THE KEY2 THE WORLD


 第二話 【二人】…(4)  山羊の言い訳 羊の沈黙



 ミラ=インフェルノの居が崩壊するなどというこんな惨事を予期していたわけでもあるまいに、森の中に散らばる神々の表情にはそれほどの驚きは含まれていなかった。
「俺の城は悲しいかなご覧のとおりになったようだが、いない奴はいないな?」
 腕を組み見回すインフェルノに対し、何を根拠にしているのか皆が一様にうなずく。
 まるで起こることすべてを受け入れる聖者の群れのような、あるいはインフェルノさえいれば何も心配いらないと信じている盲信者の群れのような、空気。
 すこぶる居心地が悪い。
「巻き込まれた奴はいないようだな、グラナーテ、ご苦労」
 緋色の神の(ねぎら)いに、神々の輪から一歩退いた場所に立っていた女神が軽く腰を折った。
 褐色の肌をした、気の強そうな女性だ。
「地下が埋まったということはつまり、我々は今日から宿無しになったということになる。しかしだ、幸いなことにあのベルカナには──」
 声が背後を振り返り、インフェルノの指がすっと白い都を示す。
「使われていない住居が腐るほどある」
 続く言葉は誰しも想像できた。
「地下宮殿に住むというロマンを捨てるのは惜しいが、ここはひとつ妥協するしかない。皆で山を下りるぞ。しばらく街に住む。これだけの人数だ、数人ずつ集まれば全員納まるだけの区画はあるだろうから、ばらばらになる心配はない」
──この男は羊の群れの山羊か?
 インフェルノの指示を眺めながら、レベッカは胸中で薄く笑った。
 頭の弱い羊の群れは狼などの外敵に襲われるとパニックに陥り自分勝手に逃げ出すため、結果更に被害を増やすことになるのだそうだ。そこでリーダー役として山羊を混ぜると、例え襲われても群れを維持することができ、被害を抑えることができるのだという。
 それは逆に、山羊がやられれば羊も全滅するという弱点を意味してもいるのだが。
「何か文句のある奴は?」
 インフェルノの問いかけに応えるのは沈黙。服従することに安心しきった誇らしげな沈黙。
「では山を下りる。女神たちのためにディノルニスを連れて来い。俺が先導する」
 それが当たり前のようにインフェルノが閉めた。
 やっぱりこの男はこの群れの山羊だ。
「それから──」
 緋色の山羊は思い出したように半身振り返ると、羊たちがわらわらと動き始めるのを遮った。
「山を下りてからのことはすべてグラナーテの指示に従うこと」
『?』
 森に佇む神々の動きがピタリと止まり、その頭上に大きな疑問符がひとつ浮かぶのが見えた。
 伝えることだけ伝えてさっさと山を下ろうとするインフェルノと、思考を置いていかれて呆然とする色とりどりの人々。半ば遠足的だった集団に、霜が降りた。
「インフェルノ公は……?」
 誰かがつぶやいた。
「俺は世界の息の根を止めに行く」
 男は、彼らに向き直りもせず言った。
『…………』
 もちろん立ち尽くす神々には、反駁も、再問いも、訴えも許されていない。
 レベッカが脇を見下ろせば、岩に背を預けて座っているオリヴィエ=ディーンが無表情で羊たちの沈黙を見つめていた。
 特に声をかけることもせず視線を戻せば、森の奥からあの派手な羽色の大きな鳥が引かれてきていた。彼女がここに来るとき乗せてもらった鳥だ。
──あぁ、彼らは“ディノルニス”っていう種類の鳥なのね。
 ひとりふたりとグラナーテへ戸惑いの表情を向ける神々を視界の片隅に、レベッカは手綱を受け取るべく一歩踏み出した。

 先頭を切り山を下り始める緋色の神、対角線上で羊たちの視線にさらされている褐色の女神、その線をずかずか横断して行くレベッカ=ジェラルディ。それに気付き口を閉ざしてじっとレベッカの姿を追う羊たち。

 我々はこの女のせいで山羊に捨てられるのか──?

 音にはならずとも、言葉は満ちていた。
 落ち葉の鳴る地面の上に、積もっていた。



◆  ◇  ◆



「この服は捨ててもいいですか?」
「ダメー。絶対ダメー」
 泥だらけのローブを見せられて、川岸の岩に腰掛けたレベッカは濡れた髪に櫛を入れながら頑と首を振った。
「キレイに洗って、乾いたらまた着るわ」
「そうですか」
 手元のローブと岩の上のレベッカとを見比べ、仕方なくうなずいてきた少女。
 名はアイヒェという。
 緩く波打つ象牙色の髪をした、線の細い女の子だ。
 桜色の薄布をまとって立っている姿は妖精の如しで、触ったら消えてしまうんじゃないだろうかとさえ思ってしまうほど空気との境界が曖昧な雰囲気。
 彼女はインフェルノに新参者の世話をするよう頼まれたと言い、街へ下りる皆とは離れて山中の清流へと連れてきてくれた。
 まず、上から下までの泥まみれをどうにかしようというわけだ。
 こんな、頼まれたら嫌とは言えなさそうな子に問題児の世話役をやらせるとは、あの男もひどい人選をする。
「私の場合はね、そーゆー服じゃないとダメなのよ。こんなひらひらしたのじゃ危なくて無闇やたらと走れないでしょ? それこそ玉のお肌にキズがつくもの」
 レベッカは借りた櫛を岩の上に置き、無理矢理着せられた衣装の裾をつまんでみせた。それは秋深く燃える楓の赤がグラデーションになった、美しい織物ではある。
 地上に出た時に見渡した限り、男も女もこんな形の衣装を着ていた。霞に彩られた幻想と、優雅な神秘を与えてくれる紗衣(しゃぎぬ)
 舞踏会には参戦できるだろうが、武闘会には出られそうも無い。
「そうですよねぇ。オリヴィエもそんなことを言って、あんな堅苦しいものを着ているんでした」
