幻獣保護局 雪丸京介 第六話

【白狐】



 幻獣。それは人々が創りだした命。
 それは人心の鏡。
 彼らはいつでもそこにいて──だが彼らの嘆きは、届かない。
 彼らの警告は、都会の灯に沈んでゆく。
 ……神もまた例外ではなく。


◇  ◇  ◇  ◇  ◇


「雪丸〜。いつまで茶ァ飲んでるんだよ」
 赤毛の少年・シムルグは、呆れた声で傍らの青年(?)を見上げた。
「いいじゃない。別に急いでるわけでもないんだから」
 返ってくる返事は予想どおりに能天気。
「そりゃそうだけどさ」
「そうでしょ?」
「…………」
 シムルグは少々ぶーたれて手にした湯のみを口へ持っていき、しかし空だと気付いてますますふて腐れる。
 その横では年齢不詳の優男が、目を細めながら未だ緑茶をすすっていた。
「いい眺めじゃないよ、シムルグ。お前さんも少しは風流心を持ったらどうだい?」

 古風な民家の縁側で、小さいながらも立派な庭を望みながら至福のひと時。都市に面した山の中腹であるせいか、庭からは大きなビルが乱立した街が一望できる。
 流離うふたりが訪れたこの街は、かなり発展した商業都市だった。
 ここでは魔術の概念が皆無であり、その代わりに自然科学が凄まじい進歩を見せている。
 無論、世界を牛耳る魔導協会の手下である雪丸が、ここについて全く無知なわけがない。この都市の生活環境というものが、とりあえずあの雲無し晴天な頭にも入っているらしかった。

“人々があくせく働いている灰色の街を見下ろして飲むお茶は最高だね”

 朗らかな笑みのままそんなことを言っていたのだから。

 ヘラヘラ優男の名は雪丸京介。魔導協会・外遊部門・幻獣保護局勤務。勝手に出張へ出回っている、薄給で不良な魔術師だ。
 そんな、ワガママでやりたい放題で放浪症でイマイチ何を考えているんだか合点が行かないような輩が、何故今もって協会職員でいられるのか。

 それは一重にこの男の実力……だそーだ(自称)。
 魔導協会すらも恐れるような魔術師ならば、その力を一度でいいから存分に見てみたいと思うが、シムルグが彼につきまとってからずっと、彼が本気を出したところなんぞ見たことがない。
 そもそも彼に“本気”なんて言う言葉があるのかどうかも疑わしいのだ。
 協会のお偉方の渋面が目に浮かぶ。
 
 胸中で毒を吐きながら、シムルグが雪丸を睨みつけ足をぶらぶらさせていると、
「こんな辺鄙な所、坊やは飽きちゃうよねぇ。ホラ、この間ご近所からもらったお菓子があったんだ。食べてみな。おいしいよ」
お盆一杯お菓子を山盛りにして、奥から小さなおばあちゃんが出てきた。
 道に迷って呆然としているふたりに声をかけてくれた、ありがた〜い人だ。
 しかしぽかぽか縁側に雪丸を座らせ、自慢だという自家製のお茶を出したのが運のつき。
 ひどく気に入ってしまった雪丸が石の如く動かなくなったのだ。
「ほんとだ。おいしいですねぇ。ホラ、シムルグ食べてみなさいよ」
 少年に出されたお菓子までを、彼はもうすでに遠慮なくつまんでいる。
 クセっ毛気味の黒髪を風に揺らし、吹けば飛ぶような長身をだらりんとさせ、端正な顔には満面の笑み。
「…………」
 あまりにも幸せそうな彼の様子に、シムルグは何故だかますます不機嫌になった。
「……いらない」
「もー。子どもなんだから」
 全っ然気にしていない雪丸の声にさらなるムカムカを抱えながら、少年は庭に下りる。

