幻獣保護局 雪丸京介 第十五話
獏の見る夢
後編
片腕と……足も折れているのだろうか、石段を掴んだ片手だけが男の身体をどうにか境内へと引きずりあげる。
泥に塗れ、あちこちに裂傷がのぞく男は、それが最後のあがきであったのか冷たい石の上でうずまりぴくりとも動かなくなった。
「…………」
しかし雪丸が助けに行くことはない。これは、獏の見ている夢なのだ。現実の過去をなぞる、悪夢に過ぎない。
と、時を置かず本殿奥から人が出てきた。祭りの中で桔梗色の袴を身に付け子ども達を従えていた──否、神々が慕っていた──あの宮司である。
手にしているのは鬼灯色の傘。眼鏡の奥の穏かな双眸には狐につままれたような半疑の色。
しかし神社の入り口に倒れている人間を視界に認めるや否や、彼は傘を放り出し、泥がはねるのも構わずに駆け寄った。
<私が教えたの。人が倒れているって>
少女が自慢げに言う。
<教えなければ良かったのに>
少年が吐き捨てる。
<あのぼろい人が死んじゃえば良かったってこと!?>
少女が頬を膨らませた。
「神様は人を助けるのが仕事だよ」
どちらへともなく、雪丸が言う。
「神様“は”なんて嫌な言い方だね。神様“も”に訂正しよう」
“も”。
加えられたものが何なのか、シムルグも霜夜も、神々も訊き返そうとはしなかった。
獏が見る夢の世界は日めくりカレンダーのようにぺらぺらと進んで行く。
あの行き倒れ人は、神社の裏手にある宮司の家で看病されているらしかった。
太陽が昇り朝日が白露を照らすたび、村人たちが畑で取れた野菜を持ってやってくる。お加減はどうかね、薬草は足りているかね、と。
太陽が傾き空が茜色に染まるたび、子どもたちが笹船やら花の冠やらを作ってはやってくる。明日はあの人と一緒に遊べる? 蛍狩りに連れていってあげたいの、と。
そしてふたりの小さな神々は、日々子ども達と一緒に境内を駆け回る。
息を殺してセミ取りを見つめ、いきなり突風を吹かせて若いまつぼっくりをばらばら落としてはキャーキャーと走り回る。
小川で捕まえてきたという小さな魚がバケツの中で泳ぐのを眺め、田んぼで拾ってきたというタニシがのっそりと動くのをじっと見つめる。
宮司が切り分けてくれたスイカを頬張りながら、彼が聞かせてくれるたくさんの昔話に耳を傾ける。
夢の中の自分たちを見つめる神々は、口を引き結んでいた。
煙草をふかし続ける霜夜は、本殿に彫られた獏へと目をやっている。
雪丸は郷愁にどっぷり浸り、にこにこと笑っている。
しかし天候はすぐに変わった。夢は切り替わった。
またしても、雨が降ってきたのだ。
凶兆を思わせる稲光が急に暗くなった西の空に閃き、重々しい雷鳴が山々に轟く。
湿った速風が青々とした稲田を過ぎ、黒々とした雲を運ぶ。
鳥の姿が見えなくなり、家に入れと呼びかけあう人の声が二、三したかと思ったら、降ってきた。
夕立なのだろうその横殴りの雨は木々を叩き、屋根を叩く。
道には小さな川が出来、水路の水は茶色く濁る。
「元凶が来た」
雨音にかき消された雪丸の声。
かろうじて拾い聞いたシムルグがそちらを見ると、神社の入り口にはひとりの男が立っていた。
傘も差さず、だがその衣が濡れている気配はない。目の覚めるような蒼い外套も、霜夜を更に凍らせ鋭くしたような相貌も、濡れていない。
シムルグの座る高欄から彼までの距離は相当あったが、少年の目には男の口の動きがはっきりと見えた。
“ようやく追い詰めた”
自分だけにそう囁いて、蒼い男は本殿の裏へと滑るように歩いて行く。足音を立てず。足跡も残さず。
そしてしばらくしてふたりの神がバタバタと本殿を出、まっしぐらに村へと降りて行く様子が映される。
<助けを呼ぼうと思った>
少年が雪丸の隣りで言う。
<でも無駄だった>
少女が継ぐ。
神々の啓示を受けたのか、雨降りしきる中神社の階段下に集まった村人たち。
彼らが仰ぎ見た先には、魔導協会の蔦紋章をつけた蒼い魔術師の姿と、後ろ手に縄をかけられた宮司の姿があった。
雨などものともしない凛とした声音で、魔術師が告げる。