 手の甲を口元に、ころころと笑う少女。彼女はひとしきり笑うと、自分の衣が水浸しになるのも構わず川の中へ入ってゆき、レベッカのローブを洗い始めた。
「ちょっと! そこで洗ったら濡れるでしょ! 岸の方で……じゃない、自分の服くらい自分で洗うから!」
 レベッカが慌てると、
「濡れたら乾かす、それだけですよ。こちらじゃ当たり前ですから気にしないでくださいね。それに、中の方が深くて洗いやすいですし。生地も痛みませんから」
思いがけず強い顔で、手まで出されて制止される。
「斬ったはったして洞窟崩壊を切り抜けてきた方は、お身体を休めていてください」
 可憐な外見とは裏腹に、なんだか有無を言わさぬ迫力。
「……あ、……そ、そお?」
 面食らって気圧されてから気が付いた。
 この少女、確かに見た目は自分より年下だが、イオン=ヴァーレルセルから推測した“神=不老”を当てはめるなら、かなりの確率で随分なおばさまではないだろうか。
「アイヒェさんは、」
「アイヒェでいいです」
「じゃあ、アイヒェは今いくつ?」
「──知りたいですか?」
 こちらを向いた穏やかな笑顔の向こうに怪炎が見えたので、レベッカはふるふると首を振った。
「別にそれほど知りたくないです」
「そうですか」
 あっさりにっこり微笑み、再びせっせと洗濯を始めるアイヒェ。
 こぼれる瞳に桜貝の唇。夢見る乙女が極限まで自分を美化するとしたら、彼女のような容姿になるだろう。百歩譲って、川で洗濯しているシチュエーションも許そう。
 だが、ふわつき始めた“お母さん”的な雰囲気は……見なかったふりをしたい。
 レベッカは彼女への第一印象がパリパリ崩れてゆくのを感じながら、
「ミラ=インフェルノは、アイヒェから見てどーゆー人?」
訊いた。
「私の意見を聞いたって、貴女の彼への印象が変わるわけではないでしょう?」
「私があの男を判断するために訊いてるんじゃなくて、純粋にアナタが彼をどう判断してるか聞きたいのよ」
 川の中の少女が動きを止めた。
 髪が肩から落ち、目が川底を見つめ、唇の端が少しだけ上がる。
「……子供ね」
 言ってからまた動き始める白い手。
「子供?」
「そう。周りがどれだけ諭しても、ダメかどうかはやってみなければ納得しないし、指図されることが嫌い、他人の話は聞いてるけど理解する気はナシ、興味が湧いたら今やってることを放り出してそっちへ行く」
「そんなお子様をみんなで崇め奉ってるの?」
「彼には、他人の上に立つ才能があるんですよ。彼は、そこに立っているだけで他の神を支配してしまうんです。他の人はその支配を受け入れてしまう。彼が怖いから、彼が強いから、そう言った具体的な理由もなしに、です」
 口調は淡々と朗らかで、盲信めいた様子は感じられなかった。
 とはいえ彼女の“年の劫”すら見抜けなかったのだから、自分の感覚など信じられたものではないけれど。
「今このアヴァルースにはそういう才能を持ったのが3人いるのね?」
 フォース=リダーの口から出た名前は、ミラ=インフェルノ、バジェーナ=レイ、ノーリス=ダラス。
「えぇ、そういうことになりますね」
 どうやら意図的にイオン=ヴァーレルセルを抜いたのは正解だったらしい。やはりあのイカレ詩人(うたうたい)は流浪の民なのだ。誰も従えていない。誰にも従っていない。
「みんなを引っ張れる才能のある輩が3人もいて、今まで何もしなかったわけ。彼らがそれぞれの長に納まってる間だって、神様は何人も消えたでしょ?」
 レベッカは岩の上で腕を組んだ。
「平和ですから」
「…………」
 返ってきたアイヒェの言葉の意味は直感的に分かったが、あえて応えない。
「神が消えることはどうしようもないことです。それをどうにかしようというのは、」
 少女が腰を伸ばし、山を駆ける緑の濃い風に髪をかきあげる。
「この風の向きを変えよう、あるいはこれを止めよう、そう志すことと同じです。無理難題であると同時に──愚かなことです。与えられたものを謙虚に受け取り、感謝する心が欠けているとは思いませんか」
 彼女の顔が向けられ、レベッカはうなずいた。
「一理あると思うわ」
「限りある時間の中で鳥と歌い、花を愛で、水で遊び、人と語らい、恋をする。それで満足している神も多いのですよ。──記憶を失くしたとはいえ、この安穏な状態が“普通”だと思っている神が少ないのも事実なんです。確かな記憶ではないにしろ、多くの者が以前いた場所で受けたなんらかの傷を引きずっています。それゆえに、対立することを怖れ、波風が起こることを嫌い、時に意見を述べることすら躊躇う神が多い」
「この平和が“幸せ”であることを神々は知っている、だから例え誰かが消えようとも、いつか自分が消えようとも、この状態を変えたくない。変えるのが怖い、そういうことね?」
「そういうことです」
「ちょっと前から思ってたんだけど──」
 レベッカは指を立て唇に当てた。
「神様には仕事って概念はないの? 生きるためには食料が必要でしょ? 畑の面倒見たり、魚獲ってきたり、そういう時間って生活の基盤だと思うんだけど」
 その割に、誰も言及しないのが気になっていたのだ。住処を変えれば食料を調達する場所も変わってくる、そうなれば時間の使い方も変わってくる。重要なことではないだろうか。
「食べ物? その辺になってますよ。ほら、アレとか」
 いまいち質問の意味が掴めない様子でアイヒェが川向こうを指差してくる。
 辿った先には、艶やかな黄色の実がたわわに実った木々。テキトーに判断するなら、リダーから教わったノーメルという果実だろう。
 レベッカに向かって投げつけられた、思い出深い一品だ。
