THE KEY2 THE WORLD


 第二話 【二人】…(2)  女神は岐路に立たない。もう一本、道を作る。



「……へぇ……」
 レベッカがとりあえず相槌を打つと、白塀の上の(うた)歌いが不満げに眉を寄せた。
「死ぬって言ってるのに何なんだろうねその貧弱な反応は」
「じゃあ、どんなのがお好みですか」
 彼女が憮然と言い返すと、
「君には良心の呵責というものがないわけか」
怒り混じりに決め付けられる。
 彼の両眼はその感情を偽りなく映しているのだろうか、移ろう色彩に赤味が増す。
 レベッカはそれを睨み返し、腰に手をあてた。
「私は、そんな結果だけを聞いて涙を流せるほどの純心は持っていないんです。“勇者が魔王に倒されてしまいました”だけは嘆けません。実は魔王の方が部下想いのイイ奴かもしれないのに」
「しかし、経過を聞いても人となりを聞いても、君にはどうしようもないことだろう? 結果は結果だ」
「分からないわよ。確かに過去は変わらないけど、未来は変わるもの。魔王がもし本当に悪い奴なら、勇者の過ちを回避して私が魔王を倒せばいいでしょ。二代目魔王として君臨するのも悪くない」
 そう言って彼女が邪悪な笑みを浮かべると、後ろからか細い疑問形が投げられた。
「……マオウ?」
 リダーだ。もともと困っている顔をさらに困らせている。どうやら彼の記憶の中には、そして経験の中にも、“魔王”という単語はないらしい。
「魔王ってのは悪いヤツの親玉。勇者ってのは正義の味方の中の勝ち組」
「……はぁ。……だったら、あなたはマオウを倒すとユウシャになるのでは?」
「私が正義の味方に見えるの?」
「人は見かけではありません」
「……色々に取れる台詞ね」
 蒼いもやし男を一瞥し、レベッカはイオン=ヴァーレルセルに向き直った。
「あなたは“魔王”をご存知なんですか? もしくは──」
 この男は謎だ。
 記憶を失ったはずの自分の口から“魔王”だの“勇者”だのが出てくるのも不思議だが、その話にイカレ詩人がついてきたのも充分不思議ではないか。リダーは首を傾げたというのに。
 レベッカは険しい視線で彼を捉えたまま、真面目な顔で続けた。
「もしくは、あなた自身がこの世界の魔王とか」
 後ろから「ひぃ」なんて悲鳴が聞こえてきたが、無視。
 対してイカレ詩人は多少目を開き吹き出しかけたらしいものの、すぐ穏やかな顔に戻る。
「どの世界にも、枠からはみ出た逸脱(いつだつ)者は存在しているんだよ。あるいは迫害され、あるいは権力者として、魔王と呼ばれたり勇者と呼ばれたりする」
 常に同じ方向から吹いてくる風が、彼の金髪をさらさらと撫でてゆく。
 色がついているとすれば、澄んだ金色の風。まるで詩歌いの華やかさに染められたかの如く。
「原理は皆同じ。すべては、暗黙に定められた規範を人々が遵守するよう作られた仕組みだ。都合の悪い逸脱は悪と為し罰を与え、模範となる美談の逸脱者には賛美が送られ、しかしそれも度が過ぎると叩かれる」
 レベッカの濡れたローブが乾いたのだろう、石畳に落ちた彼女の影が揺らめき始める。
「根源的な正義と悪というのは少ないものだよ。“魔王”も“勇者”も、人の群れがそうと決めたからそう呼ばれる。そうして秩序は保たれる」
 異国の伝承を歌うように竪琴を弾き節をつけ、伸びのある声は情緒に満ち言葉は冷ややか。
「私は、誰よりも古くからここにいるんだよ。だから君のように根底の記憶を失っていない者にも多く出会ってきたし、彼らが後にしてきた様々な世界の断片を耳にする機会も多かった。ゆえに魔王のことも知っている」
 どうやらこの世界には、“成長”や“老化”といった概念がないようだ。
 目の前の(きら)びやかな御仁も、一体どれだけこんな対峙を繰り返したのか知れない。
「時に、お嬢さん」
「レベッカ=ジェラルディ」
「では、レベッカ」
 イオンが彼女の名前を呼び直し、話を改めた。
「君は、未来は変わるものだと言ったね?」
「言いました」
 ここで“記憶にございません”とは言い難い。レベッカはイカレ詩人の一字一句を探りながら、低く断言した。
