White Hazard

第六章 「過去を語る過去:6」




燈火塔の中に満ちている湿った空気が、いくらか濃度を下げた。雨の音は小さく繊細になり、RJが理由なく視線をやったフォーマルハウトの背後には、薄闇のヴェールで覆われ始めた街。
美しい黄昏は暗雲に奪われたが、おそらく刻限は人々が夕餉(ゆうげ)を楽しみ始めている頃合なのだろう。一日を終えて、安息の時に身体を沈める時。
過ぎ去った今日を思い、いずれまたやってくる明日をとりあえず忘れ。あるいはその明日に胸を膨らませ。


「RJ。選ばないなんていう選択肢はありませんヨ。大陸の全ての人々が、必ず選ばねばならない二択なのデス」

言い募ってくるフォーマルハウトに、

「まだ死ぬわけにはいかないだろうさ」

RJは低い声を重ねた。

「インペリアル・ローズの護衛をするとアンタの親玉に約束した。だから、この女を西の果てに送り届けるまで俺は死ぬわけにはいかないな」

「それはひどく消極的な理由で」

「暗殺者なんてそんなもんだ。(たが)えるわけにはいかない約束だけで生きている」

ホントにもうやってられない。
ありありとそんな空気を漂わせて、フォーマルハウトが盛大なため息をついた。

「……頑固者」

「お互い様」

鼻先で一笑すれば、ミイラがひとまわり縮んだ。肩を落としたのである。

「生を渇望しながら、死に囚われる。貴方と、シュヴァリエ皇子と、そして陛下。三人に共通する本質はそれなのデス。しかし陛下はそれでも生を選んだ。シュヴァリエは選ぶ余地なく死に落ちた。貴方は──」

フォーマルハウトの藍色が一瞬だけ色濃くRJを見、()らされる。
痩身のネクロマンサーは億劫(おっくう)そうに背を向けた。

「貴方は死の谷に張られた一本の縄の上を歩くと言う。底のない下を見たまま、ネ。一瞬でも目がくらめば、風が吹けば、貴方は落ちる。貴方が落ちれば、三者の均衡は崩れる。我々の陣営が不利になる。陛下は貴方を手の内の切り札と考えていらしたんデスけどネ〜?」

「愚か者」

RJの横で不気味に沈黙していたローズが、さも当たり前そうに言った。

「この男が高さと暗さに目がくらみ風に吹かれ落ちそうになったら、──私がつまみあげるに決まっているであろうが」

「…………」

RJは視線だけ動かしてその女を見やったが、ローズの瞳はただミイラ男の背中を見つめている。

「西に着くまで、どんなことがあってもこの男は“死”に落ちなんぞしない。お前の杞憂(きゆう)だ」

「そうデスか。……では、」

フォーマルハウトにはこれ以上説得を続けるつもりはないらしかった。
彼は忍び寄る夜へと一歩足をひきずり、振り返りもせずに言ってくる。

「我々が貴方たちを殺さねばならないようなことが起こらないよう、祈っておきますヨ」

「そうしろ」

全く表情の変わらないインペリアル・ローズの瞳と声音。
けれどRJには分かっていた。彼女はフォーマルハウトを見てはいない。その先にある街を見ているわけでもない。
彼女は、セレシュ=クロードを見ていた。

「せいぜい祈れ。未来は力だけでどうにかできるものではないのだからな」

「どうでしょうネ」

去り行くフォーマルハウトの言葉は粗野だった。

「陛下にとっては祈りなど何の意味もないでしょうヨ」

「そうか」

返事なんて期待されていないだろうに、ローズが律儀(りちぎ)に応える。
そして案の定、フォーマルハウトはそれ以上何も言わずに燈火塔を出て行った。
未だ霧雨が舞う夜の街へ、消えていった。



