White Hazard

第四章 「宰相暗殺」 後編

世界は、ただ一点によっては存在しない。
二点によっても、存在しない。
世界がその存在を示すのは、その者と対象、そして第三者とみなされる者。その、時と共に変形する三角形が現れた時のみである。

自らと。自らの欲するものと。その間に立ちはだかるもの。

この広大なる大地には、あますところなく魔の三角形が溢れている。相手を変え、想いを変え、それは人を人となす。そして世界を創り歴史を創る。

世界は誰のためにあるのでもない。世界は、誰かがいることによってのみ、ある。
世界があるから人が動くのではない。人が動くゆえに世界が現れる。
人がいる故に、世界を見る。


その男は、生きる目的など──欲しいものなどないと言う。
昔からそうだった。
仮面の殺し屋の持つ関係と言えば、自分・標的・標的の警護者。ただそれだけの単調なものだった。仕事が終われば標的が──多くの場合警護者も──この世から消滅して三角形は彼一点を残して崩壊した。

彼は一度も、世界を見ていない。
その方が平穏だっただろう。くだらないことに心を砕かなくてもよいのだ。ただ、明日の殺し方と報酬の額だけを考えていれば月日は過ぎる。苦もなく頂点に立った男は、他者という存在を知らない。
自らを脅かし(おびやかし)、歩くと誓った道の向こうで嘲笑する他者、自らの望むものをすでに手にしている他者。その存在を知らなかった。

それは卓抜した技能を持つ彼に与えられた、神からの報酬であったかもしれない。

だが、その神話は崩される。






◆  ◇  ◆  ◇





「兄貴、ローズはどこに行ったんでしょうね?」

「さぁな」

皇帝の前を辞したはいいが、案内役がいなくてはこの広すぎる城、どこへ行けばいいのか全く分からない。RJはとりあえず一番下まで降りて、中庭を臨む回廊へと出た。もちろんオマケのカースも一緒である。

「あいつを探すより先に、宰相を探さなきゃならんが……」

RJは陽光を反射し、眩い(まばゆい)ばかりの新緑に斜めな黒眼を細めた。

「その宰相ってのがどんな奴だか知らんしな」

「だからローズを探すんでしょう」

「そうなんだが……」

語尾を濁し、彼は小さな林を作り出している中庭へと足を踏み入れた。

(──ディエス=ヴァーミリオン)

胸中でつぶやきながら、乾いた地面を揺れ動く木の葉の影を眺めやる。
知らず手をやった木は、まだ細い。

「ディエスを動かしたのは誰だ?」

「宰相を殺して得のある人間ってことですよね、普通。個人的な恨みの線だってないわけではないでしょうけど〜、時期が時期ですし」

「殺して得のあるヤツは誰だ?」


今、城は緊迫している。
圧倒的な力で支配している皇帝セレシュ=クロードと、その支配を逃れ民の力で国を成したいと刃を向ける宰相イェルズ=ハティ。
皇帝の強さそのものに惚れ込んでいる者達と、宰相側に組みしつつその心を抑えて黙し続けている者達。
いつかインペリアル・ローズが言っていたように、現在の静かな均衡はすべて、皇帝の恐怖によるものだ。それが少しでも緩んだら、想像よりはるかに多くの人間が皇帝に反旗を翻すだろう。宰相側に少しでも勝機が見えたのなら、国は一気に転覆することもありうるのだ。

それほどに、危うい。


「宰相がいなくなって都合がよいのは、皇帝ですね。単純に思えば」

「だがイェルズ=ハティを宰相にしたのはあの男だと聞いているぞ」

「じゃあローズですか? 皇帝に仇なす者は皆殺しーっ! とか言いそうですよ」

「あの女のわけがあるか」

一歩一歩木々の中に紛れて行くにつれ、現実から遠ざかっているような気がした。
四方を城に囲まれているはずだろう中庭なのに、強い風が通り抜けていく。
緑に染まった風がその度、彼の農灰色の髪ををさらっていった。
セレシュ=クロードと同じく長い、しかし対象的な、影の髪。

彼はその男がいるだろう方向を見上げて言った。

「イェルズ=ハティが宰相の地位にいるのは皇帝の意向だろうが。皇帝と一心同体みたいなあの女が、皇帝の許しもなく葬るわけがない」

「……あの人だったら暗殺者なんか雇う必要ありませんしね……」

「皇帝もそうだ。気に入らなければ今までのように、何か理由をひねり出して処刑でもしてしまえばいいんだよ」

「なら、仲間割れっていうのはどうです?」

「…………」


出来すぎる人間は疎まれる。
もし今の帝国を崩壊させることに成功したとして、その時次へと歴史を進めるうえで最大の権力を握るのは誰か? いわずとしれた宰相殿だ。反乱を率いた彼なのだ。
しかしそれでは面白くない人間というものは、いる。
技量と度量と人格を棚に上げ、力のみを欲する人間というものは。