 彼の典雅な顔貌は細やかに色を変えているはずなのに、何故か一向にその意が見えないのだ。何を考えているか、全く分からない。分からないということは不安につながり、不安は判断力を低下させる。
「それは自然の摂理であっても変わるものだろうか?」
「摂理?」
「アヴァルースでは花は咲いて散るもの。鳥は歌って死に逝くもの。妖精たちは一夜の命。雲が渦巻き雷鳴が轟けば、雨が降り嵐が来る。その雲の上には城があり、水は上から下へと流れる。あらゆる食べ物は木々に実り、地に落ちた我らの涙は宝玉となる。風は絶え間なく吹き、太陽も月も水に映らない。そうした我々の意志の届かない(ことわり)は、変わるものだろうか」
「変えようとすれば」
 彼女は僅かの間も空けなかった。
「それが悪と為されたら?」
「私が理を変えようとしてそれが悪だと言うのなら、勇者が現れて私を討とうとするでしょう。そこで討たれれば止む無し、返り討ちに出来たならやり遂げるまで」
 本心は、“勇者より魔王の方が響きがカッコイイ”。悪魔と手を組むのは好きだが、その親玉になるのも悪くは無い。
「……なるほど」
 イオン=ヴァーレルセルのうなずきはあまりにも淡白すぎて、嫌味を含んでいたのか希望を含んでいたのか判然としなかった。
 しかしそれは語られることなく話が変わる。
「君が始めに目にした白い森は、ランデルトゥース──神の故郷──と呼ばれていてね」
 イカレ詩人の腕に連なる金銀の装飾品がしゃらりと音をたて、彼の白い手が風の吹いてくる方向を指差した。長い睫毛に彩られた翡翠の瞳も山を越え、遥か彼方の白森を望む。
「ランデルトゥースのあの白樹から実が落ちると、アヴァルースに新たな住人がやってくる」
 イオンの声を聞きながら、レベッカはローブに手を突っ込み、皮袋の中から赤い実を取り出した。
 あの場所で拾った、林檎に似た果実。
 目の前のイカレ詩人は、これが樹から落ちたからレベッカが現れたのだと言いたいらしい。
 ンなバカな。
「ところが実が落ちて新しい神がやってくるのと同時に、誰かの樹で一輪の花が咲く」
「……花」
 レベッカの脳裏に、林立する墓標のような白い木々が蘇る。
 骨のような枝。葉のない樹。その中に点々と鮮やかに色づく赤い果実。しかし実がついているものでさえ、一本の樹にひとつ以上の実はなかった。しかし、そうだ──花を見た覚えがない。
「ひっそり咲いた花が散る頃、その樹の持ち主はアヴァルースから消えていなくなる」
 そういえばさっきレベッカもリダーから樹をもらった。“これは貴女の樹です”、と。
 “記念樹か?”なんて毒づいて軽口を叩いていたが、あれに花が咲いたらお終いというわけだ……。
「花の終わった樹にはやがて実がなる。時が流れれば再び実は落ち、また新しき神がやってくる。そして──」
 詩人が余韻を残して言葉を切った。
 彼はゆっくりと指差した手を下ろし、竪琴の糸に指をかける。
「そのすべてが規則正しく繰り返される、それがアヴァルースで最大の理なんだよ。世界の摂理だ」
 爪で弾かれた竪琴の一音が、矢のように街を駆けた。
「白樹から実が落ちて、君がやってきた。それと同時にノーリス=ダラスの樹に花が咲いた。あの薄紅色の花が散る頃、彼はアヴァルースから消える」
 詩人の白い指にはめられた金色の指輪が、まぶしく光を反射する。
「彼が消えてからしばらくして、彼の樹には実がなるだろう。君が今持っているのと同じような、赤い実がね。そして長い年月を経てその実が再び地に落ちた時──」
「新たな住人がやってくる。そして誰かの樹にまた花が咲く」
 レベッカはイオンの後を続け、理解したことを伝えた。
 しかし摂理はそれだけであるはずがなかった。
「先生、聞きたいことがあるんですけど」
 手を挙げた魔導師は、詩人の返事も待たずに続ける。
「異なる世界から来た私が、どうして貴方やリダーと話ができるんですか? 正義について、悪について、何故認識が同じなんですか。そりゃ“魔王”の差はありましたが──……、ねぇリダー、ここの神様たちは眠るの? 食べるの? 男神と女神の区別はある?」
「眠ります、食べます。イオン様と私は男神、貴女は女神です」

