White Hazard

第五章 「乱心」 後編



灯が消されたそこは、浅き海底の如く青い煌めきで満ちていた。


間隔を置いて壁を飾っているのは、ありとあらゆる青硝子で彩られた白薔薇の紋章。遥か頭上には、役目を終えてお高く澄ましている豪奢なシャンデリア。
乱反射した月光が、冷たく非情な大理石の床をも青く染め抜く。

「…………」

RJは意図して大きく靴音を響かせた。

「何かご用ですか、皇帝陛下」

彼を呼び付けた当人は、さっき皆を追い出したその時の姿勢そのままそこにいた。
玉座に腰を据え、肘をつき、眠りも同然に目を閉ざし。
知らなければ彫刻だと思うか──或いは死んでいると思うかもしれない。
大陸を馳せ駆け敵を掃滅し、力でその全土を抑えた皇帝。だが玉座にいるその男、すでに城を囲まれた滅びの王と見えるのは、RJの感慨か……。

「渡したいものがある。近くへ」

いつの間にか蒼眸が開いていた。
RJは小さくうなづき、影となって謁見の間を滑り、段上を登る。
そして手を伸ばせば純白の帝衣に触れるそこまで近づいてひざを折り、言葉を待った。

「……これをお前に持っていてもらいたい。そして時が来たならば、世に示せ」

衣擦れの音がして彼の鼻先に差し出されたのは、一枚の書状。
受け取った彼はしばし躊躇い(ためらい)、訊く。

「……改めても?」

「よい」

RJは几帳面に折りたたまれたそれを開き、文字を追い、再びたたむ。
そして何も言わずにセレシュを見上げた。

「…………」

彼は過去何度も獲物を麻痺させてきた鋭利な視線で、だが悪意はない視線で、問う。
短い沈黙を置いて、答えは返ってきた。

「お前やローズが戻った時、おそらく私は──もうここにいない」

真っ直ぐにこちらを見据えてくる氷の瞳の奥、何かが横切りすぐ消える。
RJは押し殺した声音でそれを追いかけた。

「ここというのは帝位ですか? それとも……この世ですか?」

「時は流れ歴史は動いているのだ、RJ」

「アンタが動かしているんだろう」

「そうだ」

間髪入れずに口をはさめば、セレシュ=クロードが深く瞬いた。

「私が動かしている。私が皆に歴史を創らせている。故に私は、今お前が手にしているそれが未来必要になるということも分かる」

「……アンタは一体何を考えている?」

紙切れ一枚を重いと感じたことはない。今も感じない。だが今彼の手の中にあるものは紙ではなかった。理不尽なまでに強固な意志がそこにあった。

「私の生涯をかけての敵は、“神”だ」

言い置き、セレシュが静かに立ち上がった。
跪いた(ひざまづいた)ままのRJの横を通り過ぎ、その男は青がゆらめく階段を降りてゆく。
石の上を滑る白い帝衣。その上から羽織られた蒼の薄衣。背中を流れる銀の髪。
RJは皇帝の後ろ姿を見やり、つぶやいた。

「アンタの望みは何だ、皇帝──いや、セレシュ=クロード。神に対抗して何が欲しい。アンタの大事な部下を苦しめて、何が欲しい」

「全てだ」

男は背を向けたまま、きっぱりと告げてきた。

「…………」

「私の行く道に神の手は入れさせぬ。そして神が持っているもの──持っているにもかかわらず世界に分け与えられぬもの──それを私が世界にくれてやる」

「死んでもか」

「死んでもだ」

一瞬の迷いもない断言に、RJは大きく息を吸い、吐いた。
そして黒衣を翻し(ひるがえし)皇帝を見下ろす形で立つ。

「この大陸で神に取って変わり歴史を定め、アンタは世界に何を残すつもりだ?」

「不滅の帝国」

肩越しに振り返った蒼が薄く笑ってきた。
そこに狂気はない。
古、神を語りその座に就こうとした数多の力ある者たちとは違い、セレシュ=クロードの中には権力に対する執着も偏愛もみられなかった。過剰な自己保身もない。だが、それゆえに彼の意志は夢物語ではなく鬼気迫る。

「それを創るためにアンタはありとあらゆる国を滅ぼし、かつてないほどの人間を殺し、大陸全土を踏み荒らしたのか?」

「…………」

無言の肯定。
RJは眉根を寄せて言葉を継ぐ。

「アンタがいなくなればこの帝国は滅びるだろう。今だってアンタの恐怖と畏怖だけが支えてるんだ、それが消えれば誰が何をしなくとも足元から崩壊する」

「──滅びぬ」

穏かに一蹴された。

「滅びぬ。それが私が定めた運命だ」


神は人々の幻想。だが、幻想ゆえに万能。彼は気ままに誰かを救い、誰かを死なす。
気ままに勝利をもたらし、敗北を与える。気ままに興隆させ、滅ぼす。
人々は自らの幻想の前にひれ伏し、仰いだ。救いを乞い、願いを告げた。