「なぁ」

RJがつぶやくと、ローズが顔だけを向けてくる。

「とんでもないことになってきてないか?」

「あぁ。先が見えぬ」

真っ正直に肯定されて、彼はローズをまじまじと見やった。

こちらを見ている瞳は漆黒。豊かに流れる黒髪も漆黒。口元には微笑が貼り付いているが、その目には何一つ感情の色はない。
先ほどRJの短剣を制した剣さえもうどこにもなく、人形めいた顔に場違いな白い衣装。
無関心を装って小さく爆ぜる(とむら)いの炎に照らされて、それは沈む夕陽の色に染まり。

確かにこのインペリアル・ローズは、人にはない幽遠な気配を持っていた。

「だが他の者がどんな思惑をめぐらせていようが、我らは西へ行くだけであろ。セレシュの命令がある限り、死者の大地へ行かねばならん。それを阻む者だけを敵と思えばよい。そして西へ着いてから──振り返ればよい。振り返って、離れたところから戦況を見極めればよいのだ」

「そういうもんかね」


フォーマルハウトの言によれば、セレシュ=クロードは完璧な帝国を作り上げるつもりらしい。恨みのない、戦火のない、恐怖のない、死への憧れのない、帝国を。
そして過去、あの男は「不滅の帝国」を創ると言っていた。
それがあの男の理想郷なのだろうか。

そうだとしても“理想郷”というものは同時、決して手に入らないものの意味でもある。
求めても描いてもそこに近付くことはできないのだ。
歴史上どれだけの英雄が追いかけ、力尽きたことだろう。どれだけの支配者が声高に叫び、しかし結局殺戮者として討たれただろう。
人が辿り着くには、その地は遠すぎる。

けれどそのセレシュに対して、地獄から舞い戻ったシュヴァリエが真っ向から挑むという。
沈黙の死に覆われた大陸──彼が望む理想郷を掲げて。
そこには怨みも戦火も恐怖もなく、生の迷いも苦しみもない。
何もない。


これから人々に突きつけられるのだろうふたつの理想郷。
それは、似ているようで“生と死”、決定的に違う夢だ。


シュヴァリエはセレシュ=クロードを敵とみなしている。
生前の怨恨が大半を占めているのだろうが、もしかしたらセレシュがその思惑どおり完璧な帝国を手に入れてしまう、そのことが気に入らないというのもあるだろう。誰も引き寄せられなかったソレをあの男が創り上げてしまうと、その可能性を否定できないでいるのだ。

そんなことはあり得ないと常識は言う。理想郷など誰にも創れないと。
だがどこかであり得ると思っている。

シュヴァリエも、フォーマルハウトも、RJも。

セレシュ=クロードならば出来るかもしれないと、思っている。



「逃げ場は“死”にしかないと思うておるか?」

ローズがこちらをのぞき込み、

「お前が今まで殺してきた者たちの呪詛から逃れるためには、(つぐな)うためには、もう二度と過ちを犯さぬためには、死するしかないと思うておるか? 自由が与えられればお前は、死を望むのか?」

言った。

「あのなぁ」

RJはぽんと彼女の頭に手を置いて、苦笑の中にため息を混ぜる。

「もしかしてさっきフォーマルハウトに言った“まだ死ぬわけにはいかない”って後ろ向きな発言のことか? だったらな、俺は呪詛から逃れる気もないし彼らに償う気もない。それが暗殺者の定められた道だからだ。過ちは──」

続けようとして、彼はふと言葉を失った。

確信はなかった。
もう二度と大切な者を殺さないという確信は。

「仮面の殺し屋」は彼の中でまだ生きている。
身体は過去の何一つ忘れていなかった。


「ローズ」

「ん?」

軽い調子で名を呼べば、彼の手をどけ歩き始めていた彼女が身体ごとこちらに向き直る。
とても世界を滅ぼせる悪魔には見えないその女を見据え、彼は訊いた。

「俺はお前に決して勝てないのか?」

「無論」

「ということは……お前だけは殺さなくて済むわけだな?」

ローズが屈託のない笑みを浮かべた。

「お前が私を本気で殺そうとしたら、すぐさま私がお前を殺してやる。安心しろ」

「…………」

つまみ上げられるどころか、思いっきり谷底へ突き落とされているような気がしたが、RJは喉の奥で笑った。

「とりあえず、堕ちるところまで堕ちる前に止めてはもらえるわけだな」

「お前が心の底からそう望み叫ぶなら」

彼女の無表情な瞳の奥。RJは深い痛みが(にじ)んでいるのを見つけた。
セレシュに西行きを命ぜられた時と同じ、痛みの色。
RJは心配ないと安心させるように、目を細めて強く言い切った。