──勝手にしろよ、もぅ

 少年が降りていった先は、綺麗に手入れをされていて、それなのに造られた匂いがあまりしない、珍しい庭だった。
 小さな松やら楓やらが、秩序ありそうでなさそうに植えられている。
 夏も近い今となっては花なんてついていないけれど、それでもシムルグにだって水仙だとかツツジだとかの見分けくらいはついた。
 少年の姿をしているといえども、シムルグは鳥の王。知識だけなら雪丸にも負けない。
 奥の方で懸命に鳴き方の練習をしているのはウグイスの子どもだろうし、緑鮮やかな苔の上でじっとしているのはアマガエル。
 庭の隅にちょこんとあるのは、小さな祠。綺麗な新しい花が供えられている。
 シムルグはブラブラと気ままに歩くふりをしながら大きな沈丁花の茂みに隠れ、向こうに見える雪丸を盗み見た。
 彼は初夏を織ったような薄手のコートを羽織り、おばあちゃんと何やら楽しげに談笑している。
 ふたりの会話がやけに大人な内容だったから、ひとり除け者にされたような気分でいたのは……認めよう。大きな都市の住宅事情だとか、希薄で不透明な親子関係だとか、そんな話にはついていけない。
 普段のほほんとしていて何でも適当に片付けてしまう低年齢な雪丸が、おばあちゃんと破綻なく……むしろそれが本当の雪丸であったかのように会話しているのも気に食わない。
 それにも増して気にいらないのは、雪丸が自身の状態を全く省みていないことだった。
 お菓子を次々とたいらげながら相槌を打っている彼の顔には、疲れも病も憂いの一片さえも浮かんではいない。
 俗っぽい天使がいるとすれば、彼のことかもしれないと誰もが言うだろう。
 しかし彼は少し前に瀕死の重傷を負い、挙句の果てには協会にケンカを売って飛び出して来たのである。
 家出人。ならぬ職場出人。
 何を隠そう彼は、天使の仮面を被ったとんでもないトラブルメーカー。
 傷も完全には癒えぬうちに問題を起こしてトンズラ……もとい、出張して来たのだから、一刻も早く宿を取って彼を部屋に押し込めておきたいのが友人の心情ってものだろう。
──それなのにアイツ……ってばよ!
 そんなシムルグのイライラを知ってか知らずか、視線の先の大人な雪丸はお菓子の山に手を伸ばし続けていた。
「ん」
 その雪丸がふとお菓子を食べる手を止める。
 反射的にシムルグは首をすくめたが、優男の視線はこちらを見てはいなかった
「おばあちゃん、あの木は枯れちゃったのかい?」
 彼が指差したのは、庭にある一本の木蓮だ。
 シムルグが横に立って見上げれば、その木はまだ雪丸の背丈ほどしかなく、他の木々は青々としているのに、その枝には葉のひとつも付いていなかった。芽吹きの気配さえも感じられない。
「孫が結婚した時に、お世話になっている神主さんからもらったものだったんだけどねぇ。もう駄目かな。ここ数年葉がつかないのさぁ」
「…………」
 背中を丸めたおばあちゃんののんびりした口調を背に、雪丸がスタスタと歩いてくる。軽やかに、華やかに。
「……ふ〜ん」
 彼はペタペタと木蓮の幹をさわり、じーっと耳をつけてニヤっと笑った。
「おばあちゃん、この子、まだ生きてるよ」
「ん?」
「まぁ見ててよ」
 自信ありげにそう言うと、彼は普段やらない呪文の詠唱を始めた。
 シムルグにも呪文の意味はさっぱり分からない。……もしかしたらただ雰囲気を出すためだけのもので、本当に意味はないのかもしれなかった。
 人生そのものが芝居がかっているこの男なのだ、片田舎のおばあちゃん相手に素敵な魔術師を演じていたとしてもおかしくはない。
「あなたはだんだん夏にな〜る」
 ……バカらしい呪文。
 だが──……やはりこの男、協会が恐れるだけのことはあった。
 このバカバカしい呪文たったひとつで、今まで芽吹きの気配すらなかった枝に時間を早送りするがの如く青々とした葉が茂り始めたのだ。
 枯れ木に葉っぱを付けてみたくらいで、協会が恐れるかどうかはともかく。
「ね?」
「……おや、まぁ…」
 得意げに微笑む雪丸に、おばあちゃんが呆然とした顔で近づいてきた。
 目を大きく開き、口もぱっくりと開け、ただならぬ形相である、が。
 その顔は木を見ていてはいなくて……雪丸をじっと凝視していた。狂気をまとった視線が雪丸に刺さる。おまけに彼女は手をあわせ、ぶつくさぶつくさ口の中で唱えている。
「焔神様のお導き、焔神様のお導き……」
 言っている言葉は分かるが、意味が分からない。分からないだけにどうすることもできなかった。
「ゆ、雪丸……」
「ここで魔術はマズかったんだろうかねぇ……」
 マズかったと到底反省していないような口ぶりだったが、口元が引きつっているあたり、多少の自覚はあるらしい。
 彼は遠くを見、冷や汗をたらしながら言ってきた。
「トンズラしましょ」
「おうよ」
 ふたりが同時に回れ右をしたその瞬間。
 おばあちゃんがどさっと地面に土下座して叫んだ。
「現人神さま! どうか我が一族をお助けください!」


