THE KEY2 THE WORLD

 第三話 【凋落】…(2)   ひれ伏すか、抗うか。少なくとも、それだけは選べる。


「嫌いだからなんて理由で他人を殺すほど俺は安い男じゃねェ」
 フェンネルが吐き捨てると、
「……そうですか?」
 スヴェルがニヤけた顔で斜め上に視線をやる。
「今までそうでなかったことがあるか?」
「ウーン」
「貴様ァ……」
 またもやスヴェルの首を絞めかけると、
「嫌いなんですか?」
 横から無邪気な問いが挟まれた。
「ルミナス会長が?」
 マグダレーナの碧眼に他意はない。というか、流れから言って訊かれるのは必然だ。彼女を責めることはできない。
 フェンネルはスヴェルから手を離し、肩をすくめてみせた。
「嫌いというより、合わない。何もかも」
「合わない?」
「合わないから嫌いなんですよね」
 そんな理由でマグダレーナを納得させられるとは思わないが、ここはスヴェルのしつこさに乗っておくべきだろう。
「スヴェル、分かった。お前は俺がヤローが嫌いだと認めればいいんだな? それで満足なんだな? あぁ、俺は奴が嫌いだ、文句あるかコラ」
 同窓の耳元でがみがみ怒鳴ってから、
「とはいえ俺の好き嫌いで前進する術を逃すのは利口じゃない。奴に俺たちが見えているということは、だ」
 彼は狭い店内を見回した。
 澄ました店員はもはや会話に加わる気はないのか、カウンターの向こうで銀色の錫杖を磨いていて、もちろん3人の他に客はいない。
「──ガイア。出て来い。ご主人サマを助けたかったらな」
「…………」
「…………」
 店内に白けた沈黙が落ちた。
 マグダレーナとスヴェルがそろりと顔を見合わせ、
「……誰ですか、ガイアって」
 半ば義務的にマグダレーナが訊いてくる。
 だがフェンネルは無視した。無視して、どこかでこちらを見ているはずの彼女にもう一度突きつける。
「何やらかしたんだか知らねェが、宮廷魔導師がココに落とされて無事で済むと思うなよ。ついでにお前のご主人サマがなりふりかまわず生きようとするなんて思うなよ」
 天眼の魔導師は、泥を被って生きるよりも、花の詰め込まれた棺の中で眠りこける方がマシだと思っている節がある。
 楽をしたいのか美学なのかは知らないが。
「地上にいると都合が悪いから落とされたんだ。都合の悪いものをいつまでも置いておくか? 誰だってそんなもんは早く始末するに限るだろ。カビたパン、点数の悪い答案、ごまかした請求書、隠して廃棄が人の常だ。上では表立って消すわけにはいかない。だから下に落とす。そうすりゃ誰かが消してくれる」
 フェンネルの視線は、スヴェルとマグダレーナの間を抜け、店の入り口脇に陣取るガラスケースの前を射た。
「テメェはヤローが死んでもいいのか」
 凶悪だ凶悪だと呪いのように言われ続けている眼光をわずか緩める。
「あんな奴でもテメェらは気に入ってるんだろ? それとも、魔力さえ喰わしてくれりゃ誰でもいいか?」
「──彼を、助ける気があるんですか?」
「俺にそれがあると思ったからテメェはここに来たんじゃないのか」
「…………」
 彼の視線の先には、ひとりの女が立っていた。
 長い真っ直ぐな髪は飴色、簡素な生成の衣から伸びる柔らかな四肢は大地と同化できそうな肌色、そして何よりも彼女は──半分透けていた。
 敵意とも懇願とも取れない鳶色の眼差しは、こちらをじっと見つめている。
「ガイア、ルミナスのところへ案内しろ。ヤローを生かしてやる」
「…………」
 彼女の結ばれた唇は動かず、ようやくフェンネルの視線の固定を(いぶか)ったスヴェルとマグダレーナが背後を見やった。
 そしてふたり同時に『あ』と異口同音。
「バ、バレリー、この方は?」
「精霊。正しくは、地の精霊ガイア」
「?」
 釈然としない面持ちで解説を求めてくるふたり。
 フェンネルはガイアから目を離さず口を開いた。
