White Hazard

第六章 「過去を語る過去:2」




どこへともなく流れゆく人々の波をかきわけ、RJは暗くなり始めた空を見上げる。
遠くで響く雷鳴ともうすぐやって来るだろう雨への予感が、身体の中をさざ波立たせていた。
いつだってそうだ。嵐は人の卑小さを嘲けり高笑っているようで、闇に堕とした身が(うず)く。
そしてこの街。
古傷を指先で優しく撫でてくるような嫌な気配。
つきまとう茫洋(ぼうよう)な不安を押し留めたまま、彼は横道に逸れる。

そしてどこの宿にしようかと連れのふたりと議論を重ねていると──、ある重要な問題が持ち上がった。




「お前皇帝に相当可愛がられてたんだから、宝玉だのなんだのって捨てるほどもらってたんじゃないのか?」

「セレシュからもらったものをわざわざ売り飛ばすために持ってくるわけなかろう!」

口をへの字に曲げてツンとそっぽを向くローズ。
RJは眉間をつまんだ。
重要問題。端的に言えば──、“路銀がない”のである。
全くないわけではないが、とどのつまりその程度しかない。

「兄貴は報酬の前払いとかもらってないんですか」

「ない」

「……はぁ」

呆れたようにため息をついてくるカースに、RJは憮然とした視線をやる。が、軽装の若者はそれを気にする風もなく続けてきた。

「なんで前金もらわないで受けたんですかー、兄貴らしくもない。っていうか、結局いくらで受けたんですか、この仕事」

「…………」

RJは言葉を詰まらせ、誰もいない通りへと目を逸らした。

セレシュ=クロードが望むものならばなんでもやろうと言ってきたのは確かだ。
たぶん金が欲しいと言えば彼が払い得る限り──つまりはこの大陸の富の限り──支払ってもらうことも可能だろう。
けれど、そういうことではないような気がする。
あの男が言ったことの意味は。

「まさか無償労働ですかーっ!?」

「冗談じゃない。そこまで聖人君子になったつもりはないぞ」

「けど実際やってることはそうじゃないですかぁ」

「……お前、今日はヤケに絡むなァ?」

ちらりと栗毛馬の上を見上げれば、

「お金がないってのは兄貴が考えているよりずっと重要な問題ですよッ!」

怒鳴られる。そして涙を流される。

「オレは兄貴に拾われる前、極貧で苦労したから知ってるんです! もうあんな生活に戻りたくありませんよぉ〜、二度と嫌ですよぉ〜、路地をはいつくばって金目のもの探したりパン屋の裏口からパンの耳をダッシュで失敬したり公園の水だけで一週間生き延びたり……」

「……お前よく生きてたな」

言って、RJは泊まろうとしていた宿を仰いだ。
大きな通りからふたつ入ったところ、人通りのほとんどない界隈(かいわい)にある、大きくはないがしっかりした馴染み宿。(うまや)も広く、番人も信用できる。そしてまた、ここの店主が裏で顔の利く人間であることは周知の事実。
本来安くはないが、ツケとして頼めないこともない。

湿った風を受けながらそう思案しているところに、ローズの声が降ってきた。

「案ずることはない、RJ。貴様がこの街にいることは、時待たずして裏側の知るところとなろう? 依頼のひとつや二つや三つや四つすぐに転がり込んでくるよ。こなせばなんとかなるのではないか?」

彼女の黒い瞳の奥に意味ありげな笑いが揺れている。
RJは口端で息をつき、自嘲気味に笑い返した。

「買いかぶりだな」

「そうか?」

「お前さんが思っているほど時間は甘くない」


ディエス=ヴァ−ミリオンがいつか言っていたとおり、もう過去の人間なのだ、『仮面の殺し屋』という伝説の暗殺者は。
それはもう記憶の中の、すでに歴史に刻まれて遠く振り返られるだけの存在。
その名を聞いて権力者が群がってくるような時代は去った。
その名を聞いて街の暗がりがざわめく時代は去った。
どんなに世を謳歌(おうか)した者でもいつかはそうなるのだ。分かっているから悲しいとも悔しいとも思わないが、けれどどこか空虚さを感じることはRJでさえ否定できない。
それほどに世の移り変わりは無情で儚い。


「どうかな?」

だがローズは斜めに笑殺してきた。
いつも何か含んでいる、煌びやかで絢爛な彼女の笑み。
それは常に人目を捕えて離さない。

「貴様が思うておるより幻想とは強固なものだよ」

「──だがな……っておい、ローズ!」

RJが言い返す間もなく彼女は馬からひらりと飛び降り、宿の扉を開いてスタスタ中へ入って行った。

「……兄貴、いいんですか?」

「……あぁいう奴が団体行動を乱すから一番の大人が厄介なことを背負い込む。昔から相場は決まってるんだ」

主をなくした黒馬がもて余して足を踏み鳴らした。
その鼻筋を撫でて彼は大きく嘆息。

「仕方ない、どうにかするさ。どちらにしろこの街には──少し足を止められそうだ」

「?」

首を傾げるカースには応えず、男は背を向けた。






◆  ◇  ◆  ◇  ◆





「大陸は七つの領地に分割されている」

「へぇ」

「帝都とアヴァロン、それから帝都を挟んでアヴァロンと対称の東にあるシグリッド。これらの都市があるのが中央領。セレシュの直轄だ」

宿値の交渉をどうにか終えて部屋に帰ってくれば、ローズが地図を広げてカースになにやら解説をしていた。
後ろからのぞきこめば随分と古い地図で、あちこちにバッテン印やら陣形やら侵攻の矢印だのが朱で記してある。