 世界には生きている存在があり、生きていくために何かを食べ、眠りにつく。それは当たり前のことのように思えるが、実は決して当たり前ではない。
 自分たちの世界以外の世界が存在することを否定はしないけれど、そこに“人”と似た生命が存在する可能性は極めて低い。そのうえ眠り、食べ、子孫を成すという本能、正義や悪といった思想、言葉という意思疎通の道具、そんなものまで似通っているなんて!

「神々が住まうこの場所を、リダーは“街”だと言いました。私はそれに何も違和感を持たなかった。ここを見下ろした瞬間、これは“街”だと思ったんです」
 遥か霞む先まで続く、白亜の地。
 白の美を最大限に引き立たせるよう、彩り置かれた植物の緑と水の流れ。直線と曲線の石畳は、秩序と自由の均衡をギリギリで保つ。
「──それは、君のもといた世界でも人々が集まり住む場所を“街”と呼んでいたからだろう」
 イオンの答えはあまりにも足りなかった。レベッカは即座に噛み付く。
「世界を異にしているにも関わらず、“名前”と“意味”と“外観”とが一致するんですか? 偶然にも?」
 “街”という存在がレベッカのいた世界にもあったらしい。だから彼女はほとんど本能的にベルカナを街だと思った。それはいい。
 問題なのは、アヴァルースでも“街”は“街”だということだ。
「……君の言っていることは(もっと)もだよ、レベッカ。(なが)く、神々が抱いてきた疑問でもある」
 イオン=ヴァーレルセルの、一語一語選んで言い置く慎重な声音。
「新しい環境は、多くの場合生き物に死をもたらす。神とて例外なく、ね。もしアヴァルースが巨大な異形たちに支配された世界だったら、言葉など通じず、暑さにも寒さにも己の肌のみで耐えなければならなかったら、水というものがなかったら、異形には“食べる”という本能がなく、“食べ物”もなかったら」
 静まり返った白の街に、極彩色の詩人が立ち上がった。動作は優美に切れ目なく、塀の上の彼はゆっくり歩き始める。
「過去も現在も未来も全く違ったものになっただろう。普通に考えれば、そんな悲惨な結末の方が当然だ。いきなり言葉の通じる優しげな若者が現れて有力者の屋敷へ保護してくれるなんて、夢のまた夢」
 足音はなく、紅の紗と艶のある黒衣がひるがえっては透けてゆく。
「しかしレベッカ。それもまた理なんだよ。アヴァルースにやってくるほとんどの神はベルカナを“街”だと言い、ランデルトゥースの植物を“樹”だと言い、私を男神だとみなし、古い神であるノーリス=ダラスたちに敬語を使う」
「…………」
「神に試練はない。あるとすればただひとつ、消えてゆく者を見送る空しさだけ」
「しかしインフェルノ様は!」
 空気に溶けてゆくイオンに、リダーがいきなり声を上げて駆け寄った。
 官に訴えを聞き入れられない民が、たまたま通りかかった王に直訴するが如く。
「あの方は恐ろしいことを──」
「そう、インフェルノは徹底的に抗うつもりのようだね」
 イカレ詩人は応えながらも、彼を見下ろすことなく歩みを止めることもない。
「抗ってもどうしようもないから摂理なのだけど、彼はそんな弱気を受け入れる気性ではないから」
「けれど!」
 リダーが拳を握り締めたのが見えた。しかし彼の言葉は続かない。言うべき言葉が見つけられなかったわけでも、我慢して飲み込んだわけでもないだろう。
 彼は気圧されたのだ。突然くるりと振り返った、塀の上の詩人に。
「それではふたりとも、御機嫌よう」
 詩人が笑った。
「レベッカ、君に幸運がありますように」
 そして、風と共に去った。
「…………」
「…………」
 弾かれた竪琴のあの一音が、いつまでも街を駆け回っている。
 笑い声が鬼ごっこをしているように、遠くで、近くで、壁に当たる度、透明な音がぽろんぽろんと響いている。

