THE KEY2 THE WORLD
第一話 【微動】…(2) モテる男はつらいよ 「受付の上なら通った」 ギリギリと合わせた刃の向こうから、女が律儀に答えてきた。 「上?」 「二階」 「……あぁ」 フェンネルはため息とも笑いともつかない声を吐いた。とりあえずまだ許せる範囲だ。 しかしそんな彼の反応も彼女には関心のないことなのだろう、 「私は暇ではないから用件を先に言う」 白刃の向こうの黒眼は鋭角のまま。 「魔剣を寄越せ」 可愛げどころか愛想もない。 「どうして」 訊くと、 「お前が持っていても役に立たない」 失礼極まりなく即答される。 「お前は二年前からその剣を使っていない。使っていないのなら、使いたがっている人間の元へ行かせてやっても文句はないだろう? 金は出す。それにその方が剣にとってもいいとは思わないか? 剣とて、眠らされてばかりでは力が衰えてゆくばかりだ」 全体的に小柄なうえに童顔なせいだろう、彼女はフェンネルよりずっと年下に見えた。しかし地に足着いた脅迫的な気迫は、時の蓄積以外の何モノでもない。 何でもいいから言い返さなければ、圧倒されて負ける。 「非の打ち所のない正論だが、渡せねェな」 「何故。魔剣を手放し、ただの剣士に成り下がるのが怖いか?」 彼女の口調には莫迦にした様子も軽蔑もなかったが、フェンネルは口元を歪めて笑った。 「男ってのはどうしようもねェ生き物でな、見栄と虚勢は一人前なんだ」 「フン」 初めて彼女が表情を見せた。 どいつもこいつも──……、そんな苦々しい嘆息。どこかに同じようなことを言う男がいたに違いない。 「オネェさんはこの剣が何だか知ったうえで寄越せと言ってるんだろうな?」 「オネェさんではない。エイリン=ロッド」 どうやら彼女は暗殺者ではないらしい。レーテルの暗殺者講義では、あの類の人間は名乗らないと教わった。……もちろん一夜限りの偽名かもしれないし、彼女が基本もなっていない暗殺者なのかもしれないが。 「無論、知っている。血を欲し、主を使って人を斬り、自らの力を増す。主の生命をも我が物とし、死に至らしめる。その魔剣は誰かが持つものではない。誰かにとり憑くものだ」 「正解。付け加えるなら、日々主に向かって“抜け、斬れ、殺せ”と囁く」 「…………」 彼女が黙った。 「こんな悪趣味な剣がそんなに欲しいのか?」 そんな悪趣味な剣を所有し続けているのが自分なのは、棚上げ。 「──私はそんなものいらない」 返ってきたのは、断言とさえ言えるキッパリとした答えだった。 彼女は淡々と続ける。 「欲しがっているのはシャロン=ストーンだ」 「…………」 いきなり持ち出された名前に、フェンネルは顔を強張らせた。 眉根が寄り、斜めな双眸に力が入る。 しかし彼は己の顔とは反対に、剣を掲げていた腕からゆっくりと力を抜いた。エイリン=ロッドの短剣も退き時を悟り、ふたつの剣身は各々の鞘へと戻る。 「なんでアイツが」 「知らん」 「……だったらテメェで取りに来いって伝えな」 意識したつもりはなかったが、放った音は 「そうしよう」 何の感情もなくあっさりとうなずいた彼女は、いつの間にかデスクから下りていた。そしてあっさりと 「失礼した」 そしてやってきた時とは裏腹に、軽く一礼して正規の扉から出て行った。 その背筋が伸びた歩き方からは、魔剣奪取に失敗したという事実はおろか失敗した自覚さえ感じられなかった。 「…………」 閉じられた扉を呆然と見つめ、彼女は一体何なんだと考えてしばし。 フェンネルはデスクに視線を落として「あ」、と間抜けな声を上げた。散らばる極彩色のチラシ。お前の仕業なのかと しかしまぁ、大して重要なことではない。 また近いうちに会うだろう。 あの手の女は、“分かった”と言いつつ何も分かっていない場合が多いのだから。 