幻獣保護局 雪丸京介 第十五話
獏の見る夢
前編
190000HIT 樹華様に捧ぐ
故郷。
そう聞いて貴方は何を思うだろう。
遠くを見つめるかもしれない。
出て行きたくてたまらないのかもしれない。
そんなものはないと言うかもしれない。
故郷。
その地を駆け抜ける風、降り注ぐ雨、包む空気、すれ違う人々、朝にこだまする鳥の声、空を焦がす夕焼け、孤独の眠りに落ちる夜。
貴方がどこまで行こうとも、すべては貴方の底にある。
大地に埋もれた我々の礎──小さな化石の欠片のように、その地の記憶は眠る。
流浪が過ぎて故郷の在り処が分からなくとも、忙しない時の流れの中に存在すら忘れ去っていたとしても、そして例えその地が失われようとも、人が故郷から離れることはない。
貴方がその場所にいたのか?
否。その場所が貴方を創ったのだ。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
シムルグが何の気なしに上を見上げれば、濃紺の夜がこの明るい縁日の光をどうにか呑み込もうと頑張っていた。
本来ならここは自分の領域なのだよと言いたげに。
苦労してるよなぁ、ため息と共にそう胸中で呟き、少年は手に持ったりんご飴を口の中に入れる。
それは思ったとおり、何の味もしなかった。
彼はもう一度ため息をついて、視線を降ろした。
途端、少年の視界には眩しいほどの橙色──人工的な光だ──が飛び込んでくる。神社の境内から坂を下り、延々と続いている祭りの屋台だ。
目が慣れれば、光は極彩色の賑わいを照らし出す。
綿菓子、射的、たこ焼き、金魚すくい、焼きとうもろこし……相も変わらぬ顔ぶれが軒をそろえて並び、その狭い間を老若男女、浴衣姿やTシャツ姿、どこかうきうきとした人々の群れが流れのままに動いている。
次から次へと足を止め、店をのぞきこみ、目を輝かせる子供たち。
彼らの財布(親)はその後ろをゆっくりと歩き、まずは神社の賽銭箱を目指す。
友達だけで来たのだろう少年の集団が暴走族気味に人々を押しのけ走り行き、やはり友達だけで来たのだろう少女の集団が顔を見合わせて眉をひそめる。
八百屋のおじさんが何故か水風船を売っていて、電気屋のおじさんが何故かラムネを売っている。
金魚すくいの屋台ではひっきりなしに歓声があがり、たこ焼き屋の軒先に吊るされた風鈴は立ちのぼる熱気を冷まそうと涼やかな音色を奏でる。
光を包む夜は日常。
光の中は非日常。
鬱蒼とした森に囲まれた境内は、笑い声と活気で満ちていた。
山間にひっそり佇む小さな村の盛大な祭り。
「こんなの何年ぶりだろうね」
神社の社殿脇、喧騒の輪の外にある樹齢何百年か知れない大きな松。その根元に軽く腰掛けた優男が目を細めて笑った。
無造作に放り出された彼のつま先の上で、夜と明かりとが拮抗している。押しては退き、退いては押し、そのたびに男の影が揺れる。
「さぁ、数えたことなんかありませんよ」
同じ松の木に寄りかかり、こちらは完全に夜に没している男が生返事をした。
声には氷水のような冷ややかさが漂う。
しかし優男は気にした風もなく続けた。
「そんなんだから出世街道まっしぐらで疲れるんだよ。君は君が僕に言ったこと、どうせ覚えてないでしょ。都合の悪いことは記憶に残らない頭してるもんな」
「何のことを言ってるんです」
「大昔のこと」
「…………」
相手の無言の肯定に、
「ホントに役人頭なんだから」
彼は自分のひざに頭をのせてぐーすか寝ている二頭の大きな動物の耳裏をそれぞれかいてやりながら、演技過剰気味に肩を落とす。
雪丸京介。
それが優男の名だった。
世界を牛耳る魔導協会。その外遊部門幻獣保護局という部署に籍を置く魔術師。
「一番初め。君もまだ現場に来てばかりだった時の話だよ。仕事は簡単、今日みたいに“獏”を二頭保護するだけのことだった」
獏。
雪丸が“今日みたい”と言うとおり、今現在彼のひざを占領して寝ているのがソレだ。