「天眼の魔導師は、種をバラせばただの精霊使いだ。自分の魔力を喰わせてやるのと引き換えに、精霊を従わせている。ルミナスが何でも見えているのは、奴の精霊が探りに行ってヤローに報告してるからだ。本当に奴の網膜に映ってるわけじゃない」
「……精霊って本当にいるのかァ……」
「精霊が視えること、契約を結べること、命令に従わせること、そして精霊の力に呑まれずに使いこなせること──精霊使いの条件は、ほぼ100パーセント生まれ持った素質に左右される。家系が物を言う召喚士以上にな。だからレーテルにだって精霊使いに関する講義はひとつもなかった。講義できる人間がいなかったのもあるだろうが、常人がかじっても無駄だからだ。努力ではどうにもならない」
 召喚術というものは、それなりの線までは努力でどうにかなる。だから全員で学び、最低限の技術として習得することが可能だ。ただし、初級教科書を超えて魔物辞典に載るような強者を呼び出せるようになるのは、いわゆる『召喚士の家系』という者たちだけ。
 ある一線以上は血統が必要になり、努力では補えない。
 一方、精霊使いというのは完全な突然変異だ。
 できるかできないかだけに二分され、できる者は極端に少ない。
 本当に存在するのかと疑われるほどに。
 あのレーテルにあってさえ、誰もルミナスが精霊使いだと気付かなかったほどに。
「ルミナス=ラヴィアータは魔導師としては標準だが、精霊使いとしては天才だ。本来はひとりで1匹の精霊を従わせるのが精一杯らしいが、ヤローは地・水・火・風、四大元素すべての精霊を手下にしている。あのハイネス=フロックスと同じ人種だな。魔導師としては凡庸、召喚士としては卓抜。……そういえばアイツ元気か?」
 マグダレーナに話を振ると、彼女はゆるゆると首を横に振ってきた。
 金砂の輝きを失わない巻き髪が、肩口で揺れる。
「お耳に届いていませんでしたか? 貴方がレーテルを出て行った日に、ハイネスも退学届を出しています。レーテルは今、彼がどこで何をしているのか掴めていません」
「つまり行方不明か」
「あの人がいれば、理事長の極論に追従するメディシスタの抑えになったのかもしれませんが、もはやチェンバース単体では……」
「“もしも”を語ったらキリがねェ。それくらい言われなくてもわかってるだろ」
 フェンネルは、床に目を落とした彼女の言葉をきっぱり遮った。
「矜持の高いお前が“合わない”俺を頼ってあんな危ねぇテフラまで来た。それだけで充分だ」
 後輩の顔が再び上がるのを視界に入れて、彼は精霊に話を戻した。
「ガイア、ルミナスはナルバートンのところか?」
「…………」
 無言のうなずき。
「スヴェル、マグダレーナ。魔導師の化け物を前にして独りで切り抜けられると思うほど俺は奢っちゃいねェ。手を貸してくれるか」
 賑わいの褪せないアジ・ダハーカの路地を双眸に映しながら言うと、
「貴方は勘違いをしています」
 チェンバース会長殿が静かに両手を腰に当ててきた。
「?」
「貴方が我々に手を貸しているんです」
 横柄に言い切る彼女の横で、スヴェルがニヤけている。
 思わず、伝染(うつ)る笑み。
「ガイア。ルミナスが殺られる前に回収する。最短ルートで案内しろ。今夜は徹夜だ」
 他人の所有物に命令できるものか分からなかったが、フェンネルが語気を強めると、精霊の姿は霞と消え、次瞬、人が行き交う路地の片隅に現れた。
「付いて来いって意味ですね」
 スヴェルとマグダレーナが後を追い、店の扉を勢いよく開けて飛び出て行く。
 フェンネルもそれに続こうとして──
「?」
 剣の礼を言っておこうと振り向けど、そこに声をかけるべき相手の姿はなかった。
 人の気配は消え、カウンターの上には燃え盛る激情の炎を封じたのだろう紅玉を冠にした、一本の銀色の錫杖が転がっているだけ。
「…………」
 彼は砂埃と血に塗れた黒衣を翻した。
 今は、流れに乗って進むしかない。



◆  ◇  ◆