「面倒臭い予感」 フェンネルは水平な目で椅子に座り、チラシを一枚引き寄せ紙飛行機を折り始めた。 折りあがったらもう一枚。さらにもう一枚。 飛ばしてもすぐに落ちるものなんか、さらさら飛ばす気はない。 彼はひたすら折り続けた。 ◆ ◇ ◆ 酒場「ネムノ木」は、テフラの北外れにある。 旅人──つまりこの街の新参者が集まる場所だ。意地の張り合いや威嚇は多いが、突然の派閥抗争に巻き込まれることがなく、誤って隣人に酒をかけてしまっても、腕を置いていけだのちょっと事務所へコイやだの、そういう話にはならない。大声で怒鳴られて二、三発殴られればそれで済む。 レーテルの住人スヴェル=エヴァンズがここを指定してきたのは当然と言えた。 街が黒い影に沈んだ夜。紙飛行機にデスクが沈んだ夜。 金具が錆びていて人間一人分弱しか開かない扉を押し、フェンネルは店の中へと身を滑り込ませた。 途端、眩暈のする喧騒がわっと身体に押し寄せてくる。扉に吊るされた来店を告げる鈴など無意味。気の弱い奴なら店の外へ押し流されてしまうくらいの無秩序な音の嵐。 それに慣れるとすぐ、店に染み付いた酸化した油の匂い、それに混じるアルコールや香辛料、並べられた料理の匂いに襲われる。 そのうえ、くねくねと柔らかな動きでテーブルをまわる娼婦たちのけばけばした化粧の匂いも混ざって嗅覚がバカになる。 「…………」 フェンネルがすべてを我慢し扉の前に立ったまま店内をぐるりと見回すと、店の奥で立ち上がりぶんぶんと手を振っている男が見えた。黒いフードローブに身を包んでいて見た目は怪しげだが、人懐こい好青年の雰囲気は別れて二年経っても変わらない。 勘繰っていたキサカには悪いが、あの男は刺客なんかじゃない。ただの、正真正銘の、スヴェル=エヴァンズだ。 フェンネルがレーテル在籍時、そして生徒会長を務めていた時期、副会長として常に横にいた友人。 「お久しぶりです、フェンネル=バレリー」 フェンネルが片手を挙げて近付いて行くと、スヴェルが破顔して抱きついてきた。 犬が千切れんばかりに尻尾を振っている様子に限りなく近い。 「元気そうでなにより」 フェンネルはスヴェルを引き剥がすと、テーブルの奥へと目を向けた。 もうひとり、いたのだ。てっきりスヴェルひとりで会いに来たものとばかり思っていたのに。 その視線に気付いたのだろう、彼の連れがフードを外す。現れたのは、この場にいるどの女より美しい、くるくる巻かれた見事な金髪。 「これはこれは、マグダレーナ評議委員長」 フェンネルは感嘆の声を上げ大げさに両腕を広げてみせた。 が、 「今は会長です」 あっさり叩き落とされる。 「そうでございますか」 フェンネルは慇懃に納得してみせてから横を通りかかったウェイターにエールを注文し、彼らに向かい合うようにして座る。 「スヴェル、お前未だに副会長やってんのか」 二年も会っていないと、何をしゃべっていいか分からない。相手との距離が難しい。とりあえずあたりさわりのないところから始めた。 「えぇ。微妙に責任を回避できるのがお得な役職で」 「お前、そりゃ男の風上にもおけねぇ……」 「それって差別ですよ」 「そもそもこんな街、女を連れてくるところじゃねぇんだよ。売り飛ばされても知らねぇぞ。差別の問題じゃねぇ、事実の問題だ」 スヴェルの小さな非難を無視してマグダレーナの顔を見やると、 「だって」 ぷにぷにした透明な物体が浮かんでいる桃色グラスをかきまぜながら、彼女は言う。 「スヴェルをひとりで行かせると、舞い上がって肝心なことを何ひとつお伝えせずに帰ってきそうだったんですもの」 彼女の声は酒場の汚れを寄せ付けない。 これだけ騒がしい中にあっても、一字一句グサグサと聞こえる。 『──ごもっとも』 男ふたりは両手を挙げた。 