「宰相の直轄になっている北領の極北には“闇の森”と呼ばれる地域がある。ラフィデールの生き残りとも言われる闇の王の住む場所がそのどこかに存在していると言われておるのだが──セレシュはそこまで掌中にする気はないらしいな」

「闇の王にはさすがの皇帝も勝てないってことか?」

「人の地ではないということだよ」

「うーん?」

カースがあぐらの上で腕を組み、背を逸らせた。

「闇の森を大陸の一部と考えるのはやめた方がいい」

RJはふたりから離れ、上等なベッドの端に腰をおろして口をはさんだ。
足を組んで付け足す。

「あそこは俺たちが知りうる世界とは全く違う」

「だって、どう考えたって大陸の一部ですよ。兄貴のお姉さんだってあそこで修行なさったんでしょう?」

「そういうことじゃない。暗黙の了解だ。人はあの地と共存しなければならないっていうな。だから人は今までどれだけ隣国と争おうが、北の森に攻め入ることはしなかった。理屈じゃなく本能の領域なんだよ。越えてはいけない一線があそこには存在する」

「はぁ……」

生返事のカース。
RJはサイドテーブルの水差しからグラスに水を注ぎながら、肩をすくめた。

「いつか実際に行ってみれば分かるだろうさ。お前ならあの地にある壁を感じられるはずだ」

「そういうもんですか」

「そういうもんだ」

「北領で最大のガゼルという街はなかなか面白いものぞ。魔女や魔法使いが多く住んでいるからの、見慣れぬものが山ほどある。街のあちこちにも魔法の仕掛けがしてあってな、道どおりに進んでも目的地にはつかぬ」

板張りの床にぺたんと座っているローズが、振り子よろしく首を左右に揺らす。

「七領のうちでも中央に継いで二番目に面白いのが北領だな」

「……他の区分は?」

カースはいつからこんなに勉強家になったのだろう。
ちょっと前まではただ後を付いてくるだけだったのに。

「大きな港町カナトスと大河を利用した運河の街ネヴィカ−レのある北西領。遺跡都市キャメロットのある南西領。武人や鍛冶屋が多く集まる剣の街、同時賭け事で人を溺れさせる街として有名なエスパダのある砂漠の南領。大陸最大港の都市レオノイスがあり、“神々の山脈”そして“霧の谷”が連なる南東領。金持ちだらけの街ミューシア、鉱山の近く宝玉溢れる都市ティル・ナ・ノーグのある豊かな北東領」

ぺしぺしと小気味よく指し示し、最後に小さく嘆息するローズ。

「セレシュに忠実だと思われるクラディオーラ出身の輩が七領のうち西の一領にしか就いておらんのだ。それによりによって北領をハティにやるなど……」

「重要地が反皇帝派の宰相の手にあるのが気に入らない?」

「なかなか分かってきたではないか、カース」

そう言って再びため息をついてみせる彼女は、皇帝の我侭に振り回されているただの一官吏に見えた。

「五領がもし刃向かったなら大陸の人口が大幅に減──」

言いかけたローズが言葉を切って振り返った。
一瞬遅れて扉がノックされる。

「……どうぞ」

RJが応えると、

「RJ師兄にお客さんなんですが。宿の外で待っているそうです」

遠慮がちに扉が開いて、宿の人間が顔を見せた。顔馴染みの下人だ。
若いその男はちらりとローズを一瞥し、複雑な色の笑みを浮かべる。

「随分な美女のようでしたが」

「──分かった。すぐ行く」

「お知り合いで?」

「知り合いかどうか、顔をみなけりゃ分からんさ」

RJは穏かに返し、

「でも貴方のことだから──……。そ、そうですよね……、顔見ないと、誰だなんて分かりません…よね…ぇ……」

剃刀の視線で男を黙らせる。
すると入れ替わりカースが訊いてきた。

「行くんですか? 兄貴」

「そりゃ行くさ」

「雨降りますよ」

「……それがどうかしたか?」

「──いえ」

茶色の目を宙で彷徨わせ、若者はあきらめたように小さく首を振る。
同時、やりとりを眺めていたローズが物腰柔らかに立ち上がり、白の衣装を手で払った。

「私も旅疲れた。しばし隣りで寝てこよう」

「適当な時間になったらふたりで先に夕飯食べてろよ」

「はい」

「なるべく早く片付けるさ。風邪をひく前にな」

不満げな顔のカースだが仕方ない。
人には領分というものがある。
彼はまだ暗殺者ではないし、これからもこんな稼業に身を堕とす必要はない。
両手を血で濡らすには、この若者は素直過ぎるのだ。
才能はある。だが、向いていない。