 どこをどうやって通ったのか、何度も同じ宝石屋の前を過ぎ、しかし目に煌びやかな隣の鳥屋は二度と見ることなく、同じ店並びの十字路を右に左に真っ直ぐに三度も過ぎ、酒場の呼子に絡んでいる男と二度も肩をぶつけ、しかし何故か一度目は角店で、二度目は両脇を同業に挟まれた激戦区で、この都市で道順を覚えるのは不可能なのだろうとルミナスがようやく悟り始めた時、眼前を歩いていた黒服が足を止めた。
「ここだ」
 右は艶やかな織物屋、左はカビ臭い古書蔵、そして男が顔を向ける真正面は、両端に朱玉の飾りが揺れる御簾(みす)が下げられた小さな店。
 掲げて入って行く黒服に続けば、そこには複雑に混ざり合った薬草の香が充満していた。
 強張っていた身体が知らず弛緩してゆく、肺の底から染み入る匂い。
「薬種屋……?」
「御大は魔導で有名らしいが、本来は薬草をいじっている方がお好きだそうだ」
 見上げれば、小さな引き出しがずらりと並んだ棚が壁面を覆い、カウンターには所狭しと薄汚れた瓶が置かれ、得体の知れない乾物が詰め込まれている。
 煙管(キセル)(くわ)えた店番の前だけが瓶のわずかな空席で、しかしその場所は古びた天秤と分銅箱が陣取っていた。箱の中は大小様々な(おもり)が神経質なまでに整理されていて、店番は細い目の奥を光らせながらいくつかの瓶と分銅とを交互に睨んでいる。
「御大は」
「お待ちです」
 店番の答えを聞くとさっさとカウンターの奥へ入ってゆく男。
 ルミナスがその場に立ち尽くしていると、
「来いよ。こっちだ」
 肩越しに呼ばれる。
 ルミナスはゆっくりと、それとなく瓶や店番の手元を覗き込みながら男に続いた。
 それなりにレーテルで学んだ身だ。薬草に関しても、匂いだけで種類が分かるくらいではあるはずだった。だが、ここに漂う匂いの正体がさっぱり分からない。瓶の中身も見たことのないものばかりで、ひとつも言い当てられそうにない。
 この分だと棚すべての引き出しをひっくり返しても、見たことのある薬種は出てこないのだろう。
「ウチのは高いよ。上じゃ絶対に手に入らないしな」
 男はルミナスが薬に興味があると思ったのか、背を見せたまま自慢げに言う。
「真面目に商売やってるのか?」
「不真面目にやる奴がいるか」
「そういう意味じゃない」
「じゃあどういう意味だ?」
「…………」
 カモフラージュじゃないのか、そう言いかけてルミナスは言葉を呑み込んだ。
 ここの主は王都公認のアジ・ダハーカ総元締めであり、そのことはよほどの新参者でない限り誰もが知っている。ならば、偽装する必要性などないではないか。
 取り締まりの対象でないナルバートンが、まっとうな商売を装う必要はない。
 ──(もっと)も、どの店も、この都市に店を構えている時点でどこまでまっとうかは疑わしいが。
「意外だな」
「何が」
「地下で日夜魔導の研究を続ける狂魔導師(マッド・メイジ)かと思っていたが、草いじりが趣味とは」
「基本的には争い事が嫌いなんだ、御大は。そうでなきゃ王都如きがあの人を捕らえてここに飼っておけるわけがない」
 確かに、これほど歴史に名の刻まれている魔導師を地下に幽閉しておけるほどの力が王都にあるとは思えない。
 しかし力が全てであるわけもなく、『王都はナルバートンの弱味を握っている』というのが通説だ。それ故に彼は投降し、それ故に彼は地下に囚われているのだと。
「あの人は自由と引き換えに王都からこの店をもらった」
 両側にいくつもの扉がある狭い通路をただひたすら真っ直ぐ奥へ行く。
 薬香の匂いは不自然なほど均一に漂い、前を歩く男によって規則的に乱される。
「御大にはもう、地上でやるべきことはないんだそうだ」
「地下ならあるのか?」
「地下にはこの店がある」
 どこまで本気で返されているのか分からない。
 ルミナスは、ひんやりとわずかに湿る土壁に片手をついた。
「お前の言い方だと、ナルバートンは罪を背負ってここに落とされたのではなく、自らの意思でここにいるように聞こえる」
「実際そうだろうさ。出て行こうと思えば簡単に出て行かれるんだからな」