 そういえば、彼が本当に詩人なのかどうかは──確かでない。
 そして、ノーリス=ダラスはまだ死んでいない。勇者はまだ、死んでいない。結果はまだ、確かでない。




「恐ろしいことって何?」
 どちらともなく歩き始め、頃合をはかってレベッカは聞いた。
「いえ……我々には関係のないことなんです」
 斜め前を行くリダーは歯切れが悪い。
「それでもいいから」
「でも、無用なことは教えなくていいとダラス様から……」
「言わないなら、言わせるわよ」
 後ろから殺気を送ると、リダーが腕を抱えて身震いした。彼は肩越しに恨みがましい目を向けてくる。
「や、やめてくださいよ〜」
「関係のないことなら教えてくれたっていいじゃない」
「私じゃなくダラス様に聞いてください」
 こいつ、気の弱い顔をしているクセにかなりしぶとい。
「ダラス様に聞いてもいいのね? 答えてくれなかったら、無理矢理吐かせていいのね? 何してもいいのね?」
「……えーと……」
 リダーの顔がひきつった。
 そしてひきつったままコホンと咳払いすると、ようやく口を割った。
「……アヴァルースの理は、さきほどイオン=ヴァーレルセルがおっしゃった通りです。しかし、今回は珍しくふたつの実がほぼ同時に落ちました。そして二本の樹にひとつづつ、花が咲いたのです」
「へぇ」
「ひとつはダラス様の樹。もうひとつはミラ=インフェルノ様の樹でした」
「私の他にもうひとり、新しい神様が来るっていうことね?」
「そうです。神が来ることにより、インフェルノ様も消える定め。しかしあの方はそれを良しとはせず……新しい神を殺す、と」
 リダーの青い目が、暗く曇る。
「へぇ」
 随分情熱的な神様もいたもんだ。
「で、殺せば助かるの?」
「私の知る限りそれを実行した神はいないので何とも言えませんが……、その“実行する神がいない”ということが、摂理からは逃れられないのだという証明にならないでしょうか」
「確かに、それで誰か助かったんならみんなやってるわよね」
 アヴァルースがどれだけの歴史を持っているか知らないが、今まで誰ひとり“新しく来るヤツさえいなくなれば──”と考えなかったとは思えない。
 おそらく昔々それを実行したヤツがいて、それでもソイツは消えてしまったのだ。
 だから、神の来訪と消滅は摂理として受け入れられているのだろう。例外のあるルールではなく、拒む余地のない摂理として。
「じゃあ、その新しく来た神様、殺され損じゃない」
「いえ……、インフェルノ様もそれだけで助かろうとは思っていらっしゃらないでしょう。きっと……他にも考えがおありなのだと思いますよ」
「ふーん」
 レベッカは立ち止まった。
「リダー、もうひとりの神様っていうのは到着済みなの?」
「い、いいえ。実が落ちたのは貴女の方が先、花が咲いたのもダラス様の方が先でしたから、貴女よりは遅い到着だと思います……って、ちょ、ちょっと! レベッカ!? どこへ行くんです!?」
 彼女はリダーの答えを待たず回れ右。来た道を駆け戻り始めていた。
「待ってくださぁ〜い」
 ともすればよよと泣き崩れそうなリダーの呼び声に、レベッカは足を止めた。しかし彼女の口から出てきたのは、弁解でも説明でもなく確認。
「レベッカ=ジェラルディがノーリス=ダラスの代わりに来た新しい神だってことは、貴方とイオンしか知らない。そうよね? 貴方は私に名前をつけようとしたくらいだもの、分かってるのは“誰かが来ること”であって、どんな格好の何て名前の神様が来るのかは誰も知らない。違う?」
「それはまぁ……そうですが」
 ようやく追いついたリダーが大きく息をつきながら、露骨に嫌そうな顔をした。
「レベッカ、貴女余計な……」
「ランデルトゥースに戻るわ。リダー、貴方がノーリス=ダラスのところへ連れて行くのは、私じゃなくてインフェルノの代わりに現れる神様よ」
「え? はぁ!?」
「いいから、早くしなさい!」
 ノーリス=ダラスに保護され前にならえで命を長らえたとしても、やがて摂理はレベッカ自身にも降りかかる。その時、自分は大人しく消滅を待つだろうか?
 否。
 ならば、自分の番になって慌てふためきながら逃げ道を探すより、他人(インフェルノ)の窮地を利用してじっくり色々試してみた方がいいに決まっている。
「♪」
 ワイン色のローブを翻し走る魔導師の足は、羽が生えたように軽やかだった。
「あの、貴女、少しは、私の言うことも……っていうか、貴女、ホントに新神さんですか?」
 青い優男の異議や愚痴はことごとく無視され、アヴァルースの蒼空に消えていった。