◇  ◇  ◇  ◇  ◇


「詐欺」
「…………」
「協会職員は他で仕事しちゃ駄目なんだぞ」
「……し、知ってるよ」
 後ろからぼそぼそと言ったシムルグに、憮然とした顔で雪丸が答える。
「でも頼まれちゃったんだからしょうがないでしょ」
「……無償でやれっつってんの」
「……お、お金はもらってないよ」
「お菓子いっぱいもらったじゃねぇか。お茶だって何杯飲んだんだ?」
「それくらい、いいじゃないさ」
 現人神サマは拗ねた口調でのたまった。

 ふたりは午後の陽光を浴びながら、ゴミゴミした住宅街を歩いている途中。
 上から見たとおり、下界はなかなかの居心地悪さだ。人はやたらに多いし、空気はまずい。乱立するビルに押されて空は狭く、礼儀作法がゴミ箱に捨てられている。無言のまま繁華街を抜けたふたりだが、住宅街に入っても状況はたいして良くならなかった。

“お母さんは?”
 自転車にひかれかかっていた女の子に雪丸が尋ねると、彼女はいたってのんびり答えてくれた。
“からおけ”
“…………”
 学生らしき団体さんが、バイクの爆音を立てて目の前を突っ切っていった。中年のおばさんがふたり、大声で怒鳴りあっていた。
「…………」
 これでもまだ雪丸の顔から笑みが消えなかったのは快挙といえようが、その薄っぺらな笑顔は空虚に乾いていた。まとった空気もどことなくやつれている。 
 が、刹那、──その目が丸くなった。
「どうした?」
「あそこに、また変な人がいるよ」
 彼が指差したのは2ブロックほど先の十字路だ。シムルグは目を細めて頑張るが、何も見えない。
「……誰もいねぇよ」
「そんなことないよ〜。ホラ、あの人。長い黒髪を上で結って、……なんだか線の細い男の人だなぁ……。この時代の人ではなさそうだねぇ」 
──線が細いって……そりゃアンタのことだよ。
 毒づきながらさらに目を凝らすが、やっぱりそんな人間は見当たらない。
「雪丸。やっぱ身体、調子よくねぇんじゃねぇの? 今日は休んだ方がいいぞ」
「……信じてないね?」
「だって見えねぇもん」
「まったく、世話の焼ける」
──どっちが!
 シムルグの心の叫びは完全に無視され、雪丸が彼の額の前で小さく円を描いた。
「何でも見え〜る」
──その呪文のセンスをもうちょっとどうにかしろよ。
 もはやツッコムことにさえ疲れてきた少年。疲れた目を上げた。
 と、
「あ、ホントだ」
「ねぇ?」
 さっきまでは誰もいなかった十字路に、若い……強いていえば雪丸と同じくらいの外見年齢な男が、ぼーっとどこともつかぬところ見つめたまま立ち呆けている。
 長い黒髪を高く結い、歴史なんとか館で見た覚えのある“袴”とやらを着けている男。美しい顔立ちだが、焦点の定まらない無表情はどこからどう見てもキ印さんで、おまけに雪丸よりもさらに希薄なその存在。
 シムルグは恐々として低くつぶやいた。
「……もしかして、アレ幽霊ってやつ?」
 雪丸を見上げれば、彼はいつものように飄々と首を傾げる。
「僕、幽霊は見えたことないんだけど」
「だって見えてるじゃん」
「うーん」
 幻獣は守備範囲だが、幽霊は守備範囲でない。話かけるべきかどうすべきか。
 シムルグには雪丸の心の声など丸聞こえだった。
 この優男にしてみれば、幽霊が見える見えないとか、幽霊がいるいないとか、そういうことは問題外なのだ。
 押すか引くか、足を突っ込むか留まるか。それ以外の思考回路はない。
 少年は眉間を押さえてやれやれと首を振った。すると、
「あぁ! 消えちゃった」
 唐突に降って来たのは残念そうな雪丸の声。
「消えた?」
「ゆらゆら〜、てね。空気に溶けるみたいにいなくなったよ」
「あぁ……そう」
 説明してくれる雪丸は実に楽しそうだ。しかし対照的にシムルグの顔は暗い。
「それってやっぱ幽霊じゃん……?」