 足元に並ぶ光は柔らかく通路を照らし、土の天井には二人分の大きな影が伸びている。
「……何者だ? アルボル・ナルバートンというのは」
 何を今更と、自分でも思う。
 だが、口をついて出ていた。
 そして前を行く男はその問いにしばし沈黙した。
 浅い空白を引きずったままいくつかの扉を通り過ぎ、
「そうだな、一言で言うなら……」
 男が足を止めて半身ずらした行き止まり。
 穴倉の最奥には、他と何ら変わりのない質素な扉があった。こちらとあちらとを仕切っているだけの、木板。
「──難しい人だな。難しい、ね」
 嘆息めいた苦笑を漏らし、男は扉に寄り添いノックをする。
「御大、連れて来ました。ルミナス=ラヴィアータです」



 男が扉を開けた先にあった部屋には、およそ魔導師のものとしては似つかわしくない光景が広がっていた。
 まず目に付くのは、大きな樫のテーブルを占拠している数々の実験器具、そして材料だ。
 ランプの炎に(あぶ)られてぽこぽこ泡を吹いている緑色の液体に、鍋の中で湯気を上げて気化している薄桃色の固体。
 あちらこちらに置いてある天秤には白い粉だの小さな赤い実だの貝殻だのが入っていて、貼られたラベルがぼろぼろになっている瓶はどれも蓋が開けられ異様な臭いを放ち、乾燥した葉や草や花が盛られたザルからは中身がはみ出し、色の違う石ころがそれらの間に転がっている。
 使用済みのフラスコやビーカーは隅に押しやられ、大きな水差しが水滴を零し、青や紫に染まった雑巾は隣で次の出番を待っている。
 テーブルクロスかと思われた茶色の布は至るところに走り書きされた羊皮紙で、無造作に広げられた古書も不気味な液体の染みだらけ。
 床にはメモを書きなぐった紙が散乱し、とりあえず積み重ねられていたのだろう本が横崩れを起こし、空になったインク瓶が放り捨てられ、材料が入っているのか何なのか、大きな木箱や麻袋が無秩序に置かれ、つまり、今ルミナスの眼前に広がっている景色は、整理整頓という言葉とは無縁な部屋の惨状だった。
「御大」
「分かっている」
 そしてその部屋の主は、テーブルの前の古びた椅子に腰掛け、試験管を目の高さにまでつまみあげ、中で燃える青い炎を凝視していた。
 ──若い。
 思い込んでいたよりも、ずっと。下手をすれば、自分より。
 そして、薄い。空気のように、もはや部屋の一部と化しているように、存在感が薄い。
「ルミナス=ラヴィアータ。天眼の魔導師。レーテル中退。宮廷魔導師。“未来視の砂時計”をレーテルから盗んでアジ・ダハーカに落とされた。──分かっている」
 ぼそぼそとつぶやくようにしゃべる彼は一見、荒野を旅するジプシーのようだった。
 それか、未開地の呪術者。
 よれた帽子にはすり切れた鳥の羽が数本、喉仏の隠れる黒の衣装に褪せたローブを羽織り、枯葉色の髪に焦茶の眼差し、首からは獣の牙だの蝙蝠の羽だの翡翠だのといった飾りを幾重にも下げ、薬草を選ぶ指には焼け焦げのある骨の指輪。
「いつものとおり、処遇については私に一任するそうだ」
 彼は炎の消えた試験管を瓶とザルの間に押し込み、天秤から赤い木の実を一粒取って傍らにやる。
 木の実の行き先、テーブルの横に積まれた木箱の上には、一羽の真っ黒い(カラス)がいた。
「王都は白いままでいなきゃならないからな」
 男が初めてこちらに顔を向けた。
「意味は分かるだろう?」
 眠たげな、台詞を吐いてはいるもののさして興味もなさそうな顔つき。
「貴方が、アルボル・ナルバートンですか」
 ルミナスは彼の疑問形には答えず、訊き返した。
 少しでも彼から言葉を引き出すために。
 聞いているのはルミナスだけではないのだ。彼の(しもべ)たちもまた、この男の言葉を聞いている。ならば、あるいは、ルミナス=ラヴィアータがここで消されたとしても、アジ・ダハーカの深奥に忍ぶ巨翁の意思があの男に伝わる可能性はある。
 王都が薄笑いを浮かべて隠している腹の内を、あの男も知ることになるだろう。
 そうしたら、シャロン=ストーンに近くて遠い、レーテルに遠くて近い、アイツはどこへ走るだろうか。