鼻は象、けれど耳は垂れていないラッパ耳、目は犀、身体は白黒まだら模様の熊で脚は虎、そして尻尾は牛という、あの獏だ。邪気を遠ざけ、悪夢を食べてくれる獏。
言葉だけの説明を聞くとどれだけ継ぎはぎな動物なのかと思うが、愛嬌だけはある。
「獏は僕たちの悪夢を食べてくれる。じゃあ、獏が悪夢を見たらどうするんだろう。誰がそれを払ってやるんだろう。僕はそう言った。そうしたら──」
「獏は平和なところにしかいないから悪夢なんて見やしませんよ」
「そう。君はそう言ったんだよ」
獏は、悪夢の他に鉄を食べる。
戦乱が起こると鉄は武器に変えられてしまうから、獏はいつの間にかその場所からいなくなってしまう。
この奇妙なのっそりとした霊獣は、平和の証でもあるのだ。
だからこそ、こんな大きな体躯をしているのにとても温和な性格をしている。
「気に入りませんでしたか?」
「戦争のない街に住んでたって、人間は目ざとく悪夢の種を見つけるじゃないか。君が何をもって平和というのか僕は知らないけど、僕の定義では──平和なんてものは存在しないんだよ、霜夜」
「私の──……。俺の」
霜夜と呼ばれたその男は、黒々とした闇の中で一人称を改めた。
おそらくそれが公私の切り替えだったのだろう。
彼が着こんだ灰色のスーツがもぞもぞと動き、煙草の箱が取り出される。口調までがガラリと変わる。
「俺の仕事は、お偉いさんのご機嫌を取る事と、平局員がまわらない戦場をまわる事だ。平より外回りの回数は断然少ないが、必然、生きるか死ぬかの場所を見ることが多い」
雪丸が片手を差し出すと、霜夜が指に挟んだ一本の煙草を近づける。
優男の指が軽く鳴り、煙草の先にはぽっと火が点った。
「そうなるとな、お前が口にする高尚な戯言全てが無意味に思えてくる。単なる甘えに思えてくる。昔あんなことを言ったのは、お前を肯定するのが嫌だったのと面倒くさかったからだが、今こうして突きつけられても撤回する気にはならない。むしろ積極的に擁護する。そんなことを言っていられるのは、お前が安穏とした場所にいるからだ、とな」
天に向かって紫煙を吐き出し、彼が黒シャツの襟元と共に濃い灰色のネクタイを緩める。
罰あたりな奴だ。
一方季節を無視して薄コートを羽織っている雪丸は、口元だけ笑い目を伏せて、ひざで眠る獏の背中を撫で回す。
「生死を彷徨う人々は悪夢の中にいる。だけど、僕らは悪夢を見ているだけだって?」
「生死の淵に立たされた時、俺は今までお前に言われたことのひとつも思い出さないだろうってことだ」
語調は穏かだったが、内容は辛辣極まりない。
「そんなの立ってみなきゃ分からないのに」
「獏が見るだろう悪夢も、お前が見ている悪夢も、悪夢のうちには入らない。悪夢でない悪夢にかまけていられるうちは、──平和だ」
シムルグは子供のフリをして本殿を囲む回り縁の高欄に腰掛け、祭りを眺めているフリをしてふたりの会話を聞いていた。ぶらぶらと足を揺らしながら。
しかしこれだけの人がいるというのに、誰も少年の無礼を叱る者はいなかった。お節介なじいさんあたりが、“そんなとこに座るんでない!”とでも怒鳴ってきそうなのに。
ガランガランという鈴の音は絶えなくて、打ち合わされる二回の拍手も一向に絶えない。まるで光の中だけが別世界だ。夜にいる少年は、蚊帳の外。
「…………」
そんな彼がさっきから目で追っているのは可愛らしい金魚模様の浴衣を着せられたおチビふたり組だった。桔梗色の袴をはいた父親らしき宮司のあとを跳びはね跳びはねついて回っている。
宮司は挨拶まわりに忙しくて頭を下げてばかりいるが、見える若い横顔からはこの鄙里そのものといった具合の柔和で長閑な笑みが絶えない。彼の行くところ行くところ朗らかな笑い声があがり、挨拶をした方された方共に滑稽なほどペコペコしあう。
その周りを、おチビふたりがきゃっきゃと声を上げて互いを追いかけ走る。
「あれがホントの笑顔ってやつだよな」
シムルグはひとり納得してりんご飴を咥え直した。