「男同士積もる話もありますでしょうが、今私がいる以上、後にしていただきます」 マグダレーナ=ミリオン。フェンネルがレーテルを辞して後、彼女がレーテル魔導学校チェンバース生徒会の会長職に就いたことは噂で聞いていた。生徒数の多さから生徒会がふたつに分かれているあの学校にあって、片翼の長というわけだ。フェンネルの時代、彼女は時折感情的になることもあったが、それ以外はテキパキと仕事を片付けていく有能な魔導師だった。 彼女の持つ貴族出身者特有の品は、学校の理事会や王都と折り合いをつけてゆくには良い札になる。彼らは何よりもまず“格”を重んじるのだ。 魔導、剣、召喚、知識、突出した誰もが畏れる才はないにしろ、民主主義の代表者としては最も安定した人物であることには間違いない。才ある者が人を幸せにできるとは限らないのだから。 「フェンネル会長」 マグダレーナが顔を上げた。 自分が会長だと言い放ったばかりなのにその呼び方はなんだ、そう思ってフェンネルは口の端で笑った。 「率直に申しますわ」 同じような言葉をついさっき聞いたような気がする。 「レーテルにお戻りください」 「…………」 フェンネルの前にグラスが置かれた。扱いがぞんざいで、透明な飛沫がテーブルに散る。 「…………」 一口唇を濡らしてから、彼はレーテルふたりの顔を見た。 どちらの顔も締まっている。冗談で言っているわけではないらしい。 「どうして」 真顔を作って訊くと、 「フェンネル会長は、“人が消える”ということをどう思いますか」 逆に返された。 「二年前を思い出すな。学校で学生が行方不明になって、森で見つかったアレだ。結局は授業中の事故だとか何だとかいうことになったが──」 納得できないのは、自分を含めて誰一人その周辺の記憶を明確に持っていないことだ。王都の調停官がレーテルを訪れたことなどは、それらしく記録に残っている。だがそれが実際にあったことなのかどうか、霧がかかったように思い出せない。 「今、世界では多くの人が消えて騒ぎになっていますの。ご存知ですか」 「いいや」 彼は首を振った。 「この街じゃ人が消えることなんざ珍しくないからな」 「ですが王都やレーテルでとなれば話は別でしょう。地位も貧富も人格も問わずある日突然人がいなくなる。尋常ではありませんわ」 「誘拐じゃないのか?」 「行政が把握しているだけでもここ半年で王都30人、レーテルで24人、ベラドアでも16人が消えました。時に離れた土地で同時に何人もいなくなります。犯人はひとつの組織でしょうか。それとも偶然、いくつもの誘拐事件が日々重なっているだけでしょうか? ありえないということはありえないのですから、万が一そういうこともあるでしょう。しかし身代金の要求も無ければ政治的な要求もありません。それでは犯人の狙いは一体何でしょう。世間が自分に翻弄されているのを楽しみたい? 自分より不幸な人間を見るのが面白い? それとも──」 「マグダレーナ」 彼女の言葉に異常な熱を感じて、フェンネルは彼女を遮った。 「お前の近くで誰か消えたのか」 「……自分では、冷静なつもりでした」 大きな息継ぎを挟んだ、間接的な肯定。 消えたのが誰なのか、言いたくなければ言わなくてもいい。今、傷をえぐるようなことは必要ない。 「失踪という線は?」 「なくはないですが、そうだとしても異常です。今までの統計を軽く超えています」 応えたのはスヴェルだった。 酒場にいながら堂々とグレープフルーツジュースを抱えている。その彼が続けた。 「理事長は──」 「ディネロ=シザースか」 「えぇ。彼は、“選別”だと言ってました」 「選別?」 「自然界において多種多様な生物が年月を経るごと取捨選択されていくように、人間もまた淘汰される時が来たんだとおっしゃってましたよ」 スヴェルの他人事めいた言い方は、今のレーテルの状況を暗示しているようだった。 