「私は魔導協会司法部門、広域魔導捜査局の者です。貴方たちが匿っていたあの男は我々が長年追っていた重罪人ですが──貴方たちはそれを知っていましたね?」
村人たちは首を縦に振ることも横に振ることもしなかった。
「彼は犯人隠匿の主犯罪で捜査局が身柄を拘束します。貴方たちも、幇助の罪で全員身柄を拘束させていただきます」
潮騒のようなざわめきが寄せて引いた。
蒼の魔術師は一言一言、容赦なく突き刺してゆく。
「あの男は、ある意味殺し以上の重罪人です。それを知りながら協会に届け出なかったのは極めて遺憾。先例になっては困ります。もちろん個別に罪の大きさ等調査することは当たり前ですが、“村”として厳罰となるだろうこと先にお伝えしておきます。二度とここへは帰れぬだろうと、覚悟ください」
「みんなは、行き倒れの男が重罪人だって本当に知っていたの?」
夢の中で超然と背筋を伸ばす蒼い局員の背中を眺め、雪丸が獏の背中を撫でる。
<上月(宮司)は知ってた。村の人は知らなかった。上月が隠してたから。でも、みんな薄々分かってた>
「ふうん」
意を測りかねる曖昧な返事を残しただけで、雪丸は口を閉じる。
<あの蒼い人、彼を殺しちゃったのよ。行き倒れの人を>
少女が汚れを払うような動作をした。
<せっかく元気になってきたところだったのに……>
場面を思い出したのだろう、語尾に嗚咽が混じる。
「宮司を殺さないだけの常識はあったんだな」
霜夜の軽いつぶやきは何のフォローにもなっていなかった。
<せっかく助けたのに、一瞬で灰になっちゃった!!>
少女が声の限り叫び、夢は途切れた。
「なぁ、殺し以上の重罪って何だ?」
夢から目覚めた獏たちと戯れる神様ふたりを横目、シムルグは松の木に腰掛けたままの雪丸に問う。
現実は薄暮の時を迎え、紫に青、橙に緋色、そして赤や黄色、白……混ぜた絵の具の水を流し込んだ空色の下、神社は黒い影になりつつあった。ひぐらしの鳴き声が黄昏に拍車をかける。
「魔導師であること」
「は?」
反射的に訊き返すと、雪丸はひょいと肩をすくめてきた。
「そういう人種がいるんだよ。魔術師じゃなくて、魔導師」
「一文字違いで存在が否定されんのか?」
「世界はかつて、魔導師の手によって滅びかけた」
霜夜がまた煙草を燃やした。だが、もう一本吸う気はないらしい。
「魔導師は魔術師と比にならない力を持っている。因果応報で魔導師そのものも滅んだが、まだ生き残りがいる」
彼の目が、初めてシムルグに向いた。
「変だと思わなかったか? 少年。魔術師ばかりの集団なのに組織の名は“魔導協会”」
──確かに。
「その名に隠された使命は“魔導師”の根絶。保護局だの何だのは目くらましだ。魔導協会は司法部門で始まり司法部門で終わる」
なげやりだった男の口調が、だんだん硬質な金属味を帯びてくる。
そこに刺される雪丸の釘。
「僕はそんな墓場に埋められる気はないよ」
組んだ手の上にあごを乗せ、上目遣いに笑う。
「間違っていようが、愚かだろうが、僕は僕のやり方しか知らない。僕はどこまで行っても内なる反逆者だよ」
陽が落ちて、幾分涼しくなった風が彼の黒髪を揺らした。
主のいなくなった神社に暗影が張り付く。
「雪丸」
「何」
「お前は──どこへ行くつもりなんだ」
一瞬だけ魔術師達の視線が交錯し、ふいと雪丸が逸らす。
彼はゆっくり立ち上がって伸びをした。
「僕がどこへ行くかって? そりゃ行きたい方へさ」
霜夜が小さく舌打ちをして松の木から背中を離す。
合わせて雪丸がパンパンと手を叩いた。
ふたりの神と二頭の獏。じゃれあっていた動きがぴたりと止まる。
「はいお終い。はいお別れ」
人殺しよりも重い罪──魔導師であるというそれだけ──の人間を助けたあの宮司は、捜査局本部に連れて行かれた。村人たちもまた、協会の監視が強い地区へ連れて行かれた。
村としての処罰は、「廃村」という形が取られた。
法律の本が教えるままに。
もうここに人が住むことはない。
時の流れに任せるまま、田畑は草木に覆われるのを、家々は朽果ててゆくのを、待つだけ。