笑みを消さないといえば雪丸京介もご同様なのだが、あの宮司のものとは全く質が違うのだ。雪丸の笑みはどこまでが本当なのか疑いたくなる。沢蟹が住めるんじゃないかと思うくらいの浅さを感じるのだ。対してあの宮司の笑みは──……答えを出そうとして、少年はふと神社の背後にそびえる深い山の奥を見つめた。
今朝訪れた時には、深緑と新緑という美しい配色と、澄んだ清冽な空気に圧倒された山。
長く人の手が加わっていない、神が宿る実り多き霊山。
宮司の笑みには、そのすべてを抱いた揺るがない深さと広さを感じたのだ。
地に足が着いていると言っては可笑しいだろうか。彼の顔を見ているとなんだかわけもわからず安堵する。
「雪丸の底が浅いって言ってるわけじゃないけど……」
こっそり弁解した相手はこちらがそんなことを思っているとは露知らず、陰影を濃くした顔で光目指して飛んでゆく夏虫を見つめている。
あちらこちらはねている黒髪の下で、複雑な翳りを宿した双眸が瞬きもせずにじっと見つめている。
「本当の悪夢というものは、獏には喰えない」
「……そうだね。けど、」
横から付け足された言葉に雪丸がうなずき、しかしすぐに反論の言葉をつなぐ。
「今回のことだって立派な悪夢だ。でも彼には食べることができない」
雪丸は楽しげな群衆を見やり、足元の獣たちに目を落とした。
「君が言うように、取るに足らない甘えた悪夢かも。でもそんなものでさえ、“悪夢を食べる獏”が食べられないんだよ。僕らが作り出した悪夢は」
優男が声を荒げることはない。一定のリズムで一定の音で淡々と紡がれる。
「この悪夢を食べられなくて何よりも悪夢を見ているのは、この子たちさ」
「…………」
「悪夢を食べるはずの自分なのにこの悪夢は食べられないんだから。この子たちが悠久の年月を一緒に過ごしてきたこの神社の神様に、この村に降りかかった悪夢なのに、食べられないんだよ。僕らが夢ではなくしてしまったから」
「…………」
沈黙が落ちた。
振り返らなくても、知っている。
シムルグの背後に鎮座しているのは、山奥の鄙にしては大きくて立派な神社だ。
高床、平入りといった典型的な流造りの本殿。檜皮葺の切妻屋根はなだらかに向拝までを覆い、横板張りの壁は手入れ行き届いて磨きこまれていた。もちろん回り縁も、シムルグが腰掛けている高欄も、しっかり磨かれている。
ここの神様がいかに大事にされていたか、少年は知っている。
そして社殿を見上げれば、複雑に組まれた木柱の中で、端に当たる木鼻の部分には少しばかりお茶目にされた獏の顔が彫られているのが分かる。
神社によっては龍だったり獅子だったりするものだが、ここは獏。邪気を払う役目を負って、この神社の神様をずっと守り続けていたのだろう。雪丸の元で寝ている彼らは。
──役目を終えた彼らは。
「俺はここの神様を局にお連れする。お前もその獏の保護を完了させるには一度局へ戻らなきゃならないだろう。バルトアンデルスの件も、書面だけでは不足だそうだ」
ぷっかーと、煙で輪っかを作りながら霜夜が話を変えた。
「……何か魂胆があるね?」
霜夜の気安さとは対照的に、雪丸は疑い深い眼差しで男を睨む。
「神様を保護するんだ。礼をもって君クラスが出てきてもおかしくない。でも獏の保護は雪丸京介がやれ? 獏を保護するくらいの局員はいくらでもいるだろうに、よりによって君と僕だって。僕とまともに会話ができるのが君しかいないからかい」
「何を怒ってるんだ」
「怒ってないよ」
「怒ってるだろうが」
「怒ってない」
「…………」
霜夜の露草色をした視線がシムルグをかすめ、ふらふらと虚空を漂った。口へと持っていくのを忘れられた煙草が灰を落とし、煙はゆるやかに渦をまいて闇に溶けてゆく。
──嫌なカンジ。
宮司親子から目を離し、シムルグは眼前の男たちを見やった。協会外の辺鄙な田舎で協会の魔術師がふたり、コソコソ秘密会議。
それも、ふたり根本的なところにズレがあるにも関わらず、表面だけ穏便に取り繕っているような不協和音。
昼間この霜夜という役人とばったり出くわした時には、“元同僚”っていう鎖だよ、と雪丸に耳打ちされた。色褪せた、低い声で。