「あれを採らないと食べられないわけよね?」
「そりゃそうです」
「アナタたちが採るのよね?」
「いいえ」
「は?」
 レベッカが眉根を寄せると、アイヒェが嬉しそうに目を輝かせた。
 自分が素晴らしいと絶賛しているものを隣人が知らないと知った瞬間、人はこういう目をする。
「妖精さんがいるのよ」
「はぁ」
「背はこれくらいで……」
 アイヒェの腰くらい。
「可愛いの」
 なんだかメルヘンな話になってきた。
「食べ物の調達でも、料理でも、洗濯でも、掃除でも、頼めば何でもやってくれるのよ。花の精だったり水の精だったり色々なんですけどね、仕事がない時は元の姿に戻って私たちと一緒に遊ぶの」
「へぇ」
「おしゃべりできないのが少しだけ寂しいところですが」
「ほー」
 相槌がやる気なく聞こえるのは、想像力がついていかないからだ。
 だが、無口で文句ひとつなく何でもやってくれるバラ色の使用人がいて、それを“妖精”と呼ぶ。それだけは理解できた。そりゃ神様がぐーたらのほほんにもなるわけだ。
 食べ物に関して何一つ憂うことがないということは、平和と安寧をもたらす一方で、何かを望み追いかける精神力を退化させる。必死な本気を奪う。
「アイヒェは、インフェルノやノーリス=ダラスが消えるのは仕方が無いことだと思う?」
「えぇ。それが(ことわり)です」
 突然話の方向を変えたにも関わらず、即答だった。
 まるで一問一答の問題集を暗記したみたいに。
「でもインフェルノは理を潰す気満々よね?」
「だから言ったでしょう? あの人は自分でやってみてダメだと納得しなければ、他人の諫言(かんげん)なんか聞かないって」
 お母さんはもう言い聞かせるのは諦めました。そんな放り出した口調。
 レベッカは彼女から焦点を外して背景の森を臨んだ。ざわめく木々に反射する光が無意味にキラキラしているが、神の国というのはそういうものかもしれない。
 綺麗で、美しく、穏やかで、演劇の舞台のように作られた。
「きっと、私もそういう類の性格だと思うの」
「そうでしょうね」
「困った人種よね」
「愚かな淡い希望を捨てるには、そういう人の存在も必要なんですよ、きっと」
 満足いくまで洗い終えたのだろう、少女が腰を上げぎゅーっとローブを絞り額を拭った。
「インフェルノが挑戦してダメだったらみんな納得する?」
「おそらく、納得せざるを得ないでしょうね」
 つまり、期待している神はいるということだ。
 誰かが、自分が、消えることを怖がっている者は確かにいる。回避する方法が見つかることを願っている神はいる。
「そうよねー。誰かが消えそうになるたびに、新しくきた子を殺すだの殺さないだのなんてことしてたら物騒だものねー」

──私は絶対に、“ほら、言ったとおりダメだったでしょ”なんて言わせないからね。

 胸の内で反骨精神がギラつくのを感じながら、レベッカは岩から飛び降りた。
 ぺたぺたと川原の小石を濡らしてくる裸足のアイヒェの元へ、ローブを受け取りに近付く。
「レベッカ。貴女、運動もたくさんしたようだし、そろそろおなかすきませんか?」
「すいたすいた!」
「じゃあ──早く街へ行くとしましょう。私直々にお料理の腕をふるいますから!」
「え? でもだってさっきそういうのは妖精サンにやらせるって……」
「普通はね。でも私は料理が大得意なんです。インフェルノの食事は大抵私が用意しているんですよ」
 折れそうな細腕で力こぶを作ってくるアイヒェ。無駄な可愛らしさがまぶしい。
「嫌いなものを避けといて後で埋めるなんてことは許しませんからね」
「……はい」
 レベッカは力なく曖昧な笑みを浮かべた。
 そういう妙に具体的な注意書きさえ言わなければ、幻想は美しく保存されるのに。
「さぁ、行きましょう。暗くなると山道は歩きづらいですよ」
 確かに、丸洗いの刑にあったブーツの代わりに履かされたサンダルは、力一杯アウトドア向きではない。何かの植物で美しく、しかも機能的に編んではあるのだが、しかし世の中には努力では補えない出生の差というものが確かにある。
「ねぇ、アイヒェ」
 ローブを突っ込んだ竹かごを頭に乗せて先を行く女神を追いかけ、レベッカは持たされたブーツを前後に揺らした。
「時間がないから色々すっ飛ばすわね」
 何をと訊かれる前に続ける。
「私は世界を変えるわ。私とみんなのために」
「そこまで断言した人はいなかったけれど、でもそうしようとした人はたくさんいましたよ」
「彼らには何がたりなかったと思う?」
 日が傾き始めたせいか、森の木々の影は長い。
 柔らかな笑みを浮かべた顔を木漏れ日でまだらにしながら、アイヒェが肩をすくめた。
「そもそもそういう存在ではなかったのでしょう。彼らは始めから、“変革”のカードを持っていなかった。持てる存在でもなかった」
「執念よ。潔さに殉じない執念」
「……執念」
 花の女神の翡翠の瞳が色を強くした。
 魔導師は日暮れの風に赤い衣を翻してそれを見返す。
「美しい散り様はいらない。明鏡止水の境地も必要ない。正義の味方からホントはイイ人だったんだねなんて言われるようじゃお笑い。あの人も辛かったんだねなんて同情されるようじゃお終い。泥にまみれてでも欲しい結末をむしり取るの。それ以外は何もいらない」
「…………」
 言葉は返ってこなかった。
 けれどレベッカは構わず続けた。
「アイヒェ。アナタ、私を任せられるくらいなんだから強いんでしょう? 少なくとも、グラナーテとかいうお姉さんよりは」
 インフェルノの実験と見解によれば、レベッカ=ジェラルディは世界に排除されようとしているらしい。そんな爆弾を預けられるのだ、この少女がか弱い女神様であるわけがない。