「──アルボル・ナルバートン。そうかもしれないし、そうでないかもしれない」
 男は言う。
 ルミナスは返す。
「史書に名を刻む魔導師といえど、魔導が使えなければただの人。影武者を立てて隠れる必要があるということですか」
 男の目が、少しだけ開かれた。
 そして伏せられ、彼は再び薬草の選別を始める。
「魔導を失うことを怖れるだけの魔導師は必要ない」
 男の黒く塗られた爪が瓶の縁を叩く。
「魔導師が絶滅したって誰も困らないだろう。魔導師であることだけを己の支えにしていた連中以外は」
 選ばれる言葉は強いが、声は囁くようで聞き取り辛い。
「魔導が発動しないということは、そんなことよりももっと重要で根源的な危機を示している」
「……世界の法則が変化していると言い出したのは貴方でしたか」

 宮廷魔導師たちが魔導の失敗を重ね己の特権を失うことに(おのの)き始めた最近、王都では薄っすらと、しかししつこく、あるフレーズが囁かれるようになった。
 曰く、『世界の法則が変わる。今の魔導は通用しなくなる』

「魔導師ならば気付いて然るべきだ」

 世界には、世界を世界と成している法則がある。魔導とは、魔力という力を使ってその法則を合理的に組み替えてやることだ。そうやって、何もないところに光を灯したり、風を吹かせたり、見えない盾をかざしたり、する。
 魔導の根本は、世界の法則と魔力なのだ。
 もし法則が変われば、もし魔力が失われれば、魔導は発動しない。

「世界の(いしずえ)である法則は、変わるものなのですか? 変わらないからこそ礎なのだというのは幻想でしょうか」
「史書が知っている限り今まで、礎は一度たりとも変わったことはない」
 ナルバートンが、テーブルの端のカゴに盛られた果物へと手を伸ばした。
「しかし、変わっているのではなく崩壊しているのだとしたら、話は別だ」
 不安定に載せられていた林檎に指先が触れ、赤い果実はころりと山から転がり落ちる。
 運悪くテーブルの角に当った林檎は、軽く弾んで木箱の中にダイブした。
「──崩壊?」
「世界が永遠だと思っているわけではないだろう?」
 魔導師の不遜な双眸は林檎を内包した箱を見下ろし、語る口調はまるで世界を外から眺めているかの如く。
「我々が生まれて死んでいく宿命(さだめ)であるとおり、生と死が何よりも深い世界の法則であるのなら、このシャントル・テアに死が訪れても不思議ではない」
 老いを駆逐したこの男にも、死は平等に訪れるというのか。
「人の身体は年を経て衰え、やがてその活動を止める」
「世界の法則も同じだと?」
「世界の法則は年を経て(ほころ)び始める。そしてやがて瓦解(がかい)する」
「推測に過ぎない」
「それが我々の遺言になるだろう」
 ナルバートンの追撃は間断なく、
「哀れな姿だ」
 ふいに扉の傍から声がした。
「魔導師が発動しない己の術に焦り次から次へと呪文を唱えてゆく様は、どんどん崩れて行く道に追い立てられてひたすら前へ走るしかない哀れな姿に見えるよな」
 部屋の入り口脇で壁に背を預け腕を組んでいた黒服が、大魔導師の言葉を継いだのだ。
 そして、
「前に進むだけがすべてではない」
 重なるナルバートンの小声。
「魔導に未来は無い」
 黒服の断言。
「良かったろう。お前が天眼を失うのと同じ焦燥を、レーテルの魔導師すべてが味わうんだ。優越を奪われるのはお前ひとりではない」
 淡々と告げてくるナルバートンは、醒めた目つきで新たなフラスコに蒼い小枝をぱらぱらと入れている。
 どうせ彼はこちらに欠片の興味も無い。
 ルミナスは険悪に笑った。
「……本当に、素晴らしく心強いことです」
 天眼の魔導師は精霊を飼う。
 精霊は見返りに魔導師の魔力を喰い、喰い尽せば去って行く。
 魔力を根こそぎ捧げた魔導師には、もはや天眼も魔導も残らない。
 しかし何故この男はそれを──ルミナスの魔力に底が近付いていることを──知っている?