◇  ◇  ◇  ◇  ◇


「何なの、アンタたち。アタシ、今忙しいわけ。分かる?」
 片手に手鏡を持ち、一心に眉毛を描いている女が言った。
「分かりますよ、あなたこれから息子さんの入院している病院に行くんでしょう?」
「違うわヨ! これからトモダチと飲みに行くの! 20分も待たせてるんだから、早く行かなきゃなんないのよ!!」
「…………」
 住宅街の一郭。
 先ほどの十字路のすぐそば。
 そこに、雪丸とシムルグの向かうべき家はあった。
 外見はなんら他の家と変わらない、特に形容するような特徴もない一軒家。
「……息子さん、高熱で入院していらっしゃるんですよね?」
 シムルグは、雪丸が言葉に詰まったところを始めて見た。
「そうよ。なんでアンタがそんなこと知ってるわけ?」
 女が眉を描く手を止め、胡散臭げに雪丸を睨む。赤茶けた長い髪をふたつに結び、派手な化粧をした(まだ途中だが)若い女だ。
 彼女も彼女で御世辞にも真っ当な人間には見えないが、しかし彼女に対峙している雪丸も雪丸。どこから見ても詐欺師かペテン師にしか見えない。子連れ詐欺師……。
 有無を言わさず玄関の内側まで足を入れ、扉を閉めさせない気配りなどは超一流だ。疑われるのも無理はない。
「僕はこういう者です」
 彼がずいっと差し出した名刺には、

『魔導協会 外遊部門
    幻獣保護局 雪丸京介』 

「は?」
 女の目つきが一層険悪になった。
「違います違います、裏面です」

『悪霊退治屋
     雪丸京介』

 グレードは上がったのか下がったのか。

「……警察呼ぶわよ?」
「あなたの息子さんは二週間も前から原因不明の高熱で苦しんでいらっしゃる。そしてあなたの旦那さんは仕事で失敗をして以来、人が変わってココを出て行った。お母様もこの前意識不明で病院に運ばれたし、叔父さんはこの家の階段から落ちて足の骨を折った」
 雪丸の顔には笑顔が浮かんだままだったが、口調は真っ平らだった。
 その目はカケラも笑っていない。
 しかもその視線は……目の前の女ではなく、家の奥へと向けられている。
「あなた自身も色々と切羽詰まっているでしょう? ……何か奇怪な出来事はありませんでしたか?」
「……どうしてそんなにウチのことを知ってるのよ」
「そういう稼業ですから」
 名刺を指差しながら、雪丸が世にも暖かい微笑で肩をすくめた。
──全部おばあちゃんから聞いたクセに……
 シムルグがさりげなく上へと渋い視線を送るが、当人はどこ吹く風。
 実はこの悪霊退治屋、さっきお茶をいただいたおばあちゃんに現人神と崇められたあげく、孫の不幸を救ってやって欲しいと頼みこまれてやってきたのだ。
 嫌なモノは嫌と我を張るタイプのこの男だが、お年よりの頼みは断れないらしい。
 ちょっと困って苦笑をしつつも、引き受けてしまった。
「……アタシは忙しいって言ってんでしょ!? 早く出てってくんない!?」
「息子さんが苦しんでいる時に遊びに出かけるから忙しい? ……冗談はやめなさいよ。すべてあなたのせいだっていうのに」
 雪丸の声はいたって穏かだ。
 嵐の前の静けさのように。
「あのねぇ。そうやって分かったよーな説教されんのがアタシ一番嫌いなの。ばぁちゃんも母さんもそうなんだけどさ、アタシはアタシ。息子は息子なの。どうしてあいつが病気だからって、アタシが遊んじゃいけないわけ? アタシとあいつはふたりでひとつなわけ? それこそ冗談じゃないわよ」
 女はそう言いながらも、イライラと腕にした時計を見やる。
「ホントにさぁ、何しに来たか知らないけど、迷惑なのよねェ」
「おばあさんにとってはあなたの存在が一番迷惑なんですけどねぇ」
「…………」
 シムルグは息を止めた。
 だが、雪丸は相変らず笑みを浮べていて、女は顔色のひとつも変えていない。
 それどころか、
「あたしもはっきり言ってばぁちゃん迷惑。うるさいんだよねー、細かいこと色々」
そう言ってくる。