 軽やかに走ったり歩いたりで到着したランデルトゥースの入り口は、変わらず無口で愛想の欠片もなかった。
 お高くとまっていて鼻持ちならない白い木々は、“お前とは格が違う”と言わんばかりの冷たい眼差しでこちらを見下ろしている。
 しかしさっきと違っている部分が一点だけあった。奥の方の樹の傍に、神様がぽつんとひとり立っている。
 どうやら栗色の髪をした少女のようだが、大きな白い襟に赤いリボンを結び、あげく足を露わにした危険極まりない紺色の装束は見たことがない。おそらく魔導師や剣士といった過激な神ではなく、文士か役人か普通の学生か……そのあたりなのだろう。
「リダー、あれはインフェルノの御使い?」
「様をつけてください、様を」
「あれはインフェルノ様の御使い様でございますですか?」
「……違います」
 リダーの声が淀んだ。
「レベッカ、貴女本当に……」
 呆れられたのかと思ったが、どうやら諸々案じてくれているらしい。
 魔導師はもやし男から目を逸らし、
「私だって、自分が来たから誰かが消えちゃうなんて嫌なのよ。重すぎて吐きそう」
胸をさすってみせた。
 誰かと一緒なら、虚勢も見栄も意地もはれる。勢いもつく。でもひとりにされたらどうなるか、自分のことなのに分からない。
 それくらい重かった。
 自分のことなのに自分に返ってこない、自分の存在が他人を破滅させてしまう、そのことが何より怖ろしかった。考えると息が詰まる。だから、なかなか正視できない。
「何かやってないとホントに吐きそうなのよ。勝算もないのに待つってのは、どうにも苦手で」
 正視しないことには進まない。進まなければ、ずっとこの吐き気を背負っていかなくてはならない。それはイヤだ。我慢ならない。
 それならどうする?
 進むのだ。とりあえず、進む。そうすればそのうち正視せざるを得なくなる。
「それにしても……なんだかね、前はもっと楽な役だったような気がするの、私」
 レベッカは腕を組み、ぼやいた。
「楽な役?」
 リダーが胡散臭そうな顔のまま、首を傾げてくる。
「細心の注意を払わなきゃいけないような面倒臭い役回りとか、おいしいところをもっていかれるだけのおとり役とかは、あまりやったことがないと思うのよ」
「きっと貴女は最終的に斬り込んで張り倒すだけだったんですね」
「そうかも」
 果たして、自分が後にしてきた世界で己はどんな足跡を残してきたのか。誰を踏み台にして誰をおとりにしてきたのか、何を教えられ何を経験してきたのか。
 胸に風穴が空いた如く虚しいのは認めよう。覚えていたかったものすべてを失ってしまった事実を一瞬でも思い出すと、途端暗〜い気持ちになるのも認めよう。
 だがそれに喰われるのは気に入らない。
「ようやく私の真価を発揮する時が来たようだわ」
「え?」
 ぎょっと(おのの)き数歩離れるリダー。
「さぁフォース=リダー、あの娘さんを連れてノーリス=ダラスの屋敷へ行って」
「あのですね」
「問答無用!」
「貴女は……やっぱり?」
「インフェルノ……様のところへ行くわ。そいつの代わりにやってきた新しい神様としてね」
「殺されるかもしれないのに?」
「上等」
「……はぁ」
 リダーが大げさにため息をついた。そのままずぼずぼと地に埋もれてしまうんじゃないかというくらい大きなやつ。
 しかし次に彼が大きく息を吸って顔を上げた時、彼は笑っていた。
 力のない、けれど精一杯晴れやかな微笑。
「分かりました。賭けてみましょう」
 吉と出るか凶と出るか。魔王となるか勇者となるか。
「ありがとう」
「貴女に幸運がありますように」
 リダーは軽くひざまずき一礼すると、未だ樹の陰で立ち尽くしている少女のもとへ歩いて行った。
 彼が草を踏むたび風は緑に塗られ、その風が吹くたび彼の青い紗がはためく。
 風は、ランデルトゥースの奥から吹いていた。
 目を凝らしても白い木々しか見えない、足を踏み入れることが何故かためらわれる聖地の奥。
 こちらに向かってくる大気の流れは透明。それはリダーの横を通って色を帯び、レベッカの傍らを過ぎて(いろど)りを増し、ベルカナを虹のように駆け抜ける。
 風を見送り街の方角へ振り返ったレベッカの耳元に、彼の声が運ばれてきた。
「私の話している言語、分かりますか? 理解できますか?」