 大魔導師はそう訊いてほしいのだろうが、自分より偉そうな輩の期待は端から裏切りたくなるのが昔からの性分だった。
 未だに治らない。
「魔導師の終焉を前にして、あなたは次に何になるおつもりですか」
「魔術師だ」
 訊いたこちらが面食らうほど明瞭に答えてきたのは、黒服だった。
「そう名付けた」
 続けたのはナルバートンだった。
 まる2人で1人の人間のように、あるいは打ち合わせでもしていたかのように、彼らの思考はシンクロしている。
「魔導は崩壊の一途を辿る。だがその魔導を別の形で完全再現することはできる。理論上」
「その新たな力で世界を崩壊から救うおつもりですか」
 本気で言ったわけではなかった。
 だが、彼らの否定は強かった。
「世界を救う? まさか」
「そんなもの救ってどうするんだ」
 緩慢に漂う香を裂いて、ふたつの哄笑が穴倉に響く。
「世界は死にゆく者を助けてはくれない。私も、死にゆく世界を助けない」
「平等だ。復讐でもある」
 言い置き唇を結んだ黒服の表情は、場違いなサングラスのせいで見えない。
 言葉の意味も、半分しか分からない。
 ──復讐?
「では、何のために新たな力を手に入れようとするんです」
 問えば、
「目的などない」
「意味も無い」
 案の定即答だった。
 そして、
「私が欲するから追うんだよ。それだけだ」
 ルミナスのすぐ後ろで新たな声が上がる。
 顔だけ背後にやれば、レーテルの濃紺ローブを羽織った学生が立っていた。
 華奢な銀縁眼鏡をかけた、生意気そうな男子学生。
 授業時間中寝ていても、教師に指されればスラスラと答えてしまうような、嫌味な青年。
「お前たちは、何者だ」
 頭痛の(きざ)しを押し留めてルミナスはうめいた。
『アルボル・ナルバートン』
 薬屋、黒服、学生、全員が小さく低く鋭く唱和する。
 時はそこで途切れた。
 一拍の空白。
 超えた次瞬、
<イージス!>
<狭域、光彩陸離!>
<ダグラム・モクス・グラディ!>
<トスエ・タクヤ・アレーア!>
 咆哮が重なり、空気が渦を巻いた。
 ルミナスを護る蒼い壁、自称ナルバートン3人を護る緋色の壁。
 飽和した白熱の光が扉を破って押し寄せる。
 割れた木片が宙を飛び、消し炭になり、黒服の放った強烈な光の奔流が迎え撃つ。
 激突は閃光を散らし、烈風を呼び、草を紙を器具を巻き上げ、木箱を踏み荒らし、視界を焼いた。
 瓶が音を立てて割れ、本が飛び、水差しが倒れる。
 魔導の盾があってなお肌が裂け、風圧に息が止まる。
 痛みと熱さが身体を疾る。
 時間にすればほんの数瞬。
 花火のように砕けた光は虚空に吸い込まれ、爆風は勢いを失くして溶け消える。
 しかしその数瞬がもたらした被害は甚大だった。
 もともと悲惨だった部屋が、もう収拾の付かない混沌と化している。
「アンタは……」
 そして時を置かず、薄い土煙を割って見慣れた影が現れた。
 だがその驚きに開かれた反社会的な両眼はルミナスではなく、真っ直ぐ、テーブルの前に座る薬屋を捕らえている。
「アンタは、どんだけ化け物なんだ」
 ツンツン天に反逆している黒髪、その耳元で揺れるオニキス。長くバネのある肢体、上から下まで黒尽くめ。
 腰には二振りの剣。
 見かけも変わらなければ、まとっている空気も変わっていない。
「魔導はふたつ同時には使えない。それが常識だ」
 彼は散乱したゴミ山を静かに避けながら入ってくる。
「アンタは魔導で自分のコピーを作り、コピーはそれぞれ防御呪文と攻撃呪文を担当した。今のはそういうことだよな?」
 いつの間にか、黒服と学生の姿は消えていた。
 しかしこれだけ空気を焦がしてなお、灰緑の香りは不気味に漂い続けている。
 切らすことのできない精神安定剤の如く。
