White Hazard

第五章 「乱心」 前編

 

「なんで……」

「なんで私がここにいるのかっていうのは愚問よね? 可愛い弟」

「…………」

RJは先を越されて押し黙る。

少女は──いや、彼の姉は、“魔女”だった。
氷に閉ざされし北の大地。そこに広がる闇の森。その地には、かのラフィデールがたったひとりだけ残っているという。
【闇の王】と呼ばれるその者は、到底人には追いつけぬ奇跡の力を操り使う。彼女は彼に師事し、精霊魔術と呼ばれるその力を会得した数少ない人間なのである。
魔導師ではなく、“魔法使い”或いは“魔女”と珍重される類の。

「皇帝自ら、宰相の護衛にと名指ししたのよ。この私、フィノ・ドラドをね」

さらりと言い流そうとした彼女に、宰相の柳眉がぴくりと動いた。
見下ろす琥珀の双眸は少々非難がましく。

「そんなことは一言も……」

「言ってないわよ。だって貴方、皇帝嫌いなんでしょ」

「……そりゃそうですが」

「皇帝の命令だなんて言ったら、貴方絶対に断るじゃない? みすみす仕事を逃したりはしないものよ、魔女は。それに──」

少女が大きな瞳を和らげて、くすりと笑う。

「宰相は昔から危なっかしいでしょ。キレ者だけど、前しか見てないんだもの。だからこういうことになる」

両手を広げて部屋の惨状を一同に改めさせ──まるで大寒波が吹き荒れた後だ──、それからひとつ大きく息を吐き、彼女はRJを見上げてきた。

「で、貴方は何してるの? RJ」

「皇帝に呼ばれて」

「へぇ? 貴方も? さすが私の可愛い弟ね」

姉が、彼を本名で呼ぶことはない。彼が、姉を本名で呼ぶこともない。
互いに互いの立場は熟知しているのだ。

「そういえば、ディエス……」

RJは“姉”の衝撃からふと我に返り、その名を口にした。
この城に来た理由は皇帝だが、この部屋に来た理由はあの暗殺者なのだ。
今夜決行だなんて嘘書きやがって──舌打ちしながら見回せど、しかし赤の彼はもういない。

……当たり前か。

「なんで追って捕まえないのよ〜。あんな若造どうにでもなるでしょ、貴方なら」

「さぁ、どうだろうね」

つぶやくと同時、飛んできた氷塊。
彼は短剣一閃、顔面に届く寸前で打ち砕く。

「……いつの間に避けられるようになったの? 昔はよく昏倒してたのにねぇ」

「慣れさ」

「じゃあ新しい技を開発しなきゃね」

『…………』

他愛無い姉弟の会話に、まわりの温度は下がりゆく。
RJは、相変らず我が道をゆく姫様人形な姉に苦笑を浮かべつつ、言った。

「勘違いしてるみたいだから教えておいてやるが、俺はもう頂点じゃない」

「そんなこと分かってるわよ。貴方って本気になったことがないんだもの。そんな人がいつまでも頂点で華を咲かせられるわけがないじゃない」

──本気じゃない。

RJは更に苦笑を深めて、反芻(はんすう)
どんなに言い訳を考えたところで追いつかないほど、それは真実だった。
なんとなく暗殺業に手を染めて、なんとなく頂点を極めて、どこからともなく名声と伝説は与えられ、そしてそれを守ろうともしないまま、いつの間にか闇に溶けた。

RJは凍った床にじっと視線を落とし──、ゆっくりと上げる。
瞬間、背筋を正して冷ややかにこちらを見据えていた宰相と、目があった。
RJを映す、真正直で嘘つきな茶色の双眸。
宰相を映す、全てを語り、何一つ見せない闇夜の双眸。

しばしの後、ふいっと向こうの視線が外される。

「フィノ・ドラド。これをどう思います?」

沈殿した空気を断ち切る、月輪玲瓏(れいろう)な声だった。
宰相、イェルズ=ハティ。

「どうって?」

「あの暗殺者は、単なる囮(おとり)だったと考えて妥当でしょうか?」

「たぶんね。暗殺者を送って警護の者をそちらへ引きつける。ホッと一安心したところへ本陣であるアンデッドを送り込まれて貴方はサヨウナラ。……そういう筋書きだったんじゃない? まぁ、私がいたからそうもいかなかったみたいだけど」

