White Hazard

第七章「Hopeless Dawn

──ずっと起き続けていられる者などいない。しかし、眠ったのならばいつかは起きねばならない。




帝都の中心部から少し離れた邸宅街。
城の上級官吏や宮廷魔術師、将軍格、その他経済や芸術など各方面での重鎮や重要人物たちが屋敷を構えている一郭に、その男は側近のひとりも連れず訪れた。
皆が家を空けている真昼間にこの通りを歩く者は珍しい。
それでも彼が目立たずに済んだのは、いつものように真っ白な官服ではなく、かといって派手でもなく貧しくもない、中級旅商人のような格好をしていたからだろう。

しかし男がとある白い邸宅の扉を叩けば、中から執事が現れて何度もお辞儀をし、彼はすぐさま中へ通される。

「旦那様がお待ちです。宰相閣下」

「──忙しいだろうにすみません」

彼が案内された部屋はごく普通の応接間だった。
華美でもなければ、質素でもない。
壁の柱時計や中央に置かれたテーブル、ソファから細々した茶器に至るまで、どれも一級品に違いないだろうに“金”の匂いを少しも感じさせない。
一代でのしあがった成金にしては、浮ついた華やかさのない屋敷。

それがソファに座りこちらを待っていた男の、人となりなのだろう。
三歳ほどの幼い少女をひざにのせ、何やら笑い合っている。
本人の年齢は皇帝よりも上をいっているはずだが、同程度と言っても通用するくらいには若い外見をしていた。背も高く、体格もそれなりに良い。
下がり目が優しく、吊り眉が意志の強さを表す。
そうして愛嬌はあるが隙のない、穏かで調子はよいが油断のならない、この男の顔が出来上がる。

扉が閉まる音を聞いて、彼がこちらに顔を向けた。

「イェルズ=ハティ宰相、ご足労をかけたね」

「いいえ、こちらこそ」

ハティは丁寧にお辞儀をしつつ、男をもう一度眺めやった。
レオ=カイザース。
その姿は知らずとも、この名前を知らない商人はいない。
“帝都の獅子”とも呼ばれる、この大陸経済の総元締めと言ってもよい男。
力を支配するのが皇帝セレシュ=クロードならば、金を牛耳るのがレオ=カイザースというわけだ。


「シュゼット。パパはこのお兄さんとお仕事の話があるから、向こうでマリアに遊んでもらいなさい」

「はーい」

元気の良い返事を残し、パタパタと女の子が部屋を出て行く。
栗色の髪やら目元やらはカイザースに似ているが、全体的にもう少し淡くした雰囲気のある少女だった。

「……娘さん、ですか?」

「あぁそうだ。可愛いだろう、私に似てる」

ソファを勧めながら男が笑う。
それは正真正銘バカ親の顔だった。

「利発で聞き分けもいい。絶対嫁にはやらないんだ」

「貴方が結婚なさっていたなんて知りませんでしたよ。奥方は?」

「妻は死んだよ」

軽く言われた言葉に、ハティは一瞬硬直し声を失った。

「それは……」

「私がこんな仕事だろう? 私も狙われる、私の周りも狙われる」

そしてカイザースは遠くを見つめて自嘲の笑みを漏らす。
柔らかな双眸に影が差した。

「帝都の獅子だか何だか知らんが、女ひとり護れなかった情けない男だよ、私は」

「暗殺……されたんですか」

不謹慎だとは分かっていたが、聞かずにはいられなかった。
すると男の目がこちらを向き、奥底まで見通そうとでもいうようにじっと見据えてくる。
そしてぽつりとひとつの名を言った。

「RJ」

「!」

見透かされてハティは僅かに琥珀の目を開いた。

「ではない」

カイザースがくつくつと笑う。

「その答えがお望みだったか? だが残念ながら妻が死んだのはあの男が沈んでからだよ。だからこそ回避できなかったとも言えるがな。あの男がいれば逆に敵の首を取ることが出来ただろう。……妻を殺った暗殺者の名はディエス=ヴァ−ミリオン」