タニシはどこへ行くだろう。小さな魚のいる小川へ引っ越すだろうか。だとしたら、シラサギもそれについて行くのだろうか。もう少しで熟すはずのスイカは誰のものになるのだろう。人がいなくなり山から降りてきたイノシシの親子が蹴り割って食べるだろうか。得体の知れない誘拐犯に追いかけられることもなくなって、セミやトンボは胸を撫で下ろすだろうか。
「君たちは、山の神でもなければ川の神でもない。村のみんなが生み出した神様だ。だから彼らがいなくなれば、君たちはそのうち消えてしまう。それは嫌でしょう?」
雪丸がふたりを手招いて地面にヒザをついた。
<嫌じゃない。ここにいたい>
<みんながいないなら、消えちゃったっていいよ>
「よくないよ」
右手を少女の肩に、左手を少年の肩に。雪丸が置くと、その間から二頭の獏がずぽっと顔を出す。少女が鼻先を撫でた。
「君らは、みんなにとっての故郷なんだから」
≪故郷?≫
幼い声がハモる。
雪丸が芯から笑った。……そう見えた。
「そう。故郷。彼らを創った者って意味」
火を灯す者のいない灯篭。霜夜が指を鳴らすと、薄紙の中のロウソクに小さな明かりが点いた。
煙草の火よりも柔らかく、闇に寄り添う焔の明かり。
「この場所がそして君らが、彼らを創った。村の人、宮司さん、最期ここに辿り着いた魔導師、君らの分身であるこの子たち(獏)、それから君ら自身。この村と君らがすべてを創った」
≪死んじゃった、あの人も?≫
「そう」
雪丸が遠い目をした。
「彼もこの場所に何か感じたはずだよ。故郷は人を創る。命を育てる。だから人は何か失われるたびに胸を痛めるんだ。川が潰れた、森がなくなった、田んぼが消えた。あるいは、いつも買いに行っていた煙草屋がなくなった、シンボルみたいだった大きなお屋敷が壊された、子供で賑わっていた学校が廃校になった。そう言ってはぽっかり開いた穴を見つめる。何故哀しい? 何故落ち込む? それは、失われたものがその人を創る石のひとつだったから。その人にとっての故郷だったから。──君らが助けた魔導師も、ここで石を拾ったはずだ」
故郷が消えた喪失感。
何気なかったものほど、失わないと気付かない。
取り戻せないものほど、手放してしまう。
≪私たちがいなくなるとみんなが悲しい?≫
「そう」
──故郷。
シムルグは三十の鳥が集まった鳥の王。思い出される風景は両手に余る。“シムルグ”として雪丸に付いてまわった風景も数知れず。
自分の身体を見下ろせば、その全てが足の先から指の先まで満たしているような気がした。もう二度と足を踏み入れることのないかもしれない街の色はいつも同じで、声をかけてくる人々の顔もいつも同じで。
「君らがいなくなるとみんな悲しい。だけど君らはここにいたら消えてしまう。だから霜夜の言うこときいて局へ行くんだよ。ここは、石になって君たちの中に残るから」
≪…………≫
「神様と霊獣では手続きが違うから君たちは霜夜が、獏たちは僕が連れて行くけど、またすぐに一緒にいられるようになるんだよ。別の場所でだけど」
≪ほんと?≫
「本当だ」
こういう時は、へらへらした雪丸よりも霜夜の言葉の方が重さがある。
真実の重さ。
≪そうなんだ!≫
ふたりの神様は手を取り合ってぴょんぴょん飛び跳ねた。
神の恵みの和魂を司る少女。神の怒りの荒魂を司る少年。ふたりは何があろうとふたりでひとつ。彼らを護る獏たちも彼らの一部。彼らを育んだこの村も、この地も彼らの一部。
そしてそれは村人たちも同じこと。
「村がなくなって人が離れても、神様が住めなくなっても、君らがいる限り村の人たちがどこかで生きている限り、ここは姿を変えない」
生きている限り、故郷は消えない。
「ここが故郷となったように、新しい場所もやがて君らの故郷になる」
遠くへ行くたび故郷は増える。石は積み上がる。
「──行きますよ」
霜夜が歩き出し、境内を斜めに突っ切り始めた。
≪はぁい≫
白い振り袖をはためかせながら、小さな神々は魔術師の後を追う。
≪また後でね≫