 刹那──
 会話が途切れた一瞬の静寂を破って、荒んだ家中に大音響が響いた。
 凄まじい破砕音が重なり……そして再び、沈黙する。
「……雪丸?」
 シムルグが雪丸を見上げれば、彼は眉をひそめ目を細めて、じっと家の奥を見つめていた。



「………な、何なのよこれェ……」
 女がつぶやき立ち止まったのも無理はない。
 台所にあった食器棚の皿がすべて、床に身を投げて粉々に割れていたのだ。
 例外なく、すべて。
 無論、足の踏み場はない。
 皿の散乱以前に足の踏み場があったかどうか、充分疑わしいような台所ではあったけれども……。
「今までにこういうことは?」
 いつの間にか上がり込んだ雪丸に、しかしもう女は抗議しなかった。
 不可解な破壊を前にして、たとえ詐欺師でもいた方がいいと思ったのだろうか。
「こんなのはないわよ」
「こんなのは?」
「ばぁちゃんが勝手に作っていった神棚が落ちたり、本棚が倒れたり、……不思議っちゃ不思議なことならいっぱいあったけど、……なんなの一体これは!! これを片付けろって言うワケ!? アタシ忙しいのに!! アンタが来てこうなったんだから、アンタ片付けてよね!!」
──ヒステリーな女は嫌だね。
 シムルグはそっと雪丸の後ろに回りこんだ。
 当の彼は形よいアゴに手をやったまま、らしくもない表情で考え込んでいる。
 女の甲高い叫びなどBGMにも聞こえていない様子で、じっと砕けた皿の山を見つめたままだ。
「ちょっとアンタ!! 聞いてるの!? アタシはこれから出かけなきゃなんないのよ!? どう責任取ってくれるの!!」
「…………」
 雪丸は彼女に一瞥やって、しかし何も言わずに踵を返す。
 シムルグも無言でそれに従った。
「待ちなさいよ!! ホントに警察呼ぶわヨ!!!」
 雪丸が眉間にシワを寄せながら足を踏み入れたのは、ずっと彼が視線を送っていたこの家の一番奥の部屋だった。
 六畳ほどの小さな小さな部屋。畳と障子と、……そして累々と積まれたワケの分からない荷物。おそらくここは、物置として使われているのだろう。どちらかといえば、ゴミ箱に近そうだが。
「やっぱりお前さん、この家に関係あるんだね?」
 雪丸が虚空に言った。女はぎょっと彼を見、シムルグは目をこする。
 そこに居たのは──ゴミの山に鎮座していたのは、さっきの幽霊だったのだ。