「ディエス……私も殺られそうになりました。まぁ、ただのフェイクでしたが」

「本気でかかられたら、イェルズ=ハティ宰相は今ここにはいまい」

「……でしょうね」

“仮面の殺し屋RJ”亡き今、後継者候補のトップにいるのはあの若者だ。
国家間の権力争いはセレシュの出現で消え去ったが、臣下間、経済界の闘争は終わらない。有力者はこぞってディエスを使いたがり、そして彼を恐れている。
それでも──

「セレシュ=クロードがどこからかRJを引っ張り出しました。正確には引っ張り出してきたのはインペリアル・ローズですが」

言って、ハティは再びカイザースを観察した。
慣れた手つきでミントティーを淹れていたその男は、ぴたりと手を止める。

「それで」

「インペリアル・ローズが西の墓守に行かされ、RJはその護衛に」

「…………」

カイザースの柔和な顔が、一転引き締まった。

「聞いてはいたがやはり本当だったか。RJがインペリアル・ローズと共にアヴァロンにいたという情報が今朝入ってね」

この男がどうやって大陸全土の商業路を手に入れたのかはハティも知らない。
気付いたらひとりの男に掌握されていた、そう表現するのが一番適切だ。
きっと、支配されている側の商人たちだって同じ気持ちだろう。いつの間にかカイザースの組織の中に組み込まれていたのだ。
ポーカーフェイスの裏にあらゆる手を隠し、相手にどんなカードを出されようと動じることのない男──レオ=カイザース。商人たちは皆、知らぬ間に彼を見上げなければいけない事態に陥っていた。


「皇帝がRJをね……やられたな。で、それからあいつは何人殺した」

「いえ、彼らに関係して誰かが亡くなったという情報はまだ」

「……そうか、まだか」

嘆息ともつかない言葉と共に、ティーカップが差し出された。
揺らぐ紅茶から漂うミントの香りが、まどろんだ空気に一瞬の清涼を与える。

「ところで、こちらとの約束は守っていただけますか」

ハティが単刀直入に問うと、

「もちろん守る。そっちの提示した利益はこちらが動くに充分なインセンティブ(誘因)だ。私を始め多くの商い屋は何よりも利害得失にこだわるからね、誰も文句は言っていないよ。むしろ皆ヤル気だ。あの無敗の皇帝に最初で最後の一敗をくれてやる、武力の恐怖支配から自由になるのだと、ね」

カイザースが穏かに笑み、そして次瞬その笑みを消した。
扉の方を見たのは、しっかり閉まっていることを確認したかったのか。

「約束は必ず守る。準備も進んでいる。だが──これだけは言っておく」

男の柳眉が寄せられた。

「今はこちらが断然有利だ。皇帝を相手にしても、おそらくネクロマンサーを相手にしても、な。だがあの男が“本当に”動き出したらどうなるのか……私には断定できない」

「…………」

あの男。仮面の殺し屋RJ。
彼は死んだはずだ。暗殺者としての彼は死んだはずなのだ。
頂きに辿り着いた彼は、道を失って堕ちた。その座を守ろうともせず、沈んだ。
そして今はもう、ディエスを筆頭とする新しい勢力が彼の遺骸の上を走っている。
彼らは落ちぶれた先人を嘲いながら、今を走っている。

それでも、世界は男の名を忘れられないのだ。
世界は、今刃をかざしている者よりも地に沈み息絶えたはずの者を恐れている。

「私は身に染みて知っているんだよ。あの男は下手をするとセレシュ=クロードよりも恐ろしい。だが幸い……今のアイツは鳥篭の中で大人しく寝ている鳥にすぎないようだね。本当に幸いだ」

「彼は暗殺者です。独りを殺すには長けていても、軍を潰すことは出来ません。私が死んでもルビー=ヴァレンが死んでも、そして失礼を承知で言えば、貴方が亡くなったとしても、統率が失われない用意は出来ています」

