White Hazard

第7章 「Hopeless Dawn:1」 人は他人の望みも背負うがゆえに強く、弱く──。

 


フォール=クロードは、廊下の先に探していた人影を見つけて駆け寄った。

「宰相!」

「……フォール」

目を細めたその男がこちらへ向かっていた足を止める。
フォールは軽く手を挙げて歩を速めた。

セレシュ=クロードの弟であるフォールを呼び捨てにする者はほとんどいないが、宰相イェルズ=ハティはその例外部分に当たる。
咎めもせずに放置しているのは、仲がいいとか裏で組んでいるとかそういったことではない。

──分かるのだ。

自分を“殿下”と呼びたくない彼の深層が。
彼はセレシュ=クロードを“陛下”と呼ばねばならないことさえ憎んでいるのだから。

「どうしました?」

実際は自分よりも少し年上なこの宰相は、容貌と冷気と掲げる理想のためか、同年かと錯覚するくらいに若い。
けれど何故か相手を一歩退かせる圧力がある。
フォールは宰相の鋭い視線から目を逸らしつつ、言った。

「いや、兄上がみんなを集めただろう? それで……」

「私もこれから行くところですよ。それが何か?」

「何をするのか知ってるか?」

「いいえ」

身も蓋もない答えが返ってくる。が、

「私も何も知らされてないんですよ。陛下の独断です。お陰で今夜の予定が飛んでしまいました」

そう付け加えて宰相が笑った。
彼は廊下に連なる柱の向こうの夜を眺めながら、

「本当は今頃素敵な料理を食べているはずだったんですけど」

と、つぶやく。
それが心底からのため息に聞こえたので、フォールは幾分緊張をほぐして笑みを浮かべた。

「みんなそうだ、兄上の気まぐれには迷惑してる」

「──で、貴方はなんでここにいるんです? 呼ばれた広間は貴方が来た方向でしょう? そちらへ行かれた方が事情が分かるでしょうに」

「なんっつーか……入りにくい雰囲気で」

「あぁ〜」

宰相が意を得た苦笑を漏らした。
ガラス一枚を隔てた気さくさだ。
この人は人あたりがよくて誰にでも穏かだが、決して踏み込ませない線を持っている。あの──防御という言葉を知らないインペリアル・ローズとは対照的に。

「みんな押し黙って陛下の一挙手一投足に気圧されているんですか」

「兄上は玉座に座ってるだけだけどな」

「……珍しいですよ。恐怖と畏怖だけで大陸全土を制圧できる人なんていうのは。何千年という歴史の中で、それが出来たのはあの人ひとりなんですから。その点では私もあの人を別格視しています。人間ではないとね」

「人間ではない?」

「神様の領域ですよ」

お手上げだというように、宰相は両手を挙げてひらひら振ってみせる。
しかし降伏は本心でないだろう。
口元は笑い、鳶色(とびいろ)の双眸は笑っていなかった。

「…………」

フォールはそっと口を結ぶ。
いつだってそうなのだ。宰相も、元軍師アザ−=フォーマルハウトも、元左軍将軍ネイザ−=ハストラングも、現左軍将軍のルビー=ヴァレンも、近衛隊長のノクティス=セレスティアも、他の家臣も皆、兄を見ている。
派手に反発して周りに迷惑をかけるほど馬鹿ではないつもりだが、やはり苛立ちは(ぬぐ)い去れなかった。

今でも。

「さぁ、何が待っているにせよ、行かないわけにはいきませんね」

一匹の青い蝶を従えて、宰相が彼の脇を通り抜けた。






◆  ◇  ◆  ◇  ◆






「大陸全ての者に、選択をさせる」

宰相が皇帝の横に立ち、フォールが自ら段下に紛れると、玉座の男は静かにそう告げた。
誰もかけられたその言葉の意味が分からず、反応する者はいない。
皆、頭を垂れたまま息を潜めていた。

「生きるか、死ぬか、選べ」

抑揚のない声が続けて降り、沈黙の夜が一層色濃く深まる。
フォールはひとり顔を上げて兄を見やった。
その横では宰相も、得意の無表情を崩して皇帝を凝視していた。
だがセレシュ=クロードはどこともつかぬ虚空を見つめ、ふたりのことなど景色の一部にすぎない如く──氷の瞳を閉ざし言う。