けれどその男は反逆するという。
神の創造主たる人として、神を凌駕(りょうが)してみせるという。
人は自らの理想にさえ届かぬもの。ましてや万民の理想たる神の上をゆこうなど──第二の神となりうるネクロマンサーの影を前にして、なおもそんな世迷い言を口にする。

だがRJは直感的に知っていた。そう、ずっと前から知っている。
できるかできないかではない。この男の場合はやるかやらないか、それだけなのだ。そしてやると言ったならば必ずやり遂げる。


「分かった」

RJは肩をすくめてうなづいた。

「アンタはアンタのやりたいようにやればいいさ。インペリアル・ローズは任せておけ」

言い捨てると同時に銀の指環を放り投げる。

「あの女がアンタに渡せって言ってたよ。冥途の土産にしろってな」

「…………」

手にした皇帝は、顔色ひとつ変えずに小さな輪を見下ろしていた。
そしておもむろに問うてくる。

「RJ。お前はお前の人生をどう思う」

「俺の人生?」

唐突な問いに、一瞬詰まる。
だが彼はすぐに表情を崩して口端を吊り上げた。

「俺は俺が嫌いだ。昔からな。──だが、そう言いきれることが俺の誇りでもある」

『仮面の殺し屋』ともてはやされたのはもう過去のこと。
あげくあの頃だって信念があったわけじゃない。暗殺業に身を染めなくてはいけなかった暗い秘密があるわけでもない。
目標もなければ未来もない。

最悪だ。

“名を売る”のは性に合わない、“媚びを売る”のも断固拒否、未だ過去の栄誉を忘れてくれない自尊心が我侭を並べ立ててはカースを困らせ、いつまでたっても分かれ道から前に進めない。岐路(きろ)に立ったまま、ぼんやり時だけが過ぎてゆく。
そうやってひとり苛立っていた時が、もちろんRJにもあった。
だがその時ふと思ったのだ。

(流され抜く人生も悪くない)

そもそも性格が斜めに作られているのだ、何もそれに逆らって前向きに生きる必要もなし。世界の歴史が流れるままに、身を委ねて(ゆだねて)みるのもまた一興。

「他人から見ても俺から見ても最悪な生き方だが、これ以外合いそうにないんでね」

「そうか」

言ったきり皇帝は黙り込む。
手の平に指環をのせ、無表情な相貌を暗殺者から背け、大陸の覇者は沈黙していた。

(何から何まで正反対だ)

RJは階段を一歩一歩降りながら胸中で苦笑する。

白と黒。光と闇。表舞台と裏舞台。
自らが流れとなろうとする者と、自らを流れに横たえる者。
奇妙なまでに両極端。

「陛下、今死んでもらってはこちらが困るんですからね」

すれ違い様に彼は告げた。

「インペリアル・ローズを抑え付けて守ることはできるかもしれないが……、アレが被るダメージを軽減することは誰にもできませんから」

「……神は死なぬ」


黒曜と蒼玉の視線が交差した。
零下の沈黙が荘厳なる広間を覆い──そしてまた、暗殺者RJの遠ざかる靴音と共に時は音を刻み始める。
過去の邂逅から10年、再び出会った表裏は再度道を分けたのだ。
一方は、大陸に君臨する皇帝として。
一方は、大陸を駆ける護衛として。






◆  ◇  ◆  ◇  ◆






「……分からないな」

謁見の間を隔てる扉を閉め、RJはつぶやき背をもたれかけた。

「神を、運命を従える。不滅の帝国を作る。──何がそうさせる?」

皇帝の呪縛から放たれた身体が、無意識に身震いをした。
自然に振舞っているつもりだったが、そうではなかったらしい。
相手は神を敵とみなすような男だ、あのプレッシャーにひるむのは人間として当たり前だろう。
しかしだからこそ、あの男は帝国の礎(いしずえ)に必要なのだ。
失ってはならない。

「だがもうそれは俺の手を離れたな」

RJは自身に言い聞かせて身を起こした。
黒衣のポケットに両手を入れ、藍色にそびえる本城へと帰る。

明日からはお子様一匹、化け物一匹、保護者をやらねばならないのだ。



だが、彼は本当にまだ分かっていなかった。



殺し屋が去った謁見の間。
そこにひとり残り、白皙を崩すことなく壁の紋章を凝視し続ける男。
彼の唯一真なる部下の分身とも言うべき指環を手に握り、

「……神は死なぬのだよ、ローズ」

どこへともなく囁く男。



RJは、その男の脅威的な意志の力をまだ分かっていなかった。


そしてまた彼はは本気にもしていなかった。
この日託された一枚の紙切れを、世界に突きつける時が来るなどとは──。


「私はいつでもお前の傍らにいる。……どれだけ、時が重ねられようと」







第一部<了>


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