彼は若い子分に背中を向けて、宿人に促されるまま廊下に出た。

──と、

「ほらみろ。『仮面の殺し屋』への幻想は時間よりも強いではないか」

背後からクスクスと勝ち誇ったローズの忍び笑いが聞こえた。

「…………」

音もなく彼らに続いて部屋を出たらしい。

「だから私は、おそらくセレシュも、貴様を選んだのよ。数ある暗殺者のうちから」

「そりゃ感謝感激雨あられ身に余る光栄」

RJは彼女を見やることもなく、投げやりな謝辞を並べ立てながら階段を降りる。
小さく軋む板の音がなつかしかった。
アヴァロンでは必ずこの宿を使っていたのだ。使い走りの頃から、独立したての頃も、そして頂点に立った時も。


「貴様、──色が変わっておるよ」

後ろで響いた小さな一言に、彼は歩を止めた。

「この街に入ってから、変わっておる」

「…………」

振り返り仰いだ階上に見えるのは、豊かに波打つ黒髪と細い白。人外魔境インペリアル・ローズの語らぬ背。

「死神がとり憑いているか、それとも死神そのものか……」

どっちであろうなぁ、そう笑いながら彼女の姿は廊下の奥に消えていった。

「──両方だな」

見送ったRJはため息まじりにつぶやいて、自分の行くべき先へと向き直る。
独りで背負うべき先へと。


彼が降りてゆけば、酒場をかねた一階は水を打ったような静寂に包まれた。
そして次瞬、同心円状にざわめきが広がってゆく。
傷跡の耐えない荒れ者の男たちは酒を酌み交わす手も忘れ、囁きあい眉をひそめあう。
これがあの伝説にまでなった暗殺者かという羨望と。
これがあの暗殺者のなれの果てかという皮肉めいた感慨と。
きっと主人と交渉していた話を聞いていた下人か誰かが、面白がって広めたのだろう。

──あの男が今更戻って来た、とでも。

大きなお世話だと怒鳴ってやりたいような空気が酒場を包み──しかし、カウンターでもくもくとグラスを拭いていた宿の主人だけが、昔と変わらない声音で告げてきた。

「外にいるよ」

「分かった」


零下の双眸。軽く結ばれた口元。黒かと間違う灰色の流れる髪。長身の身を包み、その一歩ごと翻る黒衣。音もなく滑る豹のような動き。
鋭利で怜悧な男。
世界に漂う死神。
落ちぶれた、暗殺者。


開けた扉の外は、すでに雨だった。
石畳に雨粒が跳ね、屋根の端からは雫が滴り始める。
人の声が絶えたアヴァロンの街には雨特有の湿気った匂いがたちこめていた。
だがこれはまだ本降りではないだろう。連なる屋根や尖塔の向こうに、更に暗い雲が迫っているのが見える。これからまだ降るに違いない。
余計なものを洗い流すように、雨は降り続くのだ。
小さな人々の渦巻く思惑を消してしまえと、降り続く。

RJは濡れるのもかまわず通りの真ん中へ踏み出した。

「……お前か? 俺を呼んだのは」

廃墟にも見える向かいの建物のぽっかり開いた入り口に、ひとりの女が立っていた。
目を引く緋色(ひいろ)の長い髪を、そして表情の出やすい目元を隠すかのように一枚の織布を頭からかぶり、うつむきき加減、雨をはさんで立っている。
雨の匂いを消して、ほのかな化粧の香がRJをくすぐった。

「──暗殺者、RJ」

彼女の紅唇から流れた自分の名前に、彼はゆっくり斜めの双眸を据えた。
自分よりいささか若いだろうその低い声には、香では消せない血の匂い。
怨みの色。

「お前の名は」

問えば、女が顔を上げた。
織布がずれてその目が露わになる。
彫りが深い艶やかな顔立ちに、鮮やかな紫色の強い瞳。

「私の名はアルバータ=ウィンザー=レス=ジャデス。あなたは博識だもの、この名が何を意味するかは知ってるでしょう? 仮面の殺し屋」

彼女が華やかに笑った。

「……ジャデス」

男が反芻したそれは、かつてこの大陸で美しき時を築いていた大帝国の名。
ネクロマンサー、シュヴァリエ=スクレートが最後の後継者となった歴史の名。

そして──セレシュ=クロードに滅ぼされた皇族の名。


緋色の女は一度口を閉ざし、しばらくして再び続けてきた。

「つまらない女の昔話だと思って聞いてほしいの。私の死んじゃった姉の名前」

「…………」

「私の姉は五年前に死んでしまったのよ。よりによって彼女が一番愛してた人に殺されちゃったの。馬鹿よね。でもまぁ、姉さんはお馬鹿さんだから愛した男の腕の中で死ねて幸せだったのかもしれないけど」

雨脚が強くなった。
それでも女の声ははっきりと彼の元に届く。

「姉の名はね、オフィーリア=ウィンザー=レス=ジャデス。御存知かしら?」

「…………」

RJは、無言でその目を細めた。








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