「貴女は……本当に色々すっ飛ばしたわね」
 互いに互いを探る時間。相手を評価するまでの時間。不信を抱き、氷解するまでの時間。あるいは相容れないと悟るまでの時間。
 すべて都合により割愛だ。
「時間がないから」
 それが都合その1。
「それに、大きな問題があるから」
 それが都合その2。
「大きな問題?」
 大きな問題。
 それは誰かにとってはまるで意味がなく、誰かにとっては進退生死に関わるもの。“問題”なんてものは大抵そういういい加減な性格で、だからこそややこしい。
 “結局誰も分かってくれない”はそれを薄々知っている人間の常套句だ。
「そう。大きな問題。私にとっても貴女にとっても世界の理にとっても」
 分かってくれないのなら、分からせればいい。分かるまで。
「私はね──」



「魔導が使えない?」
 インフェルノの危機感の欠落した復唱に、オリヴィエはうなずいた。多少の疲労感を感じながら。
「一切使えないそうです。棒術はほんの少しだけ身体が覚えているようでしたが、剣やら槍やらの方は分かりません。まぁ……あまり期待はできないでしょう」
「ふうん」
 朽ちた針葉樹の骨を踏み、芽の生えかけた木の実を踏み、緋色の神と共に山を下る。
 やや離れた後方には黙々と歩く華の集団。
「──インフェルノ様」
 名を呼ぶ声にトゲを混ぜると、男が面倒臭そうに口を開いた。
「そんなこと、別に驚くことでもない。魔導師だの魔法使いだの召喚士だのと名乗って本当にその力を示せた奴が何人いる。扱えているのはイオンくらいのものだろう?」
「……それはそうですが」
「いいか? 俺があの小娘に助力を頼んだのならその事実は問題だが、俺があの小娘に力を貸してやるんだ、相手が山羊か羊かなんてのは関係ない」
「貴方に関係なくても皆には関係あることだと思いますが」
 無論、いちいち説明しなくたってこの男は分かっている。
 荷物が山羊か羊かでインフェルノの負担も変わるということ。負担が増大すれば危険度も増し、ひいては皆からミラ=インフェルノという神が奪われる確率も高くなるということ。
 あの高飛車女ならば“そんなの、いなくなるのが早いか遅いかだけの違いじゃない”とでも言いそうだが、“理に(たお)れた”のと“あいつのせいで死んだ”のとは大きく違う。
 少なくとも、この男を慕う神々にとっては重大な問題だ。
「俺には」
 ミラ=インフェルノの双眸は己の足が歩む先だけを見つめている。
「他の奴等にそこまで優しさを施さなければならない義務があるのか?」
「ありません」
「だったら誰にも口は挟ませない」
「…………」
 “あります”と答えていたら彼は何と返してきただろう──、目に鮮やかな緋色の衣の後姿をぼんやり見つめながらふと思い、はっと気付いて小さく首を振った。
 そんなのは無駄な考えだ。
 義務があったとしても彼は行く。止めろと言われれば言われるほど、進む。
 何のために進んでいるのかさえ分からなくなったとしても、前に進む。
 この男は確かに他を圧する君主の気を持ってはいるが、しかし同時に決して賢君にはなれない気も持っているのだ。
 もし彼がすべての頂たる地位に立ったなら、臣は割れ民は虐げられるだろう。絶対な神のもとで栄えるかに見えた政権は、すぐに足元から瓦解(がかい)するはずだ。
 王の移ろな御心と頑なな意志によって、信は疑となり利口な者ほど愛想を尽かしてゆく。
「……着いたな」
 淡白な主の声と同時、踏み出したオリヴィエの足先が固い石畳に触れた。
 白の都、ベルカナ。
「そうですね」
 白日のもとに引きずり出された地底の王の命は、あとどれくらい約束されているのだろうか。



「ん〜〜〜んまいっ!」
 レベッカは心の底から感動し、スプーンを持ったまま幸せを噛みしめる。
 目の前のテーブルにはアイヒェが腕によりをかけてくれた豪勢な料理の数々。
 根菜やきのこがたっぷり入ったシチュー(だと思われる)、川魚のソテー、グラタンのパイ包み、色とりどりの果物、何だか分からないお肉のステーキ、ぷりぷりのエビちゃんが入ったパスタなどなど。
 野菜を洗ったり道具を洗ったり手伝いをしていた妖精ふたりも、レベッカと同じ仕草で幸せ一杯を表現していた。
 アイヒェが妖精を“可愛い”と形容していたのはそれ以上ない適確な言い様で、小さなアイヒェが一生懸命お仕事に励んでいる絵を思い浮かべてもらえればそれでいい。
 名前をつけないのが普通だそうで、薄い紫のひらひらを着たひとりはスミレの精、少し赤味の入ったひらひらを着たもうひとりはレンゲの精だと紹介された。
 どうやら、アイヒェの専属妖精らしい。
「良かった。ご飯が美味しく食べられるということは何よりですよ」
 向かいの席でアイヒェがにっこり微笑む。
「でも良かったの?」
 レベッカはシチューのきのこを次々フォークに突き刺しながら、声を落とした。
「私に用意してくれてたからインフェルノのご飯用意してないじゃない。あの人、怒らない?」
「いいんですよ。私だって毎日作ってるわけではないですし、子供じゃないんだから、おなかがすいたら周りの妖精に頼むでしょ」
「ならいいんだけど」
 川で洗濯から帰ってくるとすっかり黄昏。山道まで迎えに来てくれていたオリヴィエ=ディーンに連れられて石積みの家へとやってきた。
 それからすぐにアイヒェが台所に立ってくれ──。
「他人の心配より自分の心配をしたらどうです」
「へ?」
「魔導、使えないんでしょ」
「まぁ」
 それは確かだ。魔導は使えない。
 アイヒェに説明するために何度か試したが、やはり煙のひとつもたたなかった。