王都と対立しているだけでなく、学校の中でさえ大きな亀裂が入っている。 「世界が必要とする人間だけが残って、それ以外は自然消滅する。これからの世界に適した進化した者たちによって世界はより素晴らしいものになる」 愛嬌のある目を精一杯吊り上げて、歌うような口調に変えて、本人はディネロ=シザースの真似をしているつもりらしい。 「理事長の言う“進化した者”ってのは、もちろん魔導師のことなんだろうな?」 「魔導師が消えていることについては、“残念ながら世界の要求に届かぬ技量の者だったのだ”、とおっしゃっていました」 マグダレーナが一言一言噛み締めるように付け加えてくる。 会議の場、彼女が口を結びながらひたすら耐えていたのが目に浮かぶ。 「あの人は、人ひとり消えるということがどういうことなのか、お分かりでないのですわ。これを機に王都へ圧力をかけるおつもりです」 不幸の苦しみは、それを被った人間にしか分からないという。 だが幸いにして人間はそれを想像するという術を持っている。だが不幸にして、その使い方を知らない人間も多い。 「王都も受けて立つつもりのようです」 “人が消える” それはあまりにも漠然とした響きだった。 死んだならば畏れもあるだろう。誘拐ならば憤りもあるだろう。だが、消えるというのはひどく曖昧だった。何の危機感も感じないほどに。騒ぎ立てることか否か、迷うほどに。あるいは、──いつの間にか忘れてしまうほどに。 しかし往々にして人は、取り返しのつかないところに来るまで“関係ない”と思い込みたがる。己のことと受け止めざるをえなくなった時、もう遅い。 「魔導は何故生まれたんでしょうか」 マグダレーナがつぶやいた。 「誰かを従えるためでしょうか。誰かを凌駕するためでしょうか」 聞きながら、スヴェルがギリギリとテーブルを睨んでいるのが視界に入る。共に過ごした四年間では見たことの無い、クソ真面目な顔だ。 「私は、誰かを守るためだと信じていました」 魔導師にとって“魔導”は宗教に近い。 学生時代に刷り込まれるそれは生活の隅々まで浸透してゆき、やがてあらゆる基準が魔導の教えに依るようになる。魔導に軸を置いた歴史観、人生観、規律、精神、人との接し方、善と悪、正義と不義、目指すべき高みと選ぶべき道。 「僕もです」 ふたりがここへ来たのは、分からなくなったからだ。 そもそも魔導とは何であるのか。そして未来、どこへ向かうべきなのか。分からなくなったのだ。おそらく。 「甘い」 フェンネルはグラスを片手に笑った。指を濡らす冷たい水滴が、身体の奥でくすぶる熱を抑えているのが分かる。 「生まれた時の目的なんてものには意味がねェ。今力を手にしている奴の目的が重要なんだ。違うか?」 「私はただ、生み出した人間に考えをお聞きしたいと思っただけですわ」 金髪魔導師がふて腐れて紅唇を曲げてくる。 「あぁそうかい」 たとえそいつが誰かを守るために魔導を生んだのだとしても、現状は何も変わらない。王都にもレーテルにも面子というものがあって、それは“○○さんはこう願っていました”という訴えでどうこうなるような代物ではない。 そんなほのぼのした世界は、子供の絵本の中ですら絶滅寸前だ。 「……お前らが頭抱えてんのはよく分かった」 二年前のマグダレーナ=ミリオンは、もっと現実的な女だった。賭けを嫌い、常に次善を行こうとする奴だった。常識と良識を行動の拠り所にしていた。 敬遠していた元上司を呼び戻すためこんな荒れた街へ来ようなど、夢にも思わなかっただろう。 「人が消えてることをネタにして、王都とレーテルが一触即発なのも分かった」 フェンネルはグラスをテーブルに置いた。 