◇  ◇  ◇  ◇  ◇


<…………>
 幽霊の切れ長の目が雪丸の方へと向いた。
 金色の、怜悧で嘘偽りのない瞳。端正な顔立ちやら優しげな体躯やらとは全く逆の、恐ろしいほどに冷えた視線。今度は焦点がきっちり定まっていて、真っ直ぐこちらを見ている。
 そしてその目がふっと笑った。
<貴様は、何者だ?>
 雪丸は、だがその問いには答えなかった。
 ムスーッとふくれっ面をしている女に向き直り、彼女の額の前で円を描く。
「見えるようになりました?あの人が」
「…………」
 しばらく目をぱちぱちさせていた女だったが、やがて一点を凝視したまま動かなくなる。
「だ、誰よアレ…………まさか幽霊とかっていうわけ? 悪霊ってわけ……?」
 熱に浮かされたようにそうつぶやいて。
 そんな彼女を雪丸はしばし無表情で見、再び幽霊へと視線を戻す。
「お前さんは幽霊なんかじゃない、“狐”だね?本来この家を守っているはずの狐だ」
<ただの狐だと思うか?>
「──いや。お前さんは……いわゆる霊狐の類だろう? 稲荷狐とも違うようだし。あの子たちは神の使いだけど、お前さんは違う。お前さんは自身、神の領域だ。そうでしょ?」 
 なかなか分かるやつだと言って幽霊……いや、狐は口の端を吊り上げた。
<我は白狐、名は焔(ほむら)。察しの通り、神と言われて久しい。……で、貴様は何者だ?>
 楽しげな物言いだが、彼──焔の瞳は凍りついたままだ。神格ゆえの怜悧さか、それとも……シムルグは背筋に寒気を感じて、雪丸の薄コートの裾を握った。
「僕はしがない悪霊退治屋だよ」
 返す雪丸の言葉は素っ気ない。
<我を退治にきたか?>
「……いいや」
 悪霊退治屋は悪霊退治屋ならぬ返答をなさった。
「そんな疲れることはしないよ。神様を葬るなんて罰あたりなこと、僕はごめんだ」
「こいつがウチの不幸の原因なのね……!?」
 ふいに横から女が叫んだ。
「こいつが、こいつが……!! こいつがずっとアタシを苦しめていたのね!?」
 熱をこめて、憎悪をこめて罵声を上げる女に対し、気のせいか焔の瞳には冷たい霞みがかかっていく。彼は嘲笑うようにしてアゴを上げた。
<女。我が元凶だとしたらどうする? 塩でもまくか? そこの退治屋は我を消さぬと申しておるぞ>
 線が細くて気弱そうに見えるのは単なるみせかけ。
 焔は随分態度がでかい。……それが神様ってもんなのだろうか。
「退治屋なんていくらでもいるわ! テレビでいっつもやってるもの!」
<今この場で取り殺してやってもいいんだがな>
「言ってなさいヨ!! 恐くなんかないんだからね、電話一本でアンタはあの世行きなんだから!」
<人間なんぞに屈する我だと思わん方が身のためだ>
「──アタシの幸せを返しなさいよッ!!」
 終いには、彼女は焔に向かって手当たり次第モノを投げつけ始めた。投げつけられたものは焔を素通りし、派手な音をたててさらなるゴミの山となってゆく。
「あんたのおかげでみんな入院しなくちゃいけなくて金は出て行くし、そのみんなの面倒見なきゃいけなくて遊びにも行けないし、アタシひとり仕事しなきゃいけないし、あんたのせいでアタシの人生は台無しになったのよ!!」
「いい加減になさい!」
「…………ひぇ」
 雪丸の怒声にシムルグは驚いて一歩下がった。その顔色を伺えば、彼はいつもよりちょっと真面目な顔をしているだけ。
 だが、いつもがいつもなだけに……恐い。
 無論、いつもを知らない女は痛くもかゆくもなかったようだが。
「なーんでアンタに怒鳴られなきゃいけないわけェ!? アンタ、こいつ追っ払ってくれないならさっさと出てってよ! もっとスゴイ人よんで消してもらうんだから!!」
「あなたが不幸の元凶なんですよ」
<──貴様>
「うっさいわね!!」
 焔が驚いた表情で雪丸を見、女は相変らずのムクレ顔。
「あなたが焔に……この家の守り神である白狐に、こうさせているんですよ?」
「意味分かんない」
「稲荷狐は元来農業の守り神。けれど白狐は商業の護り神。本来ならお金の廻りをよくしてくれる神様なんです。きっと焔は元々あなたのおばあさんのところにいた白狐」
 シムルグはあの庭の片隅にあった祠を思い出した。小さな小さな、けれどよく手入れされて、新しい花が生けてあった祠。
──あれはこの神様の家だったのか……。
「おばあさんがあなたのために神棚を作ってくれた時、きっとおばあさんは焔をあなたに譲ったんでしょう。あなたに幸せになって欲しいがために、一族の大事な守り神をあなたのもとへと送ったのです」
<…………>
 焔が何も言わないところを見ると、雪丸の言っていることは大方当たっているらしい。
「それじゃあ、ばあちゃんが元凶じゃない」
「元凶はあなたです」
 雪丸の顔からは笑顔なんてとうに消えている。
 真摯な役人の顔がそこにはあった。
「言っているでしょう。焔は守り神であって、本来あなたに仇をなすような者ではないのです。それを悪霊たらしめたのは全てあなたの行いなんですよ」
「……そーやってまた説教するんでしょ。言っておくけどね。あたしがどう生きようとあたしの勝手。私の自由。誰にも口は挟ませないから」
 女の顔も真剣だった。
 必死に自分の領域を守っている。
 守るべきものをすべて外に置いてきた、空虚な領域を。
「あなたが、あなた自身の幸せを遠ざける行いをしているから、焔はそれを正そうと必死になったんです。あらゆる警告を出し、あらゆることであなたの行動を阻害し、あなたにあなたの行いを気付かせようとした。……あなたが彼を悪霊にしたんです」
「だから説教はいらないって言ってるでしょ!!」
「説教じゃありません。これは警告です」
「警告もいらないわよ! 何でもいいからアタシの邪魔をしないで!! アタシの幸せを邪魔しないで!! アタシはアタシのやり方で生きるのヨ! 子どもと親は一心同体!? そんなのゴメンだわ。アタシはアタシなのよ」
「あなた以外の全部を犠牲にしたあなたなんて、世界は許しておきません」
「何? 逮捕でもする? 裁判にかける? 罪名は何かしら? “自由に生きている”? それなら本望よ!! アタシはね、遊ぶ金は自分で作って遊んでんのよ、誰にも文句は言わせないわよ」
「自身のためだけに生きていては、誰もあなたを見なくなりますよ」
「アタシはアタシの人生、アタシの望むように生きるの! 金作って、いっぱい遊んで、アタシはアタシのために生きるのよ」
 女は今度、手当たり次第雪丸に物を投げつけ始める。
「どうしてみんな分かってくれないのよ! アタシのやりたいようにやって何が悪いのよ!!」
 雪丸は平素な顔でぱちぱちと指を鳴らし、向かってくる凶器すべてを蒸発させてゆく。
「邪魔をしないでよ!!」
「…………」
彼の顔横を大きな時計がかすってゆき、雪丸はすっと目を細くする。
「消えろ」
 たった一言。
 この男のたった一言で部屋にあった全ての荷物が一瞬にして消え去った。
 跡形なく、音もなく。
<…………>
「………アンタ……」
 焔が小さく眉を寄せ、女が小さく喉の奥でうめいた。雪丸は無表情で明後日の方を向いていて──そして、底冷えのする声音で告げた。
「──大人になりなさい」