()は、かつてひとりの死人使いを仕留め損ねた」

自嘲気味な語りかけ。

「それが今、この大陸と余を脅かそうとしているのだ。余が歩んだ覇道のツケとでも言うべきだろうな」

宰相は眉根を寄せたまま口をはさもうとはしなかった。
段下、フォールとは反対側に立っている近衛隊長も神妙な面持ちをしたきり、それ以外の色は見せていない。
居並ぶ臣下たちも似たようなものだ。誰もが切迫した表情をしていて、だが誰も確たる意志を持てないでいる。突きつけられているものが分からないのである。

その中を、セレシュの声がゆっくりと流れてゆく。

「死人使いたちが理想とするものは、死に支配された大陸。安寧で、平穏で、変わらぬ世。もはや愛しい者と別れることもなく、心変わりもなく、離れることもなく、苦しみもなく、同じ時間だけが繰り返される死者の大陸」

彼は言葉が浸透するのを待って、続ける。

「その世界では、余が殺めた者も、我々が薙ぎ払った者たちも、戦火の中で失われた数々の命も、再び生き続ける。我々生者が死ぬことにより、彼らと共に生きることになる」

それは甘美な誘いに聞こえた。
刺のないセレシュの声音は心地良いのだ。
耳に感じ、自然と身体から力が抜ける。

「我々の罪が帳消しになると言っても過言ではあるまい。全ての者が永遠に死に生きる中ではもう、怨みも嘆きも叫びも恐怖もないのだからな。そこにあるのはただ、存在だけだ。死人使いの手に握られた“すでに終わった存在”が行き場なく留まっているだけ」

セレシュ=クロードが目を開けた。
その視線が一瞬だけフォールに降ろされた──ような気がした。

「愛する者を失った者、己が罪に苦しむ者、我が世を憂える者、全てが無意味だと感じる者、様々な者が死を愛でる。彼らは自らの死を、そして大陸そのものが死に覆われることを望み、魂の変わらぬ平和を望む。余はそれを非難はせぬ」

集められた上級武官は、敵、そして仲間の死を目の当たりにした者ばかり。
上級官吏の中には、家族や友人を亡くした者も多い。
彼らは死がいつでも自らの横にいることを知り、(おのの)いた。
そして人の儚さを想い、失ったものに絶望し、未だその深淵をのぞいている。
茫洋とした暗闇に身を投げてしまいたい衝動を、捨てられずにいる。

「常に何かを望み続ける愚かな生者がいなければ、大陸は永遠に平穏を保つだろう。一切の声をなくして、静寂は大地に沈殿する」


死に絶えた者たちの影が寄り添う荒野。
廃墟となった都市や街は風化のうちに砂となり、砂塵は淀んだ灰色の空に舞い上げられては降り積もる。

緑溢れ、澄んだ水がたたえられたオアシスにも、生きとし生ける者たちの影だけが残される。
風にざわめく葉擦れと(さざなみ)立つ水面。
小さな林の小枝で羽を休める鳥を見上げる者はもはやなく、その木陰に身を委ねる者もなく、その水で喉を潤す者もない。
やがて長い時と共に水は砂に埋もれ、木々は徐々に枯れ朽ち、鳥は去る。しかし影だけは永遠に取り残されて、生き続ける。


「破壊もなく、再生もない」


──再生。

フォールは、兄の言葉を反芻した。

「死を望む者を余は止めない。だが──」

セレシュ=クロードが広間を眺め渡した。

「それを大陸に帰する者を余は許さぬ」

皇帝は表情のない顔で断言し、居並ぶ官たちは瞬間息を詰まらせた。

「余がこの大陸の最上位に座っている限り、この大陸を死者に渡すわけにはゆかぬ。余は死者の帝国を築くために手を血に染めたわけではない。生者の帝国を築くために多大な犠牲を払ったのだ。死を甘くみるな。死に幻想を抱くな。死とは最も過酷で最も確かな歴史の通過点に過ぎぬ」

フォールが見上げた兄は無表情。
だが声は違った。
今までのように天上から降ってくるお告げではなく、胸元に突きつけられているような鋭く重い音。
雲居の神ではなく、玉座の皇帝。