「だがいかんせん俺は、他人の話を丸々鵜呑みにするほど純粋な人間じゃなくてなァ」 相変わらず酒場は煩い。粗暴な男たちの怒鳴り声、 うねる音の波に覆われて流される。 何が? 殺気が。 「とりあえず──」 フェンネルは言葉を切り、八重歯を見せて立ち上がった。 ひとつ深呼吸。 「伏せろ!」 叫んだ瞬間、フェンネルはテーブルを蹴り剣を抜いた。 ブーツがグラスを粉々にしたが、気にしない。 マグダレーナが床に転がりスヴェルが身を翻し、剣士は一閃。 彼の 柄をキレイに断たれた斧。 濃く薄く、食べ物飲み物の染みがまだらに重なる床。 フェンネルがそこから視線を上げていけば──見なきゃ良かった、髭に顔が埋まった大男。 これが謎めいた少女か鋭利な美女なら人生の転機、新しい物語の始まりかもしれないが、髭に肉のクズを散りばめた野郎では話にならない。 「オッサン、みんなの憩いの場で物騒なモン振り下ろそうとしてんじゃねーよ。よりによって俺の可愛い後輩に」 「僕は同級です」 「細かいことツッコムんじゃねーよ、なら“下僕”の方が良かったか」 酒場は静まっていた。 ウェイターはいつの間にか姿を消し、カウンターの店主もいない。老若男女、客人すべての目はじっと彼らに向けられている。テフラ独特の荒んだ攻撃的な目が、ちらちら合図を交わしながら三人を捕らえている。 「…………」 打算を隠し切れないのが、血気盛んな新参者の欠点だ。 しかしそれを教えてやる義理も無い。 「フェンネル=バレリー」 大男に呼ばれ、剣士は渋々目を戻した。 「お前の名前は知っている」 「ああそうかい。そりゃお前、随分博識だな」 男は全員、テーブルの下で自分の得物に手をかけている。女は全員、いつでも戦場から逃れられるよう構えている。 ざっと数えて男は40人。どうにでもなる人数だ。 「会えて嬉しい」 「俺は運命の女神に幻滅だね」 言いながら、フェンネルは扉を指差した。 「どうやら僕は無関係らしいので帰ります。さぁ、マグダレーナも」 彼の意を汲んだスヴェルが、マグダレーナの手を取りそそくさと出口へ向かう。 しかし案の定、下卑た笑顔の男たちがゆたりの行く手を塞いだ。テーブルを迂回しても、椅子と椅子を合わせてまた塞がれる。 「──そういうつもりですか」 スヴェルの薄汚れたフードマントが脱ぎ捨てられた。中から、漆黒を織ったローブが現れる。レーテルで学ぶ魔導師の証。 「お前の首はテフラが喜ぶ。で、あいつらの首は王都が喜ぶ」 眼前の大男が言った。 「オッサン、ホントに色々知ってんのな」 フェンネルは笑いながら、剣の柄を握り締めた。 公のことではないにしろ、王都は魔導師の首に賞金をかけるまでになったということなのだろうか。だとすれば、このふたりはテフラの街に入った時から──いや、レーテルを出た時点ですでに──狙われていたのかもしれない。“魔導師ふたり”という肩書きを理由に警戒されていただけで。 懐かしい来訪は、フェンネルが想像していた以上に命懸けだったのだ。 「アンタやっぱり俺より数段博識だ」 平和ボケ。鈍っていた自分にどうしようもなく腹が立つ。 「もうひとつ教えてやろうか」 大男が腰に括り付けていたもう一振りの斧を手に取った。 「テフラはお前を王都に売った」 「…………」 マグダレーナの肩がぴくりと動いた。 「お前を、その魔剣ごと王都にくれてやることにしたんだ」 「……へェ。そいつも初耳だ」 「だから俺たちはお前を殺って、それをテフラに売る」 「オィオィオィ、そんなにベラベラしゃべっていいのかよ。よくしゃべる奴は絶対正義の味方にやられちまうんだぜ。そういう風に決まってるんだ」 「決まり事を破るのが、テフラの決まりだろう」 「──オッサン、すげぇよアンタ。そのとおりだ」 「…………」 会話は途切れた。 だが、誰も動かない。 