 内へ向かう正義と外へ向かう正義。
 ふたつがぶつかりあった時、そこに妥協はなく、神の警告をもってしても正す術はない。互いにそれが“正義”であると固く信じているのだから。
 神をも恐れぬ行いは、無論神の怒りを招き、しかし時として神をも黙らせる。黙らせたと、当人は思う。それが神に見捨てられたのだとも知らずに。
 目に見えぬ者の言葉は届かない。
 神を忘れ、世界を忘れ、そこに一体何が残されるだろう。見捨てられた者たちは、何処へ向かって進んでゆくのだろう。
 彼らにはもう、誰の言葉も届かない。
 彼らにはもう、世界の姿が見えない。
 自らの姿さえ、見えない。


◇  ◇  ◇  ◇  ◇


「焔は僕が連れて帰ります。これ以上ここにいたら本当に悪霊になってしまう」
<勝手に決めるな>
「じゃあ残るかい?」
<いや……>
 長い黒髪を揺らして焔が首を横に振る。
「いいですね?」
 雪丸がいつもの微笑で笑いかけると、女はやはり不機嫌な顔のまま吐き捨てた。
「そんな悪霊いらないわよ。さっさと持っていって。それからばあちゃんに言っておいてくんない? これ以上変なモノよこさないでってね。私の生き方を邪魔しないでって」
「──分かりました。それじゃお騒がせを致しまして」
 シムルグは雪丸に背中を押されて玄関を出た。
 そして最後に焔が出る。
 女は当てつけだろうか、物凄い勢いで扉を閉めようとして──だが途中で固まった。どんなに引いても、閉まらないのだ。
「ひとつ言っておきますよ、お嬢さん」
 雪丸が肩越しに彼女を振り返る。
「“自由”っていうのは必ず“責任”っていうものが付いてくるんです。責任のない自由は、自由ではありません。それは夢心地の毒薬です。……すぐに、身を滅ぼしますよ」
 彼はにっこり微笑み、そして今度こそ完全に背を向けた。
 もったいぶりながら腕を挙げ、ぱちんっと指を鳴らす。