「余は死の理想郷など承服しない。故に剣を抜く。──こちらを向け」

絶対の命令に、鋼を通されたぎこちなさでぱらぱらと武官文官が顔を上げてゆく。
ほとんどが上目遣いに皇帝を仰ぎ、そして視線を縛られる。
目を逸らすことができなくなる。

(皇帝の目じゃない。あれは……)

武官のほとんどは気付いていた。

(──あれは、あの人が戦いの最前線を率いていた時の目だ)

「今日お前たちをここに集まらせたのは、お前たちの意志を問うため」

だが事情を知らぬ文官たちも、皇帝の人たる覇気に本気を悟る。

「自ら生きたいと望み、今ある生者を護りたいと思うか。それとも、死を望み、死者と共にあり続ける永遠の平穏が欲しいか。五日の猶予をやる。決めよ」

広間が始めてざわめいた。
しかし静めるはずの宰相は、皇帝を見つめたまま動かない。
考えがあるのかないのか、それさえも定かでなかった。

「各領地の中核都市にはすでに伝令を出してある。返答があったのはここ帝領のアヴァロンとシグリッド、そして北西領のカナトス。これらは生きる道を選び、すでに都市軍の編成を進めている。だが南領のレオノイスは死の道を選ぶという。人々にはもう、生きる気力がない、とな」

独り言のようにセレシュが付け加える。

「無理もなかろう。南の方は戦火が大きかった」

だがそれは同情しているわけではないのだ。
ただ、事実を確認しただけ。

「死を望むからと言って罰したりはせぬ。だが敵となったら容赦はしない」

「大陸の民はあなたの子。それでも死を望む者は救わないと?」

ようやく宰相が口を開いた。
セレシュは平然と答える。

「余は自ら助く者を助く」

「この大陸に底の知れない絶望を運んできたのはあなたなのに?」

皇帝の蒼い目が、すいっと横に流れ宰相を見やる。
囁かれた言葉は聞こえず、フォールはかろうじて兄の唇の動きを読んだ。

<死人使いを生かしたのはお前だな?>

「…………!」

歯噛みする宰相から視線を外し、皇帝は再び官を見下ろした。

「一度は決するべきなのだろうよ。生を望む者と、死を望む者と、どちらが強いのかをな。生と死はいつでも同列に扱われるが──だからこそ人は惑うのだ。その惑いに決着をつけるためには、この世界にまだ浅はかな望みを持つ者と、愛想を尽かし望むことを止めた者と、どちらが大地にのさばる権利があるのかはっきりさせねばならない」

嬉々とした明朗な宣言に、この男はどうあっても大陸の主なのだと錯覚する。
しかし、主であってはいけないのだという焦燥も湧いてくる。
大きすぎるのだ。
民の上に立つには圧倒的すぎる。

「今日この時を持って全ての役職の任を解く。五日後の朝、生きる望みを持つ者はここへ来るがよい。全てはそれから決める」

セレシュ=クロードが玉座から立ち上がった。
一様に険しい顔をした武官文官たちが、それを目で追う。

「同じ朝、大陸各都市の選択も終わり、生きることを選んだ都市は軍を上げる。我が帝国軍も生きようとする者だけを残し再編成する」

フォールは自問した。
死にたいか、と。
答えはすぐに「否」と返ってくる。

兄と同じ武人としての血がそう思わせるのだろうか、彼はとにかく死することは敗北に等しいと感じていた。
加えて無性に恐かった。
望みのない虚無の安楽椅子に身をあずけることが、言い様もなく恐怖だった。

死の平穏に安堵したら終わりなのだと──何が終わるのかはともかく──彼の中の何かが絶えず警告を発している。
近付いてはならない、手を伸ばしてはならない、と。

「すでに非道の限りは尽くした。ここにいかなる罪状が加わったとて変わるまい。望みを絶った生者であろうと、知った顔の死者であろうと、余は余の前に立つ者を斬り捨てる。いいな」