部屋の空気がアルコール混じりの二酸化炭素で満ち、重く、苦しくなってゆく。唾を呑み込むことさえ許されない、キッカケを待ち続ける緊張。 視覚、聴覚、触覚、わずかな変化を逃すまいと、細胞の核まで息を止める。 得物を支える筋肉が震える。 ぱらぱらと屋根を打つ雨の音が聞こえ始める。 いずれこういう日が来ると薄々感じていたのは事実だ。そう思いながら何もしなかったことも事実で、レーテルを辞めて“もう関係ない”と切り捨てていたのも事実。 テフラはひとりに牛耳られることを嫌う。王都とレーテルは衝突のキッカケを探している。 ──気付いていた。気付いていないふりをしていた。 棍棒を握り、剣を抜き、フレイルを構える男たちの顔には、苛立ちが沸々と沸いている。 目は血走り、呼吸は深く深く。 しつけのなってない連中にはもうそろそろ“待て”も限界か──……そう思いフェンネルが剣先を動かした瞬間、 <ヴェルド・ユロ・シャニール> 明らかに怒気を含んだ女の声が マグダレーナ=ミリオン。 『──!?』 次の瞬間、立っていた男たちがふわりと浮き、四方八方の壁に叩きつけられた。 唖然と見送る娼婦たちの視線と 天井から、ぱらぱらと木屑が落ちてくる。 「女ァ」 椅子に座りレーテルふたりの道を阻んだ男が、威勢よくテーブルをひっくり返した。 無残に皿が割れ、トマトと骨付き牛が地に落ちる。 「よくもやってくれたな」 十年来の仲間でもなかろうに、こういう輩は誰かがやられるとその仇のような発言をするのだから不思議だ。 たぶん、そう言わなくてはいけない決まりがあるんだろう。 「暴力反対」 振り下ろされた棍棒を、スヴェルの剣が受ける。 そのまま横から飛び掛ってきたもうひとりを蹴り飛ばし、瞬間身体を反転させて間合いを取る。そして呪文。 <地に祈れ> 一歩退き、身構える男たち。 『…………』 「…………」 しかし何も起こらない。 「…………」 スヴェルがこちらを向いた。 試験で赤点を取った時の顔が、どうしましょうと訊いてくる。 (知るか) フェンネルは心の中で毒づき、酒場を見回した。 幸い、まだ“魔導師”であることにビビッていて袋叩きにしようという気配はない。威勢のわりには慎重派だ。 フェンネルは剣を腰に両手を合わせ、 <無辺、光彩陸離> 唱える。 すると合わされた手の隙間から光が膨張── 『…………』 「…………」 ……するはずだった。 頬を冷や汗が流れる。 暑くなくても汗はかくんだな、と改めて実感する。 マグダレーナの凍りついた視線が突き刺さる。 彼は気を取り直して再び剣を構えた。 それを見て、半分拍子抜けしていたらしい男たちの顔に粘ついた笑みが戻る。 魔導の使えない魔導師なんてのは、哀れみの対象でしかない。 ブンッというフレイルの風鳴りを反射で避け、手首を蹴り上げる。前から剣、後ろから棍棒、剣と腕とで受け止める。痺れる痛みに顔を歪める暇も無く、右からナックル。罵声と共に剣を返し、一回転して顔面に肘鉄を喰らわせる。 男が沈んだかどうかを確認もせず、床を転がりレーテル二人組に近づく。 マグダレーナに斬りかかった男を一閃、血糊を払って背後から打ちかかってきた男をもう一閃。 だが、力は入れても入れても抜けていく。身体が真っ白になっている。 魔導が使えない。ありえない。 彼はただ黙々と、半ば義務的に動き続けた。 玄人らしい剣士ひとりを相手に 滑り出された短剣にマグダレーナを突き飛ばし、力任せに剣を振るって短剣を弾く。彼女は彼女で別の男に回し蹴りをお見舞いし、金髪が水平に弧を描く。 フェンネルは腰を落とし、大剣を振り上げた相手の鳩尾に左の拳を叩き込んだ。苦痛に身体を折ったところを更に蹴り上げる。 そして動きを止めずそのまま、背後からかかってきた男の鼻の下──急所である人中──を肘で痛打する。 