立ち上がり、緑の遠くを見据えたまま、皇帝が告げた。

「存在全てを賭けて私を信頼している者を、私は裏切ろうとしているのだ」

急激に変えられた矛先。
そしてセレシュ=クロードは更に続ける。

「だがその裏切りは避けられない」

神がこの世界に最後の審判を下す時には、こんな顔をし、こんな声をし、するのだろうか。
そう思うほどに覇者の顔は変わらず──、しかし声だけは低く痛かった。

「私は裏切らねばならない」

「インペリアル・ローズ、ですか」

RJがつぶやけばセレシュの双眸だけがこちらを向き、ゆっくりと瞬く。
肯定。

「おそらくそれは、この大陸を平定した以上の大罪となるだろう」

「あの女は何者です?」

皇帝の歌を制し、RJは鋭く訊く。

ずっと違和感を持ってきたのだ。
インペリアル・ローズ。そう名乗るあの白い女に、ずっと釈然としないものを感じていた。
力の差だとか、言動の奇抜さだとか、そういったものではなくて──存在としての違和感。人間ではなく、どこか機械仕掛けの人形めいた彼女の感情。

「あの女は人間ではあり得ません。どんなに愛しあう者たちでさえ、微塵の疑いも持たないことなどあり得ないでしょうに。人間ってものは愛するが故にこそどこかで疑い、多くの時間を費やして心を砕くんじゃありませんか? そういうしょうもない生き物なのではありませんか?」

RJは一歩だけ皇帝に近づいた。

「だがインペリアル・ローズは違います。あの女はアンタを欠片も“疑っていない”」

押し殺した彼の声は、蒼みがかった白壁に反響し、消える。

「彼女は心底。……本当に心底セレシュ=クロードという者を信頼しています。アンタの言う事成す事、全てを考えることなく肯定する。ありえないぞ? ありえない」

(──ようやく分かった。インペリアル・ローズに感じた不協和音の原因が)

RJは一呼吸置いて声を荒げた。

「悪辣な純粋だ。──あの女には根底なる意志がない! 世界最強の力を誇るインペリアル・ローズの意志はすべて、皇帝セレシュ=クロード、アンタの意志だ! ……そんなことは人間じゃありえないな?」

力のある者に追従したがる輩はいくらでもいる。だが、彼らは誰かに従いながらも始終、自らが付くべき人間を探しているのだ。密かに比べ、計り、そして鞍替えする時期を狙っている。

しかしインペリアル・ローズの主はただひとりである。
皇帝セレシュ=クロード、彼だけだ。
或いは彼女自身が時折口にしていたように、彼女は皇帝そのものなのである。


「だから大罪なのだよ」

初めてRJに向き直り、セレシュが一瞬微笑した。
そして光を背に負い、表情のない顔に影を落とし、

「彼女を裏切る事はつまり──彼女の根底を、存在を壊すことになる」

静かに告げてくる。

「インペリアル・ローズは自らに裏切られ、自らを失うことになる」

RJを見据えてきた皇帝の蒼眸に野望の色はない。だが、氷剣よりも冷たく鋭利な刃が隠されもせずにこちらへと向いていた。
大陸を蹂躙(じゅうりん)し、その手に納めた皇帝の奥底。

「だがそれが私の選んだ道だ」

「何故その道を選ぶんです」

「……歴史は流れだ。ただ一人の意志で変わることもあれば、最上に立つ者の意志に反して、大地に住まう人々の意志が溢れかえり、行く末も分からぬ奔流(ほんりゅう)ともなる。──その流れを我が意志のままに動かすには、その道しかないのだ」

「アンタが歴史を動かす?」

無駄なことだと知りながら、訊き返す。

「あんたは皇帝だ。もう歴史を動かしているでしょう? これからだって好き勝手に動かせる」

「…………」

セレシュが背を向けた。

「お前には自身が定める道がない。お前はただ、時と状況によって目の前に作られた道を歩いてきた。人間としては──最悪だな」

「何とでも言ってくれ」

「だが、今回はそれが役に立つ。暗殺者として目的がない故に、お前は与えられた仕事を完全にやり遂げる。己の利害で放り出したり、刃を主に剥けたりはしない。ローズとは真逆の性質を持った忠実な……意志」

それぞれの息遣いはホールを吹き抜けていく木々のざわめきに消され、険しく相手を探るRJの視線も、たゆたう空気にからめとられる。

「RJ。ローズがお前に何を頼んだのかは大体予想がつく。だが、私がお前に頼みたいのはそれではない」

「報酬は」

「お前が望むものを、望むときに」

「……俺は何をすればいい?」

「流れに逆らえ」

「?」

思わず柳眉を寄せて、皇帝の背に疑問符を投げつける。

「インペリアル・ローズの崩壊は避けられない。だが、喰い止めろ」

「──?」

「あれは私に真に忠実だからこの大陸を滅ぼすことはないだろう。よってあれが壊れようと暴走しようとこの世から消え去ろうと、世界の維持には何ら支障はない」

「…………」

ならば何故と問い返しはしなかった。

「支障はないが、止めろ。何をしてでもいい。崩壊、消滅から救え」

「殺し屋に救えと?」

揶揄(やゆ)して口端に意地の悪い笑みをちらつかせれば、

「両方やればその名に箔(はく)がつくだろう」

軽く切り返される。

「確かにな」

どうせ他にやることもないのだ。
破格の報酬ならば、やらない手はない。
それがあの奇怪な人間外を守れという非常識かつ無意味にみえる仕事であっても、文句をいえる立場ではない、今となっては。

「……話は終わりか?」

「終わりだ」

言われると同時、RJはゆっくりと身体を反転させた。

黒と白、ふたりの男が背を向けて立つ。

(……アンタはこれ以上何をするつもりだ?)

RJは磨き込まれた下へと視線を落とし、口だけを動かしてセレシュへとつぶやいた。


ローズはガラス。

ローズはセレシュの意のままに動き、その意を汲んで笑いながら歴史を紡ぐ。
だからこそ、他人には尋常でないと見える彼女の行動も、セレシュにはその意図が手に取るように分かる。
彼女はセレシュなのだから。
セレシュにとって彼女はガラス。彼女の全てが見通せる。

セレシュは鏡。
セレシュは自らの意志で、その意志を映す。
映された意志を読み、ローズは飛び回る。
だが鏡には映らないものがある。
自我を持つ者の内側は、決して鏡に映らない。目に頬に口に現れる表装は映っても、奥底で息を潜める真意は決して映らない。
ローズにはセレシュの外殻(がいかく)だけしか分からない。

ローズはガラス。セレシュは鏡。



「仮面の殺し屋RJ、私の歴史が流れる様を見ていろ。そして、その目に刻め」

背後からトドメのように刺された杭。

「──御意」

RJは振り向きもせずに返し、前へと足を踏み出した。

深い霧とぼやけた闇に閉ざされた、広大なる前途へと。










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