だが、

「それもないな」

RJはやんわりと首を振った。

「そうだとしても今殺るのは早すぎる。まだ反逆の目処(めど)もたってないんだぞ? 今の時点で宰相を失ったら自滅だ」

「でも、そんな合理的に考える人間ばかりじゃないですよ! 欲望に眼がくらんだ人間が暴走することだってありえますって!」

「…………」

カースの言うことも分かる。
物事全てが加減乗除の如く動いているわけではないのだ。

「宰相が死んだら、どうなる?」

突然の問いかけに、カースが一瞬とまどうのが気配で知れた。
だが、彼は一語一語選ぶように答えてくる。
インペリアル・ローズほどではないが……この若者もまた、忠臣だ。多少俗っぽいものの不満を言うべきではない。

「まず……皇帝を弑(しい)しようとしていた者達は、甚大なダメージを受けますよね」

「ひとつの勢力が消える」

「皇帝が宰相をどういうつもりで地位につけたのかは分かりませんが、今ある帝国の姿が皇帝の考える最上だとすれば、帝国の礎(いしずえ)が揺らぐことにもなりますよね」

「ふたつめの勢力が弱まる」

「……どういうことですか」

やや不満げなカースの声。

「…………」

RJは切れ長の双眸で勢いある不良を一瞥し──、世界を見下ろす神々のような平らで情の欠けた顔を緑の園へと向けた。

「宰相が消されれば、皇帝を敵とみなす者達の力が失われ、皇帝自身の力も揺らぐ。つまり……三番目の勢力は必然地位を上げるということだ」

見上げれば、白雲が優雅に漂う蒼空。
見回せば、終わりの見えない緑の夢。
思い出せば、ガラス一枚の上にのっている帝国。その人々。

自覚してのぞいた下は、底の知れぬ奈落だ。


「聞いただろう。皇帝はシェーヌ=スクレートを討ち損ねた。あの姉弟の気性は俺も知っている。……間違っても、生き延びたことを感謝してつつましく暮らすような奴等じゃないな。しかも──」

柳眉が寄る。

「弟のシュヴァリエが死んでいるとなると尚更強い」

「それが三番目の勢力ってわけですか」

たかがふたりだと侮ることはできない。
姉であるシェーヌ=スクレートをセレシュが殺せずに逃がしてしまった。その事実がどれだけ驚愕に値するものであるか。あの皇帝に睨まれて逃れたものなど、彼女を除いて存在しないのだ。

今生きているということ。
それが彼らの脅威を示す唯一絶対の証。


「シュヴァリエは死を克服したものとして甦る。普通は無理矢理生き返ったやつに自由な意志なんてあるわけないが、あの男に限ってはそう断言できまい」

(──これがネクロマンサー姉弟の第一手だとすると……向こうの先陣を任されたのはディエスだって構図になるか)

そう思って一瞬後。
RJは苛立たしげに舌を打って踵(きびす)を返した。
カースが背後から、どうしたんですか! と慌てて声を上げてくる。

(それがどうした。アイツが先陣だろうが何だろうが関係ないだろうに)

ディエス=ヴァーミリオンが使われたことが気に入らなかったのではない。いちいちそんなことに構う自分が気に入らなかった。

栄華の時代は去った。

そんなことは分かっているのだ。

皇帝から任されたのはお前だと自らは言う。だが、またその足元から、皇帝が見ているのは十年前のお前だと自らが言う。


「今はそんなことに構っている場合じゃないだろう」

低く噛みしめるようにつぶやいて、彼は我が身に強く言い聞かせた。
戦場に立ったならば、仮面をつけなくてはならない。ありすぎる感情は邪魔になるだけだ。迷いを生み、手元を狂わせ、無用な倫理を突きつけてくる。