 我ながら、悲しい。
「でもそれで死ぬわけじゃないし」
「インフェルノは貴女が“世界に狙われてる”って思っているんでしょう?」
「私もそれには(おおむ)ね同意」
「剣は扱えるの? 槍は?」
 レベッカはきのこを飲み込んでから首を振って否定した。どちらもできるという記憶はない。
「そうですよね。……それだけの力があったら剣も槍も必要ないものね」
「?」
「水を凍らせるにしても、何もない空間を爆発させるにしても、すべての根幹は“世界の法則を捻じ曲げる”ということなんでしょう? 世の摂理を変えることができるなら、世界なんて意のままってことですよ」
「……究極的にはそういう話にもなるわね」
 お肉は全部一口大に切ってから口へ運ぶ。
「襲われたら相手をどこか遠くへ移動させてしまえばいいわけですし、もし戦争になっても一瞬で片が付いてしまうんだから、剣も槍も必要ない」
「双方に魔導師のいる戦争だったらそう簡単にはいかないと思うけど」
「魔導師がふたり!?」
 アイヒェの声が裏返った。
 妖精ふたりがびっくりして、今まさに食べようとしていたエビちゃんを同時に皿に落とす。
 それを無視してアイヒェがキッパリ断言してきた。
「それはありえません。世界を意のままにできる者が並び立つことはありません。あったとしても、すぐどちらかが斃されるでしょう。結局ひとりしか残らない……」
 神妙にテーブルへと目を落とした彼女はしかし、声をひそめ身を乗り出してきた。
「貴女、もとの世界では本当に神様だったのかもしれませんよ」
「まさかー」
 盛大に笑いとばしたものの、心の底辺にひやりと冷気が横切った。
 全く気付いていなかった。そんな可能性には。
 もちろん自分が神様だったかもしれないという可能性なんかではなく、魔導を究めればそれだけの存在になりうるかもしれないという可能性だ。
 世界の全てを知り尽くすなんてことが限りなく不可能に近いとしても、可能性はゼロではない。
「アヴァルースに来ても、かつて自分が魔導師、魔法使い、そういう力を使える存在だったことを覚えている人は(まれ)にいます。でも今の貴女と同じように力が使えない人がほとんどで、どうやってその力を使っていたのか覚えていない人ばかりです」
「ほとんど?」
「イオン=ヴァーレルセルという名前、聞いたことありますか?」
「会ったわ」
「彼は、貴女たちの言う“魔導”と同じような現象を扱うことができます。大きな石を割ることも、動かすことも、花を咲かせることも枯らすことも、思いのまま。ただ彼は“詩人”だとしか自己紹介しませんけど。アヴァルースの理をどうこうしようという気もないみたいです」
「同じことができるからって、同じ理論に基づいているとは限らないものね」
 イオン=ヴァーレルセルのいた世界では“詩人”という単語が“魔導師”と同じ意味を持っていたという線もありえなくはない。
「貴女が──もし貴女が魔導師になれるのなら、」
「魔導の使えない私は私じゃないの。魔導師にならなきゃならないの」
「貴女はインフェルノを救うこともアヴァルースを壊すこともできるでしょうね」
 “壊す”に反応したのだろうか、妖精たちの顔がひきつった。
「今のところどっちも興味はないけれど」
 レベッカはパイの層をできるだけ潰さないよう細心の注意を払ってナイフを入れる。
「私が魔導師に戻って、もしとんでもないことしようとしたら、アイヒェ、私のほっぺたひっぱたいて構わないわよ。それで目を覚ましたら私は力に浮かれてたってことだし、それで目を覚まさなかったら元から正気ってことね。その時は全力で私を斃した方がいいかも」
「…………」
「…………」
 パイと真剣勝負をしていた視界に、銀色のナイフが入ってきた。
「レベッカ。貴女、私が貴女を始末するかもしれないっていう選択肢は考えました?」
「いいえ」
 ゆっくり顔を上げると、テーブルを横切りアイヒェのナイフが喉に突きつけられている。
 よく観察すれば、それはお肉を切るナイフではない。果物を切るときのやつだ。
「どうして考えなかったのですか?」
「説明する必要ある?」
「…………」
 たかだか数十年だか数百年だか年上の少女に目力で負けるわけにはいかない。
 レベッカは冷えた彼女の目を睨み据えた。
「アナタたちはインフェルノに消えて欲しくない。インフェルノが賭けることにした私を、貴女が殺すわけないじゃない」
「それ、前提に根拠がないですよ」
「インフェルノに消えて欲しくないって前提? じゃあ、アナタはあの男に消えてほしいの?」
「……いいえ」
 挟まれた間には、色々な意味があるように思えた。
 言葉を交わした時間の分だけ、他人はひとりの人間になる。
「仮にアナタがインフェルノの延命よりも理を大切にする人だったら、私を殺すことは理に反するから殺さない。インフェルノが心変わりして私を殺せとアナタに命令したのなら、ローブを洗濯する必要はないし、料理を作る必要もない。無防備になりやすい水浴び中にやっちゃえばいいんだもの。もうひとつ、もしインフェルノが離れていくのを怖れたみんなが私を殺せと決めたとしても、それをアナタに伝える時間はなかった」
「だからずっと私が料理をする間ずっとくっついていたんですか。ゆっくり休んでいてって言ったのに」
「他人が思うより少し考えてるだけよ。いい意味でも、嫌な意味でも」
「けれど私たちは貴女が思うより、感情的な生き物なんですよ。時に自分で自分を制することもできない。私が独断で貴女を殺すという場合のことは考えた?」