◆  ◇  ◆



 リダーと少女がベルカナへと姿を消してしばし後、レベッカはノーリス=ダラスはいい奴だと確信していた。会ったことはないけれど。

「アナタの親玉、猪突猛進タイプでしょ。黙って見ていられなくて自分で斬り込んでいっちゃう人、慣習なんて気にしない。今回だって、渋々アナタを寄越した」
 レベッカはハエを見る目つきで言った。
 向けられた剣の切っ先がうっとおしいことこの上ない。
「我々に血を流させるくらいなら、自分の血を流す御人だ」
 長剣を退こうとしないオジサマが、毅然と言った。
「人にやらせるのが面倒臭いからよ」
「何か言ったか?」
「いいえー。で、大酒呑みで酒癖も悪い」
「…………」
 図星。
「で、昼も夜も見目麗しい女神様たちをはべらせている」
「…………」
 図星。
「でも彼は誰にも本気にはならない。何故なら彼はいつでも運命の女神を求めていて、その探している運命の女神というのが──」
「違う」
「否定が早い!」
 レベッカが叫ぶと、オジサマが皮肉に満ちた息を吐いた。
「まぁ、運命には違いないが」

──つまりどういう状況なのかというと。

 レベッカは白樹の下、好きな男の子を待ちぶせする少女の如く胸を高鳴らせて──……訂正。自らをインフェルノを死に至らしめる新神と思い込み敵視してくるだろう御使いの莫迦面を思い浮かべて、ニヤニヤ笑いを噛み殺しながら立っていた。
 ……ずっと。
 彼女のニヤニヤ笑いが消え、足を鳴らす音がパタパタからバタバタに変わり始めた頃、ようやく待ち人は現れた。
 やってきたのは、黒地に赤が入った軍服らしきものを身にまとい、どこぞの悪役のように眼帯で片目を隠した男だった。頬は陰気に窪み、鼻の下には念入りに整えられた髭、見かけの年齢はリダーの倍くらいか──それ以上。痩せすぎている気もするが、ひ弱というより狂気の憑いた剣人。
 リダーとこの男と甲乙付けがたく神様からは程遠い……とかなんとか思っていると、無言のままつかつか歩み寄ってきた男はいきなり抜剣、問答無用で斬り付けてきた。
 無論、それだけ待たされたあげくアッサリやられてやるなんて噴飯ものなので避けた。
 体勢を立て直して対峙して、先ほどの問答である。

「お前、名前は覚えているか」
「レベッカ=ジェラルディ」
 名乗らない奴には名乗らないと言うほど、心は狭くない。
「アナタは」
 代名詞が“オジサマ”では可哀想だと思うから訊き返すのだ。そのうち“オッサン”になりかねない。
「オリヴィエ=ディーン」
「では、ひとつお願いがあるんです。オリヴィエ──さん」
「ダメだ」