白目を剥き、顔面から血を流した男がテーブルに突っ込み、女たちが悲鳴とも野次ともつかない叫声を上げて逃げ出した。料理が皿と別れを告げ、その皿は床とキスをして砕け散る。グラスなんてすでに、影も形もない。 一人、二人、三人、倒した数を数えるが、なかなか減らない。 相手が何であれ人殺しは気が乗らない。だが、多勢に無勢、難しい。 魔導が使えない。 ワケが分からない。 頭を抱えて叫びたい。 「──!」 余計なことを考えて、動きが半瞬遅れた。 打ち下ろされた大斧をかわす間なく咄嗟に剣で受ける。 嫌な音が、鼓膜を突き抜けた。──刃の悲鳴だ。 ぽっきり折れていた。 「テメェ!」 悲しむ間も与えられず、折れた剣でもう一度振り下ろされた斧を受ける。 重過ぎる衝撃を身体中で堪え、どうにか跳ねのけ握り直す。 その途端にボロボロと刃が崩れた。 「…………」 手元に残ったのは柄だけ。 「オッサン、もっと美しく戦おうとか思わねぇのかよ!」 大斧の主は、博識の大男だった。瞳孔の開いた目がニヤリと笑い、今度は横から薙がれ── <ヴェルド・ユロ・シャニール> フッとフェンネルの視界から男と斧が遠ざかり、潰れた衝突音が酒場の壁を揺らした。 また、天井からゴミが降ってくる。 「私の魔導もおかしいです。全員を狙ったのに」 マグダレーナのつぶやきが耳に届いた。彼女の魔導で壁と親密になったのは、大男ひとりだけだ。 「どういうことですか?」 彼女が真面目な顔をして眉をひそめてくる。 「俺に訊くか?」 二年もブランクがあった男に訊くか? 「首席だったじゃありませんか」 「首席は教科書に書いてあること以外何も知らない」 スヴェルも自分も何故か魔導が使えない。マグダレーナの魔導も気分屋。 スヴェルの剣術は中の中。自分の剣は折れた。 (これは窮地か?) 不快な笑い声をあげて、棍棒やら短剣やらをもてあそびながらジリジリと輪を狭めてくる男たち。 (きっと窮地だ) なんでこんな スヴェルにしろ、自分にしろ、そしてマグダレーナにしろ、顔にこそ出していないが相当精神に混乱をきたしている。 魔導師が魔導を使えないなんてあってたまるかバカヤロウ。 「こんなことなら訪問販売で買った剣なんて持ってくるんじゃなかった」 フェンネルは真顔で声を絞り出した。 「そんなもの持ち歩いていて、それでも剣士ですか」 「軽かったんだよ」 「バレリーは実用性を重視するタイプなんですね」 いつの間にか追い詰められふたりのところまで退いて来たスヴェルが、会話に加わる。 「あぁそうだ。軽くて斬れりゃいい」 「だったら包丁でも持ってればいいじゃありませんの」 「莫迦だな。そういうのは剣士じゃなくて料理人っつーんだよ」 小声でやりあっているうちにも、三人を囲む円は小さく狭まってくる。割れた陶器を踏む音が近づいてくる。男たちの間から、壁に打ち付けられ伸びていた大男がのっそりと復活したのが見えた。 「昔からこの人はいい加減な人でしたわね」 「その人に助けを求めようと言い出したのは貴女ですよ!」 フェンネルは、未だ軽口を叩いているふたりを見やる。 目は険しいが、切羽詰った危機感のなさそうなマグダレーナ。不安を隠そうと無理矢理テンションを上げているスヴェル。 どうあっても、王都の土産にさせるわけにはいかない。 「あ」 スヴェルが声を上げた。 怒りに顔を染めた大男が円を割ってこちらに向かって来る。 『最悪』 レーテルふたりが一歩後退する。 「まだ最悪じゃねぇ」 フェンネルは一歩前に踏み出した。 「剣は、もう一振りある」 Back Menu Next Home BGM by globe[Stop! 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