「私だって感情的な生き物なのよ。アナタは個人的な理由で私を殺さない。私はそう決めたの。私自身がそう判断した人をいつまでもぐだぐだと疑いたくないわけよ。それって、私が私を信用してないってことでしょ」
「もし私がこのナイフをこのまま突き刺したらどうします?」
「大人しく刺されるわけないのは分かるわよね。実験してみる?」
 もはやテーブルに妖精ふたりの姿はなかった。
 怖すぎて逃げ帰ってしまったのだろう。
 ……彼らをダシに逃げようと思っていたのに、だ。
「…………」
「…………」
 意地の張り合いとしか思えないこの状況。
 誰か何とかしてくれと心の中で叫んだ瞬間、運命の女神様は微笑んだ。
「レベッカ=ジェラルディ」
 戸口に現れたのは、冴えないオジサマ剣士オリヴィエ=ディーン。
「……一体何してる」
 それは、どちらに向けられた問いなのか判然としなかった。
 だがレベッカはとりあえず答える。
「夕食。何か用?」
 オリヴィエの視線がアイヒェで止まり、
「グラナーテがインフェルノ公に噛み付いている」
何故か終着点はレベッカへ。
 来て説明責任を果たせとでも言うのだろうか。火種が火鉢の中に飛び込んだらどうなるか分かっていようものを。
 というかこの状況をあっさり流す神経が分からない。
「貴方が来たということは、グラナーテひとりで噛み付いているわけではないのですね?」
 アイヒェがナイフを下げ、身を引き、椅子に座り直した。
「インフェルノ公を頼っている者ほど、不安に思っている。お前が魔導を使えないだのなんだの、インフェルノ公がグラナーテにしゃべった」
 つまり、グラナーテ率いる集団直訴というわけだ。
「始めから、言い分を聞いてもらいたいだけの訴えだ。だがだからこそ帰結する場所がない。インフェルノ公はまとめる気なんぞさらさらないしな。グラナーテ側が白旗をあげて引き下がるまでやりあうつもりだ」
「細い亀裂が深い溝になるだけですね」
「自分と他人とが離れていくのを実感することすら楽しいらしい、あの人は」
「昔からそうだったじゃありませんか」
 ミもフタもないアイヒェの微笑。
「お前がなんとかしろ」
 オリヴィエの隻眼がこちらを向いた。
「分かった」
 どうしてそういう結論になるのか釈然としなかったが、レベッカは迷わず引き受けた。
 これは試験なのだ。
 今度は、オリヴィエ=ディーンがレベッカ=ジェラルディを(はか)ろうとしている。



「行くなと言っているわけではないと何度も申し上げたはずです。ただ、あの娘と共に行くのはお止めくださいと」
 インフェルノ一行が滞在を決めた区画で最も大きな白壁の館。そこが王の寝所であり、謁見の間だった。
「俺が理をどうこうしに行くなんていつ言った。俺はあの娘に力を貸してやるだけだ。共に行かなくて何ができる」
「それは大義名分に過ぎないでしょう? 貴方は結局貴方を助けに行くんだから」
 部屋の奥には絨毯の上に座り杯を傾けているミラ=インフェルノ。
 少し距離を置いて対峙しているのは褐色の女神、グラナーテ。そして彼女の後ろには悲壮感さえ漂う羊の群れ。どれも至極真剣な顔をしているが、いまいち同情する気になれないのは何故だろう。
「しばらく見てていい?」
「好きにしろ」
 レベッカは、アイヒェとオリヴィエを背後に入り口から中を覗いていた。
 彼女がふたりを振り返っている間にも、
「ならばお前に俺が救えるのか?」
インフェルノは致命的な台詞を放って杯に注いだ酒を一気に呑み干している。
「…………」
「あの娘は理を変えると言い切った。俺は俺が言った以外にその言葉を聞いたことはない」
「私がそう言えば貴方は行かないとおっしゃる?」
「俺の決めたことにお前たちが口を出す権利はない」
「私たちは貴方の身を案じているのです。何一つ身を護る手段をもたない娘ですよ? しかも世界に狙われている!」
「レベッカ=ジェラルディと行くなというのはお前たちの望みであって、俺の望みではない」
 否定尽くしで遠くを見つめていたインフェルノが、上目に女神を睨んだ。
「グラナーテ。俺を変えようとするな」
 どうしてこの男は、言うべきではない言葉ばかり選ぶのだろうか。
 明らかに、意志を持って選んでいる。
「俺は良き王になるつもりはないし、優しい男になるつもりもない」
「そうやって言っていれば楽だものね。そうやって逃げていれば誰の期待を裏切ったって言い訳ができるものね」
 グラナーテのトーンが上がった。
「一回くらい私たちの求めに答えてくれたっていいじゃないの」
「では俺の代わりにお前が行くか?」
「……行きます」
「ダメだ。お前では役に立たない」
 ほら、また。そうやって手を差し伸べておいて振り払う。
「…………」
 すると、黙した山羊を援護すべく羊の何匹かが声を上げた。
「相手は“世界”ですよ!」
「それこそ役に立たない娘ひとり、連れて行くだけ勝機は遠退きます」
「貴方がいなくなったら我々はどうすればいいんですか!」
「貴方ひとりいれば理など変えられる!」
「我々には貴方が必要なんです」
 ばらばらと支離滅裂に上がる懇願。
 彼らは気付いていないのだろうが、「魔導師と行かせない」と「インフェルノを行かせない」が混ざっている。
「どうやら俺の力は大して評価されていないらしいな」
 雑音を一掃するように、インフェルノが大きな声で自嘲する。
 しかし次の瞬間にはその笑みさえ消え、黒い怒気が揺らめいた。
 機だ。
「お前た──」
「勝敗は力だけでは決まらないものでしょ。力の強い方が勝つとは限らない」
 インフェルノの放ちかけた一喝を踏み潰して、レベッカは声高らかに神々の群れを割り裂いた。オリヴィエとアイヒェが慌てて付いて来る気配がする。