セレシュが一呼吸置いて両手を広げた。

「──解散!」

大戦当時を彷彿とさせる、厳然な号令だった。






◆  ◇  ◆  ◇  ◆






人波に紛れて回廊に出ると、フォールはそのまま柱にもたれて兄を待った。
“生きるか死ぬか”
いきなり単純明快な難問を出された官たちは、相談し合うことさえなく眉をしかめて夜の中へと流れてゆく。

しかしその流れが絶えてもなお、皇帝が出てくる気配はない。
フォールの立っている場所は奥殿へ続く唯一の渡廊であるから、来ないはずはないのだが──。

「あぁ、宰相、兄……陛下はまだ広間の?」

「えぇ、いらっしゃいますよ、たぶんね」

官吏たちに遅れること少し、目立つ白の官衣をひるがえしてイェルズ=ハティが通りかかった。
おそらく、皇帝と口論でもしていたのだろう。
きっといつものように軽くいなされるだけだったに違いないが。

「貴方はどうするんだ?」

ついでに訊けば、若い権力者は心外そうに振り返る。

「もちろん生きますよ。志半ばで自分から退場するのは趣味じゃありませんから」

「そう言うと思った」

フォールが笑うと、宰相も軽く笑みを返してくる。
そして彼は一礼して去って行った。


宰相イェルズ=ハティ。
彼はフォールに語ってくれたことがある。
彼の理想は皆が誰かに支配されるような世界ではなく、皆が皆で立つ世界なのだ、と。
“共和国みたいにか?”
訊けば、ちょっと違いますけどね、と苦笑された。
それでも彼は、何よりも人々を恐怖から解放したいのだと続けていた。
今は皆が皇帝に圧倒されて萎縮してしまっている、言うべき言葉はあの男の前で押し殺され、剣を奮われると怯えて何一つ独断では動けない。
それではいけないのだと、彼は言っていた。

おそらく宰相は死者と闘うことなど考えていない。
それどころかこれは好機と捉えているかもしれない。敵がざわついている間に根元から崩してしまえというのは戦いの基本だ。

今ここにインペリアル・ローズはいない。
兄が信頼するアザ−=フォーマルハウトもネイザ−=ハストラングもそれぞれの都市から動けない。
旧クラディオーラの家臣も何故か帝城にはほとんど配置されず、上官・武将は皆大陸の小さな都市にいて動けない。

左軍将軍ルビー=ヴァレンは傍観するか宰相側に付くだろう。
近衛隊長のノクティス=セレスティアは元々敵国の一兵士。何か顔に表すことはないが、腹の底では何を考えているか分からない。


(──アイツは独りだ)


フォールは未だ主が出てこない扉を見、仕方ないかと背を起こす。
そして広間へと廊下を戻る。
確かめなければいけないことがあった。


(──ここにアイツの味方はいない。だけどアイツはずっと前からそうなることを知っていた)


フォールが身にまとっているのは、兄と同じ白と薄い蒼地の帝衣。
兄の長衣とは違って軍服を基調にしてあるため、全く対極の人間にも見える。
しかし受け継いだ血は半分同じ。
後ろで束ねた髪は銀髪。瞬く瞳の色もまた、氷れる蒼。


(ハティがシェーヌ=スクレートを逃がした。それを見逃したその時から、アイツはこうなることを知っていた。いや──知っていたんじゃない。アイツがこうなるように動かしたんだ!)


彼は鼻息荒く扉を押し広げた。
そして瞬間思わず息を止め──詰まらせた言葉を小さく吐く。

「……兄上?」


まず目に飛び込んできたのは、玉座の後ろに飾られた、全てを突き放してそびえる帝国の印。白薔薇紋章の青いステンドグラス。

そして視線を降ろした先の玉座に陣取る主は──、堅く瞳を閉ざしていた。
(ひじ)をついた方の手を額に当て、息吹は深く。
帝衣に流れる髪はそのままに、柳眉は寄せられ口元は一に結ばれ。

ともすれば砕けて跡形もなく散ってしまうものを必死で繋ぎとめている。
それは弟であるフォールでさえ目にしたことのない、憔悴(しょうすい)の色だった。







Back   Menu   Next

Home






BGM by Chopin [Etude OP10-9][Prelude No.12][Plonaise No.5
Copyright(C)2003 Fuji-Kaori all rights reserved.