ばたんッッ

 女の悲鳴を内に引き込みながら、扉は盛大な音をたてて閉まった。
 雪丸はもはや振り向きもしない。てくてくとマイペースに灰色の道を歩いて行く。
 変わらず、にっこりと微笑んだまま。


◇  ◇  ◇  ◇  ◇


<かたじけない>
 夕闇迫る山道のど真ん中で、焔が深々と頭を下げた。
「神様に頭なんて下げられたら寝覚めが悪いよ」
 雪丸が笑って焔に頭を上げさせる。
<我は昔あの一族の先祖に助けられてな。それ以来守り神として祀られ、我も彼らに繁栄を約束してきた。だが……>
「気にするんじゃないよ。自分が至上だと思っているような輩に、幸福を得る資格なんて元々ないんだからさ。おばあちゃんにはこう言うよ。“神をもってしても、お孫さんの不幸は撃退できませんでした。あれは本人の問題です”ってね。大方嘘じゃないだろう? ま、おばあちゃんは僕のことを神様だと思ってるんだけど」
<…………>
 焔の瞳はあの家から解放された今でも、鋭利で凍っている。
 彼は雪丸よりも背が高く、雪丸よりも儚げで、雪丸よりも真面目。
「お前さんはよく頑張ったよ。ホントの家に帰って休みなさい」
 雪丸が無責任な笑顔のまま、ぱたぱた焔の肩を叩いた。
 隙のない焔と隙だらけの雪丸。能天気な雪丸と気難しげな焔。
 ふたりは相反していて──しかしふたりの深淵には同じなにかがあるように、シムルグは感じていた。
 ふたりは似ているのだ。
 どこが?
 それは分からない。
 だがふたりは、似ているのだ。

<神も、全能とはいかんな>
 神様らしい綺麗な顔立ちに、神様らしい威厳のある言葉づかい。……なのに焔はそのふたつが一緒になると、どうもそぐわない。おまけに気を抜きでもしたのか、焔の後ろで真っ白な尻尾が揺れている。シムルグが思わず失笑すると、いきなり焔に首根っこを掴まれて猫のように持ち上げられた。
<坊主、何か言いたそうだな>
「いいええ、何も!! そ、そうだ雪丸! いいのかよ? あの女、あのままで」
 少年は焔の睨みから逃れるように言い募る。
 しかし雪丸は要領を得ないという顔で首を傾げてきた。
「あのままって?」
「守り神の焔を引き離したら、あの女、もっと不幸になっていくんじゃねぇの?」
「………さぁ、そこまでは分からないけど…。そうだ、焔。息子さんの熱は下げてあげなさいよ。悪いのはあの親なんだから。それにあの人、子どもに祟って気にするような人間じゃなさそうだったでしょ」
<あれは我ではない>
「は?」
<あれは我の祟りではない。子ども自身の、心理的な抗議だろう>
 焔の声に怒りが滲み、視線はキッと零下になる。金色の双眸に霜が降り、途端に恐い顔になる。やはり焔の瞳が冷えているのは、内に渦巻く“怒り”のせいなのだ。
“神の怒り”
それは知る者にとって触れるに恐ろしい。神を怒らせたら最後、一族皆殺しも稀ではないのだ。
 祟られ、滅びを被った人間の数は数知れず。
 それができなかったのは、ひとえに焔の優しい性質ゆえのこと。
 他の神であったら、あの女はもうこの世にいなかったに違いない。
 どちらが世界にとって良かったのか……。
「なぁ」
 シムルグは焔につままれたまま、雪丸に言った。
「どうしてあの女を改心させないで、あんな中途半端で終らせたのさ。いつものお前なら……」
「あのねぇ、シムルグ。人がそう簡単に改心するもんだと思うかい?」
雪丸がため息をつきながら焔から少年をつまみあげ、真正面でしかめっ面をした。

「僕は困っている幻獣の面倒は見るけど、聞き分けのない人間の面倒を見るなんてごめんだよ」



THE END

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長いあとがき

 

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