「はいみなさーーーーーん。ミラ=インフェルノに死んでほしくない人は手を挙げて」
 両手をひらひらさせながらずかずかと最前列まで歩いて行き、座すインフェルノの横でくるりと身体を反転させる。
「あら、いないの? この集会は単なる見世物? 自分は彼を心配するイイ人ですってアピールしたくてこんなことやってるの? ほら、死なせたくない人は手を挙げて!」
 “死”という言葉を使ったのは事態の切迫を分からせるためだ。生死の概念を持つ神にとっては、“消える”なんて軟弱な表現よりずっと重い衝撃だろう。
 いや、衝撃を感じてくれなくては困る。
 そこまで鈍感になっているとは思いたくない。
 すると、言葉に圧されたかレベッカに圧されたか、そろそろと手が挙がり始め、やがてすべての神が手を挙げた。グラナーテやオリヴィエ、アイヒェもそろって挙げている。
 レベッカはにこりともせず片手で“もういい”と合図をした。
 そして何が始まるのかと部屋中の注目を集めてひと呼吸、
「お願いします。貴方たちの親玉を私に貸してください」
彼女は勢いよく頭を下げた。
 たっぷり8秒。
 隣人の息遣いが聞こえるほどの静寂。
 瞬きすら忘れる戸惑いと、驚き。
 肌にぴりぴりと感じる緊張。
 時が止まっていた。
 構わずレベッカは顔を上げ、続ける。
「私は。私のせいで誰かが死ぬのは真っ平ごめんだし、それに耐えられるほど強くはないです。だから理を変えたい。不変だからこそ理なのだと知っているけれど、変えたい」
 そしてばっと人と人の間を指差す。
「変えられるわけがないと笑っている人!」
 みんながそちらを向いた時には手は腰へ。
「真剣に変えようとしたことがあるの? ランデルトゥースで花の咲いた神々を、本気で救おうとしたことがある?」
 ざわつく間も与えず言い募る。
「仕方ないねって諦めてたでしょう! 花の咲いた本人も! たまたま花が咲かないで済んだ周りの奴も!」
 不安げに彷徨う神々の視線を順々に捕えてゆく。
 お前も当事者なのだと分からせるために。
「きっと骨折り損だから。きっと無駄だから。きっと笑い者になるから。世界を知った振りしている奴らに冷笑されるから! 諦めてたでしょう」
 そして最後にグラナーテを捕まえる。
 真正面から彼女を見てようやく、第一印象で受けた気の強さは、成分のほとんどが悲哀で出来た凛々しさなのだと気付いた。
 耐えて耐えて乗り切った者だけに与えられる強さだ。
 何に耐えたのかは知る由もないが。
「無駄も無意味も冷笑も、すべて私が引き受けます。アナタたちが絶望に変えてきた希望を私が追いかけます」
 言い置いて、レベッカは再度部屋を見渡す。
「でもそのためには今はまだ力が足りないんです。純粋な“力”のことです。巨大な魚を叩き落したり、濁流を粉砕する力。だから──インフェルノを貸してください」
 頭を下げればいいというものではない。だが本気ならば下げずにいられない時がある。
 だが、白い床石を見つめたレベッカの後頭部に
「──世界に対する冒涜です」
静かな声が降った。
 グラナーテだ。
「我々はそこまでして生きながらえたくはありません。例え貴女が理を変えて誰も消えなくなったとしても、それは不自然です。きっといつかどこかに取り返しのつかない歪みが現れるでしょう」
「俺は生きたい」
 グラナーテの言葉を即座に否定して、インフェルノが白く笑った。
 女神は喉で詰まって唇を結び、大きく息をつくと改めてインフェルノに向き直る。
 低く、押し殺した声音。
「どうしてそういう我侭を言うの。貴方がそういうことを言うから、みんなの心が不安定になるんでしょう? 貴方が生きたいと言うから、みんなは貴方に生きて欲しいと願ってしまう。貴方の気持ちを考えて眠れなくなる。自分が消える番になった時、“生きたい”と言っていいのだろうかと苦しくなる」
 感情のままに叫ばないところが、彼女の強靭な理性の証だろう。
「貴方はどうしてそれが分からないの。どうして受け入れられないの。世界には超えてはいけない線があるのよ。後戻りのできない線が」
「だから、反逆者の私とインフェルノが行くのよ。世界と対決しに行くの。本当に超えてはいけない線なのか、確かめてすらいないでしょ?」
 レベッカは口を挟んでから、こほんと咳払いをした。
「あくまでも。インフェルノは私が魔導師に返り咲くまでのお手伝いですが」
『…………』
 皆が口を閉じてさえ風の気配を感じないのは、木々が身を寄せ合う山を出たからなのか、本当に吹いていないのか、それとも感じるだけの余裕がこの場にないのか、耳を傾けるものがない沈黙は、息をするのも疲れる。
「──繰り返される死を傍観し続けていたのは俺もお前たちと同じだ」
 黎明の黄金と落陽の茜。ふたつを取り込んだ緋色をまとう神、ミラ=インフェルノ。
「往生際の悪い無駄な足掻きだと思っていたのが半分、俺だけは死なないと思い込んでいたのが半分。だが今。俺は、死ぬのが俺でなくてもこの女に手を貸しただろう。これは未来への投資だ。止めることができるのなら、誰も死なせない」
「未来……」
 つぶやきが聞こえた。
 グラナーテが重ねた。
「その未来の責任は貴方ひとりで背負えるわけじゃないのよ」
「そりゃそうね」
 レベッカは口の先で肯定した。
 もちろん、大きすぎる代償を悟ってなお突き進むような真似をするつもりはない。だが敢えて口に出して説明するつもりもなかった。
 条件をつければつけるほど前に進む力が弱くなる気がして嫌だった。
「未来が()しかかるかもしれない。でも未来が(ひら)けるかもしれない。今アナタの隣りにいる人の命がかかってるのに、希望を託す勇気もないの!?」