「さすがはイェルズ=ハティ宰相」

カイザースが深々とソファに背を預けた。
そしてハティの横の空間に向かって呼びかける。

「フィノ・ドラド」

「はい?」

「お前の目から見てどう思う」

「…………」

ソファの上には、黒いドレスに身を包んだ少女が姿を現していた。
彼女は相応しくない老成な態度でカイザースを見やる。

「セレシュ=クロードが彼に何をさせたいのか、何を期待しているのか、私は分からない。けれどあの子が本気になるような目的を与えたら、軍も何も関係ないでしょうね。あの子は何をもってしても目的を完遂(かんすい)する。……レオ」

魔女が視線を落とした。

「貴方があの子の抑止力として使おうとした私でさえ、あの子にとって意味のないものとなる。きっと」

──フィノとカイザースは面識が、ある?

ハティの(いぶか)しむ視線に気がついたのだろう、フィノ・ドラドが取り(つくろ)った笑顔を見せた。

「昔ね、この人に雇われていたことがあるのよ」

「姉弟としてな」

「あぁ、そうですか」

軽く納得してから、

──……。

何かが引っかかった。
頭の片隅で、消えない言葉が何かを主張している。

──“姉弟としてな。”  姉弟……として?

だが問い正す前に遮られた。。

「宰相、RJの動きに注意していてほしい。あの男は小鳥のまま籠に入れて眠らせておくのが一番だから。アイツを起こしてはいけないんだよ。皇帝は西へと旅をさせる中に、何か彼を目覚めさせる鍵を用意しているのかもしれない」

「……彼について入った情報はそのまま流しましょう。私の方でも手を打てる用意はしておきます」

「ありがたい」

読めない男。
そう評されるレオ=カイザースの“ありがたい”が、本物に聞こえた。
帝都の獅子が本当に安堵している。

「あの殺し屋が地に堕ちた時、誰かがアイツを殺すべきだった」

カイザースがテーブルに置かれた小箱から一本の細葉巻を取り出し、小さく振る。
吸ってもいいかという意味だ。
ハティは小さくうなずく。

「殺すべきだったが──誰も殺せなかった」

男が長い指をかざし、火を点けた。

「表舞台から身を引いたあの男を殺しても、何の意味もなかったからだ」

紫煙が深く吐き出される。

「あの男に取って代わり名を馳せるには、頂点に立っているあの男を殺す他方法はないんだよ。暗殺者RJを殺しても意味はない、“仮面の殺し屋RJ”を殺さねば意味がない」

「──これから……ディエス=ヴァ−ミリオンが挑むと思いますか」

「RJが再び舞台に立ったことはすぐ知れ渡る。これは好機だ。これを逃したら、世界はRJの幻影から二度と逃れられなくなるだろう。ディエスもそれを知っている。どれだけ仕事を成功させようと、伝説には敵わないということをね。だから彼はどんな手段を使ってでもあの男を殺そうとするだろう。だが──」

つないでおいて、カイザースは口を閉ざす。
針を進める時計の音だけが部屋に大きく響いていた。
皇帝の定めた期限に向かい、刻々と時を刻む音。
これで最後だと誰もが信じる大戦、その幕開けへのカウントダウン。

「あの若造はRJに敵わない」

カイザースが半ば誇らしげに言った。

「あの男が真正面から勝負を受けて立ったら、ディエスに勝ち目はない」

「仮面の殺し屋とて人間でしょう。両者はそんなにも差があるのですか? 勝敗を断定できるものですか?」

「アイツは人間じゃないさ。だが唯一の隙は……あの男がまだ眠っているということだろうね。眠れる獅子は仕留めるのも容易い。おそらくスクレート姉弟もそれを分かっているはずだ。RJは無事に西へと行けるかな?」