少女は、氷付けになった誰かの手首を蹴っ飛ばしながら言う。

「皇帝の危惧は本物だったってことね」


シェーヌ=スクレート。


「私まで皇帝の一味だと思われているってわけですか」

白い官服の男は、肩をすくめて氷を踏む。
RJが表面見る限り、彼は自らの命が狙われたことなど全く意に介していないようだった。或いは──内心では驚いているのかもしれないが、少なくとも周囲に悟らせるような真似はしていない。

細く鋭い一本の鉄線が、柔らかな物腰の向こう側に見えていた。

「アンタが狙われたのは、皇帝の一味だと思われているからじゃないさ」

「…………」

「皇帝に刃向かう逆臣の頭だと思われているからだな」

「……何故貴方にそれが分かるのです、仮面の──」

「カンだ」

最後まで言わせずに断定する。そして低く付け加える。

「だから気をつけろ。……姉貴も」


何年も生死の狭間に身を置くと、空気の色に対して敏感になるものだ。
彼には分かっていた。世界はだんだん、良くない色に変化しつつある。
大陸中の空気が、暗く澱(よど)んでいる。
抜けるような蒼空も、目に鮮やかな緑も、歓声の都も、静かにその侵食を受けている。
そして人もまた、知らぬうちに沈んでいる。

虚無と、死の色に。

生なるものの楽園が、時と共に砂へとその姿を変えてゆくが如く。
栄え極めた大いなる都市が、声もなく水底へ消えてゆくが如く。

誰もそうと分からぬうちに、誰かが気付き指し示した時にはもう遅く。
全ては戻れぬところまで引きずり込まれているのだ。

今はその、一歩手前。
大陸を、嘲笑いながら死の影が滑り渡っている。
点々と痕跡だけを残しながら、その確固たる姿は見せずに。
空気が染まり始めている。
風が乾き始めている。
人が虚ろになり始めている。


死が、大陸を包み始めている。


「皇帝と。皇帝に敵対する者と──」

言いながら見やれば、宰相が薄笑いを浮かべた。

「そしてもうひとつ……それが本当にあの姉弟だとするならば。彼らが恨んでいるのは皇帝だけだと思わない方がいい」

「じゃあ……」

後ろから声を上げてきたのはカース。RJはそれを引き継ぐように息を吐いた。

「全てが恨まれている。彼らに」


空気を蝕んでいるもの。それは呪詛だ。
生まれくるもの、生きているもの、泣き、笑い、涙し、祈る者。悩み、怒り、心酔し、愛する者。陽光を反射し輝き、大地を潤すもの。世界を飾るあらゆる色彩。
全てが恨まれている。
全てに呪詛がかけられている。


「彼らが貴方の敵である皇帝の敵だからと言って、二対一だと思わないことだ、宰相」

「一対一対一。油断も隙もあったものではありませんね……。肝に命じておきます」

その口調は軽いが白皙は厳しい。

「けれど貴方は皇帝の飼い犬だそうで。それならば、貴方ともまた馴れ合うことは出来ませんことを先に申し上げておきます」

「構わないさ」


軽く一礼して去ろうとする宰相の背を見、RJはふと思う。

セレシュ=クロードがこの男を宰相にしたのは何故だろうか。
キレ者で、芯が強い。自制も出来て、不正なんぞは卒倒するほど嫌いだろう。宰相に適する要素はなるほど比類なくそろっている。
だが、それらをすべて積み上げてもマイナスへと転じざるをえない大きな障壁があるのだ。

彼は、皇帝が嫌いだ。セレシュの創ったこの国が嫌いで、この体制が大嫌いだ。

公言してはばからないし、それは彼が宰相の地位に就く前から周知だった。
しかしそうと分かっていてセレシュは、彼を宰相にした。
大きな権力を与えた。

(──分からない)