「まだ何も言ってないじゃない。アンタの親玉に会わせてくれたっていいじゃない」
「却下」
「じゃあ自分で行くから居場所を教えてください」
「却下」
 愛は言葉がないとすれ違うばかりだというのに、殺意は言葉なんかなくたって充分伝わってくるのだから、偉大だ。
「じゃあ居場所のヒントをください」
「却下」
 またもオリヴィエに冷たくあしらわれた刹那、
「小娘、お前の願い叶えてやる」
頭上から別の声が降ってきた。
 聞き覚えのない、笑い混じりの猛った声。
「──!」
 一瞬硬直したオリヴィエが白樹を振り仰ぎ何か言うより早く、
「それはどうもありが──」
 レベッカが礼を言い終えるより早く、彼女の背後から伸びた手が胸をさわさわ撫でてきた。
「……とう」
 ついでに素早く腰までのラインをなぞってくる。
 あげく、
「不合格」
腹立たしい宣告。
「……何が不合格なんでしょうか」
 レベッカはぎいっと顔だけ後ろへ向けた。
 返事は悪びれもせず。
「殺して惜しい身体じゃないってことだ」
 彼女の近すぎる背後にいたのは、緋色のザンバラ髪、緋色の傲慢な目、そして質素な緋色の衣、安上がりな二色刷りで間に合いそうな長身の男だった。
 けれど鍛えられた肢体は大型の肉食動物を思わせ、こちらを見下ろしてくる顔は締まって鋭い。
 この男がそこに存在しているだけで空気が凛と姿勢を正し、風の色までが変わった。これだけ赤に染められた神なのに、風は黒い。闇でもなく夜でもなく、これは鉱石の──黒水晶(モリオン)の黒だ。
 強く重く、不透明に閉ざされた結晶。光に侵されず、暁にも追われない。
 だが、
「いい加減離れていただけませんでしょーか」
風はそうでもご本人が無神経で色魔なのは間違いない。
 未だレベッカの肩には男の手が置かれ、ふたりの身体は不必要に接近している。
 背中に男の体温を感じ、……暑苦しい。
「コレ、アンタの上司?」
 男を指差しオリヴィエに問うと、薄ら寒い剣士は生きている片目を渋くして、首を斜め前に倒した。そしてそれ以上動かなくなる。
 そのまましばし。肯定と否定の狭間で固まる沈黙。
「……神様だって一長一短あるわよ。心は広く持たなきゃ」
 男の手を払いのけ、レベッカはオリヴィエの肩を叩いた。
 そして改めて緋色の男に向き直る。
「狭量な男は格が落ちる、そうでしょ? ミラ=インフェルノ様」
 風にさらわれ視線を遮る髪をかき上げ、レベッカは挑戦的に口端を上げた。




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