 グラナーテに言ったのではない。
 羊たちに言ったのだ。
 ()びている。
 どいつもこいつも錆びている。
 すべてグラナーテに代弁させて、彼女の言葉こそがたぶん自分の望みなんだろうと信じている。
 何も考えていない。
 ただ感情があるだけだ。悲しい、不安だ、嫌だ、怖い、茫洋とした心の中にぽつぽつと単語が並んでいるだけなのだ。
「もう一度言います。ミラ=インフェルノを貸してください」
 彼らには、きっとその是非が分からないのだろう。グラナーテが回答に口を閉ざす今、いくら頼んだって答えは返って来ない。
 行き場のない静けさの中、その虚しさを一蹴したのは鈴を転がすアイヒェの声だった。
「ここでいくら叫びあっても答えは出ませんよ」
 天の助けとばかりに皆の視線が彼女に集まる。
「超えてはならない一線がどこかにあるとしても、我々はまだそこへ向かって一歩も踏み出していません。判断するにはあまりにも材料が少ない。そうですね、グラナーテ」
 呼ばれた女神は、微動だにしなかった。
 しかしアイヒェは気にしない。
「変化を怖れることは賢いことでもあり、愚かなことでもあります。しかし今我々が立っている場所からはそれを見極めることはできない。ならば、もう少し近付いてみる勇気を持ってみませんか。彼女が道を誤ろうとした時には、頬を引っ叩いて目を覚まさせてもよいという許可もいただいてありますから」
 少女がにっこりこちらに笑みを浮かべる。
 つられてレベッカもにっこり笑ってしまう。
「そして、インフェルノを信じましょう。これ以上彼を失望されると、本当に置き去りにされてしまいますよ」
 お母さんだ。お母さんがいる。
 薄ら寒かった部屋に、春が舞い降りた。
 空気が暖かくなり、桃色に色付き始めている。気の緩んだみんなが、口々にアイヒェに向かって何やら思いの丈を述べ始めている。
「…………」
 場のあまりの変貌にレベッカが呆然とその光景を眺めていると、
「ぐぇ」
いきなり襟首を引っ掴まれて裏口からずりずり建物の外へ引きずり出された。
 寒くはないが、やはり風が吹き抜けている月夜。
 星の煌きはひとつもなく、藍色の空にはいくつもの流れ雲が風に追われている。
「お前は絶対に頭を下げることはしないと思っていた」
 乙女を引きずった不届き者はオリヴィエ=ディーン。
 その後ろには白けた顔のミラ=インフェルノ。
 逃げてきた、こいつら逃げてきた。
「下げるときには下げるわよ。必要な時はね。みんなの大事な人間を取り上げるんだもの、それくらいしなきゃ」
 とりあえずオリヴィエの手を振り払って居ずまいを直す。
「それにしても──アイヒェにはやられたわ。すっかり背負わされちゃった」
「だが彼女がいなければ収まらなかった」
「最後の台詞、聞いた? あれは“グラナーテの言っていることを現実にしたら許さない”って婉曲(えんきょく)的な脅迫よ」
 オリヴィエは無味乾燥な笑みを返してきただけ。
 インフェルノの至っては聞いているのかさえ不明だ。
 とりあえず無視して歩を進める。せっかくアイヒェが丸く(?)収めてくれたのに、これ以上この場にいたらもっとややこしいことになりそうだ。
「本当のアヴァルースを探さなきゃならない、世界の法則を知り尽くして魔導を取り戻さなきゃならない、理のカラクリを暴いてダラスとインフェルノを助けなきゃならない……」
 インフェルノがレベッカに付いて行くことに反対していたグラナーテもまたアイヒェと同じく、「インフェルノだけなら行っていい」ではなく「インフェルノがやってもダメなら皆納得する」と考えているのだろう。
──理は変えられない。変えるべきではない。
 それがふたりの山羊を並び立たせている共通項だ。
「元いた場所のことも知りたい、こっちが気に入らなければ帰りたい……」
 レベッカがひとつひとつ指を折っていると、
「できないか?」
インフェルノがこちらを見下ろして訊いてきた。この男でも、愚問を発することはあるらしい。
「やらなかったことを後悔するのは嫌なタチなの」
 強いということは、現在を認め、望み続け、前に進むことだ。
 彼女は満月に向かって拳を突き上げた。
「インフェルノもオリヴィエもアイヒェもグラナーテもリダーもノーリス=ダラスも、私から取り上げる奴は許さない!」
「不思議に思ってたんだが、どうしてお前は会ったばかりの奴等にそこまで本気になるんだ?」
「本気にならなきゃ誰も護れないからよ」
 そうだ、護りたいのだ。護りたいと思うもの、全部。
「その人がいなくなった後で“あの人は大事な人だったんだ……”な〜んて気付いてみたって遅いのよ。じゃあどうするか。全員まとめて護っとくしかないでしょ」
「剣ひとつ扱えないクセによく言う」
「魔導が使えるようになったらお払い箱にしてやるから」
「可愛げのない」
「結構」
 ぴしゃりと答えてから、ふと気付く。
「私は今私の家に帰ってるんだけどね、アナタたちどこに向かってるの?」
「……家、アイヒェに乗っ取られましたからね……」
 オリヴィエが左隣のインフェルノを見やる。
「…………」
 インフェルノは無言で更に左を見やる。
 誰もいない。
『…………』
 それでいいのか大将。




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アイヒェ:Eiche(独)→樫
グラナーテ:granate(西)→ガーネット
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