雪丸がひらひらと手を振り、二頭の獏は牛の尻尾をゆらゆらと揺らす。
彼らは決して口にしなかった。
宮司を助けてくれとは。
小さくとも神。彼らには優男の内面が見えていたのかもしれない。
願えば、この男はやろうとするだろう、と。
けれどそれはこの男に生きるか死ぬかほどの選択を迫ることになるかもしれない、と。
分かっていたのだろう。
内なる反逆者は法という壁の前に立ち尽くす。それが世界の根幹であると知っているが故に。
霜夜に連れられた神々の姿が段下に消えると、優男が腰に手をあてほっと息をついた。
「疲れた」
もちろんシムルグは異を唱える。
「疲れたァ? お前ただ座ってただけじゃん」
そりゃそうだけどねぇ、そう言って雪丸は顔をしかめてきた。思いっきりマズイものでも食べたような顔。
「司法部門の話は苦手なんだよ」
彼が耳を塞ぐ真似をする。
「……あ、そ」
それは意図された動きではなかっただろう。
けれど、何故かその何でもない仕草は少年の脳裏にくっきりと焼きついた。
善意も悪意も区別なく、飛び交う言葉のすべてを拒絶する──この魔術師の底辺で眠る願望の表れなのではないかと──感じたのかもしれない。
「蛍がいる」
少年の思いを知ってか知らずか、不良役人は呑気に言って村を見下ろす階段に座った。横には二頭の獏が大人しく並び、シムルグは雪丸の後ろに立つ。
「人の悪夢は獏が食べる。獏の悪夢は──故郷が癒す」
背後が再び騒がしくなった。
振り向けば縁日。
提灯が作るいくつもの光の輪、麻縄を引かれ山に響く鈴の音。
狐面の子供がかき氷を片手に金魚のプールをのぞきこみ、団扇を持ったおばちゃんがもろこしを網に並べてせっせと焼く。香ばしい匂いをのせた煙は、藍色の空に黒々と影を落とす松の神木へと昇ってゆく。
シムルグの身体を通り抜け、向日葵のワンピースを着た少女が境内へ走って行った。
「お前の魔術?」
訊けば、優男が軽くうなずく。
そして彼は傍らの獏の首に顔をうずめ、囁いた。
「ごめんね」
その言葉に返したつもりか、草むらの中で明滅する黄色い光。
「…………」
シムルグが魔術師から目を離して村を臨めば、数え切れないほどの蛍の光がちらちらと漂っていた。
風吹くたび青々と波打つ田んぼにも、火の入れられていないブタの陶器が置きっぱなしになっている家々の縁側にも、桜模様の継ぎが施された障子戸のまわりにも、数多の光が舞っている。
夕闇にふらつく、頼りなくて微かな光。
村中に溢れていた。
旅立つ神々を見送るように、最後の祭りに参るが如く。
どこからどこまでが魔術師の夢なのか分からなかった。
「すげぇな」
初めて見る幻想に、シムルグはただそう言った。
それしか言える言葉はなかった。
「シムルグ。遠くに行こう。遠く、遠く」
雪丸が勢いよく真正面を指差した。その方向には蛍の夜が広がっているだけ。
「そんな身分じゃねぇだろうが」
ついつい眼の前にあった男の頭をはたき飛ばしてしまう。
だが自称反逆者はめげなかった。
「行こうよ」
「……まぁ俺が怒られるわけじゃないからいいけど」
「金魚すくいが出来るところまで行こう」
「……近」
THE END
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あとがきという名の言い訳
この物語は、190000HITを踏んでくださった樹華様に捧げたいと思います。お題は雪丸京介で“獏”。
また意味不明な話が出来上がってしまってすいません。(汗) 保護することそのものには苦労していない、今回の話です。構成がいつもと違い、なかなか全容が明らかにされない作りになっているので分かりにくいのではないかなぁとも思ったのですが、私の腕ではこれが限界でして……。一回こういう田舎の話を書きたかったんですよー。
そんなわけで、逃げながら叫びます。樹華様、どうぞお納め下さい!! 不二
執筆時BGM by Sasakawa-Miwa [金木犀] [笑]
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