何をどう考えても、目の前にある事実はただひとつ。
それでも彼が、宰相だということだ。
それだけは変わらない。
……動かない。


「ではお前たち、もうそれぞれの持ち場に戻りなさい。この近くの者はこの部屋を……」

皆に平静が戻り、それぞれが動きだそうとした刹那、

「しゃがみなさい!」

魔女、フィノ・ドラドが高く叫んだ。
その言葉に誘発されたかのように、次瞬、凄まじい衝撃が身体を突き抜けた。

「!?」

RJでさえ立っていられず、床にひざをつく。
横で、カースはまともにコケていた。
衛兵たちも口々に叫びながら床に伏し、壁に張り付く。
芯に響く轟音が何回かに渡って走り過ぎ、

「──フィノ」

「城がどこか壊されたんじゃないかしら」

宰相の短い問いに、彼に支えられた魔女が眉を寄せる。

『…………』

予想だにしなかった出来事で、皆呆然としていた。
相変らず鋭く警戒を続ける宰相の顔にも、驚愕が見え隠れしている。

「でも爆発音なんかしませんでしたよー」

不気味な振動がおさまっても、ぱらぱらと落ちてくる砂クズを見上げてカース。

「……大きな力の変動があったのは確かなのよ」

紅唇を引き結んだフィノ・ドラド。
姉の目がこちら向いた。

(姉貴が“何の力か”分からない大きな力……)

彼が知っている限り、それはひとりしかいなかった。






◆  ◇  ◆  ◇  ◆






未だ白塵おさまらぬ中、若い男の声だけが鋭く響く。

「ロベリア! ロベリア!」

完全に崩れ去った城の一郭。
主城から、別塔へと続く白亜の渡り廊下。それが完全に落ちていた。
内側から外へと爆発があったようにも見える、破壊。
割れた大理石や折れた白石柱が散乱し、駆けつけた者は皆足を止めた。
舞い上がった塵に咳き込み、目を覆う。
まさかまだ暗殺の後陣があったのかと、背筋に氷が落とされた顔をしてたたらを踏む衛兵達。

が、

「フォール……」

RJの横で宰相がつぶやいた。
彼の視線を辿ると、そこには女を抱えたあの──皇帝の弟だという──若者がいた。大きな白い石の傍らで、腕にした女を揺すって名前を叫んでいる。

「ロベリア! ロベリア! 頼むから起きてくれよ!」

横たわっている女の顔にも見覚えがあった。
皇帝が囲っているという歌姫だ。

「一体何が……」

あったのですかと続けようとした宰相の言葉は、そのまま驚愕に呑みこまれた。
ふたりに対峙している者が、その目に入ったのだ。
風に流された白煙の奥、突き刺さった円柱、海の暗礁の如く阻む巨石の向こう。
平面な顔で佇む女がひとり。
曇りなき純白のドレスに身をつつみ、高く結い上げた黒髪をゆったりと流し。

「──ローズ!」

RJは思わず名を呼び瓦礫の上を跳んだ。
だが彼女は、据えた視線を全く動かさない。

「ローズ、お前一体何やった」

距離を置いて立ち止まり、詰問する。
だが答えてきたのはフォール=クロードだった。

「そいつが! その化け物がいきなりロベリアを殺そうとしてきたんだ!」

「…………」

RJは憤然とした形相で告げてくる若者を振り返り、再びローズへと視線を戻す。
だが、彼女からの反応はなかった。
肯定も否定もない。

白の女はただどこともない一点を軽く見つめ、無表情をさらしていた。

「ローズ」

叱責にも似た呼びかけさえ、聞こえているのかいないのか。

「ローズ!」

遮るものがなくなったそこを、奔放な風が抜けてゆく。
インペリアル・ローズ。
彼女の黒髪がさらわれ、額から紅い一筋が伝った。

「ローズ! どうしてこうなった!」

「だからそいつがいきなり!」

喚く若者を背に、RJは白い女の細い両肩をつかむ。

「…………」

意志ある彼女の黒曜が、彼を見上げた。
黒の男はその視線を二度と離さぬよう捕え、押し殺した声音で囁く。

「お前の考えた事を俺に話せ」

「…………」

緩慢な瞬きが一回。
だが、返事はなかった。








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