「……約束する。俺は決して望まない」

わずかな笑みを浮かべたローズがくるりと背を向け、足取り軽く塔の外へと歩いて行く。
RJも黙ってそれに続いた。

(そうするくらいなら堕ち尽くしてやるさ)

意識して鳴らした靴音は何故か心地良く、口端が自然につり上がった。
自嘲と分かっていても浮かぶ、悲観の中の楽天の笑み。
炎に照らされてくすんでいた黒衣が、遠ざかるにつれ隙のない闇を取り戻してゆく。


理想に惑う少年でもなければメランコリーな青年でもなし、理想に向かって突き進むほどの若輩者でもないのだ。
やることは分かっている。
死んでいる場合ではない。殺されている場合でもない。

彼とセレシュ以外誰も知らない、あの盟約を守らなくてはいけないのだ。

“インペリアル・ローズの崩壊は避けられない。だが、喰い止めろ”

神との約束だけは違えるわけにはゆくまい。

(もし、……オフィーリアを再び殺すことになっても?)





「カース!」

やたら嬉しそうに響いたローズの声に、RJはふと我に帰った。
見れば、彼女がバタバタと石段を駆け下りてゆくところ。
RJはゆっくりとそれを追った。

「──何やってんだ? お前」

死者の燈火塔。夜に染まったその石段の下にいたのは、宿に置いてきたはずのカースだった。まばらな霧雨の中、若者は軽く笑って立っている。

「なんだか落ち着かなくてブラブラしてたんです」

「この雨の中をか?」

訝しげに首を傾げても彼はそれには答えず、

「そうしたら少し先で怪しげなミイラ男に会いまして。兄貴はこっちにいるって言うモンですからお迎えにあがりました!」

「ふ〜ん」

イマイチ納得できなかったものの、斜め下からぐぃぐぃと腕を掴まれて仕方なくそちらを見下ろすと、満面の笑みのローズの顔があった。

「RJ、おなかがすいたのだよ。夕餉の時間であろ、どこか美味しい店を紹介しろ」

「夕飯か……あの宿屋も充分美味いがな。アヴァロン通の俺としては──」

「兄貴〜」

「なんだよ」

水をさされてやや刺々しく返すと、カースが当然のように訊いてきた。

「当初の目的どおり、金は手に入ったんですか?」

「あ」

口に手を当てたのはローズ。

「……どーするのだ、RJ」

「……どーするよ、カース」

「なんでオレに振るんですかッ! 大体兄貴は金を稼ぎに出て行ったんでしょう!? 今まで何やってたんですか!」

「俺ばっかり責めるなよ。ほっつき歩いてたのはローズも同じだろ?」

「ローズには初めから期待してません!」

「あー、なんだかそれはヒドイ言い草ではないか?」

「どうするんですか! 滞在費!」

「無視するでない」

「ローズはアヴァロンの政務長官様とお知り合いだろ? 金借りて来い」

「さっきケンカ別れっぽいことしたばかりではないか」

「そこはこう……なかったことにして」

「どうするんですかぁ〜、兄貴〜〜」


ぼんやりと明かりが灯されたアヴァロンの夜路(よみち)
雨はいつしか、上がっていた。






◆  ◇  ◆  ◇  ◆






「宰相!」

午後の執務を終えて立ち上がろうとしていた男は、扉の向こうからの大きな呼びかけに一瞬だけ目つきを険しくした。しかし扉を見つめたのはいつもの静かな眼差し。

「入ってください、何かご用ですか?」

敬礼をして扉を開いたのは皇帝の近衛兵のひとりだ。今は暗殺されそうになった彼──宰相イェルズ=ハティの警護にあたっているわけだが、ハティはその真っ青な制服の上着が(かん)に障って仕方が無かった。
青は皇帝セレシュ=クロードが重用する色なのだ。