「魔力はどうなってる。コピーそれぞれにアンタと同じだけの魔力が備わるのか? それともアンタひとりですべての魔導を動かしてるのか?」
「限界とは、自らが作る壁でしかない」
 薬屋が、倒れたビーカーを起こしながらぼそりと言う。
 傍らの烏も全く動じたところなく、背中の毛繕い。
「あぁ〜、そうですよね」
 深刻な驚愕から瞬時に一転、ルミナスの横に立った魔剣士が気持ち悪い愛想笑いを浮かべた。
 腰の低い、柔和な笑み。
「ひとりで出来ないことはみんなでやらないと限界は突破できませんよねぇ」
 刹那、
「痛ッ!」
 ルミナスの白金髪(プラチナブロンド)は鷲掴みにされ、部屋の外へと逃走が始まった。
「いっ、引っ張るな! 貴様!!」
 だが喚きも一瞬、すぐに見えない壁にぶち当たる。
 ナルバートンの結界だ。
 カゴの鳥。四方を囲まれている。
「仕事は完遂する主義でね。殺せと言われたものは殺すよ」
 大魔導師の宣言を聞き、フェンネル=バレリーがくるりと相手に向き直った。
 そして今度は見たことも無い爽やかな笑顔でひらひらと手を振る。
「お邪魔しました〜」
 言い終わるや否や、ぐんっと身体が引っ張られた。
「!?」
 ものすごい勢いでナルバートンが遠ざかり、カウンターの店番が遠ざかる。
 手を伸ばして追いすがってくる薬香を振り切り、御簾が視界から消え、鮮やかな店々は極彩色の帯となって後ろへ流れてゆく。
 遠心力で振り落とされそうになりながら、角を曲がる。
 まるで、天馬の荷馬車にでも載せられたようだった。
 ……乗ったことはないが。
 一陣の風となって目抜きどおりを突っ切ると、人々の驚いた顔が残像になる。
 騒ぐ声は意味を失いうねりながら遥か彼方へ。
 酔いそうだ。
「…………」
 角を曲がるたびの体重移動にもようやく慣れたルミナスは、横を睨み剣呑な声を上げた。
「バレリー、手を離せ」
「失礼」
 魔剣士が降参のポーズで両手を挙げ、掴まれていた髪が軽くなる。
 それと同時に、裂傷を負った頬がズキズキと痛み出した。
「ナルバートンが結界を張ったらその結界ごと結界を張る係、スヴェル。その結界をアンタのガイアの指示通り動かす係、マグダレーナ。この街は絶えず配置が変わるから、場所が入れ替わる瞬間を狙えばナルバートンから一気に離れられる」
 結界に背を預け前を見据えたまま、魔剣士が解説してきた。
 確かに、あの場所にナルバートンひとりしかいなければ、その計画で逃走は可能だ。
 ナルバートンは逃げる魔導師を結界で捕らえようとする。
 そうすれば彼はコピーを作ることも攻撃することも不可能になる。魔導師は一度に複数の魔導は扱えないのだから。
 しかしその計画には致命的な欠陥があるように思えた。
「ナルバートンが結界を張って足止めをするより、その場で俺を殺す確率の方が高くはないか?」
「これは、アンタが助かる確率を低くした計画だからな」
 さらりと言うフェンネル=バレリーは、結局最初から最後まで目を合わしてはこなかった。
「だがアイツは本気じゃなかった」
 畏怖を含んだつぶやきは、無視した。



「行かせてよかったんですか?」
 薬種屋の店番が主の部屋へ様子を見に行くと、相変わらずの流浪の民は片手ひとつを面倒くさそうに動かしながら片付けをしていた。
「……いいんだよ」
 彼の指の動きひとつで、割れた瓶は一箇所に集められ、焼け焦げた紙束がテーブルに積まれ、ひっくり返った木箱が元に戻されてゆく。
「別に困らない。今は」
 顔を見せた湿った地面。
 赤い林檎がひとつ、所在なげに転がっている。



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