「兄貴、どうしたんですか! 急に戻るなんて!」

「──大した意味はない。ただ……」

振り返って更に言葉を繋ごうとした、刹那。

『捕えよ! 早く捕えよ!』

『第三警護隊もただちに呼べ!』

『殺しても構わん!』

ただ事ではない衛兵の叫び声と、走る靴音が回廊の方から響いてきた。

『…………』

顔を見合わせたふたりは、瞬時に地を蹴り、林を駆け抜け、回廊の白い床を踏み、声の響く方を見据える。
と、そこへ勢いよく飛び込んでくるひとりの男。

「お兄さーんっ!?」

「よう」

出会い頭の鳩尾へ一発。
RJはその真っ赤な物体へと、問答無用にひざを叩き込んだ。

「……──っ!」

ひざを戻すと、それはずるずると重力に引かれて落ちた。
赤いレザーコートを羽織った暗殺者。
なにやらうめきながら芋虫よろしくうねうねしている。
それを冷ややかに見つめ、RJ。

「何やってんだ、ディエス。お前ともあろうものが暗殺失敗か?」

「話が……違ったんだよ……っ」

やはりうねうねしながら奴が言う。

「宰相を狙った。……けどよ、タイミングよくあいつ部屋を出やがって……」

「バルコニー側から侵入か」

「……追いかけようとした瞬間……部屋に、ワケの分からん化け物が現れて──。そいつとやりあってる間に衛兵は来ちまうわ、……その化け物死なねぇわで……」

「死なない?」

「刺しても痛がんねぇんだぜ? 首の脈斬っても……飛び掛ってくるしよ」

「……アンデッド」

悪い夢でも見ているかのようなカースの呟きが、その場に沈黙を落とした。
衛兵たちも、RJたちの身元を確認すること、ディエスを捕えることを忘れてこちらをじっと見ている。
物音ひとつしなくなった白の回廊と、さわさわと揺れる木々のざわめき。
静謐はそれだけで全てを内へと向わせる。
否が応でも神経が研ぎ澄まされて、RJは自然口調が厳しくなるのを感じた。

「訊くぞ。宰相の警護担当の者は手をあげろ」

全員が手を挙げた。

「ここにいるのが宰相の警護担当全員か?」

寒々しい空気が流れ──、衛兵たちが首を縦に振る。

「……それが相手の狙いだ」

RJが絶望的に吐き出すと同時、凍った爆音が城を揺るがした。
耳をつんざくような、高音で透き通った爆音。
ただの爆発ではない。
魔術だ。

「案内します!」

衛兵達が駆け出した。





◆  ◇  ◆  ◇




氷付けになった本やら、椅子の足やら、その部屋は全てが凍らされていた。
その中に人間の手やら足の欠片やら不気味なものまで混じっているところを見ると、どうやら誰かが冷凍されたあげく、木っ端微塵に爆破されたらしい。
カースがつまみあげた冷凍手首はふたつ。
RJの靴先にもひとつ腕ごと転がっているところから、どうやら被害者は複数いる模様。
のぞき込んだ衛兵達の顔が一様に白み、動きが止まる。


(──相討ちか?)


「……宰相はおられますか?」

顔見知りでもないから、何と呼んでいいか分からずにRJは声を落とした。
が、返事はくる。

「はい」

重厚な机(冷凍)の向こうから、喰えない顔の麗人がすっと立ち上がった。
物腰柔らかな茶色の髪に、平気で嘘を付きそうな双眸。RJより背は低いが、白い官服がこれでもかと言うほど似合っている。

「私は、無事です」

これだけの惨状の中にいて、平然としているのはさすが皇帝に噛み付く男、とでも言うべきだろうか。
が、

「お前たちもアホねぇ? たかが暗殺者一匹を全員で追いかけてどうするの? 第二陣もあるかもしれないことを覚えておきなさいな。皇帝の言いつけで私が護衛に入っていなかったらどうなっていたことか……」

机の後ろから、もうひとりが現れた。
RJは声を追って視線を下げる。

「…………げ」

そこには、少女がいた。
十にも満たぬほどの、人形のような少女。宝石のような黒い瞳は大きく、着ているものもレースをたっぷりと使い、袖が大きなフレアになっている黒ビロードのワンピース。豊かでつややかな黒髪はふたつのおさげになっている。

「……あらァ」

彼は目の前が白むのを感じた。
楽しそうな少女の声とは裏腹に、意識が強制的に深いところへと沈んでいく。
どうしてコレがこんなところにいるのだ。
この世に神はいないのか。


「なんで……姉貴……」


RJの虚ろな言葉は、その場にいた全員を再度凍らせた。










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ちょこっとネタバレ
スクレート(仏) →骸骨  シェーヌ(仏) →鎖  シュヴァリエ(仏) →騎士


BGM by A.Vivaldi バイオリン協奏曲作品8《四季》より 第2番「夏」第三楽章
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