咥えた煙草を揺らし、他人ごとのように笑う。

「それとも途中で目覚めてしまうだろうかね? 目覚めるべき理由を手に入れてしまうだろうかね?」

「──彼は一体……」

「何者か?」

ハティの問いかけを制して、男が窓の外を見た。
こちらの駆け引きなど知らぬ顔で陽射しを降り注ぐ、晴天。

「誰も知らないよ。彼がどこから来た、何者なのかなんてね。ただ分かっていることは──」

灰皿に煙草を押し付け、カイザースはつぶやいた。

「あの男もセレシュ=クロードも、結局は我々と同じだということだけだよ。歴史の奔流に刃を突き立てあがこうとする、我々とね」






◆  ◇  ◆  ◇  ◆






「何故南西へ行くのだ。北西へは行かぬのか?」

ローズが黒髪をなびかせながら、RJに向かって不思議そうに訊いた。
彼女は空を駆けるグリフォンの上、RJとカースは地を駆ける馬の上。
彼らは一夜をアヴァロンで過ごした後、すでに都を背にしたのだ。

「北西?」

「北西領、大河カナトスの都。貴様とて、あそこはクラディオーラからの家臣であるエドムント=バジレウスが治める領土だということくらい知っておろう? 他を行くよりもてなしてもらえると思うが」

「エスパダ、トリステを経由してキャメロットから西へ入ろうと思う」

「……まぁどこを通ろうと私は別段構いはせぬが。良かったな、アザ−が良い奴で」

「まったくだ」

「誰のお陰だと思ってるんですかァ……」

風切る馬上から、カースは白い目でふたりを見やる。
するとふたりは申し合わせたかのように横を向く。

「オレがどれだけ謝ったと思ってるんですか!? フォーマルハウト長官に謝って謝って謝って謝って、やっとお金貸してもらったんですからねー!」

「ご苦労ご苦労」

「アイツは結構ネにもつタイプだからな、恐い恐い」

ふたり共が行くのは嫌だとごねるから、仕方なくカースが単身乗り込んで謝り倒し路銀を調達してきたというのに、全くその苦労を分かってもらえない。

「それから! 兄貴!」

出来る限り平静に、ドサクサに紛れるようにして若者は一気に叫んだ。

「ディエス=ヴァ−ミリオンが兄貴を超えてみせるって宣戦布告してましたよ!」

「──は?」

「だ・か・ら!」

もう一度声を張り上げようとすると、黒衣の男が言葉を上乗せしてくる。

「違う、お前アイツに会ったのか?」

「えぇ!」

「アヴァロンで?」

「そーですよ!」

「へぇ」

RJの反応はあっけなくそれだけだった。
困ったと不機嫌になるでもなければ、不敵に笑うでもない。

舞い散る砂埃に目を細め、不快そうに眉根を寄せる。
時折ローズに何か言い、返ってくる珍答に呆れたり疲れたり激しく怒鳴ったり。
人間じゃないとまで言い放たれたその男は、人間味溢れ過ぎる百面相で荒野を駆けて行く。

──怖い人さ。憧れるなんてことが出来ないくらいにな

──お兄さんはお前を殺すのだって一瞬も躊躇(ためら)わないぜ

ディエスの言葉を反芻(はんすう)していると、背筋に悪寒が走った。
冷や汗が出て、呼吸が乱れる。
と、ふいにRJがこちらを向き、世間話のようにサラリと告げてきた。

「ひとつ教えておいてやる。暗殺者が他の暗殺者を超えるってのは、そいつを殺すって意味だ」

「…………」

「こりゃ騒がしくなって、夜なんかゆっくり寝てられないかもな。奇襲の嵐だ」

「貴様の問題に私を巻き込むなよ。やるなら私を起こさぬよう静かにやれ」

「連帯責任だ、連帯責任」

「不条理な!」

「…………」

カースはひとつだけ理解した。
馬上の男は欠片も困ってはいない。悩んでもいない。

だがそれがカースの慕うRJという人間の性格なのか、それとも仮面の殺し屋という者の冷徹さなのか。
彼には分からなかった。

「カース、巻き添え喰って死なないように気をつけろ」

「はいはいはい分かりました」

「返事は一回」

「はーい」

分からなくてもいいか、と思った。








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