「協会が」
不意に霜夜が再開させた。
「いや、協会の司法部門が、お前を引き抜きにかかってる」
「はい?」
「司法部門広域魔導捜査局」
耳慣れない名称に自然シムルグの眉が寄る。
「魔術師絡みの事件を捜査解決させる部署」
霜夜がボソリと漏らした説明は、きっと少年に向けられたものだったのだろう。案外イイ奴かもしれない。
「まさか。一度追い出されたのに」
そっぽを向いたまま言い返した雪丸の声は明るくない。
“ほんとに欲しがってるんだよ”──そう肯定を求める声ではなく、その事実その言葉もろとも否定したがっている響き。
「何か利があるんだろ。ともかく一度戻れ」
霜夜は霜夜で打ち切りたがっている。
伝えることは伝えたから、ごねるな、と。
これ以上亀裂が拡がるのを避けるように。
「…………雨」
突然、雪丸がつぶやいた。
霜夜が天を仰ぐ。つられてシムルグも頭上を見上げた。
確かに、銀の糸が降ってきていた。
しかしそれは懐かしき藍色の夜空からではなく、雨雲垂れ込めた灰色の昼空から。
ぽつぽつと木々の葉を叩いていた雨足は魔術師が腰を浮かす間もなく早くなる。
髪を伝い、雫が頬に落ちる。けれどそれは全く冷たくなかった。
「……祭りが……」
少年は思わず声に出していた。
振り返った先のにぎわいが消えていた。店も、人も、声も、光も。
泡沫の夢がかき消えた。風車のひとつも残されていない。
場面転換された演劇の舞台の如く。
いや、如くじゃない。
場面転換したのだ。
楽しき祭りの風景から、ある雨の日へと。
『…………』
三人の視界に広がっているのは、色が消えた雨降る境内。
誰もいない、薄暗い昼間の神社。
強さを増した雨は本殿の切妻屋根を流れ端から落ち、地面を穿ち始める。
拝殿へと誘う石畳に雨粒が跳ね、水溜りに波紋を次々作る。
境内から見下ろせる村は薄く白く水に煙る。
「これはどうしたの」
雪丸を挟むようにして両側に、子供が立っていた。
さっきまで少年が目で追っていたおチビどもだ。
<お祭りの夢は消えちゃった>
瓜二つな顔をした白い着物の子供たちは未だ眠っている獏をしばし見つめ、心底残念そうに言う。──そう、あの祭りはこの獏が見ている夢だった。雪丸が簡単な術で具現化させている夢。あるいは記憶。
もう一度村のみんなと遊びたい。あの優しい宮司と一緒にいたい。
それがここを去らなければいけない小さな神々の最後の我侭だった。
だが祭りが消えたということは、夢が切り替わったということ。今度の夢は──。
<お祭り消えちゃった>
そしてふたりは鳥居から神社へ至る階段の方を見やる。
<来る>
優男の右側に立った少年が、彼の肩をぎゅっと掴んで言った。
<あなたが不用意な事を言うから──>
左側に立った少女は口をへの字に曲げて霜夜をねめつける。
<思い出しちゃったじゃない、彼が。お祭りが消えて、あの日の夢になっちゃったじゃない!>
神々の視線は獏に。そしてつぶやく。
≪捜査局なんて大キライ!≫
子供たちの唱和を受け流し、
「……来るんだね」
雪丸が始終伏せ気味だった目を上げた。
「彼が」
「誰が」
シムルグは問いを重ねた。
雪丸が目をあわさないまま、答えてくる。
「元凶だよ。この神社の宮司に罪の烙印を押して捕まえ、ここを廃村にして、人々と、この獏と、神々から故郷を奪った元凶だ」
「…………」
霜夜が短くなった煙草をあっと言う間に燃やし、また新しい一本を取り出す。
今度は自分で火を点けた。
色のかすれた夢の世界の中で、その橙色だけが現実へとつながる命綱であるように思えた。
「悪夢の始まり始まり、か」
霜夜が紫煙を吐き出し鼻で笑う。
するとその言葉が合図だったように、夢は動いた。
雨打つ階段を、ひとりの人間が這うようにして登ってきたのだ。
それは、もはやボロ布と化した外套をひきずる、死にかけの男だった。
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