「皇帝陛下がお呼びです」

「私を?」

「皆様を、です。玉座の間へとのことです」

「……分かりました」

彼はちらりと時計を見やり、微笑む。

「すぐに行きますから、下がっていてください」

「は」

きびきびと退出する近衛兵を見送ってから、ハティは小さな嘆息と共に頬杖をついた。
視線の先には乱雑に本が並べられた本棚。
本来の執務室が暗殺騒ぎでズタズタになってしまったため急遽(きゅうきょ)あてがわれたこの部屋の本棚には、まだロクな資料がそろっていない。
だからと言って政務が(とどこお)っているかと言えば、そんなことはなかった。
一度彼の手元を通った資料は全て、彼の頭の中に残っているからだ。

「明日の朝議ではダメなんでしょうかね? 私に相談もなく皆を集めるだなんて、一体何をするつもりでしょう」

「あなた、今夜お出かけするつもりだったのね?」

ファンタジックな少女の声が後ろからして、ハティは苦笑を漏らした。

「フィノ・ドラド。四六時中気配を消して張り付いているのは止めてくださいと何度も……」

「だってしょうがないじゃない。気配を消してなきゃ敵に私の存在が知られちゃうし、四六時中張り付いてなきゃ咄嗟にあなたを守れないもの」

「そりゃそうなんですけどね」

彼が向き直った先には、総黒レースのドレスをまとった少女がいた。
黒髪をふたつの三つ編みにした、可愛らしい──美少女と言っても過大評価ではない女の子。だがこれがあの暗殺者RJの姉で、もういい歳。そのうえ北の森出身の魔女と聞いたら一般人は逃げ出すしかない。

「ねぇ、誰のところへ行くつもりなの?」

「どうせ付いてくるんでしょう?」

「どうせ付いていくんだから先に聞かせてくれたっていいじゃない。私はただの傍観者、しかも契約上秘密厳守なんだし」

若すぎる大陸第二位の男は、非の打ち所なく整ったその顔にわずかなあきらめを映した。
柔らかな茶色の髪をかきあげて、彼女に尋ねる。

「フィノ・ドラド。世界を動かすのに必要なものは何だと思います?」

大きな目をぱちくりとさせて、小さな魔女がこちらの真意を計るようにじっと見上げてきた。
外見相応ではない、落ち着いた黒い瞳。
弟である「仮面の殺し屋」と同じ刃を宿した瞳。

「──運と力」

「もうひとつあります」

ハティは薄い己の唇に人差し指を一本立てた。

「世界を動かすもの。それは運と力、そして金」

少女の瞳が驚きで大きくなったのを確認し、彼は続けた。

「今夜会いに行こうと思ったのは、レオ=カイザースです。ご存知ですか? 経済界の裏側では随分有名な男なんですが」

「名前だけは……聞いたことがあるわ」

「明晰で鬼畜な男ですが、それだけに金に関する腕は確かなんですよ。金という魔物の力を知り尽くしている。おまけに度胸があって賭け事に金を惜しまない。若輩の僕が言うのも何ですけどね、あの人は参加すべきなんです、この大陸を賭けた一世一代の博打(ばくち)に」

彼は言いながら扉へと向かった。
雪のように白い官衣が、口元を締めた彼の表情をよりいっそう怜悧に見せる。

「セレシュ=クロードが(たお)れれば、死を望むものなんかいなくなるでしょう。生きていることを憂う者も、恨みに身を焦がす者もいなくなる。そしてネクロマンサーのスクレート姉弟も大陸を奪う目的を失う。結局すべてあの男が根源なんですよ」

穏かな茶色の双眸はそれゆえに容赦なく。

「インペリアル・ローズがいない今、あの男の玉座はどこからでも崩す事が出来るんです」










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